夏侯嬰単語

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夏侯嬰とは、戦国時代末期前漢の人物。 

元々は、地方役人が乗るを操る者(ぎょしゃ)を行う小役人に過ぎなかったが、劉邦が沛で遊侠(ごろつき)であった時から密な関係にあった。 

その後は、劉邦の決起に従い、劉邦心として、多くの戦場で功績をあげる。また、劉邦者として、その危機を何度も脱することに貢献する。 

義侠心でも知られ、劉邦のために、韓信季布といった優秀な人材を推挙している。 

劉邦定後、多くの功臣が政治から外された上、劉邦から罰せられ、あるいは謀反を起こすことになる。しかし、夏侯嬰は漢王朝の大臣として、常に劉邦から深い信任を得続けた。 

劉邦の死後も、劉邦の子である恵帝劉盈りゅうえい))、劉邦の后にあたる呂后(呂雉(りょち))、恵帝である文恒(りゅうこう)に仕え続けた。 

劉邦に仕えた人物の中では、三傑(張良蕭何韓信)、陳樊噲(はんかい)に次ぐ知名度がある。

また、三国志において有名な夏侯惇夏侯淵の先祖であることで知られ、曹操も夏侯嬰の子孫である可性がある。 

この項では、夏侯嬰と同じ沛県の出身であり、夏侯嬰のに乗り劉邦を守った周緤(しゅうせつ)、同様に、沛県の出身であり、夏侯嬰とともに漢王朝の大臣となった任敖(じんごう)、審食其(しんいき)について紹介する。

概要

劉邦との深いつながり 

劉邦と同じ沛県の出身(ただし、劉邦の生まれた豊(ほうゆう)の生まれではない)。 

夏侯嬰は、沛県の屋(うまや)の責任者であった。彼はを運転する者として、沛県の県から送られてきた県の長官)のもとを訪ねてきた、使者や来客を送り迎えしていた。 

夏侯嬰は劉邦ととても密な関係にあり、仕事を終わった後、たびたび、上(しじょう)というところで亭長(交番や出張所の責任者)となっていた劉邦を訪ねて、明けまでり合った。 

夏侯嬰と劉邦は、史書に「相(そうあい、互いに愛し合う関係)」と記される、腐った関係ではないかと疑われるほどに、仲が良かった。 

やがて、夏侯嬰は県の下級役人となる。だが、ある時、劉邦はふざけて(技を競っていた最中ではないかと考える研究者もいる)、夏侯嬰にけがをさせてしまう。 

劉邦告発される。亭長の役職にある劉邦は、罰せられる立場にあった。 

しかし、劉邦は夏侯嬰にけがを負わせていないと言し、夏侯嬰も「その通り」と言いった。裁判は続けられ、夏侯嬰は一年以上もにくだされ、何回と笞(むち)で打たれ続けた。しかし、夏侯嬰は決して、言を曲げなかった。そのため、劉邦は罰せられずに済んだ。 

やがて、夏侯嬰は沛県の史(れいし、文書を扱う下級役人)となった。

劉邦の決起からの活躍 

やがて、の暴政に対し、あちこちで反乱が起きる。この時、逃亡していた劉邦心変わりをした県にはしごを外されて仕方なく、反乱を起こすことになる。 

沛県の役人であった夏侯嬰であったが、劉邦につき、沛県に内応をうながす使者となった。この時、戦闘も行われたようであるが、一日で沛県は劉邦に降し、沛の県は決起した沛の民衆により殺される。劉邦は、蕭何曹参(そうしん)、樊噲らの推挙によって、反乱を率いることになり、沛を名乗る。 

夏侯嬰は、劉邦によって、太(たいぼく、を統括する役職)に任じられ、劉邦の乗る者となった。また、戦車戦争兵士を乗せ、兵器として使われる)の軍を率いることにもなった。知勇優れた夏侯嬰は、劉邦隊長としての役割も担うことになった。さらに、夏侯嬰は、七大夫という爵位に封じられる。 

この後も、夏侯嬰はずっと劉邦者として活躍することとなる。 

夏侯嬰は、劉邦者として、地方軍との戦いに従軍し、蕭何とともに、泗水(しすい)の監(の長官である守を補佐する高級役人)の(人名)を降させる。夏侯嬰は五大夫に昇進した。 

劉邦独立をあきらめ、楚を復した項梁(こうりょう)の配下になってからも、夏侯嬰は引き続き、地方軍との戦いにおいて功績をあげ続けた。 

項梁とともに劉邦が、の本軍を率いる章邯(しょうかん)と東(とうあ)という場所が戦った時には、戦車の軍を率いて、急襲して戦の上、軍を撃破している。夏侯嬰は、執帛(しつはく)に昇進した。 

また、地方軍を率いる三守である由(りゆう、丞相である李斯(りし)の長子)との戦いでも、戦車の軍を率いて、急襲に成功している。由は曹参が討ち取った。夏侯嬰は、さらに、執(しつけい)に昇進する。 

