川島永嗣(Eiji Kawashima, 1983年3月20日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J1リーグのジュビロ磐田所属。元サッカー日本代表。
概要
2010年代に日本代表のゴールを守り続けたGKであり、FIFAワールドカップでは2010年から2018年までの3大会連続で正GKを務め、合計11試合でゴールを守っている。特に初めてのワールドカップ出場となった2010 FIFAワールドカップでは、大会直前に楢崎正剛から正GKの座を奪うと、守備的な戦いを選択したチームを最後尾から鼓舞しながらビッグセーブでチームを救い、日本のグループリーグ突破の立役者の一人となった。また、2011年のAFCアジアカップでは準決勝の韓国戦で2本のPKを止め、決勝ではMOMに選ばれるなど日本の4度目の優勝に貢献している。
これまでの日本人GKと比べて海外での経験値は群を抜いており、ベルギー、スコットランド、フランスの3か国のクラブチームに所属している。語学が堪能なことで知られ、6か国語を話せるため日本人選手の海外移籍で大きなネックとなる言葉の壁に悩まされることはなく、ポジション上コミュニケーション力が必要となることを考慮しても長所となっている。
メンタルの強さには定評があり、ゴールを守るときの鬼のような形相やビッグセーブをしたときの「ドヤ顔」がトレードマークのようになっている。ピッチ外でもチームのまとめ役として重要な存在を果たせる選手である。辛口でお馴染みのセルジオ越後氏からも高く評価されている。一方、たびたび大きなミスで失点することもあり、何かと批判の的にされやすい。
経歴
プロ入り前
埼玉県与野市(現さいたま市中央区)出身。上に姉と兄がいる3人兄弟の末っ子として生まれる。ちなみに父親も姉も兄も高身長であり、恵まれた体格は遺伝によるものだと思われる。
小学2年生の時、公園で家族と一緒にボールを蹴っているうちに、自然とサッカーの楽しさを知るようになり、地元の与野八幡サッカースポーツ少年団で基礎を学ぶ。小学生の頃からGK志望で、当時の憧れのGKは90年ワールドカップイタリア大会で活躍した元アルゼンチン代表のセルヒオ・ゴイコエチェア。もっとも幼少の頃はサッカーよりも野球が好きで、友達と野球もやっていた。
中学は与野西中学に進学。ポジションは本格的にGKに固定されるようになり、才能が開花。チームの正GKの座を掴むと順調にステップアップしていき、埼玉県選抜に選ばれてドイツやオランダへの遠征を経験。学生生活では、学級委員を任されていた。
中学の頃にサッカー部の監督から誘われたことがきっかけで高校は浦和東高校へ進学。埼玉県内ではすでに注目の選手となっており、入学時にはすでにJリーグのスカウトから注目をされていた。3年生のときに高校の3大全国大会全てに出場している。また、学生時代の成績は優秀であり、進路指導の教師からは大学進学を勧められていた。
大宮アルディージャ
2001年に地元の大宮アルディージャに入団しプロとしてのキャリアをスタート。この時、川島の獲得を決めたのは当時大宮の強化部長だった佐々木則夫(後のサッカー日本女子代表監督)。この頃にイタリア・セリエAのパルマへのサッカー留学を経験。若手選手たちが出場する「ヴィニョーラ・トーナメント」に参加。チームは優勝を果たし、川島自身はベストゴールキーパーに選出された。
2年目となる2002年4月6日のJ2第7節大分トリニータ戦でプロ初出場。当初は安藤智安・荒谷弘樹に次ぐ3番手の位置づけであったが、少しずつ出場機会を増やし公式戦12試合でゴールを守っている。
2003年からは正GKの座を掴み、33試合に出場。しかし、チームはシーズン序盤こそ上位に食い込んでいたものの、夏場以降は昇格争いに加わることができずにいた。その中でも若き守護神として評価を高め、奮闘はしていた。それでもJ1に昇格することができず、オフにJ1チームへの移籍を希望する。
名古屋グランパスエイト
