ケイティーズ(Katies)とは、1981年アイルランド生まれ・イギリス調教の元競走馬・繁殖牝馬である。
競走馬として愛1000ギニーを勝ったほか、繁殖牝馬として日本で大きく子孫を発展させた名牝。ヒシアマゾン、アドマイヤムーン、スリープレスナイト、エフフォーリアといったGI馬の血統表に名前が出てくる。
父Nonoalco、母Mortefontaine、母父Policという血統。
1981年4月22日にアイルランドの牧場で生まれた。「R. More O'Ferrallの牧場で生まれた」という資料と、「Mareco Ltd.で生まれた」という資料がある[1]。イヤリングセール(1歳セリ)で1万1000ギニー[2]でJack Fisherという人物に購入され、イギリスのミック・ライアン調教師に預けられた。
1万1000ギニーは1万1550ポンドである。1982年の為替が1ポンド435円程度なので(資料)、約502万円で購入されたことになる。競走馬ならわりと安めのお値段といったところだろうか。
1983年になって2歳になり、その9月末にニューマーケット競馬場の直線6ハロン戦でデビューした。29頭立ての2歳牝馬未勝利戦で、7着ながら勝ち馬との差が3馬身であり、内容が良かった。2戦目はリングフィールド競馬場で20頭立ての7.6ハロンのレースに出て初勝利を挙げた。余勢を駆って1週間後のニューベリー競馬場で7.3ハロンのステークス競走に出たが、14頭立て11着に敗れた。
1984年になって3歳になり、4月のケンプトン競馬場でのステークス競走で着外に敗れた。しかし次戦のレスター競馬場でのコーンSを勝ったので、エプソム競馬場の7.5ハロンで行われるプリンセスエリザベスS(GII)に格上挑戦することになり、ここで3着に入った。
ノングレードのレースしか勝っていないというのに、T.P.Ramsdenという人物がケイティーズの素質に惚れ込み、50万ポンドで購入した。1984年の為替で計算すると約1億5835万円である。502万円が31倍になってしまった。
しかしまあ、日本でたとえると「未勝利戦と500万下条件戦を勝っただけの2勝馬が桜花賞トライアルのチューリップ賞で3着になったら、横から出てきた紳士が大金を払ってその馬を購入した」というようなものである。
ちなみに、ケイティーズを買ったT.P.Ramsdenという人物は、テリー・ラムズデンである。1952年生まれで、株式で富を築いて競走馬を買っていた。1984年にケイティーズを購入したときはまだ32歳の新進気鋭ビジネスマンだった。1987年のアメリカ合衆国の株暴落と日本のバブル崩壊で富を失い、しまいには刑務所送りになってしまった。
さらには次のような資料もある。
ケイティーズにはもう一つエピソードがある。この馬の以前のオーナーは、日本の株式で大儲けをして証券会社を設立した立身出世の英国人であったという。その人物が株の暴落により身を持ち崩し、ついにはこのケイティーズを手放すことになった。つまり、日本の株で儲け、その金で買ったケイティーズを日本人に売ることになったのだという。なんとも皮肉な話ではないか。
プリンセスエリザベスSから1ヶ月たち、1984年5月26日にカラ競馬場で行われるアイルランド1000ギニー(GI・1マイル)に出走することになった。23頭立てで10番人気、単勝21倍という何とも言えない人気となったが、人気薄で気楽な立場だったのがよかったのか、鞍上のフィリップ・ロビンソン騎手は積極策に出た。青い帽子・青と白の勝負服の騎手を乗せ、真っ黒い馬体でシャドーロールを付けず額に小さな白い流星があるゼッケン7番のケイティーズは、最初のコーナーを回るときに3番手あたりの外側へ出た。そのまま先行し、残り3ハロンでもまだ3番手あたりで、そこから仕掛けた。残り2ハロンの時点で先頭に立ち、残り1ハロンの時点でAliannaやSo Fineが追い込んできたがクビ差で下して勝利した(結果