※夏侯嬰の列伝が含まれる『史記』「樊酈滕列伝」では、章邯由との戦いは時系列が逆とするが、『史記』「楚之際表」などの他の部分により、時系列めている。

戦車軍を率いる 

しかし、項梁章邯(しょうかん)との戦いで戦死する。兵を引き上げた劉邦は、楚の王であった懐王(かいおう)の心(しん、人名)によって、碭長(とうぐんちょう)に任じられる。 

項梁の甥であった項羽が楚の軍を率いて章邯と戦っている間に、懐王に命じられた劉邦は、西へ進み、の都である咸陽(かんよう)をすこととなった。 

懐王は先に関中(の本拠地)に入ったものを「関中王」とすると宣言している。劉邦はなんとしても、項羽より先に関中に入り、関中王となることをすことにした。劉邦を扱う者は、相変わらず、夏侯嬰であった。 

劉邦は西へと進軍する。夏侯嬰は、めて編成した戦車軍を率いることとなった。この時代はいまだ戦車の戦は重要である。 

劉邦の軍は、開封(かいふう)では賁(ちょうほん)と戦う。この戦いは敗北であったが、別の将軍である揚(ようゆう)には勝利する。夏侯嬰は68人を捕らえ、兵卒850人を降させ、の高官が役職のとして与えられる印を一つ得る。 

さらに、劉邦は、一度、敗北した賁と陽の東で戦う。夏侯嬰は戦車軍を率いて、急襲して、闘を行う。この戦いも敗北に終わったが、夏侯嬰は昇進し、滕とうこう)に封じられた。 

苦戦が続く劉邦の軍であったが、手ごわいところは避け、確実に西へと進んでいた。やがて、劉邦は関中の南にある武関(ぶせき)から関中に入ろうとして、南陽(なんよう)へと進軍方向を変えた。 

途中で、劉邦の参謀となった張良の加入もあり、劉邦勝利を重ねる。夏侯嬰は、戦車軍を率い、急襲を続け、南陽や関中におけるとの戦いで活躍を続けた。 

やがて、の王であった子(しえい)は降する。劉邦を滅ぼした。

「国士無双」韓信を助命する 

しかし、項羽章邯勝利し、諸侯の軍を率いて、関中にやってきた。劉邦抵抗したことを「鴻門の会」において、項羽に謝罪する。この時の劉邦を操る者も、夏侯嬰であった。劉邦逃げ帰った時も、夏侯嬰は、樊噲紀信(きしん)らとともに、徒歩で劉邦に従った。 

結局、項羽は、劉邦を左遷して王に封じて中へ追いやる。 

夏侯嬰は、王となった劉邦の臣下として、中に赴くことになった。夏侯嬰は列侯の地位を与えられ、昭侯(しょうへいこう)に封じられた。役職は相変わらず、太のままである。 

ある時、軍法に触れた兵士たちが処刑されることとなった。兵士たちが13人まで処刑されたところで、その次に処刑される予定であった男が夏侯嬰を認めて叫んだ。 

「あなたは、下を得ようと望まないのですか? それなら、なぜ、壮士(立男子)をろうとするのです!」 

夏侯嬰は、その男の発言を優れたものだと思い、容貌も気に入った。そこで、その男を助命することにした。 

その男は、連敖(れんごう)という低い地位についていた韓信という人物であった。元々は、項羽に仕えていたが、登用されなかったので、中に左遷させられた劉邦に従うことにした経歴だという。 

夏侯嬰は、この韓信り合うと、その優れた見識を知り、意外な人材を見出したと思い、とても喜んだ。夏侯嬰は、劉邦に、韓信を推挙した。 

この時の劉邦は、韓信は治都尉(ちぞくとい)という地位に取り上げただけであったが、丞相となった蕭何が、韓信を気に入り、脱走までして韓信を呼び止め、韓信を「国士無双」とまで言って劉邦に大いに推挙する。 

ついに、韓信の全軍を率いる大将軍に任じられる。これが、後世、の三傑の一人となり、「国士無双」のとなった、中国史の名将となる韓信であった。 

夏侯嬰は、劉邦者としての役割や戦車軍を率いるだけでなく、人材の推挙でものために大きく貢献していた。

義侠の人 

やがて、劉邦項羽と戦うことを決意し、兵を挙げる。夏侯嬰は劉邦者として、従軍する。まずは、あの章邯が守る関中を攻め、勝利し、制圧する。 

さらに、項羽との決戦のため、東に進軍し、項羽の本拠地である彭(ほうじょう)を落とした。圧倒的に優位に立った劉邦であったが、引き返してきた項羽の軍に急襲され、大敗する。劉邦と、妻である呂雉は項羽の軍によって捕らえられた。 