2004年にJ1リーグの名古屋グランパスエイトへ移籍。他チームから獲得オファーを受けていたが、当時日本代表の正GKだった楢崎正剛がいるチームにあえて加入することとなった。しかし、まだ若かった川島は、全盛期の楢崎からポジションを奪えず控えGKの座に甘んじる日々が続く。
2006年は、楢崎が負傷したことでシーズン終盤に出番が増え、リーグ戦10試合に出場するが、結局3年間でJ1リーグ17試合のみの出場にとどまり退団する。
川崎フロンターレ
2007年に当時のクラブ史上最高額の移籍金1億5000万円で川崎フロンターレへ移籍。ここで才能が開花。当時の川崎は攻撃陣にタレントが揃っていた反面、GKが弱点となっていたが、それを補って余りある活躍を披露。強豪チームの仲間入りを果たそうとしていた川崎で不動の守護神としての地位を築いていく。AFCチャンピオンズリーグにも初めて出場。J1リーグでは全試合フル出場を果たしている。
2008年にはチームは実績のあるGKを補強したが、守護神としての立場が揺らぐことはなかった。シーズン序盤にフッキが反乱を起こして突然退団し、監督の関塚隆が持病の不整脈の悪化で辞任する激震が走ったチームにおいてリーダーシップも発揮。惜しくもJリーグ優勝を逃したが、大きな怪我も無く2年連続で全試合フル出場を達成。
2009年になると、日本でもトップクラスのGKという評価が定着し、これまで以上に守護神としての存在感を増す。チームはリーグ戦、ナビスコカップと2つの大会で準優勝に終わり、シルバーコレクターと揶揄されることもあったが、3年連続での全試合フル出場を達成。初めてJリーグベストイレブンに選出され、フェアプレー賞も受賞。AFCにも3年連続で出場し、経験値を磨いた。
2010年もワールドカップによる中断期間11試合全てでゴールを守る。南アフリカワールドカップに出場した後、悲願だった海外への移籍が決定する。
リールセ
2010年ワールドカップ出場後の7月7日ベルギー・ジュピラー・プロ・リーグに昇格したばかりのリールセSKへ移籍。初年度から正GKの座を確保するが、お世辞にも戦力が整っているとはいえないチームの守備はザルで失点を重ねることとなった。2010年11月27日のスタンダール・リエージュ戦では自身経験の無い7失点を許す大敗を喫し流石にショックを受けるが、それでもビッグセーブを連発したことでメディアや相手監督からも称賛された。12月8日のヘンク戦では、後に世界的な名GKとなる若き日のティボー・クルトワと互いに譲らないビッグセーブ合戦を演じている。その後も飛んでくるシュートの雨をビッグセーブで防ぎ続け、1部残留に貢献。この活躍が評価され、サポーター投票によるチームMVPとなる。
2年目となる2011年8月19日には対戦相手であるゲルミナル・ベールショットの一部サポーターからこの年起きた東日本大震災を揶揄する野次が飛ばされる。これに激昂した川島は、抗議し試合が一時中断する事態となる。その後、ゲルミナル側が公式HPに日本語で謝罪文を掲載する。この年の10月からチームのキャプテンに任命され、このシーズンの公式戦全試合に出場。また、サポーター投票のチームMVPに2シーズン連続で選出されている。
スタンダール・リエージュ
2012年にベルギー・ジュピラー・プロ・リーグの名門スタンダール・リエージュへ移籍。開幕からレギュラーを掴むと、豊富な経験を活かしてチームに貢献。チーム内での信頼も厚く、移籍1年目ながらも全試合フル出場を達成。2013年1月には、同じ日本人の永井謙佑と小野裕二がチームに加入すると、ベルギーでの経験の長さと語学力で2人をサポートしている。
2013-14シーズンは、リーグ戦第2節のコルトライク戦でPKをストップし、勝利に貢献。2013年12月1日の第17節では古巣であるリールセを相手にPKをストップして流れを断ち切り、クリーンシートを達成。試合後にはリールセのサポーターから川島の活躍を祝福したチャントが送られる歓迎ぶりを受けており、いかにリールセで愛された存在だったかを証明するエピソードとなった。さらに、レギュラーシーズン最終節となったメヘレン戦では1点リードの場面でシーズン3度目のPKストップを披露し、勝利をもたらす。連続フル出場記録こそ途切れたが、前年を上回るパフォーマンスを見せ、ベルギーNO.1GKの呼び声も出たほどだった。チームのレギュラーシーズン1位フィニッシュに貢献。ベルギー移籍4年目で初めてプレーオフにも出場するが、惜しくもチームはリーグ優勝を逃している。
