メジロアサマ(Mejiro Asama)とは、1966年生まれの日本の競走馬。芦毛の牡馬。
前評判を悉く覆し続けた逆境の馬にして、メジロ軍団の執念と伝説を生み出した名馬。
父パーソロン、母スヰート、母父First Fiddleという血統。出生はシンボリ牧場である。
父は1970~1980年代にかけて日本競馬を引っ張った名種牡馬であり、本馬は日本供用2年目の産駒にあたる。なおパーソロンはサクラショウリやシンボリルドルフが出るまで、「典型的なフィリーサイアーで、産駒は早熟の短距離向き」という評価が為されていた。
母スヰートは英国で走った後日本へ移籍し、そこで4歳牝馬特別を勝利。因みに本名は「Sweet Sixteen」だったが、日本輸入時にSixteenはどっか行った。
母父ファーストフィドルはハンデ競走を数勝。その父Royal Minstrel、祖父Tetratema、曾祖父The Tetrarchから連綿と受け継がれた芦毛馬であり、メジロアサマの芦毛はここから来ている。
4代母に一大牝系の祖ラトロワンヌを持ち、本馬の近親には活躍馬が多い、良血馬である。
メジロアサマは名調教師である尾形藤吉に預けられ、7月のデビュー戦こそ2着も次戦には勝ち、そこから3連勝を飾る。しかし重賞勝利は挙げられないままクラシックシーズンに入り、ダービーではダイシンボルガードの16着に敗北。以後オープンでは勝つも重賞では中々勝てないレースが続いた。因みに芝とダートを両方とも走っているが、どっちも成績は変わらない。また距離は1600~2000を中心に走っている。
転機となったのは4歳になってから。この年に尾形厩舎の主戦騎手だった保田隆芳が厩舎を開業し、そっちに転厩。芝マイルのオープン戦をレコード勝ちすると、次戦2着を挟んだ安田記念を勝利し、重賞初制覇を飾る。2戦連続2着を挟んで函館記念を勝利。オールカマー3着と目黒記念(当時2回やってた)2着を記録し、次戦の天皇賞(秋)へと向かう。当時の秋天は東京芝3200mである。
この天皇賞出走に関して、陣営に対し距離が長いのではないかという意見が寄せられた。前述したとおり、パーソロンは当時短距離、もって2400の種牡馬と思われていたのだ。競馬解説者として活動していた大橋巨泉には「パーソロンの子供じゃ無理だよ、何て酷いことするの」と言われたそうな。そこでメジロ総帥の北野豊吉は「大丈夫だ、アサマにはスヰートの血が入ってる」と返答。5番人気で迎えた実際のレースではフイニイやアカネテンリュウといった実績馬、人気馬を相手に勝利を飾り、大橋巨泉はレース後に北野へ謝りに行ったそうだ。因みにメジロアサマは史上初の芦毛の天皇賞馬である。
当時「芦毛の馬は弱い」、「パーソロン産駒は距離が持たない」と考えられていた中で、メジロアサマは前評判を悉く覆した。反骨精神旺盛で知られた北野が「それみたことか」と思ったのは想像に難くない。
天皇賞後も現役を続行。60kg以上の斤量が当然になっても入着を重ねており、1972年までにAJCC2回、ハリウッドターフクラブ賞、オープン3回を制し、1972年の有馬記念では2着に入っている。
1972年の有馬記念をもって引退。通算成績は48戦17勝、2着14回、3着6回。当時の天皇賞は勝ち抜け制で1回でも勝ったら2度と出られなかった。重賞は天皇賞含めて6勝で、賞金も1億8000万と当時としても優秀な成績を残している、最後の有馬記念に勝ってたら史上初の2億円ホースとなっていた。
引退後シンジケートが組まれて日高で種牡馬入り。すると初年度に種付けした28頭の牝馬が悉く受胎しない。1頭の例外もなく。シンジケートは解散され、本馬の活躍に前後して創設されたメジロ牧場に「種なしスイカ」という有難くない渾名と共に送り返されてきた。
検査してみた所、精子の量が少なく授精能力が低い事が判明。原因は1971年に流行し、本馬も罹患した馬インフルエンザの抗生物質投与による後遺症と考えられている。種牡馬失格の烙印を押されたが、メジロ総帥、北野豊吉は諦めない。「神馬として譲ってくれないか」という神社からの申し出をはねのけ、意地でもメジロアサマの子供を残そうとした。
そんな中、1974年にとあるアラブ馬がメジロアサマの種を受胎。1975年にはヤマノボリという牝馬が受胎し、その翌年にはメジロエスパーダが誕生する。アサマは決して種なしスイカじゃない!
1977年、北野は牧場スタッフへ指令を出す。「シェリルにアサマの種を何としても受胎させろ!」
シェリルとはフランスのリーディングサイアーを父に持ち、更にフランスの名門牝系出身という良血馬。競走馬としても当時GIIだったオペラ賞を制す活躍を見せている。フランスから日本に持って行くときに現地では引き留め攻勢にあった程である。はっきり言って授精能力の低い種牡馬を付ける事は暴挙、狂気の沙汰である。実際シェリルはこの年に生んだメジロチェイサーを通じてメジロライアンの祖母となり、アマゾンウォリアーやアサマユリらと共にメジロ牧場の基礎牝系を構築している。
そして北野の祈りが通じたか、それとも執念に運命が折れたか、シェリルがアサマの種を受胎。
翌年、アサマと同じ芦毛の馬が生まれたが、それが1982年の天皇賞馬メジロティターンである。
メジロアシガラはもっと誇って良いぞ。
メジロアサマは1986年に20歳で死去。死ぬまでに僅か19頭の産駒しか遺せなかったが、天皇賞馬メジロティターン、京都大賞典を制したメジロカーラ、通算6戦4勝ながら稀代の快速馬と呼ばれたメジロエスパーダなどを輩出。母父としては全くだったが、流石に残した牝馬が少なすぎるから評価は難しい。
メジロティターンはメジロマックイーンを輩出し、父子三代での天皇賞制覇という偉業を成し遂げ、メジロ軍団の執念を結実した。北野豊吉は1984年に急逝する前に「ティターンの子供で天皇賞を勝て!」という遺言じみた指示を出しており、ティターンとメジロ軍団はそれを成し遂げた。
父系子孫はメジロマックイーンが不振だった事もありほぼ残っていないが、北野やメジロの「天皇賞」への執念は世代を超えて受け継がれ、メジロマックイーンを母父に持つゴールドシップが2015年の天皇賞を制した。無論、ゴールドシップも芦毛である。
母父にメジロマックイーンを持つ種牡馬のうち、オルフェーヴルとゴールドシップがクラシックホースを輩出し一定の目途が立った。現代でも北野とメジロが限りなく小さい針穴に通した血の糸は、荒削りだが名作を生み出す金細工師と荒波に揉まれつつも決して沈まぬ黄金の船によって現代でも紡がれ続いている。だからドリームジャーニーもタイセイレジェンドも頑張れ。ギンザグリングラスはもっと頑張れ。
競走馬を擬人化したメディアミックス「ウマ娘 プリティーダービー」にてメジロマックイーンが登場するが、アニメにて「おばあさま」という登場人物をほのめかすシーンがある。この「おばあさま」については色々と該当者が居るが、目下の代表格が本馬、メジロマックイーンの祖父、メジロアサマである。おばアサマだし……。
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最終更新:2025/12/11(木) 22:00
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