「北条氏照」(ほうじょう・うじてる 1540 ~ 1590)とは、戦国時代の武将である。関東の覇者北条氏康の子。大石氏に婿入りして大石氏照を名乗った。名前の読みは「うじひろ」とも。
北条氏康の三男。母は今川家出身の瑞渓院で、北条氏政らとは同母兄弟。武蔵国の有力国人・大石定久の婿養子となって家督を継ぐ。はじめ滝山城、のち八王子城を拠点としている。北条家の軍事における中心人物として活躍、勢力拡大に貢献した。通称は陸奥守。
小田原の役で豊臣秀吉の前に降伏すると、兄・氏政と共に切腹した。
1569年、武田軍の小山田信茂によって滝山城が落城寸前まで攻められたことをきっかけに、より防備の強い山城が築城されることになった。このとき、山頂に八王子権現が祀られたことから八王子城と名付けられ、それが現在の地名の由来にもなっている。
小田原の役では氏照自身は小田原城に籠もっており、家臣や領民たちが八王子城を守ったが多勢に無勢、氏照の妻・比佐も自害した。この敗北は北条家を追い詰め、半月後に小田原開場へとつながる。
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5 ななしのよっしん
2021/04/13(火) 21:57:10 ID: GbzZ/otQOM
「北条氏照に限らず、北条軍は敵に対しては容赦しなかった」の項目、北条軍に限らずどこでもやってるでしょ。
で、こっちがやれば同じことやらてあたりまえなわけだし、動員される足軽は基本農民ですよね。
よっぽどのことがないと農繁期には動員できないし、こういう小競り合いみたいなのってそう頻繁にはやってられないと思うんですけど、どの程度の頻度で行われてたんですかね。
6 ななしのよっしん
2022/02/02(水) 02:54:25 ID: wGXjSgWeWe
実は母親瑞渓院ではないんじゃね?説が出てる
7 ななしのよっしん
2023/01/22(日) 14:40:53 ID: 3o1AviIzvf
農民の動員については先ず動員される農村の住人は大雑把に二種類いて、
1.年貢納めてる農民
2.武家奉公人。年貢納めず代わりに兵役を務める
で2は農繁期だろうと容赦なく動員される。兵役が徴税免除の代わりの義務だからだ
そして1は兵糧やその他物資の輸送担当。農繁期は動員されないと昔は言われていたが、実は季節関係なく動員されていたことが分かってきている
武家が手当て出したり、農民たちが所属する農村の利権を保障し続ける対価だったりしたからだ
肝心の北条家だが、北条家が多数の文書を遺したこともあって、宇都宮領などに対しては執拗な焼き討ちを繰り返したことが判明している
どこの大名もやったことではあるが、宇都宮家は本拠地を維持できず自落する程追い込まれた
普通はそうなる前に屈服するか和睦するものだが…どうも宇都宮国綱がギリギリまで粘った結果らしい
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最終更新:2025/12/06(土) 00:00
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