香川真司(Shinji Kagawa,1989年3月17日 - )とは、日本のサッカー選手である。
J1リーグのセレッソ大阪所属。元サッカー日本代表。
175cm68kg。ポジションはMF(オフェンシブハーフ)。利き足は右。
概要
兵庫県神戸市垂水区出身。セレッソ大阪と高校2年生のときにプロ契約を交わすと、2年後にJ2リーグに降格したチームを圧倒的な個人能力でJ1復帰に導き、注目を集める。
史上初の平成生まれの日本代表選手となり、アルベルト・ザッケローニ監督の時代に中心選手として活躍。2011年のAFCアジアカップ優勝に貢献している。
ドイツのボルシア・ドルトムントに所属していた頃には、主力としてブンデスリーガ2連覇に貢献。日本のみならず海外からも注目される選手となり、名伯楽として知られるアレックス・ファーガソンに認められイングランドの名門マンチェスター・ユナイテッドへの移籍も果たす。
本田圭佑と共に、2010年代の日本サッカー界を代表する選手であり、日本代表では背番号10を背負ってプレーしている。
FIFA ワールドカップには2度出場しており、2018年ロシアW杯ではコロンビア戦での先制ゴールとなるPKを決めるなど、日本の3度目の決勝トーナメント進出に貢献している。
経歴
生い立ち
両親と3歳年上の姉の4人家族で生まれ育つ。父親は阪急電鉄に勤務。
5歳のときに阪神大震災に遭遇しており、当時住んでいたマンションは断水。父親はタンスが倒れないように懸命に支えていた。変わり果てた故郷である神戸市の姿を見て子供ながらにショックを受けたと語っている。
幼稚園の頃からサッカーを始め、小学生1年生のときには地元の少年サッカーチームであるマリノFCに所属していた。この頃からすでに非凡な才能を発揮しており、周囲からは天才と称されていた。
小学4年生のときには、神戸市選抜のメンバーに選出。
5年生になると、より高いレベルでのプレーを希望し、神戸NKサッカークラブに移籍している。
子供の頃の憧れの選手は三浦知良(カズ)で、カズのようなJリーガーになりたいという夢を持っていた。
中学生になると、神戸NKの監督から勧められたこともあり宮城県にサッカー留学を決意。仙台市の学校に通いながらFCみやぎバルセロナのユースチームでプレーしていた。
ナショナルトレセンやU-15日本代表のメンバーにも選出されたこともあり、高校生になると香川の存在はJリーグチームからも注目されるようになり、高校2年生にしてFC東京とセレッソ大阪からオファーを受ける。
セレッソ大阪(第一次)
2006年17歳のときにセレッソ大阪と契約しプロとしてのキャリアをスタート。チームのユースに所属していない高校卒業前の選手がプロチームと契約するのは当時異例のことだった。高校もクラブが提携を結んでいるウイサス高校に転向する。
もっとも、ルーキーイヤーの2006年は公式戦の出場は無く、チームはJ2に降格する。
2年目となった2007年は、5月に就任したレヴィー・クルピ監督に才能が認められ出場機会を増やし、J2第17節水戸ホーリーホック戦でプロ初ゴールを記録。
その後レギュラーに定着するようになり、当時のポジションはボランチだったものの35試合5得点9アシストという記録を残している。
2008年には、完全にチームの主力として定着。攻撃センスの高さに目を付けたクルピの意向によってトップ下やシャドーの位置でプレーする機会が増え、ゴールに直結するプレーが増える。
特に得点力のアップには目を見張るものがあり、35試合に出場して16得点10アシストを記録。J2リーグに所属ながらも日本代表にも選出される。
しかし、チームは夏場以降に勝ち星が伸びず、またもやJ1昇格はならなかった。
2009年シーズンからは前年に引退した「ミスターセレッソ」森島寛晃が長年付けていた背番号8を継承。以降、セレッソ大阪のエースナンバーは8番となる。