)(動画1
、動画2
、動画3
)。
このレースの大本命はプール・デッセ・デ・プーリッシュ(フランス1000ギニー)を勝ったMasarikaだったが、あっけなく6着に敗北している。
次のレースは6月20日にアスコット競馬場で行われるコロネーションS(GII・1マイル)に決まった。このレースは当時GIIの格付けながら、ヨーロッパ各地の1000ギニー(欧州版の桜花賞)を制した牝馬マイラーたちが結集する3歳牝馬マイラー最強決定戦の地位を既に確立していた。
このレースでは本馬と同じくフィリップ・ロビンソン騎手が騎乗して英1000ギニーを勝利した*ペブルスとの対戦となった。*ペブルスは後に1985年のブリーダーズカップ・ターフを優勝するほどの馬で、英米で牡馬混合GIを3勝したことから、1980年代の英国を代表する名牝であると評価されている。しかし、ロビンソン騎手は*ペブルスではなくケイティーズを選択した。名手レスター・ピゴット騎手に乗り替わった*ペブルスを徹底マークして中団でレースを進めると、ゴール前で相手をかわして突き放し、1馬身半差を付けて勝利を収めた(動画1
、動画2
)。
次のレースは7月のチャイルドS(GIII・1マイル)だった。英1000ギニーの2着馬Meis El-Reemから5馬身差離れた2着だった。同じ3歳牝馬だというのに斤量差が6ポンド(2.7kg)もあったから、この負けはしょうがない。
2ヶ月半を開け、9月29日にアスコット競馬場で行われるクイーンエリザベスII世S(GII・1マイル)に出場することになった。格付けはGIIながら、ヨーロッパ各地の最強マイラーが集うレースである。3歳以上の牡馬・牝馬混合戦でありながら、ケイティーズは果敢に挑戦することになった。6頭立てのレースとなり、真っ黒い勝負服で白いシャドーロールを付けたTeleprompter(Ouija Boardの伯父)が思い切り飛ばして大逃げし、そこから2秒ほど、つまり10馬身ほど後方にケイティーズは控えた。直線に入ってTeleprompterの脚色が鈍って差が縮まる。そこにケイティーズが内からスルスルと脚を伸ばし、Teleprompterに襲いかかり、じわじわと差を縮めていく。残り50mほどになったところでケイティーズがクビ差ほど前に出たが、Teleprompterが必死に差し返してきた。そのままTeleprompterがクビ差を付けてゴールイン。前年の勝ち馬Sackfordは3着に入ったが2着のケイティーズから6馬身遅れており、Teleprompterとケイティーズの激闘が讃えられることになった(動画1、動画2
)。桜花賞馬がその年のマイルチャンピオンシップで大健闘の2着に入ったようなものである。しかもTeleprompterは翌年のアーリントンミリオン(GI・10ハロン)で優勝するような強豪馬であった。
ケイティーズは文句なしに1984年の英国最優秀3歳牝馬に選ばれた。ただし、ヨーロッパ最高の3歳牝馬という評価は得られなかった。この年には3歳牝馬で凱旋門賞2着になったNorthern Trickがいたからである。
1984年9月29日のクイーンエリザベスII世Sのあと、11月にアイルランド・ゴフズで行われた繁殖牝馬セリに280万ギニー(294万ポンド。日本円で9億2900万円程度)で出品されたが、主取り[3]となった。
1985年になって4歳になったケイティーズは、レースに出るのではないかと言われたが、そのままレースに出走することなく引退し、1986年の5歳時から繁殖入りした。通算成績は10戦4勝、うちGI1勝だった。
1986年春にイギリスでKrisと交配されて、アメリカ合衆国のCrystal Spring Farmに移され、以降は同国で繋養された。
まずは1987年から1989年まで3頭の牝馬を出産した。その3頭を並べると次のようになる。
生年 | 馬名 | 性 | 父 | 主な産駒 |
