ブラウニー(競走馬) 単語

ブラウニー

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ブラウニーに寄す

白藤六郎

文豪菊池寛が抽籤で當てた
せむし馬のトキノチカラ
そは 名もない馬の仔であつただが
文豪の意表に出て
まるで颶風のやうに東西の競走場裡を席巻した
そのせむし馬を父とし
美女千鳥甲を母として生れ來しブラウニー
トキノチカラの仔は
とても着はとれまいといふ下馬評を
見事馬蹄で蹴破り
名手武文の鞭さばきもさることながら
さんぜん
太陽と耀き出したブラウニー
あヽ櫻花賞の華よ
來る十月十九日
必然農賞の榮冠を狙つてゐるだらう
こんどこそ
マツミドリに砂を浴びせて
見事ダービーの仇を討ち
關西の名において
われらに巨大なブラボウを叫ばして呉れ

(一九三七[原文ママ]・一〇・八作)

ブラウニーとは、1944年生まれの日本の競走馬。黒鹿毛の牝馬。

史上唯一の「クラシック二冠牝馬が2頭いる」世代の、名牝トキツカゼと並ぶもう1頭の二冠牝馬であり、日本競馬史上最後の、菊花賞を勝った牝馬。

主な勝ち鞍
1947年:櫻花賞農林省賞典四歳馬

概要

父トキノチカラ、母千鳥甲、母父カブトヤマという血統。
父は小説家・菊池寛の代表所有馬で、1940年の帝室御賞典(春)の勝ち馬。種牡馬としてはブラウニーの他にも中山大障害馬アラワシなど中央重賞馬5頭を出し、母父としてもダービー馬ダイゴホマレを出すなど、当時の内国産種牡馬としては成功を収めた。
母は競走名をメイレキといい、1941年の桜花賞5着、オークス3着馬。繁殖名の千鳥甲は「チドリカブト」と読む。ブラウニーが初仔で、繁殖牝馬として非常に優れた成績を残した。
母父は第2回ダービー馬で、種牡馬として初めてダービー馬を出し、重賞「カブトヤマ記念」にその名を残した名馬(現在は廃止)。そのカブトヤマの出したダービー馬こそ、ブラウニーの同期マツミドリである。

半弟にダイニカツフジ(父*セフト)、半妹にヤマカブトケニイモア(ともに父クモハタ)と、3頭の最優秀障害馬がいる。
5代母*天の川は明治期に輸入された、いわゆる「豪サラ」の1頭。血統不詳のためその子孫はサラブレッド系種とされ、ブラウニーとその弟妹も「サラ系」である。

1944年(誕生日不詳)、浦河町の三好牧場で誕生した彼女は、倉敷レイヨン(現:クラレ)常務取締役の仙石襄オーナーの所有となり、阪神競馬場の武輔彦調教師(武邦彦の叔父)に預けられた。

※同名馬として、2011年生まれの輓馬(ばんえい競馬の馬)がいる。牝馬で19戦1勝。
※この記事では馬齢表記は当時のもの(数え年、現表記+1歳)を使用します。

妖精は子供の頃しか見えない

逃げたのか差したのか、どっちなんだい

日本の中央競馬は戦中の中断期を経て、戦後間もない1946年より再開されたが、多くの馬が軍馬として取られてしまったため、馬不足を解消するためにそれまで行われていなかった3歳(現2歳)戦が行われるようになった。同期のトキツカゼやマツミドリも競馬再開とともに、3歳の11月にデビューしている。
しかしブラウニーのデビューは遅れ、4歳となった3月のこと。桜花賞の1ヶ月半前だった。戦前なら普通だが、戦後の桜花賞馬のデビューとしてはかなり遅い。

古林徳蔵騎手を迎えたデビュー戦(京都・芝1600m)は2頭立ての2番人気で1馬身半差の2着。馬不足を感じさせる頭数である。9日後の同条件の2戦目も5頭立て3番人気で、後に桜花賞で激突するオーマツカゼから半馬身差の2着に敗れたが、その4日後の同条件の3戦目(5頭立て)にて黒瀬義包騎手に乗り替わると、ここをレコード8馬身差で圧勝して初勝利を挙げる。

続く10日後の優勝戦(京都・芝2000m)では前走8馬身差で蹴散らしたシンニホンにハナ差まで詰め寄られたものの制して連勝。3週間後の桜花賞へ向けて目処の立ったブラウニーと黒瀬騎手は、叩きとしてその前週の京都・芝2000mに出走したが、ここを6頭立て4着に取りこぼしてしまう。
当時の記事によると、この5戦目までのブラウニーは追い込み一辺倒の馬だったらしい。

