戊辰戦争とは、明治維新期の日本の内戦である。
大まかにいうと、明治新政府による旧体制への武力制定を目的とした一連の内戦の呼び名である。戦端が開かれたのが慶応4年、或いは明治元年(西暦1868年)で干支が戊辰の年だったので、戊辰戦争と呼ばれる。(ちなみに西暦年を60で割って8が余る年が戊辰の年である)期間は1年4ヶ月、区間は対象を変えつつ兵庫・京都から函館までに渡る。
各局面としては次のようになる。
戊辰戦争の戦端。
王政復古の大号令で半ば強引に新政府が樹立したものの、国内には依然として徳川の影響力が残っていた。二条城から大坂城に退去した徳川慶喜は、西洋列強の公使達を集め、引き続き自らに主権があると宣言。一方新政府も天皇の名の下自らが日本の公式政府であるとしたが、新政府内では徳川氏に同情的な大名諸侯らの画策によって慶喜を新政府に迎え入れる案が優勢になり、いわゆる武力討幕派は窮地に立たされた。
だが時同じくして江戸では薩摩藩の放った工作員らが独自の破壊活動を始めており、この挑発に乗った庄内藩は三田の薩摩屋敷を焼き討ちにした。この件が幕臣によって大坂城にもたらされるや城内は割れんばかりの歓声が上がり、主戦派は慶喜に詰め寄って開戦を促した。慶喜にももはや主戦派の勢いを止めることは出来ず、旧幕府勢力が薩摩を誅滅せんと慶応4年1月2日(西暦1868年1月26日)に兵庫沖の薩摩軍艦を砲撃、翌3日に鳥羽・伏見(京都の南郊外)にて新政府軍と交戦した。
朝廷に薩摩藩を訴えていた旧幕府軍だったが、隘路の進軍や戦闘準備をしていなかった事など戦術の失敗が重なり、一部を除き多くの戦線で敗退。更に翌4日には仁和寺宮嘉彰親王に錦旗節刀が授けられ、征東大将軍として出陣を命じられた。賊軍扱いとなってしまった旧幕府軍は各藩の協力を取り付けられず、慶喜も6日夜に軍監に乗船して江戸に逃亡し戦線は壊滅、江戸以北へと引き下がることになった。
関東へと進軍を目指す新政府は2月9日、東征大総督府を設置し、有栖川宮熾仁親王を東征大総督に任命。下参謀西郷隆盛らと共に江戸に進軍した。
江戸では勝海舟、大久保一翁ら恭順派が旧幕府の敗戦処理を進めたが、一部旧幕臣の他会津藩や新選組などの主戦派が関東一円で抗戦を試みた。近藤勇ら新選組の残党は甲府城接収を目論んだが、直前に板垣退助率いる新政府軍に城を奪われ、3月6日に交戦するも歯が立たず江戸に敗走。その後近藤は流山に向かったが捕縛され、4月25日に斬首された。
3月、江戸に到着した新政府軍は旧幕府勢への総攻撃を計画したが、旧幕府側の勝海舟と新政府側の西郷隆盛とが交渉の末、江戸城の明け渡しと徳川慶喜の謹慎などの条件で大規模戦闘は回避された。しかし江戸城無血開城を快く思わない旧幕臣による脱走が相次ぎ、対政府の小競り合いが船橋、宇都宮、上野などで発生した。
4月12日、歩兵奉行だった大鳥圭介が旧幕府脱走兵約2000人を組織し、国府台から日光に向けて進軍を開始。16日には他の脱走兵が結城藩領内で新政府軍と衝突し、大鳥軍も19日に宇都宮城を攻撃、城を奪取したが、23日には新政府軍の増援部隊に押され、城を捨てて撤退。日光、更に会津を目指して北上していった。
慶喜が謹慎していた上野寛永寺では身辺警護と称する脱走兵が上野に集まり、慶喜が水戸に移送された後も彰義隊と称して市中に居残り続けた。彰義隊と新政府軍との間で衝突が相次いだため、新政府は彰義隊討伐を决定。京都から派遣された大村益次郎は損害を最小限に防ぐ綿密な計画を立て、5月15日に攻撃開始。夕方には上野山を占領。彰義隊は敗走していった。このように旧幕府主戦派の抗戦はいずれも新政府軍によって鎮圧されていった。