1987年 | *ケイティーズファースト | 牝 | Kris | ゴーステディ、マイケイティーズ、ケイティーズハート |
1988年 | Jet Route | 牝 | Alydar | |
1989年 | *ホワットケイティーディド | 牝 | Nureyev | スリープレスナイト |
*ケイティーズファーストは主にフランスで走り、3歳~4歳時に19戦4勝の成績を残した。アベイユ・ド・ロンシャン賞(GI・5ハロン)に出たこともある。5歳春にはアメリカ合衆国で繁殖入りし、3頭の馬を同国で産んでいる。ヒシアマゾン効果で繁殖牝馬として日本に輸入され、一番最初にゴーステディを産んだ。ゴーステディというと、「ひたむきに走る逃げ馬」として思い出深い。2003年天皇賞(秋)で吉田豊を乗せて敢然とハナを張り合い、ローエングリンと仲良くそろって轟沈した(動画)。
それよりも有名なのは、GI馬の母を2頭も輩出したことである。1998年生まれのマイケイティーズはアドマイヤムーンの母、2009年生まれのケイティーズハートはエフフォーリアの母である。
Jet Routeは主にアメリカ合衆国で走り、3歳~4歳時に5戦3勝の成績を残し、アメリカ合衆国で繁殖入りした。同馬は繁殖牝馬として日本に輸入されなかったが、1995年産のシルクフレアーは競走馬として日本に輸入され、不出走に終わったものの繁殖入りして京成杯(GIII)を勝ったプレイアンドリアルの祖母となっている。
*ホワットケイティーディドは主にフランスで走り10戦3勝だった。ヒシアマゾン効果で繁殖牝馬として日本に輸入され、GI馬スリープレスナイトの母となった。また、孫にファンタジーSを勝ったベルーガがいる。
以上のように、1987年から1989年までの3頭は日本において名門牝系を築き上げている。
ケイティーズは順調に繁殖生活を送っていたのだが、馬主のテリー・ラムズデンにはとんでもない苦難が待ち受けていた。1987年10月19日(月曜日)に香港の株式暴落を発端として始まった世界的株価大暴落であるブラックマンデーで、35歳の億万長者ラムズデンも大損失を出した[4]。このため、1989年には、Alydarの牡馬を受胎していたケイティーズを売りに出すことを決めた。
一方そのとき、「ヒシ」の冠名を使うことで知られる阿部雅一郎は、アメリカ合衆国で繁殖牝馬を買い、その繁殖牝馬を好きな牧場に預け、好みの馬を生産する「オーナー・ブリーダー」になろうと思っていた。
先代の阿部雅信が所有していた200頭ほどの(あまり勝てない)馬を阿部雅一郎が整理し終えたのは1988年のことであった。1988年になってから阿部雅一郎は「勝てる馬を手に入れよう」と張り切って北海道のセリ市に行ったが、日本の馬産は妙に閉鎖的で、良質の馬がほとんどセリ市に出てこない状況だったのである。勝てる馬を入手したいのなら牧場と時間をかけてコネを作らねばならないという、面倒な構造だった。
そこで阿部雅一郎はアメリカ合衆国に目を向けた。阿部家の本業は木材輸入なのだが、そのツテで競走馬を買う代理人を紹介してもらい[5]、その代理人と佐山優調教師と阿部雅一郎の3人で、7月のケンタッキー州のセレクト・セールに参加し、4頭の2歳馬を購入したのである。
11月になって、再び代理人とともに阿部雅一郎はケンタッキー州を訪れた。今度は中野隆良調教師を引き連れていた。まずキーンランド競馬場で行われる繁殖牝馬のセリ(Keeneland November Breeding Stock Sale)に顔を出したが、75万ドルでマグニフィセントリンディーという繁殖牝馬を1頭買っただけに終わった。
「うーん、もう2頭ぐらい買いたいなあ」と思っていたら、ファシグティプトンという会社が夜のセリ(ナイト・オブ・スター)をやるらしい。そこのカタログを見てみたところKatiesという馬が出品されていた。
