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落合博満(おちあい ひろみつ、1953年12月9日-)とは、秋田県出身の元プロ野球選手(内野手)である。
現役時代はロッテオリオンズ、中日ドラゴンズ、読売ジャイアンツ、日本ハムファイターズで活躍。2004年から2011年まで中日ドラゴンズの監督を務め、元ゼネラルマネージャー(GM)。
日本プロ野球史上唯一三度の三冠王を達成した大打者であり、また監督としても中日ドラゴンズの黄金時代を築いた名将である。
概要
OB | |
---|---|
落合博満 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 秋田県若美町 |
生年月日 | 1953年12月9日 |
身長 体重 |
178cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 内野手 |
プロ入り | 1978年ドラフト3位 |
引退 | 1998年 |
殿堂入り | 2011年 |
経歴 | |
選手歴
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プロ野球選手テンプレート |
プロ入り前
秋田工業高等学校時代はほとんど練習に参加せず、映画ばかり見ながら、試合のときだけ野球部に加わっていた。
東洋大学でも体育会系の慣習に馴染めずすぐに退部、大学も中退。その後プロボウラーを目指したが、プロテストに向かう途中でスピード違反で捕まり受験料を罰金として取られ、プロテストを受けられなくなり挫折。
ロッテ時代
1978年のドラフト会議で、ロッテオリオンズから3位指名されて入団。本人曰く、「江川問題」で巨人がドラフト会議をボイコットしていなければ指名されていたらしい。
プロ入り時、既に25歳だった。背番号は6で、巨人時代の1994年と日本ハム時代は背番号6を他の選手(それぞれ篠塚和典、田中幸雄)が使用していたため、それぞれ60、3を付けていた時期がある以外は現役のほぼ全期間を通して背番号6を付け続けた。
入団当時の監督であった山内一弘の熱血指導を煙たがったりもしたが、後年自分の打撃が出来上がった時に思い返してみると、山内の指導が生きていたという。このこともあり、山内は落合が敬愛する数少ない野球指導者のうちの一人でもある。
ルーキー時代に自分を酷評した金田正一を嫌っているというとも言われているが、本人はそれを否定している。ただ、「若い選手にそんな言い方をしたら潰れてしまう。」という趣旨の苦言は呈している。
落合の代名詞でもある「神主打法」は、当時ロッテに在籍していた土肥健二捕手の打撃フォームを参考にしたものであった。
2年目の1980年の後期シーズン(当時は前期後期制)より、ようやくレギュラーの座を掴む。落合本人は、稲葉光雄投手(前年まで3年連続2ケタ勝利)を打ち崩した7月26日の阪急戦(札幌円山球場)を「この試合が私の分岐点であり、現役生活の開幕試合」 と述べている。
1981年は、7番セカンドで開幕を迎えた(3番張本、4番リー、5番レオン、6番有藤のど迫力打線)。この年は下位打線を打つことが多かったが、打率.326、本塁打33本、90打点という素晴らしい成績を残して初の首位打者に輝いた。セカンドで初のベストナインにも選出された。
監督が山本一義に交代した1982年は、4番セカンドで開幕を迎えた。シーズン中は3番を打つことが多かったが、打率.325、本塁打32本、99打点の成績を残して史上最年少で初の三冠王に輝き、2年連続のベストナイン(セカンド)と共に最優秀選手にも選出された。契約更改では「ミスターロッテ」と呼ばれた有藤通世を上回る額で判を押し、文字通りのチームの顔となった。
1983年は、解雇されたレオンに代わりファーストにコンバートされた。低迷するチーム成績と呼応するように落合の成績も伸びず、打率こそ前年を上回る.332を残し3年連続の首位打者に輝いたものの、本塁打と打点は振るわなかった。ベストナインにも3年連続で選出(ファーストでは初)。