敗走中に、劉邦は、劉邦(後の魯元)とそのである劉盈りゅうえい)の二人を、彼らを救出した王陵によって渡される。どちらも呂雉との間の子である。 

しかし、敗走の途中にあった劉邦には、彼らは速度を遅くする重みに過ぎなかった。そのため、劉邦息子から突き落とした。 

これは、義侠心あふれる夏侯嬰としては、とても見過ごせることではなかった。夏侯嬰は二人を救い出し、に乗せた。 

しかし、楚軍が迫る事態に、劉邦三度までが子たちをから落とす。夏侯嬰は、二入をかかえあげて、を操った。 

劉邦は、自分に逆らい、どうしてもが子を救おうとする夏侯嬰を十数回もろうとしたが、最後は脱出できた。 

劉邦の子たちは夏侯嬰によって救われたのだ。 

この時、夏侯嬰に救われた劉盈こそが漢王朝の二代皇帝である恵帝となる人物であった。

楚漢戦争での活躍 

劉邦は滎陽(けいよう)というところまで逃げ帰ると、体勢を立て直すことに成功する。夏侯嬰は、祈陽(きよう)という土地を与えられた。 

夏侯嬰は、劉邦者として劉邦と常に行動をともにした。劉邦は逃走や移動が多かったが、いつも劉邦事であった。 

ある時は、劉邦は夏侯嬰だけ連れて逃走し、河を渡り、韓信張耳の軍を奪うようなこともあった。かつて、夏侯嬰がその才を見出した韓信であったが、夏侯嬰はやはり劉邦心であり、劉邦の子を救ったことは特別なことであった。 

夏侯嬰は項羽との戦いでも活躍した。陳において楚に勝利する。下(がいか)において、項羽敗北し、逃走したがあきらめて自害した。最後まで抵抗した魯の地まで移動する。魯も降し、楚は定された。夏侯嬰は茲氏(じし)という土地を増封された。 

ついに、五年(紀元前202年)、劉邦皇帝に即位する。これが、漢王朝の初代皇帝の高祖(こうそ)であった。

漢王朝の大臣 

夏侯嬰は、劉邦によって、やはり、太に任じられた。同じ役職であったが、これからは大きく意味が違う。今までは、群雄、あるいは地方を治める王に仕える責任者に過ぎなかったが、下が定された以上は、下を治める漢王朝の大臣の一人である。 

劉邦に仕えた功臣たちの多くは、政治的な役職は与えられていない。夏侯嬰は、漢王朝の大臣としての活躍も、大いに劉邦から期待されていた。 

しかし、漢王朝はなかなか安定せず、夏侯嬰は劉邦とともに反乱定に追われることとなる。 

まず、王に封じられていた荼(ぞうと)の反乱を定する。夏侯嬰は太として従軍した(この時から、戦場では、夏侯嬰が劉邦者でなくなった可性がある)。 

六年(紀元前201年)、夏侯嬰は陳に赴き、楚王に封じられていたが、謀反の疑惑のあった韓信が赴いてきたところを捕らえることに協する。かつては推挙した韓信であったが、夏侯嬰は、劉邦の大臣として漢王朝の安定を脅かす存在に容赦をすることはなかった。 

論功行賞が行われ、夏侯嬰は、陰侯(じょいんこう)に封じられた。六千九戸が与えられた。功臣の順位は第8位である。 

匈奴との戦い 

七年(紀元前200年)、王信(かんおうしん、前述の韓信とは別人)が反乱を起こしたため、討伐に赴いた劉邦に従軍する。さらに、千戸を増封された。 

劉邦は夏侯嬰とともに、匈奴の軍を陽(しんよう)と土地で大いに破った。しかし、敗走する匈奴軍を追撃し、(へいじょう)という土地で匈奴の支配者である冒頓単于(ぼくとつぜんう)率いる匈奴軍に包囲され、七日に渡り、味方と連絡がとれないようになった。 

やがて、劉邦側の工作の結果か、冒頓単于の意図によるものか、包囲の一が解かれた。劉邦はすぐに脱出しようとしたが、夏侯嬰はゆっくりと行くことを固持した。夏侯嬰は(ど、石のこと)を全軍に引き絞り、匈奴の軍に向けるように命じた。それで、やっと脱出できた。さらに千戸が増封される。 

夏侯嬰は引き続き、劉邦とともに、匈奴との戦いに従軍する。一度は匈奴騎兵大勝利をした。また、匈奴騎兵と戦い、三度、その営を落とし、その功績は大きかった。夏侯嬰はさらに五戸が与えられた。 

なお、漢王朝側の記録とはいえ、劉邦行動をともにしていた夏侯嬰が、匈奴に何度も勝利したということが史書に記されている以上、劉邦匈奴相手にずっと敗していたという見方をすることには注意を要する。

人材推挙 

時期は不明であるが、この頃、夏侯嬰は、陽において、魯のにおいて義侠心で名高い遊侠である朱(しゅか)の来訪を受ける。朱は暗に、季布(きふ)という人物を許すように夏侯嬰にめてきた。 

季布は、かつて項羽に仕えた勇将であり、劉邦を何度も苦しめ、劉邦が千もの懸賞をかけて、かくまったものは一族処刑すると宣言していた人物である。 

夏侯嬰は、朱季布をかくまっていると考えたが、朱季布が立な人物であり、君に忠を尽くしただけで、罰するのはおかしく、のためにもならない』という理屈に同意し、劉邦季布のことをとりなした。 