2014-15シーズンは調子を落としてシーズン中盤にレギュラーを剥奪されて出場試合数が激減。最後まで正GKの座を奪い返すことができず、2015年の契約満了と共に退団。
ダンディ
スタンダールを退団後、移籍先がなかなか決まらず、半年ほど無所属の状態が続いていたが、2015年12月ようやく移籍先を見つけ、スコットランド・スコティッシュ・プレミアシップのダンディー・ユナイテッドに加入。降格の危機にあるチームの救世主として期待されるが、守備が崩壊状態だったチームの失点を止めることができず。結局チームはリーグ戦最下位で降格が決まり、再び移籍先を探すことになる。
メス
2016年8月2日、フランス・リーグ・アンのFCメスへの移籍が決定するが、クラブから「川島は第3GKとして加入する」と発表され、厳しい立場での新天地のスタートとなった。予想通り加入してから半年間は公式戦でゴールを守る機会が与えられず、年明けのカップ戦でようやく出番が回ってくる。だが、第31節のパリ・サンジェルマン戦でリーグ戦デビューを飾るとレギュラーを掴み、第37節のトゥールーズ戦ではPKをストップを活躍を見せる。
2017-2018シーズンでは、開幕から正GKという立場になり、低迷するチームの中で奮闘。2018年1月21日、リーグ・アン第22節ASモナコ戦では一発退場となる。出場停止処分の解けた1月27日の第24節ニ―ス戦ではマリオ・バロテッリのPKを一度はストップするが、こぼれ球を押し込まれて失点している。ちなみにこれでフランスでデビューしてから3試合連続でのPKストップとなり、リーグ・アンの過去10年間で初めての記録となった。しかし、監督が「本当にプロと呼べるのは16名しかいない」と吐き捨てた程戦力が乏しいチームはリーグ最下位に終わり2部に降格。およそ4シーズンぶりに年間を通してゴールを守り抜いたが、シーズン終了後、契約満了により退団する。
ストラスブール
ロシアワールドカップ後、またも無所属となるが、2018年8月30日にリーグ・アンのRCストラスブールへの移籍が決定。しかし、メス時代と同じく第3GKという立場での加入となった。予想通り、川島が公式戦のピッチに立つチャンスはなかなか巡ってこず、リーグ最終節でようやくゴールを守ることとなった。それでも新たに2年契約を結ぶが、第3GKとしての立場に変わりはなく、2019-2020シーズンはプロ1年目以来となる公式戦出場が0で終わった。
2020-2021シーズンは正GKの長期離脱、第2GKの新型コロナウィルス感染ということもあってリーグ・アン開幕戦のFCロリアン戦でゴールを任され、1年3カ月ぶりに出場。1-3で敗れたものの、サポーターが選出するクラブのMOMに選ばれる。第3節以降はビングル・カマラが復帰したことで控えGKに戻るが、第11節のモンペリエHSC戦でリーグ戦8試合ぶりにゴールを任されると、続く第12節レンヌ戦でのプレーがまたもクラブのMOMに選出され、第13節のFCナント戦では相手を完封し、勝利に貢献。第14節の古巣であるメス戦ではPKをストップし、チームを敗戦から救う。20試合連続でゴールを守り、評価を高めたが、正GKのマッツ・セルスが復帰したことで再びベンチを座ることになる。だが、セルスが新型コロナウィルスに感染したことで最後の2試合でゴールを守り、チームの残留に貢献する。
38歳となっても契約延長を打診されるなど、首脳陣からの評価は高いものの、2021-2022シーズンも第2GKという立場で開幕を迎え、出場機会がなかなか得られない状況が続く。2022年1月9日リーグ・アン第20節メツ戦で、セルスがコロナ陽性となったことでリーグ戦初出場を果たし、見事クリーンシートに抑え勝利に貢献する。しかし、1月12日に自身もコロナ検査で陽性反応が出てしまう。結局セルス復帰後は試合に出場する機会は訪れず、公式戦2試合のみの出場に終わる。
