ディズニーとは、アメリカの大手エンターテイメント企業ウォルト・ディズニー・カンパニー、同社の創業者ウォルト・ディズニー、同社による映画・音楽・キャラクター・テーマパークなどのコンテンツ及びそれらの総体としてのブランドを指す。
ウォルト・ディズニー・カンパニー (The Walt Disney Company,WDC) とは、アメリカのメディア・コングロマリットである。日本法人はウォルト・ディズニー・ジャパン(WDJ)株式会社である。
ディズニーはアニメーション映画およびテーマパークで有名だが、「アメリカ3大ネットワーク」の一角であるABCを傘下に収め、同放映局や自社TVチャンネルにおける番組放映及び放映番組の制作なども行うメディア・コングロマリットである。本社所在地はカリフォルニア州バーバンク市サウス・ブエナ・ビスタ・ストリート500番地。従業員は子会社含め約20万人。2020年現在のCEO(最高経営責任者)はボブ・チャペック氏。
現在、以下の4つの事業を展開している。
1901年12月5日、ウォルト・ディズニー(本名ウォルター・イライアス・ディズニー)はイリノイ州シカゴにて母フローラと父イライアスの4男として生まれる。当時一家は貧しく、父イライアスは何度も事業を失敗し、仕事を変えながら引っ越す生活を繰り返していた。父イライアスはとても厳格で子どもも厳しく育てていたので、ウォルト自身幼少期にはあまり良い思い出がないようである。例外はミズーリ州マーセリンに住んでいた時期で、ウォルトにとって幼少期の重要な出来事はほとんどこのマーセリンの街で起こった、と後年回想している。大人になってもこの時期の経験は心に残り続けていたらしく、ディズニーランドの玄関口であるメインストリートUSAはマーセリンの街並みをモデルとしている。(TDLのワールドバザールもそうである)
1914年に第一次世界大戦が始まると、ウォルトも他の多くのアメリカ人同様に、国粋主義に傾倒し、愛国心が芽生えていた。17歳の時には軍にも志願したが、17歳では若すぎると断られたので、今度は年齢を詐称し、赤十字の救急隊に入隊、フランスに派遣され後方支援を行う。第一次世界大戦が終わり帰国すると、父の会社に用意されていた就職口を蹴り、地元の広告会社でデザイナーとして働き出す。ここで出会ったのが天才アブ・アイワークスである。2人は仕事でもプライベートでも親密になり、「アイワークス・ディズニー社」という広告デザイン会社も立ち上げたが、すぐにウォルトは「カンザスシティ・スライド社」にアニメーターとして雇われることになり、アイワークスを置いて行ってしまう。
1921年になると、ウォルトは独立し「ラフォグラム社」というアニメ会社を設立する。 しかしウォルト・ディズニーは、アーティストとしての才能は抜群でも、経営者にはお世辞にも向いているとは言い難い。それがまず災いしたのがこのラフォグラム社であろう。ウォルトは作品を作るに当たり、芸術家として妥協を許さなかったので、制作資金を湯水のごとく使い、会社はすぐに財政難に陥る。途中、アニメーションの中に実写を組み込むという斬新なアイデアを出し、ルイス・キャロル原作「不思議の国のアリス」を用いてアリス・コメディを制作したが、時すでに遅し。銀行はもはや融資をしてくれなくなり、1922年、ラフォグラム社は1年足らずで倒産する。
さすがのウォルトも半ば諦めかけていると、ウィンクラー社の社長であり、ニューヨークのディストリビューターでもあったマーガレット・J・ウィンクラーからアリス・コメディに関する契約を結びたいと連絡が来る。このチャンスを逃すまいと、ウォルトは兄のロイ・オリヴァー・ディズニーを説得し、1923年10月16日、2人で「ディズニー・ブラザーズ・カートゥン・スタジオ」を共同設立。ディズニー社誕生の瞬間である。(今から考えれば、このときウォルトが1人で独走せずロイの助けを借りたのはファインプレーであった。ロイは堅実な性格で経営能力もあったので会社の財務などを担当し、予算面からウォルトを支えたのだ)加えて、ウォルトはアブ・アイワークスも誘う。これも今から考えれば超絶ファインプレーだ。
ウィンクラーとの契約により、1924年3月1日に最初のアリス・コメディである「Alice’s Day At Sea」(アリスの海での1日)がリリースされ、その後3年間は「アリス・コメディー」シリーズを制作し、人気を博した。プライベートでは当時ディズニー社で働いていたリリアン・バウンズとの社内結婚も果たす。1926年には社屋もハイペリオン通りに新設し、社名を「ウォルト・ディズニー・スタジオ」に変更。
アリス・コメディーに続き、1927年に制作した「オズワルド・ザ・ラッキー・ラビット」(しあわせウサギのオズワルド)シリーズも大人気となるが、なんと翌年の1928年、契約上、オズワルドの著作権は、ウォルトではなく、ウィンクラーの夫でありウィンクラー社の共同経営者でもあるチャーリー・ミンツにあることが発覚。ミンツは今後オズワルドをウォルト抜きで制作すると決め、ディズニー社の社員の引き抜き工作まで行う。ほぼ全ての社員が引き抜かれたが、アブ・アイワークスはウォルトを裏切らず引き抜きに応じなかった。アイワークス・ディズニー社のときはウォルトは自分を置いてカンザスシティ・スライド社に行ってしまったのに、アイワークスさん、健気…(しかもアイワークスは事前にウォルトに「ミンツが我々の引き抜き工作をしている」と忠告していた。にもかかわらず、楽観的なウォルトはそれを全く信じなかったらしい…)
絶望状態だった中、もうオズワルドの失敗は繰り返さぬと生み出した新キャラクターこそ、あの世界一有名なネズミ「ミッキーマウス」である。ちなみに、オズワルドもミッキーも、デザインを完成させたのはウォルトではなくアイワークスである。実はデザイナーとしての純粋な画力やセンスはウォルトよりもアイワークスのほうが上というのが多くの人の一致した見解である。つまり、皮肉にもミンツが唯一引き抜きに失敗したアイワークスこそが、(ウォルトを出し抜くために)ミンツにとって一番必要な人材だったのだ、アイワークスさんを引き抜けなかった時点で勝負は決まっていた…