夏侯嬰の進言により、劉邦季布の罪を許し、季布もまた、劉邦に謝罪し、漢王朝に仕えることになった。 

このように夏侯嬰の義侠心は、鍾離眛を自殺に追い込んだとされる韓信と違い、下に知られていた。 

夏侯嬰は相変わらず、劉邦の反乱討伐に従軍し、十年(紀元前197年)の陳豨(ちんき)討伐でも活躍した。 

また、十一年(紀元前196年)、黥布(げいふ)が反乱を起こした時には、夏侯嬰は、食客としていた、かつて楚の尹(れいいん。楚の宰相のこと)であった薛せつこう)に黥布が反乱した理由をたずね、薛劉邦に推挙した。 

の進言は、ただの楽観的予想であり、黥布が失敗すると宣言して、劉邦を励ます程度のものに過ぎなかったが、劉邦は薛取り立てている。 

このように機会があれば、夏侯嬰は人材を推挙し、特に、かつての敵であった項羽に仕えた人物を取り込もうとする努を重ねていた。 

夏侯嬰は、劉邦黥布討伐にも従軍し、黥布営を落として、黥布の軍を退けた。この功績により、さらに千戸増封され、最終的に六千九戸が与えられた。

恵帝、呂后からの深い信任 

十二年(紀元前195年)、劉邦が死去すると、皇帝に、劉邦の子である、後世に「恵帝」と呼ばれる劉盈が即位した。 

恵帝はかつて、夏侯嬰が身を挺して命を救ったことがあった。恵帝ともども子供たちを夏侯嬰に救われ、「呂太后」と呼ばれるようになった呂雉は、夏侯嬰に特に恩を感じていた。夏侯嬰は、呂雉に宮廷の北にある第一等地の邸宅を与えられ、「そなたは私たちとしい人物である」と呂雉に呼ばれるようになった。 

夏侯嬰は引き続き、太として恵帝に仕えた。 

恵帝七年(紀元前188年)、恵帝が死去すると、恵帝の子が皇帝に即位する。ただ、恵帝の子は幼かったため、彼の祖母にあたる呂雉が実権を握った。呂雉は、漢王朝の実権を握るためか、安心して国家運営するためか、自分の一族である呂氏を、劉邦の遺言に反して、王に封じ続けた。 

漢王朝の大臣である九卿の一人である太にあった夏侯嬰が、呂雉を諫めた、あるいは抵抗したという記述は残っていない。夏侯嬰は呂雉に対しては、これと言って干渉しない立場をとっていたようである。

義侠心は動いたのか? 

その後も呂雉の専横は止まらず、呂雉に抵抗した恵帝の子である皇帝され、殺される。続いては、皇帝にあたるりゅうこう、後世、「後少」と呼ばれる)が皇帝に即位した。 

呂雉は、劉邦の側室の生んだ子である諸王を次々と死に追い込んだ上で、高后八年(紀元前180年)に死去する。 

この後、呂氏の専横に反抗した斉王の襄(りゅうじょう、劉邦の長子・肥の子)のにあたる章(りゅうしょう)と功臣である陳と周勃(しゅうぼつ)が、呂氏が反乱を起こしたことを名に、呂氏を滅ぼした(「呂氏の乱」もしくは「諸呂の乱」)。 

しかし、呂氏を皇帝の勅命もなしに滅ぼした章や陳、周勃から見れば、呂雉の孫にあたる皇帝であるはそのまま皇帝にいただくには危険過ぎる存在となっていた。 

とそのたちは、恵帝の子でないという子ではないという意見が突然でて、彼らはされることとなった。次の皇帝劉邦の子の一人であり、恵帝にあたる代王の恒(りゅうこう、後の文)に決定した。 

恒を皇帝として迎えるにあたって、たちはこの世にいてはいけない存在となっていた。 

この時、功臣と呂氏どちらの側にも属してなかったと思われる夏侯嬰が、宮廷にいたを迎えにいく役を担う。夏侯嬰は、を説得して、御に乗せ、自身でそのを運転した。が「私をどこに連れて行こうとするのか」とたずねると、夏侯嬰は「宮廷を出て、宿舎に向かいます」と答え、少府という役所に連れて行った。 

そして、夏侯嬰は、皇帝を乗せるで、皇帝に即位する恒を迎えに行き、「宮廷はつつしんで掃(はら)ってきました(「邪魔なものを掃除してきた」の意味)」と伝え、恒のに乗せる。 

恒はそのまま皇帝となり、後にの「文」と称されるようになった。されたとそのたちはの役人たちによって全て殺された。 

この夏侯嬰の行動はどういった理由からか? 