2022-23シーズンは開幕から11試合は第2GKとしてベンチ入りしていたものの、ワールドカップ後の2023年1月に負傷していた左肩の手術を受け、戦線を離脱。結局最後までメンバー入りすることはなく、公式戦では1度もピッチに立つことはなかった。2023年6月をもって契約満了により退団。
ジュビロ磐田
ストラスブールを退団後、半年ほど無所属の状態が続いていたが、2024年1月12日にJ1リーグのジュビロ磐田への移籍が発表される。川島にとっては14年ぶりのJリーグ復帰となった。
日本代表
2001年からU-18代表に選出されており、2002年U-19日本代表の一員としてAFCユース選手権2002に出場。不動の守護神として活躍し、日本のワールドユース出場権獲得に貢献。準決勝のウズベキスタン戦では、PK戦で2本ストップする活躍を見せる。翌年の2003 FIFAワールドユース選手権にも正GKとして出場。グループリーグ初戦のイングランド戦、第3戦のエジプト戦でビッグセーブを連発し、日本に勝利をもたらす。準々決勝でブラジルに大敗するが、ベスト8進出したチームに貢献した。
アテネオリンピック代表(U-23日本代表)にも選出されることもあったが、当時名古屋で控えに甘んじていたこととオーバーエイジ枠で曽ヶ端準が選ばれたこともあって予備登録メンバーに留まる。
川崎に移籍直後の2007年2月15日、日本代表の合宿メンバーに選出され、AFCアジアカップ2007のメンバーにも選出される。2008年2月17日東アジアサッカー選手権2008の北朝鮮戦においてフル代表デビューを果たす。この試合では、当時チームメイトだった鄭大世にゴールを決められている。しかし、長年日本代表のゴールを守る楢崎正剛と川口能活の壁は厚く、コンスタントに代表に呼ばれていたが、大事な試合では出場機会を与えられなかった。
2010 FIFAワールドカップでは当初第2GKと予想されていたが、イングランドとのテストマッチでフランク・ランパードのPKを止めるなどの健闘ぶりが評価されると、大会直前に岡田武史監督から楢崎に代わってレギュラーを任される。グループリーグでは守備的な戦いに舵を切ったチームを最後尾から鼓舞し、決定的なシュートを次々とビッグセーブで救い、第3戦のデンマーク戦でもPKをストップするなど2大会ぶりのグループリーグ突破に貢献。パラグアイとのベスト16では、PK戦で5本全て決められ敗れるが、この大会でビッグセーブした後のどや顔が話題となり、以降日本の守護神として定着する。
AFCアジアカップ2011では、グループリーグのシリア戦での不可解な退場や準々決勝のカタール戦でのFKからの失点などの危ういプレーもあったものの、試合を重ねるごとに調子を上げ、準決勝の韓国戦では延長を経てPK戦までもつれ込んだ試合の中、韓国のPKを2本止める活躍を披露。決勝のオーストラリア戦でもビッグセーブを連発し、日本のアジア制覇に大きく貢献した。この決勝戦ではMOMを受賞している。
その後のブラジルワールドカップアジア最終予選でも不安定なプレーが見られ、一部から西川周作と代わるべきという声も挙がったが、アルベルト・ザッケローニ監督からの信頼は変わりなかった。迎えた2014 FIFAワールドカップでは、5大会目にして初めて背番号1をつけてピッチに立つGKとなる。しかし、チームは調子が上がらず、グループリーグ敗退となる。
ブラジルワールドカップの後も日本代表の正GKを務め、AFCアジアカップ2015でも全試合にフル出場するが、準々決勝で地元のUAE相手にPK戦で5本全て決められ敗れる。2015年夏以降、移籍先が見つからず無所属となったことで代表からも外される。2016年に移籍先が決まったことで代表には復帰するが、所属チームでなかなか試合に出場できず、実戦から遠ざかっていたため西川に正GKの座を奪われていた。しかし、2017年3月23日のロシアワールドカップアジア三次予選のUAE戦で久々となるスタメンに抜擢され、完封。試合後は歓喜余って涙を流していた。8月31日ワールドカップ出場権監督のかかった大一番となるオーストラリア戦でも完封勝利に貢献し、ロシア大会出場権をもたらすとともに正GKの座を奪い返す。