1984年シーズンより、恩師となる稲尾和久が監督に就任する。有藤の外野コンバートにより落合のポジションもサードとなった。4番打者としてチームを引っ張ったが打率はチームメイトの高沢秀昭を下回る5位(.314)に終わり、連続タイトルがついに途切れてしまった。ただ、ベストナインには4年連続で選出された(サードでは初)。
捲土重来を期する落合は1985年、とてつもない成績を残す。打率.367、本塁打52本、146打点で2度目となる三冠王に輝いた。打率は2008年に内川聖一(横浜)に破られるまでの右打者歴代最高打率記録であり、本塁打は1963年に野村克也(南海)の残した数字と並ぶ当時のパ・リーグタイ記録である。50本塁打は、1977年の王貞治以来の大台到達であった。5年連続のベストナイン(サード)と共に2度目の最優秀選手にも選出された。
1986年も打ちまくり、打率.360、本塁打50本、116打点という数字を残して2年連続3度目の三冠王に輝いた。ベストナイン(サード)にも6年連続で選出。余談だがロッテの選手が次に本塁打王を獲得するのは、2023年のグレゴリー・ポランコ(26本)まで実に37年の間が空くことになる。
しかし、シーズン終了後敬愛する稲尾監督が解任されてしまう。福岡市内で行われた「落合選手を励ます会」で、稲尾から「去年のオフに巨人から落合トレードの話があったが、条件が折り合わずに蹴った」という爆弾発言が飛び出し、落合も翌日開催の日米野球の試合前に「自分を一番高く買ってくれる球団と契約したい」と発言。球団から事情聴取を受ける事態となるが、大台(1億円)を巡る年俸闘争や次期監督の有藤との不仲などの要因が積み重なり、球団は落合の放出に踏み切ることになった。当初は巨人との間で交渉を進めていたが、交換要員が折り合わず牛島和彦の放出を呑んだ中日ドラゴンズとの交渉がまとまった。落合対牛島・上川誠二・平沼定晴・桑田茂という、4対1の超大型トレードとなった。
中日時代
移籍1年目の1987年は、打率こそリーグ3位の.331を残したものの、ナゴヤ球場の広さに苦しみ本塁打は前年からほぼ半減の28本に低迷、ノンタイトルに終わった。6年連続で受賞していたベストナインもついに落選してしまう。
1988年も2年連続のノンタイトル(本塁打と打点はリーグ2位)に終わり、打率は.293に低迷した(リーグ9位)。しかし、チームはセ・リーグ優勝を果たし、落合はシーズン途中でファーストに回っていたため2年ぶりのベストナイン(ファースト)に選出された。
1989年は打率.321、本塁打40本、116打点の好成績を残し、3年ぶりの打点王に輝いた。両リーグ打点王は史上初であった。2年連続のベストナイン(サード)にも選出された。
1990年は数字そのものは前年を下回ったが、本塁打王と打点王の二冠王に輝いた。両リーグ本塁打王も史上初であった。3年連続のベストナイン(ファースト)にも選出された。シーズンオフには年俸を不服として、日本人選手として初めて調停を申請した。
1991年は2年連続の本塁打王に輝いた。移籍後初の首位打者も射程圏内であったが、最後の最後で古田敦也に敗れて2位に終わった。4年連続のベストナイン(ファースト)にも選出された。
1992年は一気に衰えが表出し、全くタイトル争いに絡むことなく終わった。
1993年はさらに衰えが顕著となる。5月7日の対横浜戦で史上初の両リーグ200本塁打を達成。
巨人時代
1993年オフ、導入されたばかりのフリーエージェント制度を行使してFAを宣言し、読売ジャイアンツに移籍した。
移籍した時は既に40歳を超えていながらも、長嶋茂雄政権初期の巨人の主軸打者として活躍し、1995年に通算2000本安打を達成(前述の通り名球会入りは拒否)。
1996年には通算500本塁打、1500打点を達成した。巨人での43歳による4番出場は現在でも最長記録となっている。
日本ハム時代