ミッキー出演作として、まずはサイレント映画(無声映画)として「プレーン・クレイジー」「ギャロッピング・ガウチョ」の2作を制作する。しかし、当時の映画界はちょうどサイレント映画からトーキー映画(音声のある映画)に移行しようという時代だった。そこでウォルトはミッキーを売り込むためにトーキー映画を作ろうと提案し、制作されたのが「蒸気船ウィリー」である。したがって制作順ではプレーン・クレイジーが初だが、公開順では蒸気船ウィリーが初作品である。一般的には、初公開作品である蒸気船ウィリーがミッキーのデビュー作とされる。1928年11月18日、蒸気船ウィリーが公開されると、瞬く間にミッキーはスターへの階段を駆け上がっていく。デビュー翌年の1929年から世界恐慌が起こったことも当時のアメリカ人がミッキーのような悪役を倒し成功する典型的なヒーローに惹かれた理由の1つだろう。
ミッキーが人気になると、ディズニー社は他社商品にミッキーを利用するライセンスを付与し、ライセンス料を受け取るというビジネスを開拓する。食器、歯ブラシ、時計、ラジオなど、いろいろな商品にミッキーがデザインされ、ライセンス料による収益は映画の興行収入と同じかそれ以上のものとなった。ご存知の通り、ディズニー社は現在でもこのビジネスを積極的に行っている。
ディズニー社はミッキーシリーズに並行して、1929年の「スケルトン・ダンス」(骸骨の踊り)以降、「シリー・シンフォニー」といわれる一連のシリーズを開始。1932年には、「シリー・シンフォニー」シリーズの1つであり、世界初のフルカラーアニメーション作品である「花と木」(Flowers and Trees)が公開。花と木は、ちょうどこの年から創設されたアカデミー賞の短編アニメ部門を受賞。以後、ディズニー社はアカデミー賞の常連となる。
1934年になると、ウォルトはグリム童話の1つ「白雪姫」を原作とした長編作品を作ろうなどという突飛なことを言い出す。当時のアニメは、ギャグを中心とした短編作品が主流であり、「ストーリー性」のある長編作品を作るという発想自体がほとんどなかった。そもそも長編作品を作るだけの予算・制作期間・人員が確保できないという事情もある。ウォルトは毎日のように白雪姫の話を聞かせ徐々に社員を説得し、制作にこぎつけるが、やはり莫大な予算と制作期間がかかることになる。公開前には「ディズニーの道楽」とも揶揄された。しかし、1937年12月21日、世界初の長編カラーアニメーション映画「白雪姫」が公開されると、観客は白雪姫の虜となり、それまで「自動で動く紙芝居」「子供だまし」としか思われていなかったアニメーションが芸術として認められ、計8部門のアカデミー賞を受賞し、莫大な制作費用を余裕で回収するさらに莫大な収益を上げることになる。
だが、白雪姫の大成功も束の間、この後、ウォルト自身やディズニー社に畳みかけるように危機が訪れる。
白雪姫の大成功の後、ウォルトとロイは両親に家をプレゼントするが、この家が欠陥住宅で、ガス漏れ事故があり、母フローラが死亡。一方、ディズニー社は白雪姫に続いて、イタリアの童話を原作とした「ピノキオ」と、クラシック音楽とアニメーションを融合させた世界初のステレオ音声映画「ファンタジア」の制作を行う。作品としてはどちらも名作だが、公開当時、既に第二次世界大戦が始まっており、海外への輸出がほとんどできなくなったことと、ステレオ音声映画を上映できるような音響設備のある映画館がほとんどなかったことで大赤字に。白雪姫で儲けたお金をほぼ使い果たす。事態はそれだけでは終わらない。
実は白雪姫の大成功の後、ディズニー社は生産体制の確立のため人員を大幅に増やしており、幹部と末端社員の給与面での格差が非常に大きくなっていた。人員増に伴い、株式を発行して資金を捻出した上で、充実した設備の新社屋も建設したが、幹部しか利用できない福利厚生施設もあった。不満を募らせていた社員たちは、労働組合の結成も視野に入れ始めるが、ウォルトはなんと全社員の前で「組織に貢献した者が優遇されるのは当然だ。君たちも文句を言う暇があったら、指示される前に自分で考えて働きなさい」という趣旨の大演説をしてしまう。もちろん彼にしてみれば正論を言っただけなのだろうが、言うまでもなくこの演説は火に油を注ぐ結果となり、大半の社員が労働組合に入った。さらにその後、グーフィーの生みの親である大物アニメーターのアート・バビットを組合活動を理由に解雇。(犬をモチーフとした人気キャラクター「グーフィー」を生み出したアート・バビットは最後まで「会社の犬」になることに抵抗したのだ)これが命取りとなった。
1941年のある朝、ウォルトが会社に行くと、社員たちが大行進。赤字の原因の1つでもある映画「ピノキオ」が操り人形から本物の人間になっていくストーリーであることになぞらえて、ピノキオの絵とともに「我々は会社の操り人形ではない」と書かれたプラカードを掲げる者もいた。ストライキの開始である。(約半数の社員がストライキに参加した)楽観的で、自分の部下にストライキを起こされるなど考えもしていなかったウォルトは、これに大変なショックを受け、これ以降、まるで人が変わってしまった、と言われる。ストライキが続く中、ウォルトは国務省の要請により南米への親善旅行に出発。(この旅行中にウォルトは父イライアスの訃報を聞くことになる)社長不在となった旅行中、ストライキはロイが組合と交渉し解決した。(もう最初からウォルトは創作活動とかに専念して経営面は全部ロイに任せていたほうがよかったんじゃ…)なお、ウォルトは、憎むべき対象が欲しかったのか本気でそう思い込んでいたのか、この件を「共産主義者の陰謀」によるものだと決めつけた。これをきっかけに反共産主義者となり、赤狩り(レッドパージ)への資金提供や、下院議会での赤狩りを目的にした委員会における証言なども行う。