自身3度目の出場となった2018 FIFAワールドカップでは、初戦のコロンビア戦で不安定なプレーを見せ、第2戦のセネガル戦では致命的なパンチングのミスから失点してしまい、批判の的になる。一部ではGKを交代すべきという声が挙がるが、西野朗監督からの信頼は変わらず、第3戦のポーランド戦ではゲームキャプテンを任される。この試合で決定的なシュートを右手一本でのビッグセーブで凌ぐなど活躍し、意地を見せる。結局ワールドカップ3大会連続で全試合フル出場を果たすが、チームはベスト16で敗退。
ロシアワールドカップ後は、日本代表が世代交代を推し進めていたためしばらくの間遠ざかる。しかし、2019年5月代表へ復帰。36歳のベテランの復帰に疑問の声もあがったが、森保一監督はコパ・アメリカに五輪世代中心で挑むため、経験を伝えることを期待して選出。コパ・アメリカ2019では、初戦こそ控えだったものの、第2戦のウルグアイ戦からスタメンで起用され、エディソン・カバーニとの1対1をビッグセーブで防ぐ。第3戦のエクアドル戦でもゴールを守ったが、チームはグループリーグ敗退となった。
その後も30代後半となりながらも代表に呼ばれ続けるが、控えGKという立場になり試合への出場は限られたものとなった。2022 FIFAワールドカップ アジア最終予選でも権田修一が正GKとしてピッチに立ち続けたため出番は回ってこなかった。消化試合となった2022年3月29日のベトナム戦でようやく出場機会を得るが、格下相手に失点したうえにビルドアップでの拙さを露呈してしまう。
2022 FIFAワールドカップ・カタール大会のメンバーに4大会連続で選出されるが、第3GKという立場のため出場機会は訪れず。それでも39歳のチーム最年長として裏方に徹し、精神的支柱としての役割を果たしている。大会後に代表活動に一区切りをつけることを表明。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2001 | 大宮アルディージャ | J2リーグ | 0 | 0 | |
2002 | 大宮アルディージャ | J2リーグ | 8 | 0 | |
2003 | 大宮アルディージャ | J2リーグ | 33 | 0 | |
2004 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 4 | 0 | |
2005 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 3 | 0 | |
2006 | 名古屋グランパス | J1リーグ | 10 | 0 | |
2007 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 34 | 0 | |
2008 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 34 | 0 | |
2009 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 34 | 0 | |
2010 | 川崎フロンターレ | J1リーグ | 11 | 0 | |
2010-11 | リールセ | ジュピラー・プロ・リーグ | 23 | 0 | |
2011-12 | リールセ | ジュピラー・プロ・リーグ | 30 | 0 | |
2012-13 | スタンダール・リエージュ | ジュピラー・プロ・リーグ | 30 | 0 | |
2013-14 | スタンダール・リエージュ | ジュピラー・プロ・リーグ | 27 | 0 | |
2014-15 | スタンダール・リエージュ | ジュピラー・プロ・リーグ | 11 | 0 | |
