アーレイ・バーク 単語


ニコニコ動画でアーレイ・バークの動画を見に行く

アーレイバーク

8.2千文字の記事
これはリビジョン 1916022 の記事です。
内容が古い・もしくは誤っている可能性があります。
最新版をみる

アーレイ・バークとはアメリカ海軍軍人。第二次世界大戦に参加。最終階級は大将、海軍作戦部長を3期6年にわたって務めた。
戦後、日本との関係も深く、海上自衛隊創設及びその発展に援助を惜しまなかったことでも知られる。

同名の駆逐艦については「アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦」を参照のこと。

概要

太平洋戦争の活躍まで

1901年10月19日生まれ。スウェーデン系移民の子孫であり、バーク家のもともとの苗字はビョーグレンだったが移民時にバークと改めたという。さほど裕福ではない開拓農民を営む親から大学の授業料・生活費を出してもらうこと難しいと察したバークは、ウェストポイント陸軍士官学校を目指すものの、推薦枠に開きがなく、結果的にアナポリス海軍兵学校の門をくぐることとなる。
1923年に海軍兵学校を卒業。成績は卒業生413人中71位。卒業後、そのままの足で兵学校に入学すると同時期に付き合い始めたロビータ(ボビー)と結婚。彼女は海軍士官として任地を変えることが多いバークの良き妻として生涯を共に過ごすことになる。
少尉として戦艦<アリゾナ>に乗り組み勤務。このころから勤勉かつ熱心な士官として頭角を現し知られ、周囲からは「50になる前に死ぬだろう。もし死ななければ海軍作戦部長になるだろう」と言われていたらしい。
1929年、働きぶりもありアナポリスで幹部教育を受ける。ミシガン大学で化学を学び工学修士にもなっていた。
この当時から将来、日本との衝突を予期していたとされる。

太平洋戦争開戦時、ワシントンで内局勤務のまま中佐だった彼の再三の要望が通り、戦争中盤に南太平洋海域に配属され、駆逐隊、水雷戦隊司令を歴任。ソロモン海を中心に日本海軍と戦いを繰り広げることになる。この功績などもあり大佐に昇進。1943年10月には第23駆逐隊群<リトル・ビーバーズ>司令として着任する。
ブーゲンビル島沖海戦に参加。そしてセント・ジョージ沖海戦ではレーダーを生かした戦いで日本海軍のお家芸でもある夜戦において勝利を得る。
この戦いでバーク率いる水雷戦隊は、バーク立案の戦術のもと日本海軍駆逐艦3隻(<巻波>、<大波>、<夕霧>)を撃沈せしめた。ちなみに<大波>艦長は、吉川潔中佐(この戦いで戦死)
前<夕立>艦長として第三次ソロモン海戦で勇名をはせた名駆逐艦長であった。

このころ、後々のバークの異名ともなる"31ノット"・バークと呼ばれることとなる。当時の駆逐艦隊の規定速度が30ノットにもかかわらず「31ノットで航行中」と打電したから、という話があるが実際のところは、当時日本海軍の新たな動向を察知した司令部により、付近を航行していたバーク率いる駆逐群に、艦隊速度と到着時間を問い合わせる電文を出す。
これにバーク大佐が(当時の駆逐艦は35ノットまで出るが、所属駆逐艦の一隻に機関トラブルがあり)「31ノットで航行中」と返電。さらにバークの友人であった司令部所属の大佐が「31ノット・バーク、(中略)敵と遭遇せし時ははなすべきことをなせ」とハルゼー名義で電文を出したことが報道陣に知れてから、という話が伝記にあるという。

ソロモン海での激戦を戦いぬいたこの時期、4ヶ月間22回の戦闘に参加したという記録が残っており、巡洋艦一隻、駆逐艦九隻、潜水艦一隻を撃沈とアメリカ海軍は評価。その優秀さは高く評価された。
その後、第5艦隊・第58任務部隊(空母機動部隊)参謀長としてマーク・ミッチャー中将を補佐。航空機畑のミッチャー中将としては水上艦畑のバークの参謀長就任を快く思っていなかったとされるが、その後の関係からいってもすぐに互い打ち解けていたのではないかと思われる。