ストライキが解決すると、今度は、第二次世界大戦の影響により、会社が米軍に接収され、アメリカを擁護し敵国を非難するいわゆる「プロパガンダ映画」を制作することになる。ドナルドダックを主人公とし、ナチスドイツのヒトラーを皮肉るプロパガンダ映画「総統の顔」などである。ちなみに「総統の顔」は政治的思惑があったのか、アカデミー賞を受賞している。「空軍力の勝利」という、もうタイトルからしてプロパガンダ丸出しの映画もある。
戦後はアニメパートと実写パートのある「南部の唄」や、実写映像を駆使した「あざらしの島」など、従来とは異なる方向性も模索し始めた。(「あざらしの島」以降、大自然の映像を用いた「トゥルー・ライフ・アドベンチャー」シリーズがスタート)また、ウォルト自身は蒸気機関車に夢中になり、自宅に精密なジオラマも作っていた。しかしながら、結局のところ、大衆が最もディズニーに期待しているのは昔も今もアニメーションである。そこで1950年に公開された「シンデレラ」は古典的なディズニーアニメーションとして歓迎されたが、同時に、初の完全実写映画である「宝島」も公開され、アニメ映画だけでなく実写映画にも本格的に参入していく。
さらに、クリスマスにはABCでディズニー提供の特別番組「One Hour in Wonderland」が放映され、映画から「テレビ」という新しい産業にも足を踏み入れていた。この特別番組は新聞が「ウォルト・ディズニーはその気になればいつでもテレビ業界を乗っ取ることができる」と書き立てるほど、驚異的な高視聴率を記録した。また1955年にスタートした「ミッキーマウス・クラブ」は今でも語り継がれる伝説的な子供向け番組である。
続けて、テーマパーク事業にも乗り出し、1955年7月17日にはカリフォルニア州アナハイムに「ディズニーランド」がオープン。50年代にパーク内は次々と拡張され、人気は鰻登りに。60年代にはウォルトの集大成ともいわれる映画「メリー・ポピンズ」が公開されたほか、1964年にはニューヨーク万博でディズニー社が4つのパビリオンを提供し、国際的な知名度やブランド力も一気に上がっていく。(ちなみにこのときニューヨーク万博に提供したパビリオンの1つは、後にディズニーランドにオープンし人気アトラクションとなるイッツアスモールワールドである)だが、ここで1つの時代が終わりを告げる、ウォルト・ディズニーが1966年12月15日、癌で亡くなった。
ウォルトの死後はロイや、カードン・ウォーカー、ドン・テータムが会社を引き継ぐが、1970年代に入ると、ロイも亡くなり、黎明期のディズニー社を支えてきたベテランアニメーターも引退していき、ディズニーアニメーションの人気は下落していく。当時、売り上げの多くがテーマパーク事業によるものになっていた。競争力を回復させるために「タッチストーン・ピクチャーズ」という従来のディズニー映画とは別枠の新ブランドも作った。
転機が訪れたのは、1984年にマイケル・アイズナーとフランク・ウェルズがディズニーのトップに就任してからのことである。1989年の「リトル・マーメイド」を火付け役として人気が復活し、アニメ映画として史上初めてアカデミー賞作品賞にノミネートされた「美女と野獣」や、「アラジン」「ライオンキング」など、空前の大ヒット作品を連発。黄金期の再来である。このことは「ディズニー・ルネッサンス」と呼ばれている。ディズニー・ルネッサンスの最大の立役者であるマイケル・アイズナーは、ディズニー社における「中興の祖」ともいうべき人物であり、アイズナーがトップであった時期のことを「アイズナー体制」と言うこともある。1991年にはダウ平均株価の銘柄に加わり、1993年には映画会社「ミラマックス」を買収、ディズニー社の業績は回復していく。(ミラマックスは2010年に売却)
アイズナーなどの功績により輝かしい復活を遂げたディズニー社は1995年、世界最大の売上高を誇るテレビ局であるABC(当時の社名は「キャピタルシティーズ/ABCインク」)の買収に打って出る。買収額は約190億ドル(当時のレートで約1兆6700億円)で、当時としては米国史上2番目に買収額の高いM&Aであった。この買収により、ディズニー社はABC系列の8つのTV局、21のラジオ局、7つの日刊新聞、スポーツ専門局のESPNの経営権を獲得し、一気に世界最大規模のメディア・ネットワークを手に入れた。190億ドルという途方もないほど高い買い物だが、この買い物は190億ドルをはるかに超える利益をディズニー社にもたらしたと言える。現在のディズニー社は売上高の4割、営業利益の6割がメディア事業によるものだからである。この買収以降、ディズニー社の株価、売上は急激に増えていく。
一方で90年代後半になると、ディズニーの配給したピクサーのCGアニメーション映画「トイ・ストーリー」が大ヒット。ディズニー・ルネッサンスの立役者の1人でもあるジェフェリー・カッツェンバーグが独立し設立したアニメ会社「ドリームワークス」の人気も上がっていく一方で、ディズニー側は安易な続編商法などにより人気が低迷し、2000年代前半まで、一時この2社に押され気味になる。また、ロイ・O・ディズニーの息子であり、すなわち、ウォルト・ディズニーの甥であるロイ・E・ディズニーは経営方針をめぐってマイケル・アイズナーと対立することになる。アイズナーは、強力なリーダーシップを発揮してディズニー・ルネッサンスへと導いたが、リーダーシップが強いということは、ロイ・E・ディズニーなどの創業者一族に対しても物怖じせず意見を言ったりウォルトが築き上げたディズニーから新時代のディズニーへと改革をしていったりするということでもあり、これがロイ・E・ディズニーにとっては気に食わなかったのだろう。ロイ・E・ディズニーは「SaveDisney」((アイズナーから)ディズニー社を守れ)というスローガンまでかかげ、2005年にはアイズナーを辞職に追い込んだ。