迎えた櫻花賞。この世代の牝馬には関東にトキツカゼという大物がいたのだが、終戦後間もなく、まだ関東・関西間の移動も大仕事だった当時、トキツカゼは関西遠征ではなく関東に残って農林省賞典――すなわち皐月賞に出ることを選択した(ちなみに結局トキツカゼは生涯一度も関西遠征をしていない)
というわけでこの年の桜花賞は9頭立てで全頭が関西馬。ブラウニーは前述のオーマツカゼに次ぎ、単勝支持率21.9%の2番人気に支持された。鞍上はレースの前日になってベテランの武田文吾に変更。黒瀬騎手に何かアクシデントがあったのかもしれないが、さすがに古すぎて詳細はわからない。

ともあれ迎えたレースなのだが、当時の競馬雑誌の春競馬まとめ記事での描写と、レース結果一覧でのレース内容解説が食い違っており、映像が残っていないのでどっちが正しいのかがわからない。
少なくとも人気薄のカツサイがハナを切り、後続が一団となってそれに続いたというところまでは一致しているので確かだろう。しかしダービー社発行の「ダービー」誌内の「春競馬雑感」によると、最初の600m、ポジション争いが落ち着いて各馬が息を入れるタイミングで、ブラウニーが外からスルスルと上がっていき、そのままオーマツカゼの追撃を寄せ付けず逃げ切り楽勝、追い込み馬に意表を突いた逃げを打たせて楽勝さすとは、さすが名手武田文吾の手綱さばき――という風に記されているのだが、同誌の「京都競馬成績集計」内の記述によると、4角でオーマツカゼが先頭に立ったが、直線に入って3番手からブラウニーが一気に差し切って勝ったということになっている。どっちなんだよ!

牝馬も目指すはダービーよ

レース内容がどうあれ、桜花賞馬となったブラウニー。次なる目標は当然、東京優駿競走である。
えっ、オークスは? と現代のファンなら思うところだが、当時のオークスは秋、しかもこの年はなんと菊花賞と同日開催だった。牝馬三冠の歴史を語る際、「1970年にビクトリアカップが出来るまで牝馬三冠の最終戦は菊花賞だった」と説明されることが多いが、1948年~1951年までは菊花賞の後にオークスが開催されていたし、この1947年はそもそも桜花賞・オークス・菊花賞の牝馬三冠は物理的に不可能だったのである。
つまりこの世代の牝馬がクラシックで狙うローテは、関西馬は桜花賞 → 東京優駿 → 菊花賞、関東馬は皐月賞 → 東京優駿 → 優駿牝馬、だったわけだ。この競馬史上1947年の一度限りである「オークス・菊花賞同日開催」は後々重要な意味を持つことになる。

ともあれダービーへ向けて関東へと向かったブラウニー。鞍上には新たに橋本輝雄騎手を迎えたのだが、関東への輸送+不得手な重馬場+58kgの斤量のコンボを食らったためか、ダービー2週間前の叩きのレース(東京・芝1600m)で11頭立て最下位11着に撃沈してしまう。

迎えたダービー本番。戦後最初のダービーとなったこの年は、黎明期の「幻のダービー馬」ミラクルユートピア産駒の重馬場巧者アヤニシキ、皐月賞を6馬身差で圧勝した牝馬トキツカゼ、そして皐月賞2着で前走にてトキツカゼを下したマツミドリの3強ムード。ブラウニーは前走で大きく評価を下げ、単勝支持率1.1%の10番人気に留まった。
そんなブラウニーと橋本騎手は前目の好位でレースを進め、3角で逃げ馬が力尽きて2番手にいたマツミドリが先頭に立つと、トキツカゼやアヤニシキとともにそれを追いかける。しかし直線ではマツミドリとトキツカゼの一騎打ちに突き放されてしまい、6馬身離されて3着。完敗ではあったものの、改めて桜花賞馬として世代トップクラスの実力があるところはしっかりと示したのだった。

江戸の仇は京で取る……っておらんのかーい

夏休みを挟み、関西馬であるブラウニーの秋の目標は農林省賞典四歳馬――すなわち菊花賞と決まった。トキツカゼは関東に残って同日のオークスに出るが、さすがに同じ関東馬とはいえマツミドリは菊花賞に出てくるだろう。京都はこっちのホームグラウンド、ダービーのリベンジを果たすには絶好の舞台である。

というわけで菊花賞の2週間前、京都・芝2000mの特ハンにて友田保夫騎手を鞍上に復帰したブラウニーは、61kgを背負わされながらも、5頭横並びのゴールとなった大接戦をクビ差制すると、翌週の牝馬限定の芝2400mのオープンでは土門健司騎手を迎えて1番人気に応えて差し切り快勝。万全の3連闘で菊花賞本番に臨むことになった。桜花賞は実質6連闘みたいなものだったので桜花賞より余裕のあるローテである。時代だなあ。