1945年4月。大和以下第二艦隊が出撃したことを察知したミッチャー艦隊は、空母艦載機による波状攻撃を行い、大和、矢矧らの艦を撃沈(坊の岬沖海戦)。日本海軍の艦隊水上特攻を防ぐ。
この後、
沖縄戦での航空支援に従事するものの、5月11日に乗艦していたバンカー・ヒルに特攻機が突入。ミッチャー、バークは助かるものの幕僚数名が死亡。損害を受けたバンカー・ヒルから旗艦をエンタープライズに移すものの、その二日後に再度特攻機突入による攻撃を受けるなど苦闘を強いられている。

太平洋戦争以後・極東派遣から海軍作戦部長就任・退役後について

太平洋戦争後、内局勤務後ほどなくして1946年にミッチャー中将の引きもあり、大西洋艦隊参謀長として就任。しかしミッチャー中将の健康状態が思わしくなく、翌年ミッチャー中将が死去すると任を離れて、1948年、軽巡ハチントンによるアフリカ及び南アメリカ航海の任につく。その後、アメリカ国防科学委員会(DSB)などの内局勤務につく。

この時期、アメリカ海軍は大揺れに揺れていた。核兵器の実用化に伴い、従来の空母機動部隊の有効性に疑問符がなげかけられるとともに、(当時、陸軍から独立したばかりの空軍の)戦略爆撃が優位であるという意見が優勢を占めていた。
当時の核兵器(核爆弾)は巨大であるため、それを運搬する航空機も必然と大型化せざるをえない。空母の有効性を持続させるためには、艦載機も大型化させ、かつそれを運用させるしかない。海軍は通常動力型空母として空母<ミッドウェイ>よりもさらに巨大な空母<ユナイテッド・ステーツ>建造を行おうとしていたが、これには巨額の予算が必要で国防費削減を望む政府及び陸軍、空軍の猛反発を受け、心労がたたったのか国防長官のフォレスタルが倒れると、後任のジョンソン国防長官の独断により建造が中止するという出来事が起きる。
この一連の動きの中で、アーレイ・バーク大佐引きいる研究グループ"Op-23"は、空軍(というよりカーチス・ルメイが主導する戦略航空軍団SAC)が導入しようとしていた爆撃機B-36<ピースメイカー>の批判的資料を集め、性能及び運用評価において疑問を投げかけるなどの運動を行っていた。

結果的に国防長官の不正などを指摘する怪文書まで飛び交うだけではなく、一連の動きに反対した海軍上層部の数多くの将官(提督)らが辞任・解任・更迭されるなどがおき、一連の騒動は『提督たちの反乱』と呼ばれることとなった。
この騒動の結末はカール・ヴィンソン下院議員主導による(喧嘩両成敗的な)取り成しが行われ、海軍よりである議員の尽力もあり、空母をはじめとする艦隊は存続を許されることとなる。

この一連の動きの中でバーク大佐にとっては海軍のキャリアが危ぶまれたものの、時の海軍作戦部長フォレスト・シャーマンのとりなし(トルーマン大統領の指示もあったといわれる)もあり、無事キャリアに傷つくことなく朝鮮戦争勃発と前後して日本に極東艦隊参謀長として1950年に赴任することとなる。
(やりすぎちゃったのでほとぼり覚ますまでちょっと現場送りになったようなものかどうかは不明ではあるが)。

朝鮮戦争においては日本占領下において、アメリカ海軍がGHQの反対を押し切る形で残していた日本海軍の残滓でもある掃海部隊(当時は海上保安庁所属)に、朝鮮半島沿岸部に設置された機雷掃海を要請(事実上の命令)を行った。要請を渋る吉田首相の「この件はマッカーサー元帥も了承しているのか」という問いにうなづいたといわれるが事実は違い、バークの独断であったらしい。結果的にごくごく秘密裏にこの派遣が行われた(詳しくは海上自衛隊・掃海艇の項を参照)。

太平洋戦争での苦い経験(友人を日本軍との戦いで失う、特攻機の攻撃を受ける、上官が日本嫌い)などからか、日本人に対して…正直言えば悪い…印象を持っており「ジャップ」「黄色い猿」と呼び、日本を毛嫌いしていたというが、赴任したあと様々な経験を重ね一転、親日家となったあとは日本の再軍備に伴う海上自衛隊創設やそれ以後の装備貸与など様々な内容ついて親身になり相談、便宜をはかっていたことでも知られる。
この経験については後述の「日本に纏わるエピソード」を参考のこと。
(その一方で、朝鮮戦争停戦交渉などの結果を受けて共産主義に対する強い警戒感があった故もあるかもしれないと指摘しなければならないだろう)