2005年にアイズナーが辞職した後、後継者となったのがロバート・アイガー(愛称でボブ・アイガーと呼ばれることが多い)である。ロバート・アイガー率いるディズニー社は2006年にピクサーを企業買収し子会社化に成功。2010年にはコミック大手の「マーベル」を買収し傘下にし、2013年にはルーカス・フィルムも買収しスターウォーズの新シリーズの制作も行うなど、ディズニー社の勢力を広げていく。同時に、2010年代になると、「塔の上のラプンツェル」「アナと雪の女王」が記録的な大ヒットとなり、ディズニーアニメーションの人気も再び回復し好調になる。傘下に収めたピクサー、マーベルの人気もさらに上がっていく。さらには実写映画も大好調でハリウッドにおける記録を次々と塗り替えている。アイズナー体制の下でもディズニー社の業績は右肩上がりだったが、ボブ・アイガーによっても業績はとんでもなく上がっていく。2005年以降、わずか十数年でディズニー社の株価(時価総額)は約450億ドルから約1700億ドルと3倍以上に、売上高は約320億ドルから約550億ドルと、凄まじい成長を遂げている。
近年は、40年代50年代に娯楽の中心が「映画」から「テレビ」に移行していったように、「インターネット」や「スマートフォン」が(特に若者にとっては)娯楽に欠かせない存在になりつつある。そこでディズニーはインターネット上の動画集約サービスであるHuluの株主になったり、ストリーミング技術事業者である「BAMTech」を買収したりしている。また、2018年にはESPNのストリーミング配信サービスをスタートし、2019年にはネットフリックスの対抗馬として、ディズニー独自のストリーミング配信サービスとしてディズニー+がスタートし、インターネット分野への進出も本格的に始めようとしている。
そうしたこともあり、ディズニーはHuluの経営権を狙い、ハリウッドにおけるビッグシックス(6大映画会社。ディズニー社自身もビッグシックス)の一角である21世紀フォックスの買収に動き出す。実はHuluはディズニーが株式の30%、21世紀フォックスが同様に30%を保有しているので、21世紀フォックスを買収し30%分を手にすれば計60%となり、51%以上の株式を保有することになるので、経営権を持つことができるのだ。もちろんそれだけが21世紀フォックス買収の理由というわけではないが、大きな目的の1つであることは明らかである。同時に、ビッグシックスの一角を買収するとなれば、長年ビッグシックスによる均衡状態が続いたハリウッドの業界地図も変わり、ハリウッドにおけるディズニー社の勢力がますます強まることになる。一時買収合戦もあったが、結局、ディズニー社が買収合戦を制した。買収額は約713億ドル。日本円にして約8兆円。もはや小国の国家予算である。
こうしてもともとはアニメ会社として設立されたディズニー社は今や、アニメーションのみならず、テーマパーク、実写映画、TV番組、コミック、スポーツ観戦、動画配信サービス…と「娯楽」に関するほとんどの分野において業界トップクラスに君臨しており、エンターテイメント企業として比類なき超巨大ブランドを形成している。
ケーブルネットワークの運営や、米国内TV局・ラジオ局の運営、TV番組の制作・放送・配給などを行っている。
1996年にアメリカ3大ネットワークの一角であり、世界最大のTV局であるABC(アメリカンブロードキャスティングカンパニー)を買収したことにより、ディズニーは世界最大規模のメディア・ネットワークを手中に収めた。
日本ではディズニーといえばテーマパークや劇場映画のイメージが強いが、実は現在ディズニーの屋台骨となっているのはメディア・ネットワーク事業であり、ディズニー全体の売上高の4割ほどを稼ぎ出す。
でぃずにーにおけるメディア・ネットワーク事業は、ディズニー・チャンネル・ワールドワイドやABC系列などを運営するウォルト・ディズニー・テレビジョンとESPNの2つに大別される。
ディズニーブランドのケーブル・ネットワーク。160ヶ国以上の国において30以上の言語で、総数100以上のチャンネルを有する。
なお、これらのチャンネルで放送されるオリジナルのアニメ作品はディズニー・テレビジョン・アニメーションというアニメスタジオが制作している。ディズニー・テレビジョン・アニメーション(Disney Television Animation)はその頭文字からディズニーTVAと略されることが多い。
ディズニーが1996年に買収した世界最大のテレビ局ABC(アメリカン・ブロードキャスティング・カンパニー)系列のネットワークであり、傘下として以下の部門がある。
さらに、ABCは米国内の以下の地域に以下のテレビ局を傘下として持っている。
ディズニーが2019年に買収した20世紀フォックスの系列であり、傘下として以下の部門がある。
ナショナルジオグラフィックはもともとナショナルジオグラフィック協会と20世紀フォックス系列が共同で立ち上げたチャンネルであったため、フォックス傘下であった。そのフォックスをディズニーが2019年に買収したため、ナショナルジオグラフィックもフォックス同様にディズニー傘下となった。
ナショナルジオグラフィックは自然ドキュメンタリーや歴史ドキュメンタリーなどを放送するドキュメンタリー専門のチャンネルである。
ディズニー傘下のスポーツ専門局。ESPNは「Entertainment and Sports Programming Network」の略。1984年にABCに買収されABC傘下となり、1996年に今度はABCがディズニーに買収されたため、ABC傘下のESPNも必然的にディズニー傘下となった。現在、ディズニーがESPNの株式の80%を所有し、残りの20%をハースト・コーポレーションが所有している。
