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第二次世界大戦とは、1939年~1945年に勃発した人類史上二度目の世界戦争である。
ここでは1939年のドイツ軍によるポーランド侵攻から1945年のポツダム宣言受諾までを簡潔に記述する。
| 概要 ・前大戦との比較 ・参戦国 ・ナチスドイツ ・大日本帝國 ・イタリア王国 開戦 ・ポーランド侵攻 ・冬戦争 ・真珠湾攻撃 終結 ・イタリア軍降伏 ・ドイツ軍降伏 ・日本軍降伏 戦争が残した爪あと 関連動画 関連商品 関連項目 |
概要
- 前 大 戦 と の 比 較 -
この戦争は、連合国(アメリカ合衆国、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国、イギリス、フランス)と
枢軸国(日本、ドイツ、イタリア)間の戦争で、両陣営合計で全49ヶ国が参戦、動員兵力数が1億1000万人と 人類史上最大の戦争となった。
第一次世界大戦(1914~1918)との大きな相違点は、
- 原子爆弾を含む戦略爆撃(恐怖爆撃)の大規模な使用
- 地上兵力の自動車化・機械化および戦車の発達
- 宣伝・心理戦、民間人の動員を伴う総力戦
- 海上戦力の主力が戦艦から空母を始め航空戦力に移行
- 原子力・ジェット・コンピュータの実用化
- イデオロギーの衝突
- 戦闘地域の全地球的な拡大
以上の点から、おそらく史上最多の非戦闘員(民間人)の死者を出した戦争でもある。
- 参 戦 国 -
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V S |
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| ※都合上、国旗・国名は簡潔な物を使用しています。 | ||||||||||||||||||||||||||||||||
ヴェルサイユ条約や世界恐慌の危機から
広大な植民地を持たず、資本主義の基盤が脆弱な国家(ナチス・ドイツ、イタリア王国、大日本帝國)
が軍事的圧力を強め、国際連盟を脱退する。
その後「日独伊三国軍事同盟」が結ばれ、後の「枢軸国」の中心となり、世界を二つに分ける。
枢軸国の名称は、ムッソリーニがローマとベルリンを結ぶ垂直線を枢軸として国際関係は転回すると演説したことに由来する。
ナチスドイツ
ヴェルサイユ体制やマルクス主義の打破、反ユダヤ主義を掲げる国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス)が
1932年に共産党の進出を恐れる保守派の支持を得て、総選挙で第1党に躍進する。
その後1933年に、ナチスの党首・指導者であるアドルフ・ヒトラーが首相に就任し、国際連盟を脱退。
翌年には総統となり、ナチスの独裁を敷いた後、 大日本帝國と「日独防共協定」を結び、
その後1940年にイタリア王国、大日本帝國と「日独伊三国軍事同盟」を結んだ。
大日本帝國
日中戦争の進展を狙い、ナチス・ドイツ、イタリア王国と「日独伊三国軍事同盟」を結ぶ。
しかし、アメリカや英国などから石油の貿易制限(ABCD包囲網)が掛けられる。
自給自足体制を敷くため早期開戦を余儀なくされた日本は、 東南アジアに軍を進めて資源を手に入れると同時に、アメリカやイギリスの中国への支援ルートを遮断するため 東南アジアへと侵出する。
イタリア王国
1928年に、ベニート・ムッソリーニを議長とする「ファシズム大評議会(ファシスト党)」が
国政の最高機関となった事で、ファシスト党の独裁体制を確立。反対勢力を排除していった。
更に1937年に国際連盟を脱退。 1939年に「独伊軍事同盟」を結び、翌年にイギリス、フランスへ宣戦布告。
また、自国の発言力を高めるため大日本帝國・ナチスドイツと「日独伊三国軍事同盟」を締結する。
開戦期(1939年)
ポーランド侵攻
戦地に赴くドイツ軍 |
1938年、ナチス・ドイツはオーストリアを併合し、その後チェコスロバキアの解体および併合と保護国化を強行した。
ドイツ民族の地域を併合していく先は最終的に東プロイセンとの間にあり、ダンチヒを含むポーラ ンドに向けられることとなる。