その後、1955年、アイゼンハワー大統領就任後に海軍作戦本部長に昇進。大統領支持のもと異例の3期6年の長きにわたって勤めることとなる。
この背景には、『提督たちの反乱』以後、戦略爆撃機が有効だと信じられていたものの、冷戦下における限定戦争においては、なお通常航空兵力を運用する空母機動部隊が有効性をなんとか確立した海軍において、MAD(相互確証破壊)成立による核均衡下になりつつあるなか、さらなる海軍の存在意義確立をはかるためにバークの見識と指導力が求められ続けていたことも一因であった。
彼の就任時代において海軍は原子力推進を積極的に艦艇に導入。原子力潜水艦およびこれによる核攻撃などの確立のみならず空母などの開発も着手することとなった。
1961年、ケネディ大統領就任後に発生したピッグス湾事件においては統合参謀本部(JCS)のスタッフとして作戦に反対の立場であったが、結局はGoサインをださざるを得なかったとされ、その後のインドシナ半島をめぐる問題についても意見があったものの、ヒッグス湾事件後は大統領らスタッフに信任されることはなかったといわれる。
1961年、任期満了にともない海軍を退役する。

1991年、彼の名をつけられたイージス・システム搭載「アーレイ・バーク」級駆逐艦が就役。生前に名前をつけられたのはめずらしく、「アーレイ・バーク」の就役式典にはバーク提督も参加した。

1996年1月1日に94歳で死去。大統領命令に基づき、イージス艦「アーレイ・バーク」他、「アーレイ・バーク」級駆逐艦全隻および彼が指揮した第23駆逐隊群全艦艇が彼に哀悼の念をあらわすため、5分間31ノットで航行したという逸話が残っている。

余談ではあるが、2011年、東日本大震災において行われたアメリカ軍の"トモダチ作戦"に参加した空母<ロナルド・レーガン>艦長は、トム・W・バーク大佐。彼こそはバーク提督の孫である。(2013年に離任)