会津藩・庄内藩は旧幕府で尊攘浪士を取り締まる側であり、新政府軍から目の敵にされていた。鳥羽・伏見の戦いで雌雄が決すると、旧幕府側の主戦力だった為に会津藩と庄内藩は朝敵とされた。
仙台藩、米沢藩など東北の大藩は当初新政府に恭順し、仙台藩には奥羽鎮撫総督府が置かれた。これら東北諸藩に対し、会津藩や庄内藩の討伐命令が下された。だが東北諸藩の実情は意思統一が図られているとは言えず、仙台藩等は朝敵藩への赦免嘆願を行ったものの、奥羽鎮撫総督下参謀の世良修蔵はこれを拒否し、「奥羽皆敵」としたため、逆上した仙台藩士によって暗殺された。これを機に東北諸藩は奥羽列藩同盟として新政府に反旗を翻した。北越方面では長岡藩が中立を宣言し、これを訝しんだ新政府は長岡藩を敵と認識。長岡藩を含めた北越6藩が列藩同盟に加わり、奥羽越列藩同盟となった。
会津・庄内に対する赦免嘆願が新政府に拒絶された後は、東北諸藩を軸とする政権樹立を目的とした軍事同盟となり、明治天皇の叔父にあたる輪王寺宮(北白川宮能久親王)を「東武皇帝」とし、伊達家を「権征夷大将軍」とする構想もあった。しかし、既に徳川氏を降し、朝廷や江戸を押さえた新政府の前には非現実的な机上の空論に過ぎなかった。
この間、北越方面では会津藩・桑名藩兵と新政府軍の戦闘が行われており、これに長岡藩が加勢して同盟諸藩は一時的に優勢に立ったが、やがて物量で勝る新政府軍に押され、新潟港を占領されると物資の動線を絶たれた同盟諸藩は北越方面から撤退していった。
会津方面では薩摩藩・土佐藩を主力とする新政府軍が会津藩と交戦していたが、北越方面を制した事による増援により会津藩は降伏。庄内藩や同盟諸藩も続々と降伏していき、数ヶ月の抗争の末に全ての藩が降伏。烏合の衆たる奥羽越列藩同盟は崩壊した。
この東北地方を中心とした内戦はこれまでの局面のような「新政府と旧幕府の抗争」とは若干背景は違うものの、しかし新政府による武力制定の一環として戊辰戦争という名の戦史に取り込まれる。
戊辰戦争の最後とされる内戦。
徳川氏は新政府によって減俸を命じられ、静岡70万石に下って行った。旧幕臣の行く末を案じた榎本武揚は同調する旧幕臣を集め、8月19日に江戸を脱出。8隻の軍監を擁して北上した。途中仙台で旧幕府軍や新選組の残党と合流し、10月20日に蝦夷に到着。蝦夷を平定して旧幕臣を養う基盤にしようと画策した。
土方歳三率いる新選組や大鳥圭介ら旧幕府軍、そして奥羽越列藩同盟の残存勢力を結集し、箱館政権を樹立すると、新政府に対し蝦夷地の借用を申し出る。しかしこれを認めない新政府は冬が終わるのを待ち進軍。根拠地である五稜郭まで追い込み、明治2年5月18日(西暦1869年6月27日)に榎本らは降伏した。既に年号は変わっていたために己巳の役(きしのえき)ともいわれる。
これによって対抗となる旧体制勢力がほぼ消滅し、新政府は日本の事実上の統治体として国際的に認められることとなった。明田鉄男『幕末維新全殉難者名鑑』によれば、戊辰戦争の戦死者は東北諸藩を含めた旧幕府軍が8625名、新政府軍が4947名で計13572名に及んだという。
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最終更新:2025/12/15(月) 05:00
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