シャダイソフィア 単語


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シャダイソフィア

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シャダイソフィアとは日本の競走馬である。

社台グループ隆盛の礎を築き上げ、数多の名馬を目にしてきた吉田善哉が最も愛したであろう馬である。異論は認める。

主な勝ち鞍
1982年:函館3歳ステークス
1983年:桜花賞(八大競走)
1985年:阪急杯(GIII)

血統と生い立ち 100万ドルの期待を込められて

父:ノーザンテースト

母:*ルーラースミストレス(母父;Bold Ruler)

父は社台グループの隆盛を築いた名種牡馬、母は大種牡馬ボールドルーラーの直子という良血で、現役時代はアメリカで6勝を挙げていた。しかし、生殖器官が奇形であったことから受胎が難しい体質ということで買い手がつかなかった。そんな中で1977年に日本の社台ファームが6万ドルというボールドルーラー直子で競走実績がある繁殖牝馬としては破格の値段で輸入した。(ちなみに当時くらいからカーターショック等により円高トレンド、石油危機の影響の沈静化、バブル経済、競馬国際化時代の到来等も相まって海外の良血牝馬や良血種牡馬を買い漁る生産者が増え始めていた)

受胎が難しい体質ということで種付けには苦労したが、何とか受胎し出産までこぎつけることができ、その3番仔として生を受けたのがシャダイソフィアである。

同世代の社台グループ生産馬と言えばダイナカールやギャロップダイナといった後のG1ホースもいたのだが、その中でも当時の社台グループ総帥の吉田善哉が最も気に入っていたのがシャダイソフィアであった、その気に入りようは尋常ではなく、常々周囲に「この馬は100万ドルの価値がある」と吹聴して憚らなかったほどである。(100万ドルは当時のレート換算で少なく見積もっても2億円程)

3歳になると渡辺栄厩舎に入厩する、その際にも善哉は「お前に100万ドルの馬を預ける」圧をか檄を飛ばし、渡辺氏自身も「なんて品のいい馬だ」とシャダイソフィアの見栄えの良さに感嘆していた。ちなみに後に主戦を務める猿橋重利騎手は乗ってみて非力さを感じたため、「大した馬じゃないですね」と渡辺氏に言ったところ「お前はどこを見ているんだ!」と激しいお怒りを買った。

デビューからクラシック前まで

新馬戦は彼女を「大した馬じゃない」と言っていた猿橋重利が騎乗し、新潟1200mでデビューすると、そこを短距離戦ながら10馬身差、1103という当時のレコードタイムで圧勝、続く函館3歳ステークスも2馬身差で完勝、2連勝で阪神3歳ステークス(現:阪神ジュベナイルフィリーズ、当時は牡牝混合戦)では後のマイルの皇帝ニホンピロウイナー等の強豪たちに遅れを取らない3番人気に支持されるも本調子でなかったか6着に沈み初の敗戦を喫する。しかしながら確実にクラシックに対しての手応えを感じていた陣営は桜花賞を目標に調整すると明言、シャダイソフィア自身も来春のクラシックに向けて休養に入った。

桜花賞 100万ドルの期待に応える

シャダイソフィア陣営が休養明け初戦に選んだレースは桜花賞トライアル(現;フィリーズレビュー)だったが、ここは期待のクラシック候補のダスゲニー、同じ社台産の同期で昨年の最優秀3歳牝馬に選ばれたダイナカールに先着を許し3着に敗れる、しかしながら陣営はまだシャダイソフィアが調整途上であったことを考えれば上々の結果であると、更に桜花賞への自信を強めたという。

そして本番の桜花賞ではトライアルで敗れたダイナカール、ダスゲニーに次ぐ3番人気に押され、不良馬場、ゲート内でのトラブルによるアクシデントが起きる等の悪条件の中でも終始落ち着いた態度でレースに臨み、レースでは終始落ち着いて好位を追走し直線上手く抜け出ると、追うダイナカール等の馬たちの追撃を見事振り切り1冠目を手にした。

