六角定頼 単語


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「六角定頼」(ろっかく・さだより (1495 ~ 1552とは、近江源氏の佐々木氏の嫡流である六角家の第14代目当主であり、六角家の最盛期を築き上げた人物である。官位は従四位下弾正少弼。観音寺城主。

概要なお、近江源氏佐々木氏の他の支流は大原・高島・京極であるが、大原氏と高島氏については同族である六角及び京極氏に滅ぼされており、子孫は定かではない。

六角氏第12代当主である高頼の子に生まれる。

頼は次男であり、本来は兄貴である氏綱が六角氏を背負っていくはずであったったため仏門に入り「吉侍者」と名乗っていたが、その兄貴である氏綱が1504年に起きた細川氏との戦いで重症を負ってしまう。

氏綱はとても頑張ったが1516年ごろから病床に付き、1518年に27歳という若さで亡くなってしまう。定頼は氏綱が病床のころから陣代にあったが、同年正式に還俗し、六角家を継ぐ。この時「吉侍者」から改名し「頼」と名乗った。

親父と兄貴が頑張ってくれたおかげで、筆頭家臣であった伊庭氏との対決を終え足元が固まった状態で六角氏を隆盛へと導く。

その後、足利将軍家の後ろ盾として三好家と戦ったり、北近江が混乱しているのをみて浅井家を従属化に置いたり、伊賀を実質上の支配下に置いたりし、更に将軍から管領代を与えられるなど六角家の最盛期を築き上げた。

後年、長年にわたり敵対関係にあった天台宗徒と法華宗徒の間を取り持ち、調停に成功するなど外交にも優れた能力を持っていた名君であった。

楽市楽座・城割

頼の特に優れた点として、類稀なる内政能力が挙げられる。

一般に信長の政策として有名な「楽市楽座」は、そもそも頼が居城であった観音寺城の城下町石寺で始めたものであり、信長はそれを高規模に拡大した政策である。この政策により、観音寺城下は大いに賑わったという。(ちなみに一説によると頼ではなく息子の義賢が最初に行ったとも言われる)

また、日本の文献では初となる、家臣団を居城・観音寺城下に住まわせる「城割」を施行。これは後に一国一城令の元となった。ただし、観音寺城は大城ではあったが戦に向いた城ではなく、頼の死後になって、織田信長から攻撃を受ける事態となると問題が表面化することになる。

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補足

「信長の野望」(PC)シリーズにおける六角定頼の能力一覧。最盛期を築いたにしては能力が抑えられ気味だが、最近はその内政能力が評価されたようだ。

軍事能力 内政能力
覇王伝 采配 78
戦闘 70
智謀 61 政治 73 野望 63
烈風伝 采配 79 戦闘 44 智謀 65
政治 79
世記 采配 80 智謀 66 政治 87 野望 93
統率 72 知略 57 政治 78
下創世 統率 72 知略 59 政治 81 教養 72
革新 統率 81

武勇 69 知略 64 政治 87
統率 81 武勇 62 知略 82 政治 97

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  • 浅井久政

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