前のシーズンに横浜F・マリノスから移籍して来た乾貴士との息の合ったコンビネーションで得点を量産。J1ですらトップレベルにあると言われた香川と乾の2シャドーによるコンビは手の付けられないものとなっていた。
5月19日のJ2第15節水戸ホーリーホック戦ではプロ入り初のハットトリックを達成。シーズン終盤は怪我の影響でスーパーサブとして起用されていたが、リーグ27得点でJ2得点王に輝き、この年のC大阪のJ1昇格の原動力となった。
ちなみにこの年のC大阪は香川が27ゴール、乾が20ゴールで2人合わせて47ゴールを記録。チームの総得点は100得点に達しており、伝説的なチームとして語り継がれている。
初のJ1でプレーすることとなった2010年は、5月15日までにJ1でも十分に得点王を狙える7得点を記録するが、7月にドイツ・ブンデスリーガのボルシア・ドルトムントへ移籍が決定する。ドルトムントはこの数年前からスカウトを派遣して香川のプレーを注視し、獲得に踏み切っていた。
日本での最後の試合となったJ1第12節ヴィッセル神戸戦では自身初となるFKからの直接ゴールを決めている。
ドルトムント(第一次)
2010年7月1日、21歳でブンデスリーガの名門ボルシア・ドルトムントへの完全移籍が正式に決定。背番号は「23」。実は前年の12月にドルトムントのホームゲームに招待されており、そのときの8万人が熱狂するスタジアムに感銘を受け、このときからすでに加入の希望を伝えていた。
その類稀な攻撃センスに惚れ込んだユルゲン・クロップ監督からスタメンの座を与えられると、驚くべきスピードでチームに順応する。
9月11日、長谷部誠との日本人対決となったヴォルフスブルク戦ではブンデスリーガでの初得点を記録、またも内田篤人との日本人対決となった翌節のシャルケ04とのルールダービーでは2得点を挙げ、キッカー誌とビルト誌の両方から最高評価点の「1」を付けられる。
加入当初はドイツで全くの無名の存在だったが、瞬く間に香川真司の名がドイツ中に知れ渡った。
2011年1月に出場したAFCアジアカップでの怪我により後半戦を棒に振ったが、このシーズンは17試合8得点と大活躍し、攻守にわたってドルトムントの9シーズンぶりのリーグ優勝に大きく貢献した。
自身はブンデスリーガ公式の前半戦MVPに選出され、キッカー誌が選定した年間のベストイレブンに選ばれた。
2011-2012シーズンは怪我から復帰し、リーグ前半戦終了時点で4得点5アシスト。
ちなみに香川が1試合あたりに走った平均走行距離は12.36キロで、前半戦に出場したブンデスリーガ全選手の中でトップであり、活躍の背景に豊富な運動量があることが裏付けられた。
11月24日にはUEFAチャンピオンズリーグ・アーセナル戦においてCLで自身初となるゴールを決めた。
もっとも10月頃からやや調子を落とし、新たに前線でコンビを組んだロベルト・レヴァンドフスキとの連携がうまくいってなかったこと、マリオ・ゲッツェが台頭したこともあってスタメンから外れる時期もあった。
リーグ後半戦はそれまでの鬱憤を晴らすかのような獅子奮迅の活躍を見せ、コンスタントにゴールとアシストを記録し、チームの快進撃の中心となり、27節のケルン戦での2ゴールで二桁ゴールの大台に乗る。
リーグ優勝に王手をかけた第32節のボルシア・メンヘングラッドバッハ戦でも決勝ゴールを決める活躍を見せる。この結果、ドルトムントはリーグ28戦無敗という記録と共にブンデスリーガ2連覇を達成。
DFBポカール決勝でも強豪バイエルン・ミュンヘンを相手に先制ゴールを決めるなど活躍、クラブ史上初となるシーズン2冠に大きく貢献。
2年目の香川は31試合に出場し、13得点9アシストとドイツ中に衝撃を与えた1年目を大きく上回る成績を残す。ビルト誌が選定する年間ベストイレブンに2年連続で選出。
マンチェスター・ユナイテッド