ESPNはナショナル・フットボール・リーグ(NFL)、ナショナル・バスケットボール・アソシエイション(NBA)、メジャー・リーグ・ベースボール(MLB)、ウィンブルドン選手権、USオープン・テニス、マスターズ・ゴルフ・トーナメントなど、多くの主要なスポーツリーグやスポーツ大会の放映に関する権利を有している。
現在、米国内ではESPN、ESPN2、ESPNEWS、ESPNクラシック、ESPNデポーツ(スペイン語チャンネル)、ESPNU(大学スポーツ専門チャンネル)、SECネットワーク、ロングホーン・ネットワーク(テキサス州立大学競技専門チャンネル)の8つのチャンネルを有している。また、ESPNラジオや隔週のスポーツ専門雑誌ESPNザ・マガジン、女性スポーツファン&女性アスリート向けのespnWなどの運営も行っている。
近年、視聴者数の減少が目立ってきており改革が迫られている中、2018年にストリーミング配信サービスを開始し、注目されている。
ウォルト・ディズニーはよく2人の娘(ダイアンとシャロン)を連れて遊園地に行っていたが、あるとき、娘たちは楽しんでいるが、父親である自分はベンチに座っているだけということに気づき、父親も含め家族全員で楽しめるような遊園地が必要だと考えるようになった。というのがテーマパークを作ろうとした動機と言われているが、これは「神話」の側面もあり、どこまで実話かはわからない。
テーマパーク事業のためにウォルトは、ディズニー社とは別に、1952年12月16日、WEDエンタープライズ社という会社を自費で起業する。(WEDはウォルトの本名のウォルター・イライアス・ディズニーの頭文字)もっとも、実質的には、ウォルトが選んだディズニー社の一部の社員がWEDエンタープライズ社の社員も兼任するという形だったのだが。
WEDエンタープライズ社で働く者は「イマジニア」と呼ばれた。イマジニアとは「イマジン」と「エンジニア」という2つの単語を組み合わせたウォルトによる造語である。このことから、後にWEDエンタープライズ社は「ウォルト・ディズニー・イマジニアリング社」に社名を変更しており、現在でもディズニーパークを設計・開発するのはウォルト・ディズニー・イマジニアリング社で、そこで働く者はイマジニアと呼ばれている。
ちなみにウォルトは最初、会社の隣に「ミッキーマウス・ビレッジ」を作ろうとしたが、後に「ディズニーランド」に改名し、開発計画が大きくなるにつれ土地も足りなくなり、もっと広い土地を探し始めた。
ところで、テーマパークを作るには膨大な初期費用がかかる。そこでディズニーランドを作るには「スポンサー」が必要だった。ウォルトは大手TV局に話を持ち掛けるがことごとく断られる。しかしABCだけは違った。1950年のクリスマスにディズニーの提供によりABCで放映された特別番組は大好評で、ABCはディズニーに継続的に番組を提供してもらうことを望んでいたのだ。そこでディズニーは「番組を提供するから、その代わりにディズニーランドに出資してくれ」と交渉し、これが成功する。 (この際、ディズニーランドの全体の見取り図は、かつてディズニー社で働いていた美術監督を呼びよせ、ウォルトがつきっきりでどこに何を描くか詳細に指示し、わずか2日ほどで書き上げた)かくして、ディズニーランド計画はABCがスポンサーとなり本格的に動き出す。(これまでも話題に出ているがABCとはこれより40年以上後の1995年にディズニーに買収されることになるあのABCである。ABCとディズニーは何かと縁があるのだ…)
ディズニーランドのオープン前、1954年10月にはスポンサーであるABCで「ディズニーランド」というテレビ番組がスタート。毎週放送され、当時のアメリカ人はこの番組を観ることでオープン前から既にディズニーランドに対する好奇心が大きくなっていた。
1955年7月17日にカリフォルニア州アナハイムに「ディズニーランド」がオープン。この日はカリフォルニア州知事もかけつけ、何十台ものTVカメラで現地の模様が生中継され、後の大統領である俳優ロナルド・レーガンなどもリポーターとなっていた。だが、この日の実態は酷い有様だった…記録的な猛暑、アトラクションの不具合、トイレの不足、レストランに並ぶ長蛇の列、フェンスを越えての無断入園…後に「ブラック・サンデー」と語り継がれることになる。まぁ、そうした苦労もあったが、50年代にパークは次々と拡張されていき、人気は右肩上がりとなっていく。
ディズニーランドの何がそれまでの遊園地と違うのか。それは「ストーリー」の有無である。メリーゴーランドやジェットコースターがあったとして、それらには何か関連性があるわけではないし、遊具にストーリーがあるわけでもないが、ディズニーランドはエリア内と各施設に1つあるいは複数のストーリーがあり、アトラクション、レストラン、ショップ、トイレ、植物、ごみ箱などあらゆる周辺設備はそのストーリーに沿って配置され、それぞれに関連性が持たされている。例えば、TDLの「アリスのティーパーティー」は構造的にはコーヒーカップが回るだけのありふれたものだが、そこに映画「不思議の国のアリス」のストーリーが重なることによって、他の遊園地には絶対にない唯一無二のものとなる。「ジャングルクルーズ」と「ウエスタンリバー鉄道」は本来別々のアトラクションだが、(架空の)同じ会社が運営しているというストーリーがあり、それぞれに関連性がある。ディズニーはもともと映画人であり、ディズニーランドをゲストが五感を使い体感できる一種の映画とも考えていた。そのためディズニーランドにはストーリーがあるのである。
また、それまでの遊園地は混雑を避けるために複数の入り口を用意していたが、ディズニーランドの出入り口は1つである。ディズニーランドはメインストリートUSA、TDLはワールドバザール、ゲストは否応なしにそこから出入りするほかない。これは「ストーリー」の始まりを規定するものである。