としてを自分がに乗せて最後を飾ってやるのがせめてもの責任と思ったのか、汚れ役は自分がかぶると思ったのか、それとも呂氏に近かった夏侯嬰が処罰を受けないようにと氏・陳・周勃らにとりいろうとしたのか、それとも別の理由か、その心理は分からない。 

ただ、夏侯嬰がかつて救った恵帝男子の血はこれで絶えた。また、それと同時に文の即位により、その後の漢王朝が安定した王として平和な時代を築いたのは間違いない事実である。 

夏侯嬰の義侠心は、個人的なものから、漢王朝全体に対するものに変わっていたのかもしれない。

その後の夏侯嬰 

夏侯嬰は文の時代でも太に就任した。 

『西雑記』によると、夏侯嬰には双子がいたという。 

九年(紀元前167年)頃、死去している。 

『西雑記』には、夏侯嬰のが足で地面を掻くため、そこを掘り、石槨(せっかく、石製の棺桶、またはその棺桶をいれる)を掘り出す。そこに刻まれた加斗文字を儒者である叔孫通(しゅくそんつう)に解読してもらうと、「これは三千年後に白日のもとにあらわれる。滕侯(夏侯嬰のこと)がここに入るだろう」と書かれていた。夏侯嬰は命を悟り、死ぬと、その石槨に葬られたというエピソードが残っている。

評価 

夏侯嬰は、沛時代からの劉邦心として、武将としてだけではなく、劉邦者や相談役、人材登用にも活躍している。漢王朝後は、多くの功臣が排除され、疑われ、用いられなくなったのに対し、夏侯嬰は一度もそのようなことになることはなく、劉邦心であると同時に、の大臣として扱われた。 

また、劉邦の死後も恵帝・呂雉・文時代でも太として重用されている。 

創作では、劉邦者としての役割が立つためか、曹参盧綰・周勃が立たない時も多いのに対し、沛時代から、樊噲と並ぶ劉邦要な忠実な部下として、多くの出番が与えられることが多い。

夏侯嬰について 

劉邦の親衛隊長 

劉邦隊長については、「鴻門の会」の活躍や勇のイメージによって樊噲にその印が強い。 

しかし、実際は劉邦隊長といえる存在は、劉邦者であり、常に同行することになった夏侯嬰と、劉邦に常に同乗して劉邦を守っていた周緤(後述)である。 

夏侯嬰は劉邦者を行いながら、戦車で編成された軍を率いて、功績をあげており、これは、劉邦を守る衛軍のうちの戦車軍を夏侯嬰が率いていたと解すべきである。おそらくは、他の衛軍の歩兵からなる軍は劉邦自身が率いたのであろう。 

劉邦は何度か危機敗北にあったが、夏侯嬰と周緤の活躍もあってか、劉邦事に逃走に成功している。 

末の戦乱、楚戦争漢王朝初期の反乱において、項羽との問答中にを打たれた時を除けば、戦闘中劉邦が負傷したのは、記録に残る限り、最後の黥布の反乱のみである。 

「封爵の誓い」について 

「封爵の誓い」とは、劉邦が、夏侯嬰ら功臣たちに諸侯に封じた時に行った「河が細り、泰山がなくなるほど遠い先まで、漢王朝は長い間、安泰にあり、その間、諸侯の爵位と土地は子孫にまで伝えよう」という誓いである。 

これは、劉邦が功臣たちに爵位と土地を与えた時に随時、行われた。 

製の割符の上に文字でその誓いが書かれ、皇帝と功臣が(割符として)半分ずつを所有する。皇帝は、この割符を先祖をまつった宗に保管した。 

この誓いは皇帝からの命ではなく、一種の皇帝と功臣との契約のようなものであったと考えられる。前漢時代は、皇帝の方が全に功臣たちより上位に立てるものではなかった。 

ただし、この功臣たちの爵位のほとんどは、漢王朝が終わるまで伝えることはなく、多くは武帝時代に罪を得て、されている。 

初期の漢王朝の大臣たちの体制 

漢王朝運営するな大臣たちは「三九卿」と言われる。漢王朝の機構は政治つかさどる「政府」と皇帝つかさどる「宮廷」に分かれる。 

前漢初期の劉邦時代の「三九卿」の「三」は、

「相丞相)」、「御史大夫(ぎょしたいふ)」、「大尉」である。 

「相丞相)」は、漢王朝の大臣・官僚・役人の頂点に立ち、漢王朝の「政府」を統括する。当初は「相」と呼ばれ、蕭何曹参が就任したが、その後は、「丞相」という地位になり、二名が選ばれるようになった。 

丞相は、陳王陵・審食其・(ちょうそう)がな就任者である。 

「御史大夫」は、皇帝秘書にあたる「御史」を統括し、皇帝の意思を、政府を統括する相丞相)に伝える役割を果たす。皇帝のいる「宮廷」と「政府」をつなげる役となり、仲介の役割を果たす。 

な就任者は、周しゅうしょう)、尭(ちょうぎょう)、任敖。 

大尉」は、漢王朝軍事の統括を行う。「政府」に属するが、これは常設されなかった。 

な就任者は盧綰(ろわん)、周勃(しゅうぼつ)。

 