ドルトムントでの活躍が世界的名将であるアレックス・ファーガソン監督に評価され、2012年6月5日に世界的なピッグクラブであるイングランド・プレミアリーグのマンチェスター・ユナイテッドへの完全移籍が発表、同月22日に正式契約を結んだ。背番号は26番に決定。移籍金は1500万ユーロ(約20億円)。
2012年8月20日開幕戦のエヴァートン戦でデビューを果たすと、第2節のフラム戦でプレミアリーグ初ゴールを決める。
前年度のCL決勝でFCバルセロナに完膚無きまでに叩きのめされたファーガソン監督は、これまでのチームスタイルに限界を感じ、新しいスタイルを導入するためのキーパーソンとして香川を獲得していた。
だが、チームがアーセナルのエースであるロビン・ファン・ペルシーの引き抜きに成功したことで、従来のスタイルを併用するようになり、出場機会は多かったものの大事な試合でスタメンから外されることが多くなっていた。さらにCLで負った負傷のため2カ月離脱することもあった。
3月2日のマンチェスター・ユナイテッドのホームであるオールド・トラフォードの400試合目となったノーウィッチ・シティとのホームゲームでプレミアリーグで日本人初となるハットトリックを達成。3得点目の芸術的なチップキックシュートは語り草となっている。
チームは、2シーズンぶりのリーグ優勝を達成し、日本人初のプレミアリーグ優勝を果たす。これにより自身は欧州移籍後3シーズン連続のリーグ優勝となった。
しかし、27年間マンチェスター・ユナイテッドを指揮し、数々の栄光をもたらしたファーガソンが退任を表明。このことが香川の歯車を大きく狂わせることとなる。
ファーガソン引退に伴い、2013-14シーズンから新たに就任したデイヴィッド・モイーズのもとポジションを失ったものの、シーズン途中から先発のポジションを奪取。
しかし、サイドからのクロスを重視する古典的なブリティッシュ・スタイルであるモイーズの戦術に香川のストロングポイントは発揮できず。また、フィジカルを重視するモイーズのチームにフィットしようと筋力トレーニングを増やしたことで持ち味だった俊敏さを失ってしまう。
結局このシーズンの香川は0ゴールに終わってしまい、チームもCL圏外という屈辱のシーズンとなった。この頃の香川の不遇な扱いを恩師のクロップはたいへん嘆いていた。
2014-15シーズン、新たに就任したルイス・ファン・ハールの元でポジション奪取にやる気を見せていたが、守備的MFでの起用やファン・ハールの戦力外通告ともいえる発言から退団を決意する。
ドルトムント(第二次)
バレンシアやエバートンなど複数のチームが興味を示す中、本人の希望で古巣のドルトムントに800万ユーロで復帰が決まった。背番号は「7」。
復帰が決まった際には地元メディアが一面で取り上げるなど大きな注目を集め、かつてのクラブのアイドルの帰還にドルトムントサポーターは歓喜する。
復帰戦となった9月13日の第3節、SCフライブルク戦で、マルコ・ロイスが負傷離脱した事もあり、トップ下で先発出場し、移籍後初得点を決め活躍し、その試合のMOMに選出された。
しかし、マンチェスター・ユナイテッド時代から続く不調から完全に脱却できておらず、チームも一時は最下位に転落するほどの深刻な不調に陥る。
なかなか調子が上がらず、クロップからスタメンを剥奪され、出場機会が与えられない時期が続く。
結局、チームは何とかヨーロッパリーグ圏までは立て直すが、かつての輝きを見せられないままシーズンを終え、クロップはチームを去ることになる。
2015-16シーズンからクロップの後任となったトーマス・トゥヘルは、これまでのトランジションスタイルからポゼッションサッカーへの移行を図ろうとする。背番号を「7」からかつて付けていた「23」に戻した香川は、インサイドハーフで起用されることが増え、ゴール前よりもパサーとしてゲームメイクに比重を置いた役割を与えられる。
それでも、新しい役割に順応しながらゴールも重ね、第28節のヴェルダー・ブレーメン戦では、ブンデスリーガ通算100試合出場を達成。
