マーク・テシェイラ(Mark Teixeira)とは、ニューヨーク・ヤンキースに所属するメジャーリーガーである。背番号は25。
NHKなどの一部メディアでは「マーク・タシェアラ」と表記される。
メリーランド州で育ち、マウントセントジョセフに進学し本塁打・打点・得点の州の高校生通算記録を塗り替える活躍を見せる。1998年にボストン・レッドソックスが全米ドラフト9巡目(全体265位)で指名されるも入団せずにジョージア工科大学に進学。
2001年にテキサス・レンジャーズが全米ドラフト1巡目(全体5位)指名を受けメジャー契約で入団した。
翌2002年のスプリングトレーニングでファールフライを捕球しようとして左肘の腱を痛め、故障者リスト入り。6月1日にAdv-A級のシャーロットで三塁手として出場。フロリダ・ステートリーグの月間MVPに選出される。この年のベースボール・アメリカ誌の有望株ランキングでは10位だったが、2003年には1位に選出された。
2003年にはAAA級オクラホマを飛び越えてシーズン開幕をメジャーで迎える。4月1日のエンゼルス戦で6番・指名打者でスタメン出場。その後は一塁手や左翼手として出場したが最終的に一塁手として定着する。最終的にはこの年のメジャー新人最多となる26本塁打・60長打を記録。新人王投票では5位に入った。
2004年は、開幕から外腹斜筋を痛め、打率が.220に低迷したが、6月以降は調子を取り戻し7月には13本塁打・30打点で月間MVPを受賞。8月17日にはサイクルヒットも記録した。シーズン通算では38本塁打・112打点という成績を残した。マイケル・ヤング、ハンク・ブレーロックらと共に前年まで4年連続最下位だったチームを首位と5ゲーム差の3位にまで押し上げる原動力となり、シーズンオフには初のシルバースラッガー賞を受賞した。
2005年にはオールスターゲーム初選出。162試合にフル出場し、スイッチヒッターとしては歴代最高の144打点、同じく歴代4位の43本塁打を記録し、2年連続のシルバースラッガー賞、初のゴールデングラブ賞も受賞した。また、史上5人目となるメジャー3年目での通算100本塁打も9月6日の試合で達成している。
レンジャーズに3年間在籍したテシェイラは年俸調停権を得たが、その後レンジャーズと2年1,540万ドルという条件で契約延長に合意し調停を回避。2006年にはワールドベースボールクラシックのアメリカ合衆国代表として出場したが15打数無安打に終わる。レギュラーシーズンでは33本塁打を記録した。
2年契約最終年となる2007年に、レンジャーズは新たに8年1億4,000万ドルという大型契約をテシェイラ側に打診するが、テシェイラと彼の代理人であるスコット・ボラスはこれを拒否。球団側は「もしこのオファーが受け入れられないと言うのなら、他球団との交渉次第では今すぐにでもテシェイラをトレードに出すし、そうでなくともシーズン終了後にはどっちみちトレードだ」とボラスに告げたが効果はなく、レンジャーズはこの結果を受けて他球団とのトレード交渉に乗り出す
アリゾナ・ダイヤモンドバックスやロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムも獲得に動いたが、7月31日にテシェイラはロン・メイヘイと共にジャロッド・サルタラマッキアなどの若手選手5選手とのトレードでブレーブスへ移籍。
新天地での初出場となった8月1日のアストロズ戦では4番・一塁手として先発出場し、月は打率.315・10本塁打・32打点・OPS 1.043という成績で月間MVPを受賞。続く9月のシーズン終了までを含む移籍後の成績は54試合で打率.317・17本塁打・56打点・OPS 1.019と、シーズンを通して不振だった、アンドリュー・ジョーンズに代わり、チッパー・ジョーンズの援護役として活躍。
2008年からは4番として出場。この年、ブレーブスはテシェイラの母校であるジョージア工科大学と同じジョージ・アトランタに本拠地を移す。ただブレーブスは7月11日の時点で地区首位から7.5ゲーム差に離されており、この年限りで契約が切れるテシェイラが放出される可能性は十分にあった。
2008年7月29日、テシェイラはケーシー・コッチマンら2選手とのトレードでロサンゼルス・エンゼルス・オブ・アナハイムへ移籍。アメリカンリーグ・西地区の首位だったエンゼルスはこの時点でのチーム総得点数がリーグ9位と打線が弱く、その点で強打者のテシェイラを獲得したこのトレードは球界関係者から高く評価されたシェイラはその期待に応え、移籍後54試合に出場し打率.358・13本塁打・43打点・OPS 1.081を記録。移籍前からチームが独走していたこともあり、自身初となるポストシーズン出場も果たした。
そのポストシーズンでは、レッドソックスと対戦した地区シリーズで4試合に出場。.467の高打率を記録したものの長打は1本もなく、打点も1にとどまる。チームはレッドソックスに1勝3敗で敗れてシーズンを終えた。
シーズン終了後、1年契約が満了となったテシェイラはFAに。彼に対し、残留を望むエンゼルスのほかにもヤンキースやレッドソックス、ボルティモア・オリオールズ、ワシントン・ナショナルズなどが獲得に乗り出した。
2008年12月23日、テシェイラはヤンキースと8年1億8000万ドルで合意。2009年1月6日に入団が正式に発表。これまでの背番号23番から25番に変更した。
ヤンキースはこのシーズンの開幕戦をオリオールズの本拠地であるオリオール・パークで行うことになっており、ヤンキース入団を選んだテシェイラに対して、ボルティモアのファンは辛辣な野次を浴びせた。テシェイラは4月の1ヶ月間を打率.200と不信に陥る。しかしアレックス・ロドリゲスが故障から復帰し、4番打者となると3番打者であるテシェイラが勝負を避けられることはなくなり、打撃も復調の兆しを見せる。最終的には39本塁打・122打点で本塁打王、打点王の二冠を達成。また守備面でもテシェイラの広い守備範囲によって、二塁手のロビンソン・・カノー二塁寄りに、遊撃手デレク・ジーターが三塁寄りに、それぞれ動けるようになり、結果としてヤンキースの内野守備が向上することとなった。ヤンキースはこの年、新加入のテシェイラやCC・サバシアらの活躍もあり、ワールドシリーズ制覇を果た、。テシェイラも自身初の世界一となった。
2010年はは、7月10日まで打率が.250を超えない状態が続くなど打撃で精彩を欠き、7年連続の30本塁打・100打点こそ達成したものの、最終的なシーズン打率はルーキーイヤーの.259をも下回る自己最低の.256に留まった。ポストシーズンでは、リーグ決定戦では古巣レンジャーズと対戦。テシェイラは相手投手陣の前に4試合14打数で無安打とほぼ完璧に封じ込まれた挙句、第4戦で内野ゴロを放って一塁に向かう途中に右ハムストリング筋を痛めて途中退場となった。全治6~8週間と診断されたテシェイラは翌日にロースターを外れてシーズン終了、ヤンキースもレンジャーズに2勝4敗で敗れてワールドシリーズ連覇を逃した。このシリーズでヤンキースを下したレンジャーズの主力選手のうち、全6試合に1番・遊撃として先発出場して打率.333・4盗塁という成績を残したエルビス・アンドラスと、3試合3イニング無失点の抑え投手ネフタリ・フェリスは、2007年夏のトレードでテシェイラの交換相手としてブレーブスからレンジャーズへ移籍した選手だった。
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最終更新:2025/12/15(月) 05:00
最終更新:2025/12/15(月) 04:00
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