もう1つ重要なのは、ディズニーランドは何もディズニー映画だけがテーマではないということである。ディズニーランドはアメリカという国の(美化された)歴史と理想を描く場所でもある。すなわち、「過去へのノスタルジー」と「理想の未来」である。前者は西部開拓時代をテーマにしたフロンティアランド(TDLのウエスタンランド)、後者は未来の科学技術などをテーマにしたトゥモローランドがそれに当たる。ディズニーランドでは「現在」という概念が意図的に排除されている。(現在の悩みなど忘れて、古き良き時代と希望溢れる将来へと旅立とう、ということ)ディズニーランドがアメリカという国の(美化された)歴史と理想を描いているということこそ、ディズニーランドが「アメリカ文化の象徴」といわれるゆえんであり、大多数のアメリカ人が本来単なるテーマパークに過ぎないディズニーランドに並々ならぬ感情を抱く理由でもある(その感情が「好き」などの肯定的な感情か「嫌い」などの否定的な感情か、という違いはあるが)
また、ディズニーランドは人気が出るにつれ、多くの国の首脳や要人も訪れるようになったが、これが一種の正当性を高めていった。旧ソ連の最高指導者フルシチョフが、アイゼンハワー大統領との首脳会談のためアメリカに公式訪問する際、ディズニーランドに立ち寄ろうとしたら、警備上の理由で却下され、20世紀フォックスの映画スタジオで行われた昼食会の場で「私はディズニーランドに行きたいのにセキュリティ上の理由で無理だと言われた。一体何故なのか!ディズニーランドには秘密のロケット基地でもあるのか?コレラやペストでも流行しているのか?それともギャングが私を殺そうとしているとでも?」と叫び、公然とブチ切れたエピソードはとても有名である。
日本の昭和天皇も1975年にディズニーランドに訪問したが、このとき在米日本大使館は昭和天皇の訪問先の選定について外務省に対し「暴力と悪のイメージが結びつきやすいハリウッドではなく、子供の世界であり、幸せや喜びを連想させるディズニーランドの方が圧倒的によい」と伝えている。
その後、ディズニーランドをさらに進化させたものが「オーディオアニマトロニクス」という技術である。これは「オーディオ」と「アニメーション」と「エレクトロニクス」という3つの単語を組み合わせた造語で、音声に合うように機械を動かす技術のことである。これによりアトラクションの人形などが歌や言葉に合わせて生の人間のような自然な動きをすることが可能になる。1963年6月23日にオープンしたアトラクション「魅惑のチキルーム」で初めて実用化され、今では世界のディズニーパークにとって欠かせない存在となっている。
こうしてディズニーランドが軌道に乗ったらウォルトはすぐに次なる計画に動き出した。「ディズニーワールド」、そしてEPCOTである。EPCOT(エプコット)とは『Experimental Prototype Community of Tomorrow』の頭文字で実験的未来都市という意味である。ウォルト・ディズニーは交通網をはじめとした都市機能が高度に効率化した想像上の未来都市を実際に作ってしまおうという壮大な計画を考えていたのである。フロリダに広大な土地を買い、1965年にディズニーワールド計画を発表。また、それまでずっとウォルト個人の所有だったWEDエンタープライズ社を正式にディズニー社の子会社にする。しかし、彼はその完成を見ることなく、翌1966年に亡くなった。
ウォルトの意志を受け継いだロイはディズニーワールド計画を着々と進め、1971年10月1日、ウォルト・ディズニー・ワールド(マジックキングダム)がオープン。そのわずか2か月後、12月20日にロイ・O・ディズニーも亡くなる。1982年にはウォルト・ディズニー・ワールドにエプコットがオープンした。 翌1983年には初の米国外パークであるTDLがオープン、1998年にはクルーズ船事業もスタートし、2011年にはハワイのアウラニに初の多目的ファミリー向けリゾートがオープンするなど、着実に事業拡大している。
世界には現在、カリフォルニアに2つ、フロリダに4つ、東京に2つ、パリに2つ、香港に1つ、上海に1つ、計12のディズニーをテーマにしたテーマパーク(ディズニーパーク)がある。12のディズニーパーク合計の(2017年の)年間入場者数は約1億5000万人であり、日本の総人口を余裕で上回っている。
世界のテーマパーク業界でディズニーに次ぐ大手は、名古屋のレゴランド・ジャパンなどを運営するマーリン・エンターテイメンツや、大阪のユニバーサルスタジオジャパンなどを運営するユニバーサルであるが、マーリン・エンターテイメンツが運営するテーマパークの年間入場者数は合計で約6600万人、ユニバーサルが運営するテーマパークの年間入場者数は合計で約4900万人であるから、ディズニーの約1億5000万人というのがいかに圧倒的な数字かわかるだろう。マーリン・エンターテイメンツの2倍以上、ユニバーサルの3倍以上である。
テーマパーク別に見ても、世界のテーマパーク年間入場者数ランキングでは、TOP3をディズニーが独占し、しかも、TOP10のうち4位と10位以外の8つをディズニーが占めている。(ちなみに4位と10位はユニバーサル系である)また、世界に12あるディズニーパークのうち11のパークが上位20位以内にランクインしている。(最も順位の低い残る1つのパークでも22位である)
日本には東京ディズニーリゾート(TDR)が存在するが、これはディズニーが直轄して運営しているのではなく、オフィシャルホテルを除きディズニーに関わる諸権利を株式会社オリエンタルランド(OLC)に委任するというライセンス方式で運営されている。
ウォルトは言う。 「永遠に完成しない物語。それがディズニー」だと。またこうも述べている。「いつでも掃除が行き届いていて、おいしいものが食べられる。そんな夢の世界を作りたい」