このシーズンは29試合9得点9アシストという記録を残し、復調を印象付けたシーズンとなった。
しかし、2016-17シーズンは、トゥヘルがより多様性を求める戦術を採用したことで徐々にチームでの居場所を失っていく。
2016年11月22日のCL第5節レギア・ワルシャワ戦では前半17分と18分に連続でゴールを決め、CL史上最速の連続ゴール記録を樹立。
だが、リーグ戦での初ゴールは2017年4月13日のハンブルガーSV戦までかかり、試合出場も21試合にとどまる。
2017-18シーズンから監督に就任したピーター・ボスからは途中交代から流れを変える役割を与えられる。
シーズン途中でボスが解任され、ピーター・シュテーガーが監督に就任してからスタメンを取り戻すが、第22節のハンブルガー戦での負傷によって2カ月もの間ピッチを離れることになり、不完全燃焼のシーズンとなる。
2018-19シーズンから就任したルシアン・ファブレからは完全に構想外という扱いを受け、シーズン前半戦でリーグ戦2試合、公式戦の出場は4試合のみとなっていた。
ベシクタシュ
出場機会を求めた香川は、新天地にトルコを選び、2019年1月31日ベシクタシュJKへの半年間の期限付き移籍が決定する。
トルコでのデビュー戦となった2月3日のアンタルヤスポル戦で後半36分から出場すると、投入されてわずか16秒後に初ゴールを決める。さらに、後半39分にもFKからこの試合2ゴール目を決め、華々しいデビューを飾る。
しかし、コンディションの問題もあって好不調の波があり、完全にレギュラーを掴むには至らなかった。そのため、完全移籍とはならず、トルコでの挑戦は半年で終了する。
サラゴサ
2019年8月9日スペイン・ラ・リーガ・セグンダ・ディビジオン(2部)のレアル・サラゴサへの2年契約での移籍が決定。2部とはいえ、かねてから希望していたスペインでのプレーが実現することとなった。
これまでの実績からスター選手として大歓迎を受ける中、開幕戦からスタメンで出場。第2節には移籍後初ゴールを決める。
しかし、コンディションが整わないこともあって徐々にチームでの序列が下がっていき、年明けからは出場機会が激減する。
それでも、2020年1月22日久保建英が所属するマジョルカとのコパ・デルレイ3回戦では1アシストを記録するなど、輝きを放ち日本人対決に勝利する。
さらに、1月30日の4回戦では敗れたものの、レアル・マドリードを相手に好プレーを見せる。だが、チーム内での序列はなかなか上がらず、プリメーラ昇格のかかった大事な終盤戦の時期に6試合連続でスタメンから外れる。
昇格プレーオフでは、2試合連続でスタメンに起用されまずまずのプレーを見せるが、チームはエルチェに敗れプリメーラ昇格を逃すこととなる。
2020-2021シーズンはEU圏外の関係で選手登録から外れ、事実上の戦力外通告を受け、2020年10月2日にはサラゴサとの契約を解除し、フリーとなる。
古巣であるセレッソ大阪からオファーも受けたが、欧州でのプレーにこだわったため断りを入れている。
結局およそ4カ月間無所属の状態が続く。
PAOK
2021年1月27日ギリシャのPAOKテッサロキニに1年半の契約で加入。背番号はドルトムント時代と同じ「23」。
2月3日のキペロ・エラーダス(カップ戦)で途中出場し、新天地でのデビューを飾るとともに約5か月半ぶりに公式戦のピッチに立つ。
3月3日のキペロ・エラーダス準々決勝で移籍後初スタメンを飾り、初アシストを記録。
3月8日のスーパーリーグ第25節アリス戦でリーグ戦初スタメンとなるが、足首の負傷によって前半で交代になり、戦線を離脱。復帰間近となった4月14日の練習中に太ももを負傷し再び離脱。
そのまま復帰できないままシーズン終了となり、大きく期待を裏切ることになる。
2021-2022シーズン、開幕戦ではスタメンで起用されたものの、以降はチームの構想外となってベンチにすら入れない状況が続き、ついには2021年12月18日、わずか1試合に出場したのみで契約解除となる。