ドイツはダンヒチの割譲を要求するが、英仏から独立保障を受けていたポーランドはこれを拒否した。
そして1939年9月1日に、ナチス・ドイツと同盟国のスロバキアがポーランドに侵攻したことにより、米英はドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦が始まる。
数で勝るドイツ軍に対し、ポーランド軍はソ連との国境まで後退を余儀なくされる。
これに対しソ連は事前の秘密協定に基づきポーランドを攻撃。
予想外の攻撃にポーランド軍は総崩れし、中立国のルーマニアへ脱出。
よってナチス・ドイツは、僅か1ヶ月後の10月6日にポーランド全域の占領に成功した。
冬戦争
ソ連、フィンランドへ侵攻 |
一方、ソ連軍は多数の戦車と航空機を投入し、フィンランド領内へ侵攻を開始した。 対するフィンランド軍は、兵装は旧式のままで多くの人々からフィンランドが落ちるのは時間の問題だと 考えられていた。 しかし、独立の為かフィンランド軍兵士の士気が非常に高く、火炎瓶やカモフラージュを用いた狙撃に ソ連軍は多大な被害を負った。 また、豪雪が冬季戦闘の準備を十分にしていなかったソ連軍を容赦なく襲った。 それでもなおソ連軍の物量に抗することはできず、ついにフィンランドは肥沃な都市部であったカレリア地帯を割譲すると言う屈辱的な講話を余儀なくされる。後に彼らはヒトラーと手を結んで領土奪回を帰するが、21世紀になっても果たせてはいない。なお、冬戦争によりソ連は国際連盟を除名された。日本、ドイツ、イタリアに続き、ソ連が国際連盟から脱退・除名となり、相次いで大国が抜けたことで、国際連盟はますます形骸化した。
枢軸国の攻勢期(1940年~1941年上半期)
ファニーウォーからフランス降伏まで
1939年、ドイツのポーランド侵攻を機にイギリス・フランスはドイツに宣戦布告した。
しかし、独仏国境があるはずの西部戦線では大規模な戦闘はほとんど行われず、ファニーウォー(奇妙な戦争)と呼ばれる膠着状態が続いた。
とはいえ、停滞気味な陸上に比べ、海上ではラプラタ沖海戦のように活発な戦闘行為が行われていた。
パリに入城するドイツ軍 |
1940年になるとドイツ軍は活発に侵攻作戦を展開。
4月に中立国であったデンマークとノルウェーに侵攻。(ヴェーザー演習作戦)
5月にはベルギー・オランダ・ルクセンブルグ(ベネルクス諸国)に侵攻。(西方電撃戦)
6月、マジノ線を迂回し、電撃戦を展開したドイツ軍はパリに入城し、フランス軍は降伏。北部をドイツが占領し、南部および海外植民地はペタン元帥率いるヴィシー政権が樹立・統治することになった。
しかし、ロンドンに亡命したシャルル・ド・ゴールは「自由フランス国民委員会」を設立。ラジオでフランスにいるレジスタンス達に抗戦を呼びかけた。
これに前後してドイツ勝利後の発言力低下の懸念と領土獲得のためにヘタリアイタリアが参戦した。
ゼーレヴェ作戦とバトル・オブ・ブリテン
ヨーロッパから連合国を駆逐したドイツ軍はイギリス本土の制圧に乗り出す。このイギリス本土上陸作戦をゼーレヴェ作戦と呼ぶ。なお、「ゼーレヴェ」とはドイツ語でアシカを意味する。
1940年7月16日付の総統命令でアドルフ・ヒトラーは作戦実施の最低条件を以下のように提示した。
このように、イギリスに上陸し、ロンドンを制圧するためにはドーバー海峡およびブリテン島南部の制空権・制海権が必要だった。
一方イギリスは連敗の責任を取って辞任したチェンバレンの後任としてチャーチルが首相となった。
フランスの大西洋沿岸に追い詰められた際にダイナモ作戦を発動、34万人の兵士を救出したことで士気は高く、徹底抗戦の構えを崩さなかった。
バトル・オブ・ブリテン |
ドイツがイギリス上陸を決め込むと制空権確保のための独英航空戦が本格化した。これをバトル・オブ・ブリテンと呼ぶ。
当初はドイツ空軍が優勢だったが、イギリスの物量と最新鋭レーダー網、イギリス人の忍耐強さにより、戦況は徐々にイギリスに傾いていく。
これに加え、バトル・オブ・ブリテン後半に基地よりも戦略的価値のない都市の無差別爆撃を行うようになったというドイツ空軍の戦略が失敗したことも大きな原因である。
