オマハ(競走馬) 単語

オマハ

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オマハ(Omaha)とは、1932年生まれのアメリカの競走馬。栗毛の牡馬。

2020年現在に至るまで、父ギャラントフォックスとの父子米国三冠を達成した唯一の馬。
名前はネブラスカ州の都市オマハから。一方で父系祖先のオーモンドとオームから連想したとも。

概要

Gallant Fox、母Flambino、母父Wrackという血統。

父は言わずと知れた(知ってるよね?)米国三冠馬。種牡馬としての初年度産駒が本馬である。母はガゼルHに優勝し、ベルモントSやCCAオークス3着の実績馬、祖母フランベッティはCCAオークス馬である。母父は英国で50戦16勝、大レースの優勝経験こそないが種牡馬として2歳戦を中心に活躍する馬を輩出している。

母は繁殖牝馬として優秀で、本馬の他にアスコット金杯を勝った全弟フレアーズ、エイコーンSを勝った半姉フリームがおり、また近親も繁殖牝馬として成功した馬が多く、アメリカ顕彰馬ジョンズタウンやハンデ競走の名牝ギャロレッテが近親にあたる。

父ギャラントフォックスと境遇はほぼ同じで、ウッドワードSに名を残す米国の馬産家ウィリアム・ウッドワード卿が所有するベルエアスタッドに産まれ、馬主と懇意にしているジェームズ・エドワード・フィッツシモンズ調教師に預けられた。体高は16.5~17ハンド(大体170cm)くらいの大型馬に育った。

パッとしない...と思ってたらえらいことに

2歳6月にアケダクト競馬場でデビューし2着、次戦の一般競走には勝利するが……
ここから2歳の終わりまで7戦するが勝ちは無い。サンフォードS、シャンペンS、ジュニアチャンピオンSの3戦で2着し、他の4レースは4着。本馬の脚質は追い込みだが、届かないレースが多かったようだ。

3歳の4月に復帰し、復帰戦でようやく2戦目を挙げるが、続くウッドメモリアルSでは猛烈な勢いで追い込んだものの3着に敗れる。ちなみにミルウォーキージャーナルという新聞が本レースを報じた所、「暴走機関車の如く(Running like a runaway train)」と評している。ちなみに3歳から鞍上はカナダ出身のウィリー・サンダース騎手が務めている。

ケンタッキーダービーにやって来たが、前走3着とはいえその末脚がヤバかったのか2番人気に推される。映像で見たいけど無いんだよなあ。1番人気は前年の2歳女王ネリーフラッグ(ベガやフォアゴーの牝系祖先)である。
レース本番では後方に位置取り、向こう正面で徐々に進出、早めに先頭に立てばあとは押し切りというアメリカ版追い込み馬のお手本のような勝ち方で1馬身半差で勝利。鞍上は鞭すら使ってなかったようだ。

続くプリークネスステークスでもやはり後方から進め、3コーナーで先頭を捕まえると先頭のまま押し切り。最後には鞍上が流すほど余裕があった。実際6馬身差をつけており、全力で追う必要も無かった。

当時はプリークネスSからベルモントSまで1ヶ月空いていたので、1戦叩くのが普通だった。その叩きであるウィザーズSではコロッと負ける。どうも逃げ馬を捕まえられなかったらしい。まあ、ベルモントステークスで勝てば良いじゃん! と言ったかは知らないが、直線でプリークネスSでも2着だったファイアソーンとの叩き合いに持ち込んだ後1馬身半突き放す非情の技を見せ、堂々と三冠を達成。ウッドワード、フィッツシモンズ両名は2頭目の米国三冠達成である。

この後古馬混合のハンデ戦でディスカヴァリーに10馬身突き放され3着に敗れたが、続く2レースを連勝。特にアーリントンクラシックSでは同期でラトロワンヌ産駒の名牝ブラックヘレンを下しレコード勝ちした。

3歳時は9戦6勝。三冠馬だし年度代表馬は貰ったな! と思ったが同年19戦11勝の成績を挙げたディスカヴァリーに持ってかれた。まあ63kg背負ってハンデキャップ競走を蹂躙してたけどさあ。直接対決で負けたのが痛かった。

英国へGO!