シント=トロイデン
再び無所属の状態となるが、2022年1月10日に日本人選手が多く所属するベルギー・ジュピラ―・プロ・リーグのシント=トロイデンVVに加入することが発表される。背番号は「10」。
リーグ最終節となった4月10日のスタンダール・リエージュ戦で初スタメンを飾ると、原大智の先制ゴールをアシストする。
2022-23シーズンは代表で長く共に戦った岡崎慎司が加入し、「Wシンジ」2トップが実現する。
8月27日の第6節KVメレヘン戦ではベルギー移籍後初ゴールとなるPKを決める。
10月12日の第12節シャルルロワSC戦では自身プロになって初となるCKからの直接ゴールを決め、勝利に貢献する。
ワールドカップの中断期間中の11月に長年痛めていた左足首の手術を受け、戦列を離れる。
セレッソ大阪(第二次)
2023年2月1日、古巣であるJ1リーグのセレッソ大阪に12シーズンぶりに復帰することが発表される。背番号はかつて在籍していたときと同じ「8」。
2月18日のJ1開幕戦アルビレックス新潟戦に後半26分から出場し、4662日ぶりにJリーグのピッチに立つ。移籍後初スタメンとなった3月12日の第3節サガン鳥栖戦ではJ1では4684日ぶりとなるゴールを決める。
その後はこれまでよりも一列下がったボランチで起用され、司令塔として定着。6月24日の第18節コンサドーレ札幌戦では、シーズン2得点目となる華麗なチップキックシュートを決めている。
7月28日に開催されたパリ・サンジェルマンとの親善試合では後半から投入されると、ジャンルイジ・ドンナルンマから鮮やかなミドルシュートを決め、逆転勝利に貢献。
この年は近年悩まされ続けた怪我がなくリーグ戦全試合に出場。プレーの新境地を開くとともに、復活を印象付けた1年となった。
2024年シーズンはインサイドハーフでの起用となる。3月9日、第3節東京ヴェルディ戦では珍しいヘディングシュートでシーズン初ゴールを決める。
日本代表
サッカー日本代表にはユース時代からアンダー世代に選出されており、中学生の頃にはU-15代表に選ばれている。
2007年にはカナダで開催された2017 U-20ワールドカップのU-20日本代表に飛び級で選出され、2試合に出場。途中出場したベスト16のチェコ戦では延長戦に決定的なシュートをゴールライン上のDFに明らかなハンドで阻まれるも、PKは取られないという不運があった。
なお、この大会でFIFAに提出される公式のメンバーリストにはなぜかDFで登録されていた。
2008年には、C大阪での活躍が岡田武史監督に認められ、平成生まれの選手としては初めて日本代表に選出される。
5月24日のコートジボワール戦でフル代表デビューを果たす。
続く南アフリカワールドカップアジア3次予選のオマーン戦に途中から出場、6月14日のタイ戦では初スタメンを飾る。
さらに2008年8月から開催された北京オリンピックにも本田圭佑や長友佑都、内田篤人、岡崎慎司など後のA代表の主力とともに出場。本来はロンドン五輪の世代のため飛び級での選出となった。
チーム最年少ながら第1戦のアメリカ戦、第2戦のナイジェリア戦と続けてスタメンで起用されるも、良いところを見せられずどちらの試合も途中で交代させられている。
第3戦のオランダ戦ではスタメンを外され、試合終盤に出場するも、結果は3戦全敗。自身にとっても悔しい大会となった。
オリンピック後もフル代表にはコンスタントに選出され、10月9日のUAE戦では日本代表史上3番目の若さで代表初ゴールを記録。
しかし、2010年2月14日の東アジア選手権では前半に途中出場しながら、闘莉王の退場に伴ってハーフタイムでベンチに下がるなど代表の主力には定着できず。
2010 FIFAワールドカップのメンバーには残れず、サポートメンバーとしてチームに同行することとなった。
