しまね丸とは、大東亜戦争末期に大日本帝國海軍が建造したタンカー及び商船改造空母である。
大東亜戦争も末期に入り始めた頃、輸送船の損耗を少しでも減らすため陸海軍は協議を行った。その結果、比較的大きな輸送船である戦時標準船TL型に飛行甲板を搭載した輸送船改造空母を建造し、哨戒に充てる案が生み出された。さっそく陸海軍は行動を移し、建造中のTL型輸送船をそれぞれ購入。海軍が徴用したものがしまね丸となり、陸軍が徴用したものが山汐丸となった。
1944年6月8日、特TL型戦時標準船740番船として川崎神戸造船所にて起工。12月19日に進水し、しまね丸と命名。石原汽船所属となったが、1945年2月29日に海軍が徴用。工事未了であったが、竣工扱いになって呉鎮守府所管となった。徴用されたとはいえ所属は石原汽船所属のままで、軍需品輸送のかたわら海軍配当船として運用する計画だった。排水量2万469トン、全長160.5m、速力18.5ノット、艦載機12機、そして1万5000トンの燃料を輸送可能な巨体を誇った。艦載機には九三式中練習機が選ばれた。
3月17日、神戸大空襲に巻き込まれる。神戸港南側に係留されていたしまね丸に米空母サン・ジャシント艦載機が襲来。この時の様子がガンカメラで撮影されており、短いながらも攻撃の様子が窺える。飛行甲板に多数の機銃弾を喰らい、南側では爆弾が炸裂して水柱が立つ。エレベーター付近に直撃弾を受け、炎上。船体から燃料が漏れ出た。一連の攻撃で船員6名が戦死し、予定していた兵員の乗り込みは中止された。以降は深刻な燃料及び航空機不足によって動く事が出来ず、応急修理を施された後、4月初旬に香川県志度湾へと避難。迷彩塗装や植木で擬装を行った。だが早々に連合軍に察知され、何度か空襲を受けている。
7月24日、志度湾に停泊しているところへ英第37機動部隊の艦載機が襲来。直撃弾によって船体が真っ二つに裂かれ、大破着底。6名が死亡した。沈没としている資料も散見されるが、船体の殆どが水上に出ている状態だった。そしてそのまま8月15日の終戦を迎えた。
終戦後の1948年、しまね丸の船体は解体された。この時、マスト2本が地元に引き取られ、警鐘台として再利用された。現存しており、志度町消防団鴨庄台部屯所前に残っている。英軍機の機銃掃射を受けた跡が生々しく穿たれている。現在は高松市屋島の四国村に移設された。2006年4月、有形文化財に指定。
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最終更新:2025/12/13(土) 15:00
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