「九卿」はどの九つのすのか正確には分からないが、「郎中」、「衛尉」、「太」、「宗正」、「少府」、「廷尉」、「太常」、「中尉」、「典客」、「治内史(ちぞくだいり)」らがあげられる。 

「郎中」は宮廷の郎官(皇帝の側近)を統括し、皇帝に仕える。 

「衛尉」は宮廷にいる皇帝衛隊である衛士を統括し、皇帝の身辺を警備する。 

「少府」は、皇帝の財政(※)を扱い、宮廷の事務とその機関を統轄する。 

前漢では、漢王朝の財政は皇帝財産である「室財政」と政治のための財政である「政府財政」に分かれる。後漢では、「室財政」が止されているため、前漢の方が後漢よりも皇帝の権が強いと評価されている。 

「太」はを統括し、皇帝のためにを御する職務にあたる。夏侯嬰が代表的な就任者である。 

「宗正」は皇帝族である皇族に関することを総括する。 

「太常」は皇帝の墓である陵墓の管理と、皇帝をまつった宗に関する祭などを総括する。 

以上が「宮廷」に属する九卿である。 

政府」に属する九卿には、「廷尉」、「中尉」、「典客」、「治内史」があり、全て、相)(丞相)のいる「丞相府」に属する。 

「廷尉」は、裁判などの法を統括する。 

中尉」は、都の警備を統括する。 

「典客」は、外交や客の接遇を統括する。 

「治内史」は、国家の財政を統括する。

 

 「政府」と「宮廷」の分離については、劉邦の時代は、皇帝である劉邦が反乱討伐や陽での生活を行い、各地を移動していたため、明確には分離されることはなかった。 

 呂雉の統治時代になると、特に恵帝の死後は、呂雉は宮廷で政治を執り行ったため、「政府」と「宮廷」は分離するに至った。

夏侯嬰に関係する人物たち 

夏侯嬰と同じ沛出身で、夏侯嬰のに乗って劉邦を守った周緤、下級役人からの大臣となった任敖呂雉の心で政治つかさどった審食其、を紹介する。 

周緤(しゅうせつ) 

夏侯嬰と同じ沛の出身。劉邦が決起した時には、舎人(しゃじん。下級の側近)に任じられる。劉邦と同じ夏侯嬰の操るに乗り、いつも参乗(さんじょう、君と同じに乗り、君を守る役割を果たす)の役割を果たした。 

劉邦に従って、関中に入り、ともにを滅ぼし、劉邦が左遷された時も、中行きにも同行した。 

なお、「鴻門の会」の時には、周緤は同行せず、樊噲が「参乗」を名乗っていることから、この時だけは参乗の役割を樊噲に預けたようである。 

劉邦の関中定の時も同行し、恩賞として、池陽(ちよう)という土地を与えられた。さらに、項羽討伐にも従軍し、滎陽(けいよう)において、楚軍の甬(ようどう、兵糧を運ぶため、防衛された)を切断することにおいて功績をあげる。 

翻訳と解釈に余り自信はないが)、劉邦韓信の軍を奪った時も同行したようである。また、劉邦項羽と講和した時、一時期、項羽に対する人質となり、信用のとされたこともあったようである。 

周緤は戦況に関わらず、常に劉邦の側から離れなかった。やがて、信武侯に封じられ、三千三百戸が与えられた。後に、めて、蒯成(かいせい)侯に封じられる。功臣としての順位は21位であった。 

陳豨(ちんき)が反乱を起こした時、劉邦が自ら討伐しようとしたため、周緤は泣いて言った。 

下を統一した時は、始皇帝は決して自ら討伐しようとしませんでした。今、陛下劉邦)は、いつも、自ら討伐されます。それほど、任せることができる人物がいないからでしょうか?」 

周緤のこの言葉は、劉邦からは『自分を大切に思った上での発言である』ととられた。そのため、周緤は宮廷に入っても小走りせず、人を殺しても死罪としないという特権を与えられた。 

五年(紀元前175年)に、死去している。 

任敖(じんごう) 

元は沛の吏(刑務所に努める役人)であった。曹参とは上司と部下、もしくは同僚であった可性がある。 

劉邦が咸陽に人間を送った時に脱走者がでたため、逃亡したことがあった。役人たちは、劉邦の妻であった呂雉を捕らえ、ぞんざいに扱った(細かい説明はないが、拷問や性的な行為まで行われそうであった可性もある)。 

元々、劉邦と仲が良かった任敖は激怒して、呂雉の問にあたる役人の責任者を殴ったことがあった。 

劉邦が決起した時、任敖は、最上位の「客」として遇される。これは、盧綰蕭何、呂沢(呂雉の)、王陵と同等の地位であり、曹参より上であった。 

任敖は、御史に任じられ、劉邦の故郷である豊を(おそらく雍から取り返した後)守った。 

劉邦王となり、決起して項羽と戦ってからは、任敖は上党(じょうとう)という土地の守(ぐんしゅ、の長官)に任じられた。陳豨が反乱を起こした時は、上党を防衛して守り抜いた。 