ワールドカップ終了後、アルベルト・ザッケローニ監督が就任した日本代表では主力として定着。
初の公式戦となるパラグアイ戦ではスタメンで出場し、決勝点を挙げチームを勝利に導く。
続くグアテマラ戦では、森本貴幸へ1アシストと存在感を示し、国内での評価も急激に高まった。
2011年1月にカタールで開催されたAFCアジアカップ2010では10番を背負いエースとしての重責を負うこととなる。
大会序盤はなかなか本来の力を発揮できていなかったが、準々決勝の開催国カタール戦でともに1点リードされている状況から2得点を挙げ、伊野波雅彦の決勝点もアシストする大車輪の活躍で日本代表の準決勝進出に貢献した。
しかし準決勝の韓国戦で後半42分に右足小指骨折による全治3カ月の重傷を負い、決勝のオーストラリア戦を前に戦線離脱を余儀なくされる。日本の優勝を見届けることができず、その後のブンデスリーガの後半戦を棒に振ることとなる。
2011年8月に行われたキリンチャレンジカップ2011の韓国戦で6カ月ぶりに代表復帰し、2ゴールを挙げる活躍を見せる。
2012年から2013年のワールド杯アジア予選にも出場し、5試合に出場し、2得点の活躍でサッカー日本代表の2014 FIFAワールドカップ出場に貢献した。
しかし、ザックJAPANでは本来のポジションであるトップ下には本田圭佑が入り、左サイドでのプレーが主戦場となったこともあってドルトムントで見せたような鮮烈なプレーを代表で見せることができず、守備の場面で穴になることもあった。
2013FIFAコンフェデレーションズカップ 2013では、第2戦のイタリア戦で得点を決めるも、チームは3-4で敗戦し、最終的にグループリーグ全敗した。
2014年5月ブラジルで開催された2014 FIFAワールドカップのサッカー日本代表メンバーに選出。
第1戦のコートジボワール戦に先発出場したが、シュートを1本も打てず後半に途中交代。チームは1-2で敗北。
第2戦のギリシャ戦では先発にも外れ途中出場したがまたもシュート0本に終わる。チームは0-0の引き分けに終わる。
後がない第3戦、コロンビア戦ではチーム最多のシュート数を放ったが、精度を欠きチームも大敗しグループリーグ敗退という形で終わった。
10番としての期待に応えられなかったことでメディアやファンからは容赦なく批判が浴びせられた。
ワールドカップ後、ハビエル・アギーレ監督が就任した日本代表には、負傷もあって2014年10月から合流。2015年1月、アジアカップでは左のインサイドハーフとして出場。
GS第三戦のヨルダン戦ではチーム二点目を挙げ勝利に貢献する。
しかし、決勝トーナメント第一戦のUAE戦では決定機をことごとく外し、PK戦では自らのPK失敗で敗れ、ここでも一部から戦犯として批判される。
その後、アジアカップ後に就任したヴァヒド・ハリルホジッチ監督の元でワールドカップ予選を戦うが、チームにインテンシティを持てるハリルホジッチの哲学にプレースタイルが合わず、自身がコンディションを落としていたこともあって徐々に代表での絶対の地位を失うようになる。
2017年8月31日の本大会出場の大一番となったオーストラリア戦では、本田、岡崎慎司とともにスタメンを外され、出場機会を与えられなかった。
2018年に負った負傷の影響もあって2度目のワールドカップ出場に黄色信号が灯っていた。
2018年4月にハリルホジッチが解任され、大会直前に就任した西野朗監督によって2018 FIFAワールドカップのメンバーに選出される。当時直近3カ月のブンデスリーガにおいて怪我もあって16分間しかプレーしておらず、メンバー入りを疑問視する声が多かった。
しかし、大会直前のパラグアイとのテストマッチで乾貴士と好連携を見せ1ゴール2アシストと活躍したことにより。スタメンの座に返り咲く。
迎えた初戦のコロンビア戦で、開始6分に放ったミドルシュートがカルロス・サンチェスのハンドによる退場とPK獲得を呼び込む。このPKを自ら決め、ワールドカップ初ゴールを記録。