日本に纏わるエピソード

  • 当初は日本に赴任後、朝鮮半島へ出張などを繰り返したためホテル暮らしだったという。
    前述したように日本人に対して悪い印象しかなかったため日本人とは距離を置こうとしたが、ホテルでうけた親身な対応の数々に感銘を受けて、考え方を変える一因になったという。
    …朝早くに出て深夜にホテルに寝に戻る生活を繰り返す中、ベットと椅子と鏡台だけという殺風景な部屋の様子をいくらかでも華やかにしようと慰みとして花を一輪買い求めコップの中に差していたところ、翌日花瓶が用意されて差し替えられていた。さらには花が時折変わるのにも彼が気がついた。
    ひそかなもてなしに関心したバーク提督がフロントに尋ねたところ、そんな指示は出しておらずルームメイクを担当していた女性のポケットマネーによるものだったという。ごくわずかな給金の中から花を購入していたというその女性は戦争で…しかも戦争中バークが活躍したソロモン海の戦いで夫を亡くした未亡人だという。彼は金銭面でのお礼を申し出たが彼女は丁寧な口調で断ったという。あわせて夫を失ったのは自分のせいかもしれないというバーク提督の謝罪の言葉に彼女は毅然と、提督は軍人としての勤めを果たしただけであり、悪いとすればそれは戦争ですと答えたという。
    (彼はいささかの金額を、彼女の退職手当用に匿名でホテル側に寄付することにしたという)
    …朝鮮半島の出張から戻り、アメリカ人の出迎えもないまま汚れた惨めな格好で夜中にホテルに帰ってくると、案内される部屋が変わっていた。さほど気にもとめていなかったが、前の部屋があった階で働く従業員が現れ、貴方が家に帰られないので残念がっていると告げた。そうであるならばと、バーク提督とその従業員の二人はフロントに赴き交渉。以前使っていた部屋へ戻ることになる。以前の部屋に戻るとその階を担当している従業員達全員が現れ暖かく出迎えるとともに暖かいお茶を用意してもてなしてくれた。その心遣いにバークは思わず涙が出そうになったと後に語っている。
    このように単なる客にしか過ぎない彼(しかも元敵国軍人だというのに)に対してホテルの職員たちは親身に接していたという。
    以上のような話が続き、彼は自分の日本人嫌いが正当なものであるのか考えるようになったという。
  • 日本に派遣後、このようなホテルでの出来事から、極東地域における歴史や日本人の価値観などを理解するために、海軍時代良識派としても知られ、開戦時はアメリカ大使も勤めた旧日本海軍大将、野村吉三郎の紹介をうける。初めて出会う敵国の将官は彼に正座で座るようにいい、朝鮮半島の歴史などを講義しはじめた。
    慣れぬ正座のせいで脚が痺れたと訴えるバーク提督に野村提督は真剣に話を聞いていれば脚の痺れは気にならないはずだと諭し、その後も様々な話…日本の歴史、価値観など様々なことを説明したという。バーク提督は野村提督の知性、教養に触れ、九ヶ月の任期の間、一週間に一度は彼の元を訪れ、数多くの示唆を受けたという。
    また朝鮮戦争の推移と、中国の参戦の可能性について問ねられた野村提督の答えはその後の戦争の推移とピタリと一致したという。
    その後、野村提督の薫陶を受けた元海軍士官らの日本海軍再軍備化計画(後の海上自衛隊創設)を後押しすることになる。のちにバーク提督が離日するさい、空港から飛行機で午前二時に出発という時間もあり誰も見送りはしないと思っていた提督の前に野村提督が見送りに訪れた。七十歳代の老人でもあるにも関わらず野村提督は公共機関を乗り継ぎ、最後は歩いて飛行場までくると、バーク提督に別れをつげたという。その後も野村提督の間に終生友情が絶えることはなく1961年に野村提督が亡くなったことをうけてバーク提督はこう書き残している。
    野村提督が亡くなったとき、私は生涯最良の友を一人失った
  • 太平洋戦争時、バーク提督が活躍したソロモン、南太平洋海域での日本側指揮官、元海軍中将草鹿任一が戦後、工事現場で人夫となって働くまで身をやつしたと聞き、最初は無視していたが、 後にさすがに困窮を見かねて食料を送る。ところが、この施しにも似た行為に草鹿提督が激怒。施しは受けないとオフィスに乗り込んで食料を突っ返すという事件が起きる。バーク自身も逆の立場であればそうするにちがいないと草鹿提督に好感を抱き、あらためて草鹿ら元日本海軍将官を食事に招く。
    擦り切れた正装で現れた日本海軍将官らは当初、堅い表情だったというが酒を酌み交わすうちに打ち解けた。宴の最後に乾杯しようというバークの提案に草鹿が立ち上がり以下のように音頭をとったという、バークさんに乾杯を。そして自分も十分に任務を果たさなかったことにも乾杯を。もし忠実に任務を果たしていなかったらこの宴の主人を殺していたはずで、それでは今日の美味しいステーキは食べられなかったはずだ、と。バークもこれに対して自分も任務を果たさなかったことに乾杯したい。でなければ草鹿提督の命を頂戴していたはずで、このすばらしいステーキディナーを誰も味わえなかったからだと返し、互いに笑いあったという。互いが互いの任務を十分に果たしたことを理解したうえで、なおこの場を設けられたこと感謝し合い「日本との戦争は、バークにとってこうして終わったのだ」と伝記は伝えている。
    その後、草鹿提督はバーク提督を靖国神社に招き、遺族会であるラバウル会員たちとの会合ももっている。
  • 朝鮮戦争時代、韓国陸軍の白善燁と歓談。日本海軍再軍備の理由を問われ、「オーシャン・ネイビー(外洋艦隊)を建設するには1世紀という長い時間がかかるものなのですよ。日本海軍が滅びるのはもったいない(大意)」と発言している。
  • 朝鮮戦争において海上保安庁による哨戒部隊派遣の成果を受けて、日本海軍の存続と再生について協力を惜しまなかったという。当時の名称そのままに海上保安庁(コーストガード)的規模を考えていたGHQ側へ旧日本海軍派は海軍規模の復活を求めていた。これに助言と指摘、そしてアメリカ海軍、政府筋に対しての進言を数々行っていた記録が残されている。バーク自身は来るべき日本海軍再建はもっと小規模なものを想定していた感もあるが、結果的にY委員会が組織され、のちの海上自衛隊の礎ができるきっかけともなった。
    このほか作戦部長時代も海上自衛隊装備の貸与などについても様々に便宜をはかるなど物心両面にわたって協力していた記録も残っている。
    彼が手配したものには(アメリカ軍予算で日本側建造・その後日本に供与するという方法で建造した)護衛艦「あきづき」「てるづき」。そして哨戒機P2V-7(16機)やS2F-1(60機)の無償貸与およびP2V-7の国産化後押しなどがある。また海自士官のアメリカ海軍大学への留学生コースも開いた。このコースにのって後の海自トップになる海自士官が留学することになる。余談だが、この中に後に海自中興の祖とも言われ海自装備拡張時期に合わせて海自の方針を定め、アメリカ海軍との密接な関係を作った海自幕僚長中村悌次海将がいる。海将は太平洋戦争中駆逐艦<夕立>に乗艦しており、<夕立>の吉川潔中佐艦長は後にバーク提督との戦いで戦死していることは前述の通りである。中村海将自身は尊敬する人物として上官であった吉川潔中佐とバーク提督の名をあげており、歴史の奇妙な(皮肉な)縁がそこにある。
    その後、海上自衛隊創設25周年を期して纏められた本の序文に寄稿も行っており、野村提督をはじめ様々な旧海軍将官と日本の海上防衛戦力(つまり海自)について語り合ったことは自分にとってももっとも楽しかった経験の一つであると書き残している。

