九七式中戦車改とは、大日本帝国陸軍が運用した中戦車である。
本車は九七式中戦車の改良型であり、九七式中戦車に不足していた対戦車能力を向上させたものであるが、本来は量産を意図して作られた兵器ではない。
現代では一般的に「新砲搭チハ」、「チハ改」と呼ばれるが、便宜上での呼称であり正式名称は特になく、当時の搭乗員等の戦車部隊関係者からは「九七改」や「チハ車改」、その他「一式戦車」あるいは単に「九七式中戦車」と呼ばれていたとされる。
(以下、便宜上呼称をチハ車改とする。)
当初チハ車改は、新型戦車向けに開発中だった大型砲搭のテストベッド(実証基盤)であり、1940年末にはすでに存在していたともいわれ、その後試験や改修を繰り返し、約半年後の1941年6月に行われた戦車学校に委託した実用試験のの結果から、現用の中戦車であった九七式中戦車の改良案としてどうかと打診していたとされる。
しかし。チハ車改はあくまでも新型砲搭(+新型砲)の試験用架台にすぎず、当の新型戦車への武装はどこか曖昧なところもあり、新型戦車砲搭はもちろんその搭載砲である47mm戦車砲の量産計画はまだ存在していなかった。
チハ車改の量産化を決定付けた出来事は、同年12月に勃発した太平洋戦争の序盤で起きた、アメリカ軍の使用するM3軽戦車との戦車戦である。日本軍側の戦車の主砲は砲身の短い57mm砲や37mm砲であり、土嚢で固めた機銃陣地の制圧を目的に作られた火砲で戦車相手に使うことはあまり考えられていなかった。一応、ソ連のBT戦車や装甲車には有効だったが、本格的な防御力と火力を備えたこのM3軽戦車には通用せず、苦戦を強いられた。
そこで、新型砲搭のテストベッドとして使用されていたチハ車改に白羽の矢が立ち、急遽量産化が決まりその作業が急ピッチで行われ、1942年3月20日に10両のチハ車改が前線に送られた。
同年3月29日、チハ車改はフィリピンのリンガエン湾東岸マビラオに上陸、4月1日にバターン半島にいた戦車七連隊と合流する。翌日鹵獲したM3軽戦車対し、調整のための射撃試験を行い充分な結果を得た。
チハ車改の初陣となったのは4月7日のフィリピン攻略戦であり、この戦闘で友軍航空部隊との共同下、M3軽戦車3両を撃破する戦果を上げた。
以降チハ車改は日本陸軍戦車部隊の主力戦車として量産が進められ従来の九七式中戦車とともに運用が進められることになるが、1943年末以降から投入されたM4中戦車の対処に苦慮し、各地で破れていく。
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最終更新:2025/12/22(月) 03:00
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