論功行賞が行われ、広(こうあ)侯に封じられ、千八戸が与えられた。功臣としての順位は89位である。 

劉邦が死去した後、後を継いだ恵帝の統治時代である、恵帝六年(紀元前189年)に、の大臣である御史大夫(相丞相に次ぐ三の一人)に任じられた。三年間務めたが、恵帝の死後、呂雉の統治時代に辞めている。 

三年(紀元前173年)頃、死去している。 

審食其(しんいき) 

沛県の出身。劉邦が決起した時に舎人(しゃじん、劉邦の下級の側近)に任じられた。その後は、沛か豊において、劉邦留守を行い、呂雉やその子たちと三年以上もともにいた。 

「彭の戦い」において、劉邦であると妻の呂雉と同行し、劉邦を探しめたが、楚軍に捕らえられた。彼らは項羽の軍中に留め置かれた。 

人質となったと呂雉とともにいたため、特に呂雉とは(男女の関係すら疑われるような)密な関係となったようである。と楚が講和し、と呂雉が返された際、審食其も彼らとともににもどったものと思われる。 

論功行賞の時には、功績を認められ、辟陽(へきよう)侯に封じられた。功臣としての順位は59位であった(与えられた戸数は不明)。 

審食其は、劉邦からも強い信任を受けていたようで、王・盧綰謀反疑惑があった時には、劉邦心である御史大夫の尭(ちょうぎょう)とともに、調に赴いている。 

この時、審食其は、病気と称した盧綰に会えなかったが、盧綰が側近に漏らした劉邦や呂雉に対する強い批判を聞き、帰還の後、劉邦に報告している。そのため、劉邦は怒り、盧綰匈奴亡命する原因の一つとなる。 

劉邦の死後に、恵帝劉盈)が即位する。審食其は不正を働いていたとされるが、呂雉の心として、強い信任を受けていた。 

審食其は、呂雉と、「(劉邦の部下であった)諸将たちは元々、陛下劉邦)と同じ民衆であった。しかし、臣下と仕えるようになってしまい、常日頃から不満があった。(劉邦にすらそうであるのに)、若いが子である劉盈恵帝)にこころよく仕えるはずもない。彼らを全て殺せねば、下は安んじないであろう」と相談するようになる。 

これを聞いた酈商(れきしょう、の功臣の一人、酈食其(れきいき)の)は審食其に進言する。 

陛下が亡くなってからすぐに諸将を全て誅殺すれば、かえって下は危ういでしょう。な功臣である陳(かんえい)は十万の兵で滎陽(けいよう)を守っています。また、樊噲(はんかい)と周勃(しゅうぼつ)は、二十万の兵で、や代を討伐しているのです。陛下がなくなり、諸将が誅殺されたと聞けば、必ず、兵を率いて関中を攻めてくるでしょう。大臣や諸侯は反乱を起こし、安心できるどころではなくなります」 

審食其は酈商に同意する。呂雉は、劉邦葬儀を行う前に、下に大赦を行った。 

審食其は、朱建(黥布の項、「黥布に関係する人物たち」参照)と交際を持とうとしたが会ってもらえなかった。しかし、交際のあった陸賈(りくか)の進言により、朱建の葬儀を贈った。これにより、朱建は審食其の相談役となった。 

審食其と呂雉は密通していると噂される関係であり、恵帝がそのことを知った。恵帝激怒すると、審食其を処刑しようとした。呂雉も恥じらったのか、口添えしなかった(全く、事実根というわけではなく、かなり疑わしい関係であったようである)。漢王朝の大臣たちも審食其をよく思っていなかったため、処刑されることになった。 

この時、朱建は、恵帝が寵愛していて閎孺(こうじゅ)という人物に、恵帝に審食其の助命を行うように説得をする。そのため、審食其は助命された。 

この事件の時に、審食其ははじめ朱建に相談に行ったが、朱建が会おうとしなかったことに激怒していたが、朱建のおかげで助かったと聞いて、とても驚いたと伝えられる。 

やがて、恵帝が死去し、呂雉が政治の実権を握る。審食其は呂雉の心として、政治にたずさわった。 

高后元年(紀元前187年)、審食其は左丞相に任命される。これは、右丞相であった王陵(おうりょう)が呂雉に逆らったため、王陵が太傅(たいふ)となり実権を奪われ、左丞相であった陳が右丞相に格上げとなり、左丞相の地位がいたところに審食其が就任した形である。 

審食其は、左丞相として宮廷を監督する。さらに、右丞相の陳が保身のため女性に溺れており、積極的な政策を行う人物ではないため、審食其の意見によって政治を決すようになる。 

審食其が政治にたずさわると、氏への圧迫や呂氏を王とするための動きは行われるようになった。 

高后八年(紀元前180年)、呂雉が死去すると、呂氏の一人である呂産が左丞相となり、審食其は皇帝を教える役割を果たす太傅(たいふ)に就任した。この時の審食其は呂雉の後ろを失い、権を喪失していた。 