2015-16 | ダンディー | S・プレミアシップ | 16 | 0 | |
2016-17 | メス | リーグ・アン | 5 | 0 | |
2017-18 | メス | リーグ・アン | 29 | 0 | |
2018-19 | ストラスブール | リーグ・アン | 1 | 0 | |
2019-20 | ストラスブール | リーグ・アン | 0 | 0 | |
2020-21 | ストラスブール | リーグ・アン | 24 | 0 | |
2021-22 | ストラスブール | リーグ・アン | 1 | 0 | |
2022-23 | ストラスブール | リーグ・アン | 0 | 0 | |
2024 | ジュビロ磐田 | J1リーグ |
個人タイトル
プレースタイル
至近距離からのシュートストップに自信を持っており、一度波に乗るとビッグセーブを連発する。また、メンタル面も強いため、PKストップの割合が高く、ネイマールやランパード、マリオ・バロテッリ、ヨン・ダール・トマソンといったワールドクラスのプレイヤーのPKを阻止した実績を持つ。身体能力も高いため、ハイボールの際の相手との競り合いにも強い。
一方で勝気な性格が災いして無理にボールに触ろうとしすぎたり、判断を誤ったり、目測を誤ったりが原因で致命的なミスを犯すことが多い。また、キック力そのものはあるものの、正確さには欠けているため攻撃の一歩としての貢献度はあまり期待できない。足元のプレーも不安定なためビルドアップの逃げ道として使うことができず、組み立ても要求される現代の基準で言えばオールドタイプのGKと言える。
エピソード・人物
2014年10月15日に一般人女性との結婚を発表。熱烈なファンの多かったオネエ界隈では悲嘆の声が挙がっていた。
ビッグセーブを披露した後に印象的な「どや顔」を見せることから、ネット上では「どや島さん」というあだ名が付く。
日本代表でチームメイトだった内田篤人と仲が良く、ファンからは2人はデキているのでは?と疑われる程だった。その内田からは部屋で全裸のまま筋トレをしていることを暴露されている。
高校時代は時間があらばトレーニングに励んでいたが、グラウンドで1人声を出して居残り練習をしていた川島を見た監督から「電気代の無駄だ。帰れ!」と怒られている。
2022 FIFAワールドカップアジア最終予選のホームのサウジアラビア戦の試合後、内田が生放送のピッチレポーターをしているところに乱入し、「残り組は走れよ!」と絡んできた。
語学
日本でプレーしていた時期から海外でのプレーを目標としていたため、早くから語学の勉強をしており、ベルギーに移籍する前から英語、イタリア語、ポルトガル語をマスターしていた。その後、オランダ語とフランス語も習得。そのため、日本人選手が海外移籍した際に苦しむ言葉の壁に悩まされず、ベルギー移籍後すぐにチームに溶け込むことができた。
アルベルト・ザッケローニが日本代表監督だった頃は、通訳を介することなくイタリア語でザッケローニとコミュニケーションが取れていた。
スタンダール・リエージュ時代は、加入した永井謙祐の移籍会見の通訳を務めている。
関連動画
著書
- 準備する力 夢を実現する逆算のマネジメント(2011年9月27日、角川書店)
- 本当に「英語を話したい」キミへ(2013年3月29日、世界文化社)
- 準備する力 夢を実現する逆算のマネジメント【改訂版】(2014年4月25日、角川文庫)
- 耐心力 重圧をコントロールする術がある(2018年10月10日、幻冬舎)
関連項目
- サッカー / サッカー選手
- サッカー日本代表
- 大宮アルディージャ
- 名古屋グランパスエイト
- 川崎フロンターレ
- ジュピラー・プロ・リーグ
- リーグ・アン
- ジュビロ磐田
- ゴールキーパー
- 2010FIFAワールドカップ
- 2014FIFAワールドカップ
- 2018FIFAワールドカップ
- どや顔
- 川島△
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