Katiesは大柄な馬で、阿部雅一郎の目を引いた。しかも阿部雅一郎好みの黒鹿毛の馬体である。なおかつアイルランド1000ギニー勝ち馬で、日本でいう桜花賞馬である。「これだ!」と思った阿部雅一郎は、あわてて夜のセリに出かけ、Katiesのセリに参戦した。
50万ドルから始まったセリには、阿部雅一郎の他にアラブの石油王の代理人らしき人物が参加していた。阿部雅一郎は「ドバイのマクトゥーム一族[6]の代理人だったようだ」と語っている。その代理人と阿部雅一郎の一騎打ちとなり、代理人は97万5000ドルを出すことに同意した。「100万ドル。100万ドル出す人はいないか?」と言われ、えーいとばかりに阿部雅一郎が手を挙げた。代理人は首を横に振っている。かくして、Alydarの子を受胎していた8歳のKatiesは阿部雅一郎の所有するところとなったのである。
石油王の代理人はセリが終わったあとに「100万ドルに1割乗せますから、譲っていただけませんか」と阿部雅一郎に交渉を持ちかけてきたというが、阿部雅一郎も丁重にお断りしたという。
この当時のAlydarは超人気種牡馬で、種付け料が30万ドルほどだった。そのためKaties本体のお値段は70万ドルということになる。1989年11月の為替は1ドル144円程度なので(資料)、100万ドルは1億4400万円、70万ドルは1億800万円、30万ドルは4320万円である。
※この項の資料・・・『名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)』82~85ページ、『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)』48~49ページ・67ページ、『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』100~102ページ、『ヒシアマゾン A Heroic Woman(ポニーキャニオン)』
1989年11月に阿部雅一郎が購入した繁殖牝馬は3頭だった。そのうちケイティーズ以外の2頭は日本の牧場に預けることにしたが、ケイティーズだけはアメリカに残した上で産駒を日本で走らせるということになった。同行していた中野隆良調教師が「アメリカ合衆国のケンタッキー州の牧場に残した方がいいでしょう」と進言して、それを阿部雅一郎も了承したのである。ケイティーズは、ケンタッキー州の巨大牧場であるテイラーメイドファームに入ることになった。
このとき中野隆良調教師が何も進言していなければ、ケイティーズは日本の牧場に入り、1991年から供用開始された*ブライアンズタイムや1992年から供用開始された*サンデーサイレンスと交配していたかもしれない。その場合はどんな産駒が出ていたのだろうか……。
さて、ケイティーズは阿部雅一郎の所有となり、「ヒシ」の冠名を持つ馬を次々と出産していった。それを表にすると次のようになる。
生年 | 馬名 | 性 | 父 | 主な成績 |
1990年 | ヒシアリダー | 牡 | Alydar | 中央5勝 |
1991年 | ヒシアマゾン | 牝 | Theatrical | GI2勝 |
1992年 | ヒシフジヤマ | 牡 | Bering | |
1993年 | ヒシイースター | 牡 | *シアトルダンサーII | |
1994年 | ヒシナイル | 牝 | A.P. Indy | フェアリーS |
1995年 | ヒシレイホウ | 牝 | Dayjur | |
1996年 | ヒシピナクル | 牝 | Theatrical | ローズS |
落札されて最初に産まれた*ヒシアリダーは20戦5勝で重賞勝ちは無かったがオープン入りした。ヒシアマゾンの大活躍を受けて「妹の七光り」で種牡馬入りすると地方競馬で一定の活躍を収め、1999年の地方新種牡馬リーディングを獲得した。
