OB | |
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辻佳紀 | |
基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 福井県敦賀市 |
生年月日 | 1940年12月20日 |
没年月日 | 1989年4月25日 |
身長 体重 |
180cm 80kg |
選手情報 | |
投球・打撃 | 右投右打 |
守備位置 | 捕手 |
プロ入り | 1963年 |
引退 | 1975年 |
経歴 | |
選手歴 監督・コーチ歴 | |
プロ野球選手テンプレート |
1940年12月20日生まれ。福井県敦賀市出身。魚屋の息子として育ち、中学時代までは投手としてプレーしていた。
敦賀高等学校へ進学。入学後に捕手に転向。2年時にレギュラーに定着し、甲子園大会には2度出場している。
卒業後、明治大学へ進学。同期には一枝修平らがいた。3年春のリーグ戦優勝に貢献。4年時に主将を務めたが、島岡吉郎監督が総監督になったにもかかわらず指揮権を新監督に譲らなかったことに異を唱え島岡を説得したが、これが原因となり主将の座を剥奪された上、干される事となってしまった。
4年時にほとんど試合に出場できなかったことから就職を決め、内定ももらっていたのだが、3年時の活躍を評価していた阪神タイガースから誘われ、1963年に同球団に入団。
初年度は38試合に出場。特にナックルボールを持ち球としてたジーン・バッキーとバッテリーを組んでの出場が多かった。
1964年、開幕戦からマスクを被り、93試合に出場。阪神2年ぶりの優勝にも貢献。日本シリーズでは皆川睦雄から本塁打も放っている。
1965年、113試合に出場し、オールスターゲームに初出場。オールスターゲームには同年から1967年まで3年連続で出場。
以降も阪神の正捕手として活躍し、1966年には自身初の二桁本塁打となる12本塁打を放つと、1967年には11本塁打、1968年には10本塁打を放ち3年連続で二桁本塁打をマーク。また、1966年には日米野球にも出場している。
1969年、大型ルーキーの田淵幸一の入団により正捕手の座を奪われ、出場機会が激減。
1970年、本人の意向もあり近鉄バファローズへ移籍。近鉄では正捕手として活躍し、初年度は打率.195と低打率ながら18本塁打、49打点とキャリアハイの成績を残し、3年ぶりにオールスターゲームにも出場。1971年も108試合に出場したが、以降は故障に悩まされ、加えて梨田昌崇・有田修三らが台頭したこともあり出場機会が徐々に減少。
1974年、大洋ホエールズへ移籍。大洋では伊藤勲、福嶋久晃と併用され56試合に出場。
1975年、辻恭彦とのトレードで阪神に復帰。バッテリーコーチとの兼任選手としての登録となり、三塁ベースコーチも努めたが、選手としては1試合の出場にとどまり、同年限りで現役を引退。
引退後、そのまま阪神に残ったが、田淵幸一の起用や指導について吉田義男監督と対立。1976年限りで退団。
阪神退団後は解説者として活動したほか、タレントとしても活動。「UFOセブン大冒険」の「パンツマン」というキャラクターを務めたこともあった。
確実性に欠けるが一発長打のある打撃と、キャッチング技術の高さで活躍した大型捕手。肩はあまり強くはなかったが、正確なスローイングで盗塁を刺すことも多かった。
入団時、同じポジションに同姓の辻恭彦がいたためトレードマークであった口ひげ姿から「ヒゲ辻」と呼ばれ親しまれた。なお、辻恭彦とは阪神以外でも縁があり、大洋から移籍する際のトレード相手にもなった。
トレードマークのヒゲを生やすようになったのは日米野球で対戦した鼻髭を生やしていた相手選手プレーに感銘を受けたため。日米野球後に球団社長に頼み込み、当時はタブーとされていたヒゲを容認させた。NPBで初めてヒゲを生やした日本人プロ野球選手と言われている。
通算:13年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
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NPB | 960 | 2542 | 2340 | 183 | 486 | 87 | 231 | 20 | 36 | 9 | 130 | 27 | 483 | 54 | .208 | .257 |
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最終更新:2024/05/01(水) 01:00
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