えのころ飯(旧字体:ゑのころ飯)とは、日本の薩摩にて食べられていたと伝えられる料理である。
端的に言えば、子犬の腹を裂いて内臓を取り出し、中に米を詰めて丸焼きとしたもの。薩摩(現在の鹿児島県の西側)で食べられていたとする文章が存在している。
そのまま丸焼きの犬ごと食べる肉料理というわけではなく、色がついた蒸し飯になった米を取り出して、そば切の汁をかけて食したようだ。とても美味であったと記されている。
「えのころ」という言葉は漢字で書くなら「犬子」「犬児」「狗子」「狗児」となり、つまりは子犬を指す。「いぬころ」または「いぬっころ」から訛ったものらしい。要するに「犬ころ飯」である。植物の「エノコログサ」でよく知られるが、このエノコログサは穂の形が子犬の尻尾に似ているためにそう名がついたらしい。
江戸時代の文人である「津村淙庵」の随筆・見聞録『譚海』に、以下のような文章が収録されている。
薩摩にては狗の子をとりえて腹を剖、臟腑をとり出し、其跡をよく〱水にてあらひすまして後、米をかしぎて腹内へ納、針金にて堅くゝり封じて、其儘竈の焚火に押入燒なり、始は燒かぬるやうなれども、しばらくあれば狗の膏火に和して、よく焚て眞黑になる、其時引出し針金をとき、腹をひらき見れば、納置たる米よく蒸て飯と成、其色黃赤なり、それをそば切料理にて、汁をかけて食す、味甚美なりとぞ、是を方言にはゑのころ飯といふよし、高貴の人食するのみならず、さつま候へも進む、但侯の食に充るは赤犬ばかりを用る事といへり、
また、同じく江戸時代の文人である「蜀山人」(大田南畝)の随筆集『一話一言』の後からの追加部分『一話一言補遺』にも以下の文章が収録されている。
○薩摩にて狗を食する事
薩摩にては、狗の子をとらへて腹を裂き、臟腑をとり出し、其跡をよく〱水にて洗ひすまして後、米をかしぎて腹内ヘ入納、針金にて堅くく〻りをして其ま〻竈の焚火に押入燒なり、初は燒け兼ぬるやうなれども、暫く有れば狗の膏火に和して、よく焚て見れば、眞黑になる、納置きたる米よくむして飯となり、其時引き出して針金をとき、腹を明け其色黃赤なり、それをそは切料理にて、汁をかけて食す、味甚美なりとぞ、是を方言にはゑのころ飯といふよし、高貴の人食するのみならず、薩摩侯へも進む、但侯の食に充るは、赤犬斗を用る事といへり。
この『譚海』と『一話一言補遺』の文章はほとんど同じで、言い回しや文字使いがわずかに異なるのみである。どちらかがどちらかを引用したものか、あるいは現在では知られていない共通の元ネタ本があったのかもしれない。
これら二つの「ほぼ同一の文章」よりさかのぼる出典は無いようで、これ以後の記述もこれらの文章のどちらかを参照したものばかりであるようだ。
実際にこういった料理があったのか、という点についてはよくわからない。『一話一言補遺』の方は他にも「長崎の唐人屋敷には幽霊が出る」「ウサギも腹鼓を打つ」「大亀を助けた百姓が、お礼に貴重な薬木の枝を亀から渡された」などと言ったあからさまに胡散臭い話も掲載されているような書物である。
ただし、犬を騎射の的とする弓術鍛錬にして一種のスポーツでもある「犬追物」で殺された犬を食べたという記録は室町時代からあり、また薩摩ではこの「犬追物」が他の地よりも長く残っていたことで知られる。よって「こういった料理はありえないものだ」とは言いがたく、存在していたとしてもおかしくはない。
また、鹿児島県の地方新聞である南日本新聞の社長も務めた人物である鹿児島県人の「川越正則」氏による1950年の書籍『南日本文化史』に、えのころ飯について説明した文章の後に
現在はどこにもこういうやり方はのこつていないようである。しかし、犬だけはいまも食つており、赤犬が最もよいとされ、ワンの汁は二杯とないという言葉があり、犬の肉は体がたまるともいう。
と記されており、少なくとも1950年代の鹿児島県民から見て「ありえない料理だ、フィクションだ」というとらえ方ではなかったことがうかがえる。
明治~昭和時代の作家「真山青果」が1928年に『文芸春秋』に載せた随筆「口嗜小史」に、幕末の儒学者「頼三樹三郎」(頼山陽の息子)について記した以下のようなくだりがある。
梁川星巖、ひそかに賴三樹三郞を評して、「彼はおやぢの名聲と終生格闘して大怪我をする男だ。」と云つたさうだが、彼の性質傲岸不覊、酒癖惡しく、人を人とも思はぬ男であつたらしい。そのくせ根はかなり小膽な臆病者で、醉つて山陽の名を云ふ時は必ず涕泣する癖があつたと云ふ。例の寛永寺の亂暴一件で昌平校を追はれて、齋藤拙堂の送序一篇をふところに悄然と東北漫遊の途にのぼつた際には、わが大叔父栗村五郞七郞と同塾の關係よりして、暫くの間僕の外祖母の家に寄留してゐたことがあるとて、幼時祖母の話に、よく三樹三郞の噂を聞いてゐる。その中で今にも明かに覺えてゐることは、三樹三郞は京都生れの故か魚類は餘り好まず、鳥獸の肉を非常に嗜み、鷄家鴨は勿論時には近隣の飼猫まで撲殺して食ふので、これには甚だ迷惑したと云ふ。或る日、賴三樹は錢湯よりの歸途、飴色なる小犬の頸を荒繩にてくゝりつけ、信々と悲鳴をあげさせつゝ庭先から歸つて來たるに、來たるに、家族の者は驚いて仔細を問ふと、長々御厄介になつた御禮に今日はゐぬごろ飯とて薩摩料理の極上を皆樣に御馳走しませうと云ふ。料理と云へばいづれ小犬を殺すことに相違ないから.今日は何某の精進日なればなど、女ども樣々に言譯して、漸くに小犬の繩を解き放ちやりしと云ふ話を聞いてゐる。この頃調ぶることありて津村淙庵の譚海を繙くと、丁度そのゐぬごろ飯の調理法が書いてあつた。序にその本文のまゝ載せて置く、
これより以下には、前記の『譚海』からの引用文と同じものが掲載されている。「ゑのころ飯」(えのころ飯)が「ゐぬごろ飯」(いぬごろ飯)と呼ばれることもあったと判断できる資料だろう。なお京都出身の頼三樹三郎がなぜ薩摩料理であるはずの「ゐぬごろ飯」を作ろうと思い立ったのかは不明。とりあえず他人の飼猫を撲殺して食うようなこの不届き者には罰が当たればいいと思う。
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最終更新:2025/12/15(月) 17:00
最終更新:2025/12/15(月) 16:00
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