その次に産まれたTheatrical産駒の牝馬が女傑*ヒシアマゾンである。同馬の詳細は当該記事に譲るが、エリザベス女王杯を含む重賞6連勝や阪神3歳牝馬S勝ち・有馬記念2着など20戦10勝、JRA賞最優秀3歳牝馬・最優秀4歳牝馬・最優秀5歳以上牝馬(いずれも旧表記)受賞などの大活躍を収めた。
以降は*ヒシアマゾンほどの活躍を挙げた馬は出ていないが、それでも8番仔の*ヒシナイル(父A.P. Indy)がフェアリーSを勝ち、10番仔の*ヒシピナクル(父Theatrical)はローズSを勝ち秋華賞でも3着に入っている。
1990年から1996年のケイティーズが生んだ「ヒシ」の冠名がつく牝馬はいずれも繁殖入りしたが、重賞を勝つような馬を輩出するほどの繁殖成績を残せておらず、OP馬がちらほら見えるくらいである。しかしOP馬のアミカブルナンバーやカリオストロ、(牡馬だが)タケルペガサスといった辺りを出してしぶとく残っているため、いつか*ヒシアマゾンなどの牝系子孫から活躍馬が出て、ケイティーズの牝系が更に大きな発展を遂げることに期待したいものである。
*ヒシピナクルを産んだ後は2年産駒が無く、その後Theatricalを受胎した状態で1998年11月のキーンランド繁殖牝馬セールに出品され、アーロン・ジョーンズ(Aaron Jones)という有力馬主に62万5000ドルで購入され、阿部雅一郎の手を離れることになった。このときのケイティーズは17歳であったにもかかわらず、邦貨に換算して7500万円程度の金額になったのである。
しかしこれ以降はステークスウィナーを出すことが出来ず、23歳の2004年に産んだTheatricalの牡馬のBroadway Boundが最後の産駒となり、その年の8月20日に自力で立てなくなって安楽死措置が執られた。遺体はテイラーメイドファームの中に葬られた。
現役時代のケイティーズは、ストライド(歩幅)が大きいストライド走法の馬だった。他の馬が懸命に脚を回転させて末脚を発揮している一方で、あまり脚を回転させずにズイっと前に出てくる走りだった。
コロネーションSで*ペブルスを差しきったり、クイーンエリザベスII世SでTeleprompterと最後まで末脚勝負を繰り広げていることから分かるように、勝負根性の点で目を見張るものがあった。この点はヒシアマゾンとよく似ている。
繁殖牝馬になってもガッチリとした体格が変わらず、まるで種牡馬のような筋肉質の馬体の持ち主だった。放牧地でも現役馬顔負けの堂々とした走りっぷりで駆け回っていた[7]。
1989年に阿部雅一郎がケイティーズを購入したのも、ケイティーズの馬体が立派だったことを気に入ったからである[8]。
テイラーメイドファームのオーナーであるフランク・テイラーによると、繁殖牝馬としてのケイティーズは、馬体が大きく、落ち着きのある、日本でいう肝っ玉母さん風であったという。物に動ぜず、子どもを実によく守り、産駒は神経質な馬は1頭も出ないそうである[9]。
*ノノアルコ Nonoalco 1971 鹿毛 |
Nearctic 1954 黒鹿毛 |
Nearco | Pharos |
Nogara | |||
Lady Angela | Hyperion | ||
Sister Sarah | |||
Seximee 1966 栗毛 |
Hasty Road | Roman | |
Traffic Court | |||
Jambo | Crafty Admiral | ||
Bank Account | |||
Mortefontaine 1969 鹿毛 FNo.7-f |
*ポリック 1953 黒鹿毛 |
Relic | War Relic |
Bridal Colors | |||
Polaire | Le Volcan | ||
Stella Polaris | |||
Brabantia 1953 黒鹿毛 |
Honeyway | Fairway | |
Honey Buzzard | |||
Porthaven | Portlaw | ||