特にドイツ軍によるロンドン大空襲はイギリス人の戦意を挫くどころか、逆に彼らを一致団結させた。
こうしてドイツ空軍は制空権を獲得できなかった。
また、海軍は戦力にもともと大きな差があるだけでなく、デンマーク・ノルウェー侵攻の際に多数の駆逐艦を失ったことで制海権の確保、イギリス海軍の拘束という上陸作戦実施の条件を何一つ果たせなかった。
制空権・制海権を確保できず、また翌年には独ソ戦が開始されたことにより、ゼーレヴェ作戦は無期限延期(事実上の断念)となった。
戦線の拡大期(1941年下半期)
バルバロッサ作戦からの独ソ戦開始
1941年に入るとドイツ軍はバルカン半島の国々を次々と占領し、ソ連と国境を接し、関係が悪化する。
短期決戦どころかイギリスとの戦闘が泥沼化したドイツはソ連を屈服させれば対英交渉も有利に持ち込めると考えるようになった。何より東方への生存圏拡大を主張してきたヒトラーにとってソ連は倒さなければならない宿敵であった。
6月22日、ドイツは不可侵条約を破棄し、バルバロッサ作戦を発動、独ソ戦が始まった。
当初ソ連軍(赤軍)はスターリンが1930年代に行った大粛清によって弱体化していた上に、ドイツ軍の侵攻に準備していなかった。むしろ、精鋭部隊は、満州国とシベリアの国境線に配置していたことから、日本との開戦を想定していた模様。これは、日ソ中立条約は結んでいたものの、ノモンハン事件など、日ソ関係は消して良好とはいえなかったからである。
そのためにドイツ軍は快進撃を続け、モスクワ郊外まで迫った。(ただし近年、赤軍がドイツへの先制攻撃または限定的な予防戦争を含めた西方への進出を企図していたという見解も出されている)
しかし、例年よりも早く冬将軍が到来し、ソ連軍の焦土作戦により補給が厳しくなったドイツ軍は後退を始めた。
日本の真珠湾攻撃とアメリカの参戦
パールハーバー |
1941年10月に東條内閣が成立。 その2ヶ月後、1941年12月に大本営が連合艦隊に真珠湾攻撃準備を命令する。 そして12月8日、日本海軍機動部隊から出撃した航空部隊が、ハワイオアフ島の真珠湾に奇襲を掛ける。 真珠湾攻撃で米太平洋艦隊は戦艦5隻が沈没し、米国民間人68人と、軍関係者2336名が死亡した。 12月7日、「宣戦布告なしに奇襲するのは卑怯だ」という世論を後ろ盾に、アメリカ大統領ルーズベルトが日本に対し宣戦布告する。
これにより、太平洋戦争(大東亜戦争)が始まった。また、この数日後、独伊は米国に宣戦布告し、戦線は世界を1周した。
ちなみに、日本はドイツの快進撃に影響されて宣戦布告をしたが、奇しくも12月といえば、ドイツが戦線を後退し始めた頃である。
戦局の転換期(1942年)
それまで破竹の勢いだった日独両国は、1942年の夏ごろから徐々に戦線を後退させるようになった。
ドイツ
「土台が腐った納屋は入り口を一蹴りするだけで倒壊する」とヒトラーが語ったという逸話があるように、ドイツ(というかヒトラー)はソ連も短期決戦で勝利できると想定していたが、前述の通り、モスクワを占領できず、シベリアに配置していた大軍がモスクワへ帰還したため、短期決戦を諦め、持久戦へと切り替えた。しかし、もともと「持たざる国」のドイツにとって、持久戦はジリ貧を招く以外の何物でもなかった。
1942年、主に南方のカフカース油田を占拠するために、ドイツ軍は「ブラウ作戦」を発動した。
当初はスターリングラードは目標ではなかったが、ヒトラーの一言で、作戦は変更された。
同年6月28日にかの有名な「スターリングラード攻防戦」が開始された。約8ヶ月続いたこの戦いでは、国家元首の名前が冠されるこの地での赤軍の奮闘っぷりが、ドイツ軍の予想を大いに裏切り、建物1つを争うほどの激戦区となった。
当初はドイツ軍がスターリングラードを包囲していたが、後に逆包囲された。ヒトラーの絶対死守命令により降伏を許されなかったドイツ軍はこの戦いで多くの戦死者を出し、この頃からドイツの敗戦は徐々に色濃くなってきた。
日本
日本は、英領シンガポールや米国の植民地であったフィリピンを占領するなど、まさに連戦連勝であり、東南アジアの占領地を増やし、戦線を拡大させた。
