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1 ななしのよっしん
2019/10/21(月) 05:25:02 ID: cWGBGZpERD
>津川左近と毛利長門に追い出される。
大野治長の記事でもこの記述をしているけど
ウィキペディアだと"津川近治と毛利勝永によって"と書かれている。
津川左近
→左近は通称なので、近治(もしくは親行)と書く方がいいのでは?
毛利長門
→毛利長門だと勝永の息子の勝家を指すのでは?
(昭和53年に建てられた淀君並殉死者三十二名忠霊塔には
勝家と思われる人物が長門と記されているけど、
一緒に切腹したと言われる勝永の弟・山内勝近が含まれてなかったりして
何を根拠として建てられているのかちょっと怪しく思える・・・)
2 作成者
2019/10/21(月) 10:15:33 ID: Fj/ikIqCk3
>>1
津川左近は津川近治で間違いないですね、修正しておきます…
毛利長門は管見の限り近親者のだれかではない、という結論です
秀頼と共に切腹をした毛利名字の人間は、五人衆のあの人を除くと、
毛利勘解由、毛利長門守のブレがあり、この『浅井一政自記』でようやく長門守の方が裏付けが取れます
この長門守が、いわゆる一緒に切腹した息子というのは『大坂御陣覚書』、『大坂軍記』に記載があるのですが、
毛利勝家と同一人物どころか、そもそも息子というのも怪しいっぽいんですよね…
というのも、近世の編纂史料な上、論文などによる史料批判に目を通せていない(そもそもあるのか?)、
息子の毛利勝家は『皆山集』によると天王寺表で戦死、
弟の山内は『南路志』によると最初から最後まで徳川方で、戦後も息子の代に断絶するまでは浅野家に仕えているらしくって…
というわけで、こちらは毛利長門のままにさせてください…
3 ななしのよっしん
2019/10/21(月) 18:54:33 ID: cWGBGZpERD
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