桜花賞後、まさかのダービー出走

桜花賞後はもちろん、オークスに向けて調整……となるはずだったがここで善哉の強い意向により陣営は日本ダービーに出走すると発表した。当時、牝馬によるダービー制覇は1943年のクリフジが最後であり、当時は既に牝馬がダービーに挑戦するというのは無謀であるという認識が形成されていたため、この陣営の判断は多方面から非難を受けた。しかもこの年は後の三冠馬、ミスターシービーと同世代という無理ゲーであったため勝てるはずもなく良いとこなしの17着という大敗を喫した。

一応善哉の長男である吉田照哉が後年にこの無謀ともいえる挑戦について語った話をかいつまんで書いておくと、当時の社台グループは今ほどの規模や隆盛を誇っていたわけではなく、日本ダービーもまだ未勝利であった。その上善哉は非常にプライドが高く、根っからの負けず嫌いで、何としてもダービー馬のオーナーブリーダーという肩書が欲しかったため、毎年のようにダービーに生産馬を出走させていたものの、この年はクラシックを走れる牡馬が不作で、そんな中で桜花賞を勝利したシャダイソフィアに白羽の矢が立ったというわけである。社台ファームのダービー制覇はこれから2年後、同じ父を持つダイナガリバーの登場を待つことになる。

4歳秋から5歳時、長い長いトンネル

夏休養明けのエリザベス女王杯の前哨戦サファイアステークス(のちにG3となる重賞格のレース)は見事勝利するも、ここからシャダイソフィアに待っていたのは長い長い勝ちきれないレース続きのトンネルだった。

次走のオパールステークスはマイルの皇帝ニホンピロウイナーに阻まれ2着、エリザベス女王杯は夏の上がり馬ロンググレイスに半馬身差及ばず2着、12月の阪神牝馬特別(現:阪神牝馬ステークス)でも4着と勝ちきれないレースが続く中4歳を終える。

5歳になっても状況は好転するどころか悪化し、上半期はオープン4着、京王杯スプリングステークス6着、安田記念9着、宝塚記念9着と惨敗が続く。それでも秋になるとスワンステークスではニホンピロウイナーから7馬身差離されながらも2着、マイルCSでは牝馬最先着の4着に入る等復調の兆しは見せ始めていたが5歳時は一勝も出来ずに終える。どうも勝ちきれない様子から5歳限りでの引退も考えられたが、そこまで使い減りしている様子も見られなかったので現役続行が決定するも、年明けからの中京記念とマイラーズカップはどちらも14着、6着と惨敗してしまう。

6歳春、久々の勝利と久々の重賞制覇

そんな勝ちきれなかったシャダイソフィアだったが、3月開催のオープン戦、コーラルステークスを二馬身半差で勝利し、続く平安ステークス(当時は芝のオープン戦)5着、京阪杯で3着と好走を続け、遂に6月の阪急杯において2馬身半差で完勝し4歳時のサファイヤステークス以来およそ19か月ぶりの勝利を挙げた。しかし、これが彼女が勝利した最後のレースであり、そして彼女が無事にゴール版を駆け抜けた最後のレースでもあった… …

スワンステークス、皮肉な運命の悪戯

夏は休養し、秋に帰厩したシャダイソフィアは昨年4着であったマイルチャンピオンシップを下半期の目標に調整が行われ、前哨戦としてスワンステークスに出走することになった。

しかし、スワンステークス当日は天皇賞(秋)当日でもあり、そこには社台ファーム生産馬も一頭出走することになっていた。まだまだ今ほどの隆盛を誇っていたわけではない社台グループからしてみれば総帥たる善哉本人が天皇賞()での生産馬の走りを見に行くのが筋であったのだが、その社台ファーム生産馬の相手は「皇帝」シンボリルドルフと「マイルの皇帝」と呼ばれていたニホンピロウイナーであり、一方でそれに立ち向かう社台ファーム生産馬は善哉が「日本最大の牧場である社台ファームが八大競走に一頭も生産馬を出さないのは格好がつかん!」という理由で当日の条件戦に出す予定だった条件馬を無理矢理ねじ込んだ言い方は悪いが間に合わせの馬であり単勝人気も17頭中13番人気と全くと言っていいほど期待されていなかった。その為善哉は上記のような発言をしておきながら「和田(当時のシンボリ牧場の代表和田共弘のこと、善哉とは犬猿の仲)のシンボリルドルフの勝つところは見たくない」などと言い放ち東京競馬場での観戦を次男の吉田勝己に任せ、自分は長男の照哉と共に愛しのシャダイソフィアを見にスワンステークスが開催される京都競馬場へ向かったのだった。