ロシア大会での香川は、相手のライン間に入り込んでシンプルにパスを捌き、周囲のためにスペースを作る黒子の役割で日本の2大会ぶりとなるグループリーグ突破に貢献。
ベスト16のベルギー戦では、乾のゴールをアシストするも、チームは2点のリードを逆転され敗退。
ロシアワールドカップ後は、森保一監督が就任し大幅な若返りを図ったためしばらく遠ざかっていたが、2019年3月に復帰。背番号も以前と同じ「10」が与えられた。
22日のコロンビア戦で途中から出場すると、26日のボリビア戦では初めてキャプテンマークを巻いてプレーする。しかし、その後は怪我や所属チームで出場機会を得られない影響もあって代表からは遠ざかっている。
プレースタイル
攻撃面
ワールドクラスのテクニックとアジリティ(俊敏さ)を活かして攻撃面で違いを生み出す天性の能力を持つ。足元のテクニックが非常に優れており、細かいボールタッチでボールを正確にコントロールし、相手のライン間やペナルティエリアの中の狭いスペースの中でもプレーが可能。
さらにアジリティの高さによってフィジカルに優れるDFからうまく逃げることができ、香川ターンとも呼ばれる鋭いターンで前を向き、一連のプレー動作が尋常ではないほどスピーディー。
ドルトムントで無双していた時代は、狭いエリアの中でパスを受け、相手を背負った状態からでも鋭くターンして前を向き、密集地帯をすり抜けてゴールを陥れることでドイツ中を震撼させた。ボールを捌いた後にすぐに動き直して次のポジションを的確に取るため、捕まえるのが難しい。
日本代表では左サイドハーフで起用されることが多かったが、もっともポテンシャルを発揮できるのは1トップの下もしくはセカンドトップの位置である。
マンチェスター・ユナイテッド時代に筋肉を付けたことでアジリティが失われ、それ以降は低めの位置まで下がってゲームメイクするスタイルにシフトしている。
ロシアワールドカップでは、司令塔の柴崎岳をフリーにさせるためにゲームメイトのサポートをおこない、同時に相手を引っ張って乾にスペースを与えていた。
弱点は自分の能力を十分に発揮できるプレーエリアが限られており、得意なエリアまでパスが入らない局面になると試合から消えてしまうことが多い。
また、特別スピードがあるわけではなく、フィジカルがそこまで高くないため個人技で打開することができず、周囲との相互理解が薄いチームになると存在感を無くしてしまう。
また、相手のマンマークなど体のぶつけ合いを挑まれるとどうしても不利になってしまう。
2023年にセレッソ大阪に復帰してからは、これまでよりも下がり目の位置でプレーするようになり、立ち位置を変えて列を落ちながらビルドアップの起点となったり、相手のポケットに侵入してパスを捌きながら全体をコントロールするなどゲームメーカーとしての新境地を開いている。
守備面
前線の守備者としての能力をクロップが絶賛しているとおり、ハイプレッシング時に相手のパスコースをカットしたり、周りと連動してプレッシャーをかけるタイミングがうまい。
クロップの代名詞ともいえるゲーゲンプレッシングにおいて、香川の献身的なチェックは戦術の肝になっていた。
前述したようにフィジカルコンタクトを苦手としているため、対人守備は苦手。
また、自陣に戻って守備に参加するのが遅れがちな傾向があるため、上下のアップダウンが要求されるサイドハーフで起用されると相手に狙いどころとされてしまう。
ハリルホジッチのようにデュエルを重視する監督からは起用をためらわれてしまう。
エピソード
連覇に貢献したことでドルトムントのサポーターからたいへん愛されており、マンチェスター・ユナイテッドで不遇な時期を過ごしていたころ、ドルトムントのサポーターたちが「香川真司を取り戻せ」というキャンペーンを始めた。また、選手個人のチャントが無いドイツにおいて「カーガワ、シンジ、シャラーラ、シャララーラ」というチャントが大合唱されるほど特別な選手として扱われている。
