「吉岡長増」(よしおかながます ? ~ 1573?)とは、豊後三老の一人として大友家三代に仕えた最長老であり、毛利元就の軍勢を智謀により撤退させて大友家を守った知将。
| 豊後三老 |
| 吉岡長増 |
| 臼杵鑑速 |
| 吉弘鑑理 |
大友氏の初代・大友能直の孫・野津頼宗を祖とする吉岡鑑興の子に生まれ、大友宗麟の祖父・大友義長より「長」の字を拝領して吉岡長増と名のって元服した。
※大友義長・大友義鑑・大友宗麟の三代に使えた武将のでは唯一大友義長の代に元服した事から大友家の最長老とされている。
大内義隆が、陶晴賢を大将にして九州に大軍を派遣してくると、吉岡長増もこれに参陣したが、その後しばらくの動向は不明となった後、「二階崩れの変」により大友義鑑が殺害されて大友宗麟が家督を継ぐ際に、加判衆として復帰して、混乱に常じて反乱を起こした菊地義武(大友義鑑の弟)を破った。
大友宗麟の治世下においては、臼杵鑑速・吉弘鑑理と共に豊後三老として重職を担い、衰退した大内氏にかわって毛利元就が九州への侵攻を開始すると、吉岡長増は総司令官として筑前に在陣し、大友軍の全軍指揮をとって対抗し、毛利元就と結んだ龍造寺隆信を破って佐嘉城内に内応を促す矢文を射込み続けて、裏切り者が出るのではないかと疑心暗鬼によって龍造寺隆信を智謀により降伏に追い込んだ。
筑前での毛利元就との戦いにおいては、後方攪乱を狙って出雲尼子家の残党山中幸盛(山中鹿介)を支援したり、大内義興の甥の大内輝弘に兵を与えて周防にて毛利軍に対抗させる事とした際に、自慢の智謀で海賊・村上武吉を毛利方から寝返らせて海上交通を確保して大内輝弘の軍を安全且つ正確に周防まで送り出すことに成功し、周防での大内輝弘軍よって戦線に影響うけた毛利軍は九州より撤退することとなって撤退する際に、追撃して大戦果を挙げる等、中国三大謀将の一人・毛利元就と智謀で渡り合って勝利した。
その後ほどなくして吉岡長増は80年とも言える生涯を終えたといわれており、家督は嫡男の吉岡鑑興が継承した。
そして数年の間に、吉弘鑑理(1571?没)・吉岡長増(1573?没)・臼杵鑑速(1975没)と豊後三老と呼ばれた重臣を立て続けに失った大友家は、当主大友宗麟の押さえがきかなくなって耳川の大敗により没落すると、豊後三老と共に大友家を守り立てた雷神・立花道雪は、
吉岡長増、臼杵鑑速の死後、大友の政治は無道である。
と嘆く文書を残している。
※その他「吉岡長増」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
▼「信長の野望革新PK」地方別武将ランキングに智謀部門4位に登場。
▼大友家を支える重臣として登場した吉岡長増が、後に秋月家臣となる「律子の野望」
▼「律子の野望」における吉岡長増と天海春香の黒会議
| 軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
| 戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
| 武将風雲録(S1) | 戦闘 | 69 | 政治 | 66 | 魅力 | 68 | 野望 | 51 | 教養 | 58 | ||||
| 覇王伝 | 采配 | 53 | 戦闘 | 44 | 智謀 | 68 | 政治 | 71 | 野望 | 51 | ||||
| 天翔記 | 戦才 | 90(C) | 智才 | 148(A) | 政才 | 132(B) | 魅力 | 53 | 野望 | 52 | ||||
| 将星録 | 戦闘 | 41 | 智謀 | 82 | 政治 | 66 | ||||||||
| 烈風伝 | 采配 | 38 | 戦闘 | 40 | 智謀 | 79 | 政治 | 59 | ||||||
| 嵐世記 | 采配 | 36 | 智謀 | 81 | 政治 | 54 | 野望 | 41 | ||||||
| 蒼天録 | 統率 | 26 | 知略 | 79 | 政治 | 48 | ||||||||
| 天下創世 | 統率 | 25 | 知略 | 78 | 政治 | 49 | 教養 | 59 | ||||||
| 革新 | 統率 | 28 | 武勇 | 24 | 知略 | 87 | 政治 | 58 | ||||||
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最終更新:2025/12/12(金) 03:00
最終更新:2025/12/12(金) 02:00
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