Peaceful Light |
クロス:Pharos=Fairway 4×4(12.50%)、Papyrus 5×5(6.25%)
父*ノノアルコはイギリス2000ギニー(GI・1マイル)やジャック・ル・マロワ賞(GI・1マイル)を制したマイラーである。ノーザンテーストと同期で、イギリス2000ギニーでは*ノノアルコが1着で*ノーザンテーストが4着である。
1975年はフランスで種牡馬生活を送り、1976年から1981年までアイルランドで種牡馬生活を送り、1981年12月に日本へ輸出された。つまりケイティーズは、*ノノアルコのアイルランド生活の晩年の産駒である。
7年間の欧州における種牡馬生活で、ケイティーズの他にサセックスS(GI・1マイル)を勝ったNoalcoholicやフランス2000ギニーに当たるプール・デッセ・デ・プーラン(GI・1600m)を勝ったMelynoを輩出している。7年間で3頭のマイルGI馬を出したので、まずまず優秀な種牡馬と言える。日本に来てからは有馬記念を勝ったダイユウサクなど合計6頭の重賞勝ち馬を出した。
母モルトフォンテーヌは1勝馬で重賞実績も皆無だが、全兄にナンソープSを勝つなど25戦10勝の快速馬Polyfotoがいる。
母父*ポリックは25戦7勝、フォレ賞とアベイ・ド・ロンシャン賞で2着に入ったスプリンターである。欧州で種牡馬入りし、代表産駒は先述のPolyfotoである。1970年に17歳という高齢で日本に輸入され、クイーンSを勝ったヒダコガネを出したが、日本に輸入されてから2シーズン供用されたのみで死亡した。
現代の視点から見ると、父と母父が既に日本で重賞馬を出していたことが本馬が日本で牝系を発展させた下地だったと言えるかもしれない。
とはいえ、血統表を見た人から出てくる感想は「地味」の一言になるだろう。*ノノアルコはマイルGI馬3頭なのでまだ実績があるが、*ポリックの方はあまり華やかな種牡馬成績とは言えない。
1994年や1997年の阿部雅一郎は「1989年11月のころはまだ血統について詳しくなかった。そのため思い切ってケイティーズを買うことができた。1989年11月の時点で血統の知識が今と同じ状態だったとしたら、ケイティーズを買えなかっただろう」と語っている[10]。
掲示板
6 ななしのよっしん
2023/04/14(金) 03:38:46 ID: qmYw7zJOzk
今年の牝馬路線で頑張ってる彼の半妹のペリファーニアはもちろんだけど
同じ週にニュージーランドトロフィー勝ったエエヤンもJet Routeの子孫に属する馬だね(14年に京成杯勝ったプレイアンドリアルの半弟)
記事の通り年度代表馬2頭出したケイティーズファーストのラインが目立ってるけど、他のところからも重賞勝つ馬がボツボツ出てるのは、やっぱり牝系全体の底力を感じる
7 ななしのよっしん
2024/09/15(日) 22:09:41 ID: c3ltZjz5vr
アドマイヤムーン産駒にエフフォーリアを付けているのをちょくちょく見かけるが果たしてどうなるか
8 ななしのよっしん
2024/09/16(月) 18:10:44 ID: qmYw7zJOzk
>>7
エフフォーリアにアドマイヤムーン牝馬宛がうと
ちょうどケイティーズファーストの3×4(奇跡の血量)…つまりケイティーズの4×5になるのよね
同様のクロス試したことは多分今までなかったと思うから未知数だけど、この馬の牝系が定期的にホームランを叩き出しているのを知ってる身からするとやっぱり期待はしたくなるぜ
提供: アイドルごっこのヲタ役担当
提供: 岡山工場(inpipo)
提供: 草アイドル大好き
提供: low
提供: トラ
急上昇ワード改
最終更新:2025/04/10(木) 01:00
最終更新:2025/04/10(木) 01:00
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