同年に、政治の実権を握っていた呂雉の一族である呂氏が反乱を起こしたとされて、陳・周勃たち功臣や肥(劉邦南)の子たちに討伐され、その一族は皆殺しにされてしまった(「呂氏の乱」もしくは「諸呂の乱」)。 

この乱において、審食其は特にどちら側に加担したとは記されていない。しかし、樊噲の子など、呂氏に近い人物たちも殺されたが、呂雉と特に密な関係であった審食其は特に殺されず、また、左丞相にもどった。 

これは、史書には、審食其と交のあった陸賈と朱建のおかげとあるが、それなりに功臣の一人として重きをなしていたこと、呂氏に近い人物に対してこれ以上の殺はないということを安心させるためなどの、様々な理由もあったと思われる。 

やがて、劉邦の子の一人である恒(りゅうこう)が皇帝として即位する(後に「文」と呼ばれる)。審食其は、左丞相を辞めることになった。 

その身はとにかく安泰と思われた審食其であったが、意外な死を迎える。 

三年(紀元前173年)、上京してきた南(わいなん)王・長(りゅうちょう、劉邦の七子)が審食其に面会を請うてきた。この時に、審食其は長の椎(てつつい)で殴り殺され、長の従者の敬(ぎけい)によって首を取られた。 

長が審食其を殺したことについて、説明した理由は、「①かつて長の氏が捕らえられた時、劉邦や呂雉に取りなさなかったこと」、「②呂雉が戚(せき)夫人と如意(りゅうにょい)を殺した時、止めなかったこと」、「③呂雉が氏を迫した時、諫めなかったこと」であった。(長や長が理由としている事件については、「恵帝」の項。「恵帝兄弟たち」参照) 

長は文に審食其殺を報告し、罪を請うたが、長は許された。 

それどころか、文は、朱建が審食其の食客として、審食其に計略を授けていたと聞き、役人を送って捕らえようとした。このため、朱建は自害してしまっている。 

被害者である審食其側により厳しい詮議がなされているため、長の審食其殺については、長の感情的な報復というより、かなり政治的な事件であった可性が高い。 

呂雉との関係や呂雉の政治を支えたことや不正や醜聞の疑惑もあって、余り高く評価されない人物であるが、呂雉が政治をした時代は、下は穏であり、民の生活が豊かになっていったと史書に評されており、審食其が支えた部分は大きかったと思われる。

創作物における夏侯嬰 

本宮ひろ志『赤龍王』 

なぜか、片が悪いという設定か、劉邦に傷つけられたケガという設定があったのか、子孫(夏侯惇)のイメージか、眼帯をしている(本宮ひろ志漫画眼帯や片をケガした子分は、重要人物であることが多い)。 

史実の夏侯嬰は役人でもあるが、劉邦の忠実な子分ということで、やくざ的なしゃべり方をする。 

夏侯嬰は、劉邦をとにかく慕っている反面、劉邦に対して、かなり揶揄した発言や反抗的な発言もできる人物として表現される。劉邦子供から投げ落とした時は、かなり強い口調で劉邦をののしっていた。 

そのため、この作品では、夏侯嬰の方が盧綰樊噲よりも劉邦心としてのイメージが強い。

関連動画

関連書籍

李開元『漢帝国の成立と劉邦集団 ―軍功受益階層の研究―exit』 (汲古書院)

過去の学説を踏まえた上で、漢王朝を建した劉邦たちの集団を「初軍功受益階層」と規定して、詳細に調べ上げて劉邦たちの集団を分析した書籍。 

劉邦たちを研究するうえで、学会においても、重要な研究書とされる。 

内容については、夏侯嬰ら「初軍功受益階層」がいかにして成立したか、漢王朝においてどのような役割を果たしたかなどを詳細な調の上で、分析している。 

特に、「第四章 前漢政権の立と劉邦集団」、「第五章 劉邦集団の地域構成」は末の反乱や楚戦争漢王朝後の反乱鎮圧において、劉邦たちを知るために、多くの知見を与えてくれる。 

まさに「専門書」というもので内容はかなり難しいが、劉邦について詳しく知りたい方は、上記の二章だけでも挑戦をお勧めしたい。

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夏侯嬰

1 ななしのよっしん
2021/05/24(月) 07:00:43 ID: bTdoehQCB9
子投げ事件から劉邦の子を殺さざるを得なくなる流れが本当に辛い
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2 ななしのよっしん
2021/07/06(火) 04:28:38 ID: FsJ6LG7Dep
版読んでると徳川家康本多作左とごっちゃになる
いいよね君大事のあまり君をクソミソに言うの忠臣キャラ
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3 ななしのよっしん
2023/03/21(火) 23:28:27 ID: uKjSTbxi5l
きの木っ端役人が府に入って大臣にもなって大出世してるのに
晩年にゆかりの深い人たちのを自分でいて宮廷掃除してるのはある意味変わってないというか…
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4 ななしのよっしん
2023/10/04(水) 11:11:26 ID: Rm706hyskq
また劉邦ガチャSSR引いてる…
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