原田昌樹とは、日本の映画監督、演出家である。
1955年3月9日生まれ、長野県出身。血液型はA型。長野県屋代高等学校卒業。趣味は競馬。
小学生時代に住んでいた松本市で映画のロケ隊を見た事で映画製作に興味を持つ。映画少年であり、高校時代は映画の回数券を手にしばしば授業をさぼって映画館に入り浸っていた。ある日校内放送で職員室に呼び出され、おっかなびっくりで行ってみると、先生が原田の落とした回数券を「こんなの持ってるの、おまえくらいしかいないからな」と言って届けてくれたという。
18歳で上京し吉祥寺辺りで遊んでいたところ、その遊び仲間に映画会社の息子がおり、手伝いとして映画現場に入る。当時学生運動の影響で大学が崩壊しており、法政大学に籍を入れたものの一週間しか通わなかったという。
東映、大映、三船プロダクション、フィルムリンク・インターナショナルなど幾つものスタジオを渡り歩く。
『宇宙鉄人キョーダイン』で特撮作品に初参加。その繋がりで『小さなスーパーマン ガンバロン』に携わり、大岡新一、鈴木清、高野宏一といった円谷プロダクションのスタッフと知り合う。
『この胸のときめきを』など、和泉聖治監督の映画作品で10年間チーフ助監督を務めた。
1992年、『裏刑事-URADEKA-』にて監督デビュー。
手掛けた教育映画が4年連続文部科学省特選に選ばれ、文部科学大臣賞を2度にわたって受賞している。
2008年2月28日、癌による心不全のため東京都内の病院で死去。52歳没。遺作となった『審理』の初号試写が3月25日にあり、余命を宣告された時から「それまでは絶対に生きる」と宣言して病闘していたが、その願いは叶わなかった。葬儀では『魔弾戦記リュウケンドー』の主役である山口翔悟が弔辞を務めた。
キャラクターの心情描写に秀でており、平成ウルトラシリーズではファンタジー色・ドラマ色の強いエピソードをいくつも手掛け、高い評価を得る。特に太田愛とのコンビが有名。円谷プロダクション4代目社長の円谷一夫も「原田はロマンティックな作品が得意」と評している。
ウルトラシリーズ参加当初は特撮に詳しくなかった事もあって特撮中心の話は敬遠していたといい、特技監督を手掛けるようになってからも、佐川和夫・北浦嗣巳・村石宏實らとは違ったアプローチをするべく『ウルトラマンダイナ』の「怪盗ヒマラ」に代表されるような幻想的・抽象的なセットに拘っていた。
また、『ウルトラマンティガ』の「青い夜の記憶」・『ダイナ』の「少年宇宙人」・『ウルトラマンガイア』の「遠い町・ウクバール」など特撮のウエイトが少ない作品も多い。
「人を愛する気持を、ちゃんと作品の中に入れたいですよね。登場人物はたとえそれがどんな存在でも愛してますよ。怪獣にしたって、無念な死は遂げさせたくないんです」と語り、相手が死なずに済む展開が多い。怪獣・宇宙人を含め、愛嬌のあるキャラクターが多いのも特徴。
インタビューでは、助監督を務めた『この胸のときめきを』が自分の原点だと述べている。
一方、ウルトラシリーズや教育映画以外では任侠もの・バイオレンスもののVシネマを手掛ける事も多く、「ウルトラマンではファンタジー好きの監督って言われてる」という旨をVシネのスタッフに言ったところ、「何を冗談言ってるの」「人を殺すほうがうまいでしょ?」と返されたという。
しかし本人は、全然世界が違うため頭を切り替えるのは簡単だと語っている。実際描き出すキャラクターは男性・女性・子供からマスコット的な存在まで多岐にわたる。
「エンディングまでが本編」という考えを持ち、エンドロールに被せてエピローグ流す事も多い。『ティガ』の「ウルトラの星」ではエンディングに『初代ウルトラマン』の映像(満田かずほ選)が流れ、ラストにドラマパートが入るという特殊な形態になった。
登場編を手掛けた事もあって『ダイナ』のハネジローを大層気に入っており、担当回では極力登場させている他、別離編やOV『帰ってきたハネジロー』も手掛けた。自分の子供の為に本物のハネジローを呼び出した事もあった。
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最終更新:2025/12/15(月) 02:00
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