1996年オフに西武ライオンズからFAで巨人に移籍してきた清原和博の入団に伴い、出番を求めて自由契約となる。ヤクルトスワローズと日本ハムファイターズからオファーが来たが、金額を提示してきた日本ハムに入団する。
1997年は前年に死球を受けた左手の怪我の影響もあり、打率.262、3本塁打、43打点に終わった。
1998年は開幕こそ4番で起用されるも、この年の日本ハムは「ビッグバン打線」の元年ともいえる年であり、シーズンが進むにつれスタメンから漏れ代打起用が増えていった。戦意を失った落合は、10月7日のロッテ戦で5回に代打出場したのを最後に、自由契約という形で現役を引退した。
生涯通算打率.311は日本人右打者の歴代最高打率。鈍足の右打者でありながら圧倒的な打撃成績を残し続けたことで、「プロ野球史上最高の右打者」に挙げられることも多い。
主なポジションは一塁手・三塁手。二塁を守っていたこともある。歴代全プロ野球選手のベストナインを選出する際には、一塁は王貞治、三塁は長嶋茂雄がいるため、本職ではない二塁手として選出される場合が多い。
引退後
解説者を務めた後、2003年オフ、中日の監督に就任。それまでコーチの経験が無かったため本人は断ろうとしたが、妻に押しきられて就任を受諾した。
就任直後「補強を凍結し、現有戦力を10%底上げして日本一になる」という公約を掲げる(この年行った補強は、現役引退のはずがゴタゴタで巨人を退団した川相昌弘と、横浜を退団したドミンゴ・グスマン、広島を戦力外になった筒井正也の獲得のみ)。また「一芸に秀でた選手を使う」という方針も掲げた。それまで3年間一軍登板の無かった川崎憲次郎を開幕投手に抜擢するなど、全ての選手を横一線で競争させることでチームを刺激。セ・リーグを制覇し、同じく1年目の伊東勤率いる西武ライオンズとの日本シリーズに挑むが3勝4敗で敗れた。
2005年は横浜からタイロン・ウッズを獲得して連覇を狙うが、ウッズが乱闘で出場停止中に始まった交流戦で失速。後半に阪神を猛追するも逃げ切られ2位に終わる。
2006年は落合自身「この年が最強」と言い切るチームを作り上げ、阪神の猛追を振り切ってリーグ制覇を果たすも、日本シリーズで日本ハムの勢いの前に屈した。
2007年はシーズンは2位に終わるも、クライマックスシリーズを全勝で勝ち上がり日本シリーズへ。前年敗れた日本ハムにリベンジを果たし、53年ぶりの日本一へ導く。第5戦での山井大介の降板については物議を醸した(後述)。中日の選手・監督として初の正力松太郎賞を受賞。
2008年は波に乗りきれず3位。2009年は巨人に大きく引き離され、3位とも離れた2位独走に終わる。
2010年はほとんど補強を行わず迎え、前半戦は苦戦したが、投手陣が5試合連続完封を達成するなど巨人・阪神が失速した夏場からスパートをかけ、貧打を投手力でカバーし優勝。CS前の「全選手登録抹消」が話題を呼ぶ。CSでも巨人を破り2007年に果たせなかった完全優勝を狙ったが、日本シリーズではロッテと死闘の末2勝4敗1分で敗れた。
2011年は統一球の影響からか、前年以上の貧打に陥り前半戦から大苦戦。8月の時点でも一時は5位に沈むなど、Aクラス入りすら危うい状況であった。しかし9月22日、首位ヤクルトとの直接対決を前に任期満了による落合退任が突然発表されると、チームは逆に奮起し猛烈な追い上げを見せ、ヤクルトを逆転。最大10ゲーム差をひっくり返し、球団史上初の連覇を成し遂げた。チーム打率、チーム総得点とも12球団最下位での優勝はプロ野球史上初の記録。最後の目標であるリーグ優勝からの完全制覇を目指してソフトバンクとの日本シリーズに挑み、圧倒的不利の下馬評の中3勝3敗の逆王手まで持ち込んだが、最終戦に敗れ、悲願の完全制覇はならなかった。
在任期間の成績は優勝→2位→優勝→2位(日本一)→3位→2位→優勝→優勝(連覇)と、歴代の中日監督の中でも最長政権となり、最高の成績を残した。中日球団の70年以上の歴史の中で、優勝9回のうち4回が落合政権である。
8年間全てAクラス入り(しかも3位は一度だけ)、クライマックスシリーズはファイナルステージ皆勤賞。唯一、リーグ優勝からの日本一だけは果たせなかったものの、名将の称号を確かなものにしてグラウンドを去った。