しかし、そんな筋を違えた善哉の行動を罰するかのように、シャダイソフィアはレース中に他馬に押し出される形で転倒、競走中止となり、検査の結果第1指関節開放脱臼により予後不良と診断され安楽死となった……

薬殺の現場には善哉本人も立会い、普段は滅多に涙を流さない善哉も目頭を押さえながら死を見届け、死亡が確認された後シャダイソフィアの顔にそっと白いハンカチを手向けたという。こうして善哉が愛した100万ドルの馬はターフの上で道半ばで散ってしまったのだった……

一方でスワンステークス発走直前の東京競馬場は絶対的本命であったシンボリルドルフが負けたということで大騒ぎとなっていた。その勝ち馬はニホンピロウイナー……ではなく社台ファーム生産の13番人気の条件馬……そう、「あっと驚く」であまりにも有名なギャロップダイナである。

貧乏くじを引かされたように思えた勝己は一転して歓喜に包まれ、貧乏くじを避けたはずの善哉に悲劇が訪れるという何とも皮肉な出来事が同日に起きたのだった。

死没後

通算成績は246勝、24

牝馬が当時と比べ物にならないくらい強くなった現代の価値観で見ると超一流というにはやや物足りない成績だが、牝馬が圧倒的に不利と言われた80年代前半において一線級の牡馬を相手に果敢に挑み7割近い掲示板内率を残しており、当時としては間違いなく超一流の牝馬であったと言えるだろう。好タイムで勝利したレースも多く、短距離を主戦場としていたことからもスピード能力に優れていた牝馬でもあったと思われる。また同期のオークス馬であるダイナカールが繁殖牝馬として大成功し社台グループひいては日本競馬を支える基幹牝系を形成したことを考えると、超良血かつ善哉から並々ならぬ期待を掛けられていたこの馬もダイナカールに匹敵、あるいはそれ以上の繁殖牝馬としての成績を上げた可能性もあり、早逝が実に惜しまれる。

善哉は後に作家の吉川良に対してシャダイソフィアが予後不良になった時のことを「ギャロップダイナは勝ったが、わたしが逃げたもんだから、ソフィアがあんなことになっちゃったね。ひとつ勲章をもらったけど、前科ももらっちゃった」と語っている。

その後吉田善哉はダイナガリバーでダービー馬のオーナーブリーダーとしての名誉を得て、アンバーシャダイをはじめとするノーザンテースト産駒の活躍もあり社台グループは飛ぶ鳥を落とす勢いで成長を遂げ、最後の大仕事としてサンデーサイレンスを導入し1993年に73歳でこの世を去った。そして、彼の棺にはシャダイソフィアのたてがみも一緒に納められたのだった。

吉田善哉が導入を指揮したノーザンテースト、サンデーサイレンスが種牡馬として歴史的成功を収め、吉田善哉が一代で日本最大規模の生産者団体にまで育て上げた社台グループも彼の子がその事業を引き継ぎ、今尚日本競馬の先頭に立ってリードし、世界的な名声も高めていることからも、吉田善哉の生産者及び社台グループの総帥としての評価は確固たるものとなっている。そんな日本の競馬史に残る大生産者は、シャダイソフィアと共に安らかに眠っていることだろう。

血統表

*ノーザンテースト
1971 栗毛
Nothern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native dancer
Almahmoud
Lady Victoria
1962 黒鹿毛
Victoria Park Chop Chop
Victoriana
Lady Angela Hyperion
Sister Sarah
*ルーラースミストレス
1968 青毛
Bold Ruler
1954 鹿毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Miss Disco Discovery
Outdone
Another Love
1963 鹿毛
Tudor Minstrel Owen Tudor
Sansonnet
Amoret Bull Lea
Mar-Kell

ファミリーナンバー: 9-f

インブリード:Lady Angela4×3(18.75%、父内)、Hyperion5×4×5(12.5%)、Nearco4×4(12.5%)

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関連項目

  • 競馬
  • 競走馬の一覧
  • 1983年クラシック世代
  • ダイナカール
  • ギャロップダイナ

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