ところが。迎えた菊花賞に、宿敵マツミドリの姿はなかった。この年、カブトヤマ・マツミドリによる史上初の親子ダービー制覇の快挙を讃え、11月の中山に「カブトヤマ記念」が新設。さすがに創設の理由になった当事者としてマツミドリはこっちに出ないわけにはいかず、そうすると菊花賞のために東京と京都を往復するのは当時の輸送事情的に無理があったのであろう。
そんなわけでトキツカゼもマツミドリもいない菊花賞は7頭立て。こうなると彼女にライバルは見当たらず、土門騎手とブラウニーは単勝支持率58.3%という圧倒的1番人気に支持された。
そしてレースは先行するアスカヤマとクモタカラを見ながら進めると、半マイルで一気に先頭に立ち、そのまま悠々と押し切って2馬身差、レコード3:16.0で完勝。1943年のクリフジ以来、史上2頭目の牝馬による菊花賞制覇となった。
そして同日のオークスはトキツカゼが大差で圧勝し、この年のクラシック5競走では牝馬が4勝。皐月賞・優駿牝馬のトキツカゼと、桜花賞・菊花賞のブラウニーと、二冠牝馬が2頭いる史上唯一の世代となったのであった。

そして妖精は……

菊花賞を制したブラウニーは、改めてマツミドリにリベンジするべく再び東上。再び橋本騎手を迎えてカブトヤマ記念に参戦した。ここにはトキツカゼも参戦しており、ダービーの借りをまとめて返す絶好の機会……だったのだが、当日はあいにくの大の苦手の重馬場。ブラウニーはあえなく8頭立ての最下位8着に撃沈。マツミドリ(6着)ともども、勝ったトキツカゼのはるか後塵を拝することになった。

ブラウニーはその後も中山に滞在して出走を重ねたが、関東の水が合わなかったのか、その後の彼女の戦績は13頭立て3着、5頭立て4着、10頭立て5着、12頭立て最下位12着と冴えないものに終わる。

そしてブラウニーはその重馬場で最下位に終わったオープン特別(中山・芝2600m)を最後に、競馬史から姿を消した。
「ダービー」1948年5月号には、翌年も天皇賞を目指して現役を続行したが、疾病のため秋まで休養、という記述が確認できるが……。同年の7月号、武厩舎の管理馬一覧のページに、短くこう記されている。

名駿ブラウニー號の斃死後、振はず11頭の中キタノホシにハレルヤの二頭のみが現在の第一勝候補である。

同期のライバル・トキツカゼが繁殖牝馬としても2頭の年度代表馬を生んで大成功し、顕彰馬にも選出され、歴史的名牝として華々しく競馬史に名を残したその陰で、同期の同じ二冠牝馬ブラウニーの名は、こうしてひっそりと競馬史に埋もれていった。産駒を残せず、血統表に名前の残らなかった彼女は、JBISにもnetkeiba.comにも未だページがなく、資料の乏しさからかWikipediaにすら未だ記事がない(2025年7月時点)。

彼女の菊花賞勝利から80年になろうとする今も、菊花賞を制した牝馬は彼女が最後であり、牝馬の菊花賞挑戦の話題における歴史上の古い記録として、辛うじて彼女の名前だけが語り継がれている。

あまりにも対照的な1947年クラシック世代の、2頭の二冠牝馬。名牝トキツカゼの華々しき偉業を語り継ぐとき、同期にもう1頭、競馬史に残る偉業を為した二冠牝馬がいたということを、記憶の片隅にでも残しておいてほしい。

血統表

トキノチカラ
1936 鹿毛
*トウルヌソル
1922 鹿毛
Gainsborough Bayardo
Rosedrop
Soliste Prince William
Sees
*星谷
1925 鹿毛
Purchase Ormondale
Cheeryola
Jura Broomstick
Waif
サラ系
千鳥甲
1938 鹿毛
カブトヤマ
1930 鹿毛
*シアンモア Buchan
Orlass
アストラル *チヤペルブラムプトン
種義
サラ系
磯千鳥
1925 毛色不詳
*ガロン Gallinule
Flair
サラ系
浪千鳥
*ラシカツター
サラ系 第一天ノ川

クロス:St.Frusquin 5×5(6.25%)

関連リンク

関連項目

  • 競馬
  • 競走馬の一覧
  • 1947年クラシック世代
    • トキツカゼ
    • マツミドリ
  • トキノチカラ
  • サラブレッド系種

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