GM時代以降
2013年オフ、中日ドラゴンズ初のゼネラルマネージャーに就任。同時に選手兼任監督に就任した谷繁元信と共に、12年ぶりのBクラスに転落したチームの再建を任されることになった。
2年前に半ば追い出されるように中日を去った落合だが、落合の後を継いだ高木守道監督率いる中日は、2012年こそ2位を確保したものの、2013年は4位に転落。落合解任の理由に観客動員の低下を持ち上げ、首脳陣を中日OBで固めファンサービスの強化を謳ったが、逆にますます観客動員は低迷した。このため落合解任を主導した坂井球団社長一派が力を失い、監督時代から落合の理解者であった白井文吾オーナーの発言力が増したというのが落合GM就任の背景のようである。
しかし、Bクラスから抜け出すことはできず、2016年に至っては20年ぶりの最下位となる結果を喫し、2017年1月の契約完了をもって退任した。
現在は野球解説者として活動する。
2022年3月に、Youtubeに【公式】落合博満のオレ流チャンネルを開設した。
人物・戦術
選手時代は生活の全てを野球に捧げており、その尋常でない練習量に関する逸話には事欠かない。ただ本人は努力を人に見せることを嫌い、カメラの前でそういった姿を見せることはほとんど無かった。また前述の通り、プロとして年俸での評価を何よりも重視した姿勢を見せ、何かと物議を醸した。
また、先述の通りプロ入り時から一時期の例外を除いて背番号6をつけ続けていた。監督期も背番号は66、和歌山県太地町には落合の記念館兼別荘の形が6角形、フレームに六と入った眼鏡など、6へのこだわりは強い。
監督としては「勝利こそ最大のファンサービス」という立場をとり、勝てる試合は確実に勝ちにいく采配に徹した。また選手の情報(特に故障など)を公開しないなど徹底した情報管理の体制を取った。そのため、チーム状態が悪いように見えても、シーズンが進んでいくと気が付けば上位にいるということが多かった(2010年や2011年はまさにその典型である)。ただその分、明らかな捨て試合を作ることもあり、プロ野球の「興業」としての側面を軽視しすぎである、という批判を受けることも多かった。
2007年の日本シリーズにおいて、日本一のかかった第5戦、8回まで無安打無四球、パーフェクトを続けていた山井大介を降板させ、守護神・岩瀬仁紀を送り出した采配は各方面で物議を醸した。岩瀬は9回を3人で抑え史上初の継投による完全試合を達成(ただし参考記録である)。この采配は「興業」よりも「勝利」を優先する落合采配の象徴ともいえる。
戦術としては、就任当初はタイロン・ウッズ、福留孝介などの強打者を擁し、その打撃力と川上憲伸、山本昌、岩瀬仁紀らの強力投手陣を生かして盤石な試合運びを行う、といったものであったが、その後川上や福留ら主力が相次いでメジャーなどに移籍すると、他チームを戦力外となった選手(中村紀洋、河原純一ら)の積極的な登用と投手コーチの森繁和による投手陣整備に努め、その投手力を有効に活用し少ない失点で逃げ切るという戦法に変貌していった。さらに、他チームの意表を突く戦術も多用し(所謂オレ流。主な例として2004年の開幕投手に川崎憲次郎を起用)、中日の黄金期を現出した。一方、在任中に生え抜きの若手打者はあまり育たず(一応、落合在任中にレギュラーに定着した生え抜き野手には森野将彦、大島洋平がいる)、荒木雅博、井端弘和、和田一浩といったベテランがレギュラーを張り続けたため、打撃陣の成績は主力の高齢化と相まって徐々に降下していった。このため、チームは勝てたが次代への野手育成には失敗したという批判もよく言われる。
ボヤキ節で有名な野村克也とは違い、監督時代は滅多に選手を責めることはなかった。ただし褒めるわけでもなく、基本的には寡黙。負け試合では試合後にコメントを残さないことも多かった。が、外野守備要員である英智が凡フライを落球した際に「あいつが捕れないなら、誰も捕れないさ」と発言したエピソードや、2006年にタイロン・ウッズが優勝を決める満塁弾を放ったときの号泣する姿など、ときおり見せる選手への信頼や愛情に溢れた言動から、ツンデレ監督と呼ばれた。
