北条氏照 単語


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「北条氏照」(1540~1590)とは、戦国時代の武将である。関東の覇者北条氏康の子。名前の読みは「うじてる」、「うじひろ」とされることもある。

概要

北条氏康の三男。母は今川家出身の瑞渓院。
武蔵国の有力国人・大石家に婿入りして家督を継いだ。
北条家の軍事における中心人物であり、主家の勢力拡大に貢献した。

豊臣秀吉が行った小田原の役で北条家が降伏すると、北条氏照は兄氏政と共に切腹した。

人物

・兄や弟たちと良く協力した。
・婿入りした大石家の人々との関係は良好だった。
・武田家滅亡の際、武田領から逃亡してきた人々を領内に匿うなど、情に厚い人物だった。
・北条家の一員らしく善政家だった。小田原の役では城に逃げ込んだ領民が防衛戦に参加したという説がある。

・上杉謙信、武田信玄、佐竹義重など北条家を苦しめた有力大名たちが危険視した名将
・北条軍に参加した武将が、「着陣したら、布陣のやり方は北条氏照を見習え」と指示を受けることがあった。
 北条氏照の兵は規律正しく訓練も行き届いていたことが窺える。
・家臣や与力には勇将猛卒が揃っていた。
・関東の諸勢力の複雑な関係に加えて、地理や季節・天候もよく調べさせて戦略に組み込んだ。
(これはどこの武将も行っていたことではあるが)

・古河公方の後見役を務めて領地の統治を代行するなど内政でも活躍。
・蘆名家や伊達家など奥州の諸大名とも手を結んで佐竹家に対する包囲網を形成するなど、外交でも活躍。
・織田信長が中央で勢力を拡大すると、北条氏照は抜け目なく使者を送った。
・豊臣秀吉が惣無事令を出した後、北条氏照は宿敵だった佐竹義重と協力して常陸国で国人衆の間の争いを調停するなど、時勢を読んだ対応をした。

・北条氏照に限らず、北条軍は敵に対しては容赦しなかった。
敵に従う領民が田植えや種蒔きをした→出兵して田畑を掘り返す。
作物が順調に育っている→出兵して作物を踏み潰す。
作物を収穫する時期が近づいた→出兵して作物を焼く。
収穫の時期になった→出兵して作物を略奪する。
冬はどうする?→出兵して城下町を壊す。冬でなくても行う。
反北条連合の有力者だった結城晴朝が北条側に寝返り、宇都宮国綱が居城を維持できず退去し、佐竹義重が常陸南部から追い出されたのは、主に東関東に攻め込んだ北条軍(北条氏照が指揮)のせいである。

北条氏照の金策

「北条家当主の上洛のために資金が要る。私も自分の資産から供出したのだが、それでも不足しているので臨時課税する。皆の理解と協力を求める」


上記は北条家が豊臣秀吉に従うことを決めてから、北条氏照が自領の人々に出した指示の内容である。
同盟者だった徳川家康が秀吉政権に参加した後、北条家も政権に加入すべく秀吉と交渉を行った。
北条家は沼田問題や宇都宮家との対立を抱えていたが、秀吉は反北条連合軍の諸大名を批判するなど北条家に肩入れした。
しかし北条家は当主上洛の先延ばしを秀吉に願い出た。
その理由は諸説あるが、北条家に限らず東国大名たちがなかなか上洛しなかったのは、巨額な上洛費用が枷になっていたからだという説が近年研究者から提示されている。

※大名が初めて上洛したり、重要な頼み事をするために上洛する際は、多額の進物を携えて行くのが当時の礼儀であり慣例だった。
進物を贈られる相手は中央の有力者、有力者の親族、面会の手筈を整えた取次役などだった。さらに朝廷への献金、公家衆への贈り物、宿泊先の寺社へのお礼の品などなどを用意する必要があった。
こうした事例として、秀吉側近の石田三成が宇都宮国綱に宛てた書状が挙げられる。北条家の宿敵だった宇都宮国綱は石田三成から上洛を催促を受けた。書状には「贈り物を用意しなくてよいから、とにかく貴方が上洛して秀吉様にお会いになるべきです」という内容が記されていた。
別の例として1591年、豊臣軍が奥州征伐を行った際、伊達政宗は現地で一揆の武装蜂起を支援した嫌疑を掛けられた。秀吉と伊達家を仲介する取次役だった和久宗是は、伊達政宗に対して疑いを晴らすために上洛して弁明することを勧めたのだが、和久が伊達家に送った書状にも「贈り物の用意はしなくてよい、必要なら上方で揃えればよい、とにかく貴方が上洛して秀吉様にお会いになるべきです」という内容が記されていた。
結果を見れば、東国の大名たちは進物など用意せず上洛するのが正解だった。
しかし大名たちの対応からすると、手ぶらで上洛することは当時の常識ではありえないことだったようである。

※贈り物は食材や香木といった地元の特産品だけでなく、金子に銀子、大量の銭(上方でも使用できる貨幣)、茶器、刀剣に鎧、名馬や鷹など。
自領で調達できないものは他所から買い集めたのだが、こうした進物を揃えるのは大名にとって大変な負担だった。 
北条家ほどの大大名が(それも戦国随一の善政家が)何故苦労したかというと、進物集めで重要だったのは国力=領内の生産・供給能力ではなく、手元にある現ナマの量だったからである。
北条家は佐竹・宇都宮・佐野・上杉・真田といった反北条連合軍との抗争に加えて、小牧長久手の戦い後は秀吉軍との決戦に備える必要があった。当初秀吉は東国出兵を企図して諸大名に協力を求める手紙をばら撒いていた。
北条家は軍備増強のために軍船の建造を発注したり、領内の生産だけではない足りない物資を買い込んだ。
それらの代金として北条領内から流出した銭は、最終的に貿易港や鉄砲製造地域が集中する上方=秀吉の勢力圏に流れ込んだとみられる。

※臨時の軍役や徴税を課す際は、その理由を負担者である家臣や領民に明示して理解と協力を求める必要があった。
北条氏照も北条家も力ずくで家臣領民から銭を巻き上げてさっさと当主を上洛させる、というわけにはいかなかったのである。
さらに領内で貨幣不足の事態になっていたとしたら、徴収は極めて困難だったかもしれない。

秀吉は1589年の夏頃から上洛しない北条家を糾弾し、北条討伐を公言するようになった。
北条家は豊臣軍を迎え撃つ準備を開始。
北条軍の重鎮である北条氏照は自領の守りを家臣と与力に任せ、自身は小田原城に入り各地に指示を出した。

1590年、豊臣軍が関東へ侵攻。
北条氏照の領内では八王子城など複数の城で守備軍が豊臣の大軍相手に奮戦して玉砕した。
小田原城は豊臣軍の攻撃を寄せ付けず持ち堪えていたが、北条家の同盟者だった徳川家康たちの働きかけにより開城した。

先に弟の北条氏規が家康を通じて豊臣軍に降伏することができたため北条家の人々は長曽我部家や島津家の前例に期待したという説もあるが、秀吉からの命令は容赦のないものだった。
北条家は全ての領地を没収されてしまい、北条氏照は兄氏政と共に切腹した。

関連項目

  • 北条氏康
  • 北条氏政
  • 北条氏直
  • 北条氏邦
  • 北条氏規
  • 宇都宮国綱
  • 佐竹義重
  • 豊臣秀吉

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