ディズニーランド、ディズニー・カリフォルニア・アドベンチャーの2つのパーク、3つのホテル、レストランやグッズショップなどの総合施設であるダウンタウン・ディズニーで構成される。
マジック・キングダム・パーク、エプコット、ディズニーハリウッドスタジオ、ディズニーアニマルキングダムの4つのパーク、18のホテルがあり、さらに、以下の施設で構成される
東京ディズニーランド、東京ディズニーシーの2つのパーク、4つのディズニーブランドのホテル、6つの独立経営のホテル、総合ショッピング施設のイクスピアリ、ボン・ヴォヤージュ、モノレールのディズニーリゾートラインがある。
運営はオリエンタルランド(OLC)がディズニーとのライセンス契約に基づき行う。東京ディズニーリゾートの業績に基づき、OLCはディズニーにロイヤリティを支払う。
ディズニーランド・パークとウォルト・ディズニー・スタジオ・パークの2つのパーク、7つのホテル、総合ショッピング施設のディズニー・ヴィレッジ、27ホールのゴルフ施設がある。当初はユーロ・ディズニー・リゾートという名前だったが後に改名された。
香港ディズニーランドと3つのホテルがある。運営はディズニーの香港子会社が行い、所有権を持っているのは香港インターナショナル・テーマ・パーク・リミテッドである。香港インターナショナル・テーマ・パーク・リミテッドは香港特別行政区政府(HKSAR)が53%の株式を、ディズニーが残りの47%の株式を保有しているジョイントベンチャーである。ディズニーは香港ディズニーランド・リゾートの業績に基づきロイヤリティを受け取る。
上海シェンディ・グループ・有限公司が57%、ディズニーが残りの43%の持分を保有しているジョイントベンチャーが運営している。ディズニーは上海ディズニーリゾートの業績に基づきロイヤリティを受け取る。
上海ディズニーランド、2つのホテル、ショッピングやレストランなどの総合施設ディズニー・タウンがある。
2011年に多目的ファミリー向けリゾートとしてオープン。ディズニーがテーマパークを中心としたリゾ-ト以外のリゾートをオープンしたのは初。プールで泳いだり、夜に野外でディズニー映画を鑑賞したり、エンターテイメントショーを楽しんだりできる。ミッキーやミニーなどのディズニーキャラクターと合うこともできる。また、このリゾートは後述するディズニー・バケーション・クラブの中心となる施設でもある。
ディズニーをテーマにしたクルーズ船で船旅を楽しむことができる。多くのツアーではバハマにあるディズニーの所有する私有の小島「ディズニー・キャスタウェイ・ケイ島」に訪れることができる。(というか、ディズニー・キャスタウェイ・ケイ島に行くにはディズニークルーズラインを利用する以外にない)
現在、以下の4隻がある。
ディズニーバケーションクラブに加入した会員(メンバー)は世界各地のディズニー・バケーション・クラブ・リゾートの宿泊施設の共有持分を分譲することができる。各施設で利用可能な住戸はバケーション・オーナーシップ・プランに基づいて販売され、メンバーが所有していない住戸は一般のホテルルームとして利用可能。
世界中で行われるガイド付きバケーション・ツアーパッケージ。日本では、2019年に日本の京都、高山、小田原、東京を巡るツアーがスタートする。
世界中でディズニー関連の書籍、雑誌、コミックなどの出版を行い、また、他社にライセンス付与なども行っている。
ディズニーブランドのグッズを販売するディズニー専門の小売店舗。1987年にカリフォルニア州グレンデールに1号店がオープンしたのが始まりで、現在では、北米、ヨーロッパ、日本、中国など世界各地に展開している。
アニメ映画、実写映画、ホームビデオ用作品の制作のほかレコーディング音楽やライブイベント制作などを行う。
ディズニーは自社制作映画を「ウォルト・ディズニー・ピクチャーズ」、「タッチストーン・ピクチャーズ」、「ピクサー」、「マーベル」、「ルーカス・フィルム」、「ディズニー・ネイチャー」の各ブランドの下で映画を配給している。配給は全て「ウォルト・ディズニー・スタジオ・モーション・ピクチャーズ」が行う。
また、UTVのブランドの下でインド映画の制作も行っているほか、2010年から2016年にかけ、ドリームワークスの制作したライブアクション映画をタッチストーン・ピクチャーズのブランドの下で配給していた。
ミラマックス・フィルム・コーポレーションは1993年にディズニーに買収され一時ディズニー傘下となったが、ディズニーは2010年にミラマックスを投資グループに売却している。
日本の代表的なアニメスタジオである「ジブリ」とも配給契約を結んでおり、「もののけ姫」以降、米国においてジブリ作品をディズニーが配給している。
ウォルト・ディズニーの創設したアニメスタジオであり、一般の人がディズニー映画と聞いてイメージするのがウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオの劇場長編作品であり、ディズニーのブランドイメージそのものである。
白雪姫、ピノキオ、シンデレラ、ふしぎの国のアリス、ピーターパン、眠れる森の美女、リトルマーメイド、美女と野獣、アラジン、ライオンキング、リロ&スティッチ、塔の上のラプンツェル、アナと雪の女王などなど…数々の傑作アニメーションを世に送り出してきた。
黎明期のディズニーで活躍した9人のアニメーター「ナイン・オールドメン」を輩出したのもこのスタジオである。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品は通常、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズのブランドの下で配給される。
1986年2月3日設立。あのスティーブ・ジョブズが設立した。
