大野久 単語

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大野久(おおの ひさし)とは、元プロ野球選手である。

概要

1960年8月15日生まれ。茨城県取手市出身。

愛知高等学校に進学。2年時には外野のレギュラーとして夏の甲子園大会に出場。3年時にはエースとして2年連続で夏の甲子園大会に出場している。

卒業後、東洋大学へ進学。1学年下には仁村徹がいた。4年時にはリーグ戦で優勝を、全日大学野球選手権大会では準優勝を経験。ベストナインに2度選ばれている。

大学卒業後、日産自動車に入社。1984年都市対抗野球大会では、本塁打を放つなど活躍を見せ、日本代表にも選ばれている。

1984年ドラフト会議にて、阪神タイガースより5位名を受け入団。同期入団には嶋田嶋田兄弟や、和田豊がいた。

1985年、一軍デビューを果たし14試合に出場。翌1986年には24試合に出場と徐々に出場機会を増やしていく。

1987年、一軍に定着。82試合に出場。

1988年北村照文に替わり、1番センターとしてレギュラーに定着。全試合(130試合)に出場し、打率.254、7本塁打、42打点、24盗塁記録。一方で103三振を喫するなど、打撃面で粗さも見られた。

1989年セ・リーグ7位となる打率.303記録し、22盗塁、16犠打打線を引っった。

1990年レギュラーとして起用されたが、打率は.247と下降。同年オフ福岡ダイエーホークスとの4対5という大トレードでダイエーへ移籍。阪神からは大野の他、池田親興渡真利克則らが、ダイエーからは藤本修二西川佳明らが移籍した。

1991年チームチャンスメーカーとして活躍を見せ、打率.289、1本塁打、25打点、42盗塁、29打点記録し、初の個人タイトルとなる盗塁王を獲得。

以降は打撃不振に陥り、控えに回ることになった。

1994年、一軍出場なしに終わり、オフ自由契約となる。その後、中日ドラゴンズへ移籍。

中日では28試合に出場したが、1シーズン限りで現役を引退

引退後、中日で2シーズン二軍守備走塁コーチを務めた。

中日退団後、教職取得をし、中央学院大学入学2003年からは東洋大学附属高等学校監督を務めた。

その後はオーストラリアアメリカ独立リーグ導者として活動。2016年には侍ジャパンU-15コーチに就任。

しかし、2019年にはの密輸に関与してしまい、罰刑を受けている。

現在少年野球中学野球導者として活動。アスリートのセカンドキャリア形成活動にも取り組んでいる。

人物・エピソード

持ち前の俊足とシュアな打撃で活躍したスプリンター

1988年には、村山実監督から中野佐資和田豊との若手トリオとして、「少年隊」と名付けられ、売り出された。

ダイエー時代に使用していたスパイクは、現在野球殿堂博物館に収蔵されている。

通算成績

打撃成績

通算:10年 試合 打席 打数 得点 安打 本塁打 打点 盗塁 犠打 犠飛 四球 死球 三振 併殺打 打率 出塁率
NPB 833 2589 2257 307 584 23 160 138 98 12 204 18 424 25 .259 .347

獲得タイトル・表彰

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