しかし、4月に米国軍から東京が空襲を受けたことは、軍部に衝撃を与えた。これを受けて、米海軍機動部隊を叩き、太平洋方面へ戦線を拡げるために、ミッドウェー島攻略を決める。
1942年6月、ミッドウェー沖に派遣された日本の機動部隊は米国の機動部隊に大敗を喫した(ミッドウェー海戦)。この結果、日本は主力空母4席を失ったが、何より熟練搭乗員を多く失うこととなり、量はともかく質的な意味で機動部隊は失った戦力を回復することはできなかった。
当初優位に立っていた日本が虎の子の空母を熟練搭乗員を多く失った一方で、物量の面で圧倒的に優位だった米国は、この戦い以後も空母をどんどん投入し、次第に戦局の主導権を握ることとなる。そのため、この海戦が太平洋戦争でのターニングポイントと呼ばれる。
なお、この戦いの結果は国民には日本海軍の勝利と伝えられた。この頃から国民に対して嘘の戦果を伝える状態が続くようになる。
主導権を握り始めた米軍は、日本軍の飛行場があったガダルカナル島を制圧した。以後、この島を巡って、日本軍と米軍の間でガダルカナル島の戦いや第1次・第2次ソロモン海戦が起き、日本軍は戦力を大きく消耗し、戦線の後退を始めた。
終戦
イタリア軍降伏
イタリア軍降伏 |
ヒトラー政権の崩壊 |
投下された原爆 |
1943年7月25日、議会と国王によるクーデターにより、ムッソリーニが失脚。
7月25日、イタリア・バドリオ政権は連合国に無条件降伏する。
ムッソリーニは一度はドイツ軍に救出され北イタリアに傀儡政権を樹立するが、1945年4月、戦局の悪化に伴い中立国のスイスに向かう途中、コモ湖畔の小村でパルチザンに発見され、同月28日に銃殺される。
死体はミラノの広場にさらされた。
ドイツ軍降伏
1945年4月30日、首都ベルリンへのソ連軍侵攻を目前にして、前日結婚した愛人エヴァ・ブラウンと共に自決。
同年5月7日、ベルリンはソ連軍に占領されて後継指導者のデーニッツ率いるドイツ軍は無条件降伏。ここにナチ党・ヒトラー政権は消滅したのであった。
日本軍降伏
イタリア、ドイツの降伏により、日本に降伏を迫った「ポツダム宣言」が連合国側から発せられる。 ポツダム宣言には「国体の護持」(天皇制の維持)が明記されていなかったため、日本政府および軍の首脳の間で、宣言を受諾すべきか否かにつきかの議論が20日間繰り返され、その間も、米軍による空襲は続けられた。また、この間日本政府は中立であったソ連を通じた和平工作を模索していた。
7月28日、日本政府は重大な価値がある物と認めず、ポツダム宣言を「黙殺」すると発表した。
その後、アメリカ合衆国が8月6日に広島に ついで8月9日には長崎に原子爆弾を投下した。 これらは世界で初の、そして現時点では最後の実戦における核攻撃である。
また、8月9日にはソビエト連邦が日ソ中立条約を一方的に破棄し宣戦を布告した。
8月9日、御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、8月10日に連合国に打電。
8月15日に、昭和天皇による「玉音放送」が流され、9月2日に降伏文書に調印した。
ここに人類史上最大の戦争は幕を閉じた。
戦争が残した爪あと
・死者 73,884人
・負傷者 74,909人
各国の戦争による犠牲者数
具体的な犠牲者数は現在によってもバラバラなのでおよその数値だと思ってください。
- 第2次世界大戦各国戦没者数

- 厚生労働省資料(東京新聞2006年8月15日付)
- 第二次世界大戦等の戦争犠牲者数
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関連項目
http://dic.nicomoba.jp/k/a/%E7%AC%AC%E4%BA%8C%E6%AC%A1%E4%B8%96%E7%95%8C%E5%A4%A7%E6%88%A6


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初版作成日: 08/11/23 02:58 ◆ 最終更新日: 12/05/13 01:44
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