コンピュータ・グラフィック(CG)によるアニメーション作品を制作するアニメスタジオ。もともとはディズニーとは別会社であったが1995年のトイストーリー以降、ディズニーが共同制作し、配給もディズニーが行い、両者の間で興行収入などを分配する契約が締結された。
1999年のトイストーリー2制作以降、アイズナーとピクサーが対立し仲違いしかけたが、当時ディズニー社は収入の多くをピクサー作品に依存していたことからディズニー社の株主たちがピクサーとの関係断絶に猛反対。2005年にアイズナーが辞職したことをきっかけに、関係が改善し、2006年5月5日にディズニーがピクサーを買収し、ディズニーの完全子会社となった。
現在はピクサー作品もウォルト・ディズニー・ピクチャーズのブランドの下で配給される。ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオよりも歴史は浅いが、既に同スタジオに負けず劣らずの人気とブランド力がある。
長らくピクサーの象徴的存在であった重鎮ジョン・ラセターはセクハラ問題で2018年に辞職した。でも別にジョン・ラセターだけがピクサーではないんだ、アンドリュー・スタントンさんとかもいるから。
ディズニーのライブアクション映画(実写映画)を中心に制作している。特に、ディズニーランドのアトラクション「カリブの海賊」の世界観をテーマにした実写映画「パイレーツ・オブ・カリビアン」は歴史的な大ヒット作品となった。
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオ作品、ピクサー・アニメーション・スタジオ作品も通常、ウォルト・ディズニー・ピクチャーズのブランドの下で配給される。
2009年4月22日に公開した「アース」からスタートした、自然保護区などでの動物たちに密着する一連の実写ドキュメンタリー映画シリーズ。
もともとはディズニーとは別会社であったが、2010年にディズニーが買収。アメコミ、ヒーロー系の作品を中心に展開している。
「スパイダーマン」「Xーメン」「ファンタスティック・フォー」「アベンジャーズ」「アイアンマン3」などの作品の制作・配給の権利はディズニー買収以前にマーベルが第三者にライセンス許諾していた。「アベンジャーズ」や「アイアンマン3」はディズニーが買い戻した。「スパイダーマン」に関しては映画製作をソニー・ピクチャーズが行い、グッズ販売などをディズニーが行う契約をディズニーとソニー・ピクチャーズが締結した。
同スタジオの2019年公開の『アベンジャーズ/エンドゲーム』は「アバター」を抜き、全世界興行収入ランキング歴代1位の記録を叩き出し、「史上最も売れた映画」となった。
言わずと知れた映画シリーズ「スターウォーズ」や「インディ・ジョーンズ」シリーズの権利を保有する。2013年にディズニーが買収し、スター・ウォーズのエピソード7以降をディズニーの下で制作してるほか、スピンオフ作品であるローグ・ワンなども展開している。
ちなみに、ルーカス・フィルムのコンピュータ・アニメーション部門をスティーブ・ジョブズが買収し、立ち上げた会社こそがピクサーである。一旦は買収され独立した自社の部門が、巡り巡って両社とも「ディズニーの子会社」になるという形で再び関連会社となるとは、当時は夢にも思わなかったであろう。
ハリウッドにおけるビッグシックス(6大映画会社)の一角。もともとはディズニーとは別会社だったが2019年にディズニーが買収した。買収時は20世紀フォックスだったが、ディズニーが保守的なイメージの強いフォックスの名を嫌ったため、20世紀スタジオに改名された。
20世紀スタジオの傘下として、さらに以下の映画スタジオがある。
ディズニー映画の映画音楽、テレビ番組用音楽、テーマパーク用音楽などの制作・配信・販売などを行っている。
ディズニー映画やディズニーのテーマパーク用の音楽を中心としたレーベルである「ウォルト・ディズニー・レコード」とポピュラー音楽やロック、ヒップホップなどの成人向けレーベルである「ハリウッド・レコード」の2つのレーベルがある。
また契約を結んでいるアーティストによってライブエンターテイメントを行うディズニー・コンサート、著作権を管理するディズニー・ミュージック・パブリッシングも含まれる。
ディズニーのライブ・エンターテイメント・イベントの開発・制作などを担当する。
ブロードウェイ・ミュージカルやその他のミュージカルの制作や、フェルド・エンターテイメント制作の「ディズニー・オン・アイス」及び「ディズニー・ライブ!」へのライセンス付与も行っている。
掲示板
1770 ななしのよっしん
2025/03/22(土) 02:33:28 ID: zOd6Ezt7sH
1771 ななしのよっしん
2025/03/22(土) 12:46:50 ID: bJAQr3hw97
>>1767
・この映画で一番応援したくなるキャラは毒林檎
があまりに端的過ぎて好き
1772 ななしのよっしん
2025/03/23(日) 07:41:57 ID: UwSRwvL8DG
>>1759
「It's Hollywood, Baby」
あれなんよ、現代のハリウッドの人ら完全に昔話で継子イジメをする側の人間なんよ
業界で成功した親から地位を引き継いだ特権意識が強く傲慢で嫉妬深い貴族たち
彼らは身内へのマウンティングの一手段として農民にモラルを説くことで善人アピールをしているが、彼らの根っこの部分にある性悪さが言葉の節々から滲み出てくる
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最終更新:2025/03/24(月) 17:00
最終更新:2025/03/24(月) 17:00
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