山田潔単語

ヤマダキヨシ
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山田潔やまだ きよし)とは、元プロ野球選手である。故人。

概要

1921年1月16日生まれ。愛媛県松山市出身。

松山商業学校に進学。在学中4度の甲子園大会出場を経験し、1935年夏の甲子園大会では全制覇を果たしている。

1938年松山商業の監督の勧めもあり、イーグルスに入団。

初年度の1938年シーズンからショートレギュラーに定着し、高い守備や走武器に活躍。1942年には打率こそ.162と低打率ながらリーグ最多の95四球を選び、出塁率は.359記録している。

1942年第二次世界大戦化に伴い応召。

復員後野球界からは離れていたが、1946年人手不足に陥っていた東京巨人軍千葉茂から勧誘され同球団に入団、球界に復帰した。

巨人でもショートレギュラーとして活躍し、に8番打者を務めていた。8月中部日本戦では8打席で3打数ノーヒットながら、4四球を含む5度出塁というしい記録を残している。

1947年、新たに設立されたリーグに参戦。大塚アスレチックスに在籍し、同年のシーズンには最優秀選手にも選ばれた。

その後リーグが解散したため、1948年高校先輩にあたる藤本英雄監督に就任した金星スターズに入団。

金星でもショートレギュラーとして活躍し、1949年には89試合の出場ながら打率.269とキャリアハイの成績を残している。

1955年頃から持ち味の守備に衰えが見られ始め、1957年出場しに終わり、同年限りで現役を引退

現役引退後は大毎オリオンズ大洋ホエールズ広島東洋カープなどでコーチ二軍監督を努めた。

1984年6月15日死去。享年63歳。

人物・エピソード

千葉茂から「エラーをしているところを見たことがない」と評されるほどの守備の名手。キャッチングに長け、さはないが堅実な守備でチームに貢献していた。

一方で打撃はお世辞にも上手いとは言えずキャリアの大半が打率1割台であり、1938年シーズン記録した打率.107NPB歴代最低記録、通算打率は.198と打撃を苦手としていた。ただ、選球眼は優れていたようであり、739もの四球を選んでいる。

コーチ時代は選手たちから「お父さん」と呼ばれしまれていたようである。

セイバーメトリクスの観点から見ると、異端とも言えるスコア記録している選手でもある。

通算成績

打撃成績

通算:15年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 1334 4848 3980 444 789 8 151 110 107 6 739 16 365 56 .198 .326

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