裏方やマスコットにも気を配る姿がたびたび目撃されている。ドアラとも仲良しで、よくじゃれ合っている。
無類のガンダム好きとしても有名。00も毎週楽しみに見ていた。息子の福嗣に影響され、ガンダムに限らずアニメ全般、深夜アニメまで嗜んでいる。家族揃って『CLANNAD』を視聴し中村悠一のファンになったとか。
自己流を貫き派閥的なものを嫌う性格や、その言動から、球界では何かと毀誉褒貶が激しい。中日監督時代も球団上層部からはほとんど目の敵にされており、白井文吾オーナーひとりが絶大な信頼を寄せ庇っていたような状況であった[1]。2011年の解任劇も、そのあたりの事情が大きい。
野球殿堂の投票では2年続けて1票足りず落選していたが、2011年にようやく殿堂入りを果たした。
家族
どちらも個性的な人物で、度々ネタにされる。
この二人について金村義明は「福嗣と信子何とかしてほしい」とうっかり漏らしている。
特に一人息子の福嗣は自由奔放すぎるキャラクターから生きる伝説とまで呼ばれた。
くわしく知りたい人はこちらを参照の事。
ちなみに落合福嗣一家とは現在も仲睦まじく一緒に暮らしており、たまに福嗣が博満と孫たちとの交流の様子をTwitterにアップしている。
成績
通算打撃成績
通算:20年 | 試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 2236 | 9257 | 7627 | 1335 | 2371 | 371 | 15 | 510 | 1564 | 65 | 4 | 88 | 1475 | 63 | 1135 | 236 | .311 | .422 |
通算監督成績
通算:8年 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
NPB | 1150 | 629 | 491 | 30 | .562 | 日本一1回、優勝4回、Aクラス8回、Bクラス0回 |
タイトル・表彰・その他
タイトル | ||
---|---|---|
首位打者 | 5回 | 1981年-1983年、1985年、1986年 |
最多本塁打 | 5回 | 1982年、1985年、1986年、1990年、1991年 |
最多打点 | 5回 | 1982年、1985年、1986年、1989年、1990年 |
最高出塁率 | 7回 | 1982年、1985年-1988年、1990年、1991年 |
表彰 | ||
ベストナイン | 10回 | 1981年-1983年、1984年-1986年、1988年、1989年 |
MVP | 2回 | 1982年、1985年 |
オールスターゲームMVP | 2回 | 1983年第3戦、1995年第1戦 |
月間MVP | 6回 | 1985年9月、1986年5月、1988年8月、1989年8月、1990年5月、1991年8月 |
最優秀監督賞 | 1回 | 2011年 |
その他 | ||
オールスターゲーム出場 | 15回 | 1981年-1991年、1993年、1995年-1997年 |
三冠王 | 3回 | 1982年、1985年、1986年 |
関連動画
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関連項目
外部リンク
脚注
- *これに関連し「『燃えよドラゴンズ』の作詞・作曲者である山本正之が本来その年の監督名が入る『○○監督の胴上げだ』の部分を落合監督時代『オレ竜監督の胴上げだ』にしていたのは、山本が反落合派だからである」という説が囁かれている。実際にはこの部分は球団とのやり取りで決まったと山本自身が発言しており、2006年優勝記念盤では一度だけ「落合監督」という歌詞になったことがある。こちらの記事も参照のこと。
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