甲相駿三国同盟 単語


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甲相駿三国同盟(こう・そう・すん・さんごくどうめい)とは、戦国時代甲斐武田相模北条駿河今川の間で結ばれた同盟のことである。1554年に完成し、1568年に崩壊した。

概要

戦国時代に数多く結ばれた同盟関係の中でも、極めて大きな力を持ち、かつ非常に機的な同盟として、高く評価されている。関東東海地方に割拠した大大名3による婚姻同盟。

これの締結によって三は背後の憂いがくなり、武田信濃方面へ、北条北関東や房総半島へ、今川は三河方面へと勢力を拡げていく。その川中島の戦いなどが勃発する事になる。

だが桶狭間の戦い今川義元が討死して今川弱体化したことを受け、武田信玄今川領の武力併合を論む。こうして約15年で同盟関係は破綻した。

同盟締結

これを提案したのは今川の軍師・太原雪斎であると言われている。各の嫡男に各ぐ政略結婚が行われ、3婚姻関係となった。

       武田信       北条氏       今川義 (今川)      ├───┐      ├────┐      ├────┐    (武田)
 嶺松院 =義信 黄梅院 == 北氏政 早川殿 == 今川氏真 嶺松院 == 武田義

駿河の善得寺で同盟が締結されたと言われる。ドラマなどでは信玄・氏康・義元の3人が直接顔を合わせて同盟を結ぶ図(善得寺会盟)が描かれる事も多いが、流石にこれは創作の模様。

1552年に今川武田1553年に武田北条1554年に北条今川婚姻が成立して三同盟は完成した。

ここまでに至る三家の関係

順序としては遡るが、戦国時代前半(1500年頃~)における武田北条今川の関係について簡単に解説しておく。アバウトに言えば、北条今川は友好関係が長く、武田北条の仲であった。

北条(後北条氏)の始祖である北条早雲伊勢盛時)は、今川氏親今川義元)の叔父であり、氏今川相続に協力した人物であった。そして今川の客将という身分を経て、伊豆相模へ侵攻して大名として独立するが、あくまで円満独立であり、今川北条は友好関係を長く築いていた。

一方の武田は、北条以前の関東の支配者である山内上杉らと友好関係にあり、北条関東進出にはしく反発してきた。その流れから今川とも敵対関係にあった。

ところが1536年、今川(義元の)が急死して今川督争い(倉の乱)が起こると、この関係に変化が訪れる。当時の武田武田信虎(信玄の)はこの争いで義元を支持し、義元が乱を制するとがせ、武田今川の関係を改善させた。

これに北条は反発して今川と断交、「河東の乱」と呼ばれる戦いで富士以東を占拠してしまった。和は成立したものの、今川北条の蜜関係は一旦壊れてしまう。

この後、同盟関係を推進していた武田信虎が信玄によって駿河に追放される事件も起こったが、武田今川は友好関係を維持した。武田北条は一貫して敵対関係にあったが、両者の敵対の一因であった山内上杉は衰退の一途をたどっており、関東情勢の変化は両者の外交にもを与えることになった。

三国同盟成立後

武田信濃侵攻をますます強め、1553年に北信濃村上義清駆逐した。これがきっかけで、以降越後の長尾景虎上杉謙信)との間に川中島の戦いが勃発する事になる。

北条は既に山内上杉を追い詰めていたが、1552年頃には上杉憲政を越後に追放した。長野業正らのしい抵抗を受けつつも上野へと勢力圏を広げる一方、古河足利晴氏閉するなど、東関東にも進出していく。

今川は既に遠江・三河にまで勢力を拡げていたが、義元は氏督を譲って駿河統治を任せ、三河・尾の支配権を狙って西進を続けていく……が、1560年、桶狭間の戦いが起こり、今川義元はまさかの討死を遂げた。

同盟崩壊

狭間で義元が死亡した事で、今川は大きく動揺し、今川氏真は相次ぐ反乱の対処で手一杯になってしまう。

一方、越後に逃亡していた上杉憲政から督を譲られた長尾景虎改め上杉政虎謙信)が関東へと出兵を開始。北条は苦戦を強いられる。

武田信玄はというと、川中島の戦いが一段落して信濃支配を安定させつつあり、更には今川を破った織田信長美濃侵攻のために誼を通じてきた。こうした情勢の変化から、弱体化している今川領を併合する事を考えるようになる。

武田義信は、信玄との外交方針に相違があったとされる。信玄は謀反未遂の事件の際、「義信との子関係に問題はない」とする手紙小幡五郎に送っている。最終的に嫡のち 2年後の永10年に義信は病死している。院を駿河へ帰させる様に要請した。信玄は帰らせる事に難色を示したとされる。氏が色々手続きを済ませ、最終的に駿河に戻った院は、して尼と称した。江戸時代に、尼は嫡男の教育を取り仕切る役職を貰い(介錯上臈)徳川秀忠教育をして徳に仕えていた史料が見つかっている。1568年、信玄は駿河に侵攻。同盟関係は破棄された。

信玄は北条氏康にも今川攻めを提案しているが、氏康はこれに反発して今川との同盟維持を選択した。院は、そのまま北条で氏政と共に暮らしていたが永12年に小田原城で27歳という若さで亡くなった(病死と言われている)。北条氏政と信玄の双方が彼女の墓を立てて弔っている。なお北条氏直院が産んだ息子である。

※近年の論文、史料の再検証と供養記録検証、氏政・氏直の研究により院は離縁も送り返されてもい事が明らかになっており、北条で亡くなった事と判明している。1970年代に史料誤読があった事が原因と摘されている)

今川氏真1569年に降して、戦国大名今川は滅亡した。その後は妻の実家である北条、のちに徳などを頼って流転する事になるが、妻・早川殿は彼に付き従い続けた。三同盟で誕生した三組の夫婦のうち、彼らだけが夫婦として生涯を全うする事になる。

さらにその後

今川滅亡後、北条上杉謙信は和し、越相同盟を結んで武田に対抗するようになった。この時、人質として北条から上杉に送られたのが氏康の息子北条三郎、のち謙信の養子となり上杉景虎を名乗る。彼の存在は上杉でも一波乱起こす事になるが、それはまた別の話。

越相同盟が手切れになると、再び北条武田の同盟関係が復活するが、この時は以前とは逆に、氏政の殿武田勝頼ぐことになる。複雑怪奇な義兄弟関係である。

同盟崩壊後、武田織田との同盟で勢力を維持していたが、後々その織田を裏切って信長包囲網に加わり、西上作戦を行う…がその最中に信玄は死去。以降、武田織田の執拗な攻撃を受け続ける事になる。

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