1936年になると、英国のセシル・ボイド=ロックフォート厩舎へ転厩。実はオマハは最初からイギリスに送って競走馬生活を送らせるプランがあったのだが、理由不明で立ち消えになり、4歳になって転厩する事となった。

勿論芝は初めて走るが、初戦となったヴィクターワイルドS(芝12ハロン)で1馬身半差をつけて勝利を収める。続くクイーンズプレート(芝2マイル)ではクビ差ながら勝利。これはひょっとするとイギリスの大レース行けるのでは……と期待する陣営。

3戦目にアスコット金杯(芝20ハロン)を選択。距離大丈夫なの? 大丈夫、オマハはどっちかといえばステイヤーで、父親もダート2マイルのジョッキークラブ金杯を勝っている。アスコットに集まった観衆は15万人を超え、オマハはレース前にイレ込み、鞍上もしばらく降りないといけない程であった。
ライバルに前年のオークス馬クアッシュドが立ちはだかるが、最後の直線を目一杯使った叩き合いに発展。まさしくマッチレースとなったが、軍配はハナ差差し返したクアッシュドに揚がった。この激闘にはイギリスの競馬ファンも大興奮。負けて強しの内容にオマハの評価はむしろ上がることとなった。

次走のプリンセスオブウェールズS(芝12ハロン)では138ポンド(約61kg)の斤量を背負い、2着に敗れる。しかし1着馬とは約7kgのハンデがあり、着差もクビ差であった。
4歳時には4戦2勝2着2回と、内容も成績も優秀であった。

5歳時も現役を続行したが、故障により1戦もせず引退。因みに当時ジャージー規則が存在しており、イギリス国内では本馬はサラ系として扱われた。

引退後

通算成績は22戦9勝、2着7回。米国三冠を達成した馬が国外へ遠征する事は後にも先にも本馬のみであり、イギリスの芝路線でも活躍し、欧州の一線級に引けを取らない実力を遺憾なく見せつけた。
因みに自身が勝てなかったアスコット金杯を全弟であるフレアーズが勝利。同い年の英国三冠馬バーラムとは対戦経験は無く、もし当初の予定通り英国でキャリアを始めていたらライバルとなっていた事は想像に難くない。

引退後米国に戻って種牡馬入りしたが、全体的に低調。一応フレーミングトップという牝馬がニジンスキーの曾祖母となり、その血と名前を残している。

1959年に27歳で死亡。遺体はネブラスカ州アクサーベン競馬場のウィナーズサークルに埋葬された。20世紀のアメリカ名馬100選において61位に選出。三冠馬としては一番低いが、彼が史上稀に見る名馬であることは疑いようも無い。

ニューヨーク州の広報パンフによれば、1995年に廃止されたアクサーベン競馬場跡地にはネブラスカ大学オマハ校の家政学キャンパスが建てられ、失敗した料理を窓から投げ捨てる行為が「オマハにあげる」というスラングになっているとか。

血統表

Gallant Fox
1927 鹿毛
Sir Gallahad
1920 鹿毛
Teddy Ajax
Rondeau
Plucky Liege Spearmint
Concertina
Marguerite
1920 栗毛
Celt Commando
Maid of Erin
Fairy Ray Radium
Seraph
Flambino
1924 鹿毛
FNo.17-b
Wrack
1909 鹿毛
Robert le Diable Ayrshire
Rose Bay
Samphire Isinglass
Chelandry
Flambette
1918 鹿毛
Durbar Rabelais
Armenia
La Flambee Ajax
Medeah

クロス:Ajax 4×4(12.5%)、St. Simon 5×5(6.25%)

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