アンドレア・ドヴィツィオーゾ(Andrea Dovizioso)は、イタリアはエミリア・ロマーニャ州出身のMotoGPライダーである。
2004年のMotoGP125ccクラス世界チャンピオン。ゼッケンナンバーは4。
アンドレア・ドヴィツィオーゾは、イタリア、エミリア・ロマーニャ州フォルリ=チェゼーナ県フォルリンポーポリにて、1986年3月23日に生まれた。
4歳の時からモトクロスバイクに乗り始め、7歳からミニバイクのイタリア国内レースに参戦するようになった。2000年には125ccクラスのレーシングバイクに本格的に跨ることになり、翌年ヨーロッパ選手権チャンピオンとなる。
2002年からはロードレース世界選手権(MotoGP)の125ccクラスにデビュー。3シーズン目に同クラスチャンピオンに輝いた。
2005年には250ccクラスにステップアップし、その年にランキング3位でルーキー・オブ・ザ・イヤーを獲得。その後も2シーズン継続参戦したが惜しくも連続ランキング2位に終わり、中量級でのチャンピオンは取れなかった。ちなみにこの時に連続250ccチャンピオンを取ったのが、ホルヘ・ロレンソである。
遂に2008年から最高峰のMotoGPクラスにホンダのサテライトチームであるチーム・スコットからデビュー。シーズン終盤にして初表彰台3位に登り、ランキング5位となった。
翌年はホンダのファクトリーチームに抜擢。レプソル・ホンダのファクトリーライダーとなった。当時のチームメイトはダニ・ペドロサ。雨のレースとなった第10戦イギリスGP,スリックタイヤで走るかレインタイヤにするか微妙な判断を迫られるコンディションの中、スリックタイヤのまま走りきり初優勝。この年のランキングは6位だった。
翌年2010年はランキング5位、更に翌年にはランキング3位と成績は良好ながらも、あの後優勝が無かったドヴィツィオーゾは、安定性はあるものの決め手に欠ける地味なライダーとの評価が固まりつつあった。
レプソル・ホンダは、更なる勝利を挙げるためにドゥカティからチャンピオンライダーのケーシー・ストーナーを招聘。その体制変更の中で2012年にシートを喪ったドヴィツィオーゾはヤマハのサテライトチームであるモンスター・ヤマハ・テック3に移籍。カル・クラッチローとコンビを組んでまたも堅実な戦いを見せてランキング4位に入る。しかし、やはりサテライトチームでは優勝はなかなか望める状況ではなかった。
勝つためにはファクトリーライダーである必要がある。それを求めてドヴィツィオーゾはドゥカティに移籍。チャンピオン経験者のニッキー・ヘイデンとコンビを組む。だが、当時のドゥカティはまさにどん底の状態。全盛時代を作ったケーシー・ストーナーの移籍後にイタリアチームでの勝利を求めてやってきたバレンティーノ・ロッシが2年間の苦戦の末にサジを投げてヤマハへ出戻ってしまったのである。ドヴィツィオーゾには迷走したマシン開発を一から立て直すという重責がかかることになった。この年は表彰台にも上がれずにランキングは8位に沈んだ。
チームは再び栄光を取り戻すために改革を断行し、ジジ・ダリーニャをゼネラルマネージャーとして迎え、長年未勝利のチームに与えられるシーズン中のエンジン開発などの優遇措置をフル活用しつつマシン開発を進める。こうしてドヴィツィオーゾはコツコツと自らのバイクを作り上げていくのである。
2014年にはテック3時代以来のカル・クラッチローとのコンビとなったが、ジョンブル気質全開のクラッチローはこのチームの空気に馴染めず1年で去る。新たにサテライトチームからの昇格でやって来たアンドレア・イアンノーネはこれまた熱血系イタリアンであり、やはりドヴィツィオーゾはチームメイトに比較されると地味な印象を拭えなかった。こうして、2014年は2度の表彰台でランキング5位、2015年は5度の表彰台に登るがシーズン後半に失速してランキング7位。
2016年、開幕戦カタールで2位表彰台と幸先良くスタートを切ったが、チームメイトのイアンノーネの無茶なレースに度々悩まされ、チーム同士討ちなどのアクシデントで取れるポイントを落とすなどもあった。そして、オーストリアGPでチームの数年ぶりの優勝を先にイアンノーネに取られてしまう。この時2位に入ったドヴィツィオーゾはさすがに悔しさを隠せなかった。しかし、シーズンも終盤のマレーシアGPでなんと7年ぶりの優勝を果たした。この年は9人もの優勝が出る稀有のシーズンとなり、彼はその9人目だったのである。しかし、これは長年ドゥカティ機を開発し続けてきたドヴィツィオーゾがその苦労へのご祝儀をもらったようなものという雰囲気が強く、翌年にはイアンノーネに代わってヤマハのチャンピオン、ホルヘ・ロレンソの移籍が決まっていた中、彼はやはり話題の中心からは離れた存在だった。
そして2017年、地元イタリアGPで優勝し、何かを掴んだドヴィツィオーゾはそのまま2連勝。一時はランキングトップに浮上した。その後もレプソル・ホンダのマルク・マルケスとランキング争いを繰り広げることになる。圧巻はオーストリアGPでの最終ラップ。最終コーナーで強引にインに飛び込んで激しいアタックを掛けてきたマルケスを、冷静にストレートへの立ち上がりでかわしての優勝だった。こうして前年までの長い最高峰クラスでのキャリアでたった2勝しかしていなかった男は目覚ましい覚醒を見せた。チームメイトのロレンソがある程度予想されていたとは言えマシンの特性に苦しみ、勝利を挙げられない中、彼は実に日本GP前までに4勝、堂々のランキング暫定2位となった。
ウィークを通しての雨に見舞われた日本GP。MotoGPクラスの決勝は強い雨の中のレースとなった。やや後方からのスタートだったドヴィツィオーゾは早い段階でトップグループに加わり、マルケスと一歩も引かないマッチレースを展開。残り数周の間、何度もトップを入れ替えながら雨のリスクも感じさせないドッグファイトを繰り広げた。最終ラップにはマルケス先頭、ドヴィツィオーゾ2位のまま突入。コース途中のマルケスのワンミスをきっかけに追いつき、バックストレートエンドで抜き去るドヴィツィオーゾ。だがマルケスは諦めずにまたも最終コーナーでアタックを仕掛ける。やはり冷静なドヴィツィオーゾはドゥカティ機の立ち上がりパワーを最大限に活かして、僅差でマルケスを降しシーズン5勝目を挙げた。まさに歴史に残るバトルに観衆は二人への賛辞を惜しまなかった。
この記事を書いている時点(2017年10月17日)ではまだチャンピオンシップの決着はついていない。
イタリア人の一般的なイメージとは違い、良く言えば温厚、悪く言えば地味な性格である。
勝利の時も派手に喜ばず、決して偉ぶることはない。その気になれば激しいバトルもするが、必要以上に熱くならずに一歩引いて場面に対処していく。同じイタリア人のロッシやイアンノーネがついついエキサイトしがちなのとは対照的だ。
そんな彼だが、2017年シーズンでは確たる自信を秘めるようになってきた。彼の心境の変化には彼自身が言うにはある心理学者との出会いと言うきっかけがあったそうだ。
家族は、妻と娘が一人いる。
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最終更新:2025/12/11(木) 18:00
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