ドルトムントで香川の才能を見出したクロップからの寵愛を受け続けており、マンチェスター・ユナイテッドへの移籍が決まった際に「彼が去ったときは大粒の涙を流したよ。ここはおまえの家なんだからいつでも戻って来いよ。」とコメント。現在でも香川とのエピソードを語るときは、良い思い出として熱く語っている。
女優の長澤まさみのファンであり、「とんねるずのみなさんのおかげでした」に出演したときには、「僕が23年間片思いをしている人」と番組内で告白している。
マンチェスター・ユナイテッド時代に、金髪女性とエロチャットで交流していたことをイギリスのタブロイド紙に暴露される。これにC大阪時代の先輩である大久保嘉人は「バカでしょ(笑)」とコメント。その後、「真司がそこまで凄い選手になったってことですよ」とフォローもしていた。
ドルトムントでチームメイトだったドイツ代表のイルカイ・ギュンドアンとは親友の仲。ギュンドアンが来日した際は、香川の日本代表での試合を応援するためにスタジアムまで足を運んでいる。2人ともドルトムントを退団した現在もSNSで親交が続いていることが分かる。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
2006 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 0 | 0 | |
2007 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 35 | 5 | |
2008 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 35 | 16 | |
2009 | セレッソ大阪 | J2リーグ | 44 | 27 | |
2010 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 11 | 7 | |
2010-11 | ドルトムント | ブンデスリーガ | 18 | 8 | |
2011-12 | ドルトムント | ブンデスリーガ | 31 | 13 | |
2012-13 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 20 | 6 | |
2013-14 | マンチェスター・ユナイテッド | プレミアリーグ | 18 | 0 | |
2014-15 | ドルトムント | ブンデスリーガ | 28 | 5 | |
2015-16 | ドルトムント | ブンデスリーガ | 29 | 9 | |
2016-17 | ドルトムント | ブンデスリーガ | 21 | 1 | |
2017-18 | ドルトムント | ブンデスリーガ | 19 | 5 | |
2018-19 | ドルトムント | ブンデスリーガ | 2 | 0 | |
ベシクタシュ(loan) | スュペル・リグ | 14 | 4 | ||
2019-20 | サラゴサ | セグンダ | 31 | 4 | |
2020-21 | サラゴサ | セグンダ | 0 | 0 | |
PAOK | スーパーリーグ | 5 | 0 | ||
2021-22 | PAOK | スーパーリーグ | 1 | 0 | |
シント=トロイデン | ジュピラー・プロ・リーグ | 6 | 0 | ||
2022-23 | シント=トロイデン | ジュピラー・プロ・リーグ | 12 | 2 | |
2023 | セレッソ大阪 | J1リーグ | 34 | 2 | |
2024 | セレッソ大阪 | J1リーグ |
個人タイトル
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