    バーク提督は日本の海軍再建および海上自衛隊についての記述は以下のとおり。

    『(日本の海軍再建について合衆国の利益であると述べた上で)日本が自らの防衛力を有することは、自由社会と合衆国の利益にかなう。なぜなら合衆国が日本を守れないときが必ずくるからである。私は合衆国と日本が友好国であり同盟国であるべきだと信じた。(中略) 世界のために貢献するには、他国に影響を及ぼし得るよう、経済、軍事、政治の各分野において強力でなくてはならない。三つすべてが必要である。どんな国も他国に完全に頼りきるべきではない。もしそうなれば強国の属国になるしかなく、何ら進歩に貢献できないであろう

    『どんな軍隊にとっても一番重要な要素は幹部の品格と能力である。私は日本が、まず最初にきっかり十人の最も優秀な帝国海軍士官を選び、新しい海軍を創設すべきだと助言した。日本はそれを実行に移し、それゆえに今日、日本海軍は精強である
  • 異例の三期六年の海軍作戦部長を務めたあと退役後は静かな余生を暮らしていたというが、歴代の海上自衛隊幕僚長は訪米する際は彼の元へ挨拶へうかがったといわれるほか、ワシントンの日本大使館に派遣される海上自衛隊士官らも同様だったらしく、提督の誕生日には必ず花を自宅まで届けていたという。
    また退役後も海上自衛隊の練習艦隊が東海岸に訪れたときには請われて若き幹部候補生たちに訓示なども行ったというが「日本にはどうしてああいう偉いアドミラルがいないのか」と参加した一人が感想を述べ、教官らを困らせたともいう。
    こういったこともあってか本人曰く「アメリカ海軍より海上自衛隊のほうが大切にしてくれる」と冗談を言うほどだったともいう。
  • 海上自衛隊創設に尽力した経緯から勲一等旭日大綬章(外国人で初)を送られているが、アメリカで盗難にあう。落胆したバーク提督を見かねた日本の旧海軍・海自関係者の募金活動など尽力もあり、勲章の再授与があったという。
  • 彼が亡くなった際、棺に納められたとき胸につけていたのは自国を始めとする諸外国から送られた数多の勲章の中から一つだけ、日本の旭日大綬章だけだった。葬儀に参列した元海上自衛隊幕僚長がそのことを提督の副官に問うと、棺に納める際の彼の遺言だったという。

関連動画

関連商品

ニコニコ市場は2023年11月に終了しました。

関連項目

  • 軍人の一覧
  • アメリカ
  • アーレイ・バーク級ミサイル駆逐艦

おすすめトレンド

ニコニ広告で宣伝された記事

急上昇ワード改

最終更新:2025/12/15(月) 21:00

ほめられた記事

最終更新:2025/12/15(月) 21:00

ウォッチリストに追加しました!

すでにウォッチリストに
入っています。

OK

追加に失敗しました。

OK

追加にはログインが必要です。

           

ほめた!

すでにほめています。

すでにほめています。

ほめるを取消しました。

OK

ほめるに失敗しました。

OK

ほめるの取消しに失敗しました。

OK

ほめるにはログインが必要です。

タグ編集にはログインが必要です。

タグ編集には利用規約の同意が必要です。

TOP