戦艦大和 単語


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戦艦大和(せんかんやまと)とは、大日本帝國海軍が建造した大和型戦艦1番艦である。艦名の由来は奈良県の旧国名からだが、日本そのものの意味もある。大和の名は日本海軍軍艦として二代目(初代:城型巡洋艦大和)。第二次世界大戦(WWⅡ)中の1941年12月16日、呉海軍工廠で竣工。連合艦隊旗艦となる。排水量と主砲口径は現在に至るまで「戦艦」としては世界最大であり、ギネスにも登録されている。レイテ沖海戦で駆逐艦ホーエルを協同撃沈。B-24爆撃機5機、アベンジャー1機を撃墜する戦果を挙げた。1945年4月7日、坊ノ岬沖海戦で沈没。

大和型2番艦が戦艦武蔵(三菱長崎造船所で建造)、3番艦信濃は戦艦として建造中に戦局の変化により設計変更され航空母艦として完成(横須賀海軍工廠で建造)した。4番艦も建造中だったが、ミッドウェー海戦の敗北や用兵思想の変化で建造は中止された。

概要

ワシントン及びロンドン海軍軍縮条約における建艦の禁止期間は1936年末までだった。世界情勢的にこれ以上の軍縮は不可能であり、列強各国は禁止期間明けにこぞって新型戦艦を作り出すだろうと予想された。そこで大日本帝國海軍は仮想敵アメリカに負けない強力な戦艦を造ろうと、1934年に設計を開始。そしてワシントン軍縮条約脱退後の海軍軍備計画(マル3計画)に基づいて建造がスタートした。

アメリカ海軍の戦艦はパナマ運河を通過させる必要がある都合上、40cm砲以上のものは積めないと判断され、新型戦艦には46cm(秘匿のため40cmと偽称している)主砲を載せる事とした。大和型には当時最先端技術だった電気溶接を盛り込む予定だったが、試験的に使用した潜水母艦大鯨で大失敗したため、見送られている。またドイツではディーゼルエンジンを取り入れた革新的な袖珍戦艦ドイッチュラントが誕生。大和型に取り入れるべくMAN社に特許料の支払いを打診したところ、100万円(現代でいう数億円)という法外な大金を要求されたため、こちらも断念している。それでも大和型には新機軸が多数盛り込まれ、当時の日本における造船技術・軍事技術の粋を尽くして建造された。巨大であるとともに様々な新機軸も導入されており、翔鶴型と同様にバルバス・バウ(球状艦首)を採用。帝國海軍では二例目の導入となった。試験的に戦艦比叡で使用したブラウンボベリー型タービンポンプも大和型に使われ、比叡に準じた強固な防御装甲が施された。日本が造る軍艦は居住性能が劣悪なものが多いが、大和型は数少ない例外だった。兵員居住区は冷暖房完備(士官室や司令室だけという説も)であり、三段式ベッドを採用しているなど破格の機能を持っていた。そのため、かかった建造費も当時の国家予算の3%という巨額になっている。
※ちなみに建造費1億3780万2000円は現在の「あたご」型イージス艦二隻分の建造費に相当する(で、そんなものかと思えるほど日本の国力は戦前、戦後にちがいがある証拠でもある)。

あまりに高額な予算のため帳簿上の操作が行われており予算上は金剛型戦艦代艦として計上され、それでも不足する予算額は駆逐艦数隻+潜水艦の建造費用として計上された。ただし、それでもなお予算上の都合から諦められた装備なども多いことは書いておいていいだろう。

このような巨艦を建造していることは仮想敵国であるアメリカ・イギリス等に対して隠蔽する必要があり、呉のドック周囲にはシュロの網がかけられたがあまりに大量のシュロが必要となったため一般家庭が用いるシュロが手に入らなくなったなど逸話も多い。長崎でも武蔵を隠すための倉庫が建築されたり、進水式の際には海から見られないよう他の軍艦等を配置して目隠しした。山本五十六長官ですら、呉鎮守府長官から「海軍大臣の特別許可が必要」と言われて見学できなかった。また日本国民に対しても「大和」「武蔵」の竣工や配備はまったく報道されることなく、当時の国民は終戦まで「長門」と「陸奥」こそが日本を代表する戦艦だと思っていた。特に主砲口径が世界最大となる46cmであることは極秘中の極秘とされ、「大和」「武蔵」を率いる艦隊司令官ですら「大和」「武蔵」の主砲は41cm級だと知らされていた。もちろん敵国アメリカも「大和」「武蔵」の実戦配備とそのおおよその大きさは掴んでいたが、主砲は40.6cmだと思っており46cmと知ったのは戦後であった。

その装備や設計思想などについてはwikipediaや各種書籍等で触れられているのであまりここでは述べることは行わない。ただ日本海軍の戦艦に対する捉え方が極限にまで凝縮された設計思想に基づき作られた日本特有の城を思わせるような艦橋デザインなど、扶桑型から綿々と受け継がれてきた日本戦艦の最後を飾るに相応しい艦艇であると言えるだろう。ただし太平洋戦争中、十分にその能力を発揮できたか。というと極めて疑問符がつく結果が残された。

あまりにも突出した「切り札」すぎたこと、「大和」「武蔵」を動かすための重油などの手当ての難しさなどから、作戦参加はあまり行われず、国内、トラック島など停泊地にとどまりつづけた。冷暖房完備で食料も優先分配された上、激戦続くソロモン海戦(ガタルカナル島の戦い)に 参戦しなかった事もあり他艦乗員から「大和ホテル」と揶揄されたことは有名だろう。ただし作戦参加が手控えられ後方での待機が続いたのは当時日本が持っていた戦艦全般に当てはまることであり「大和」「武蔵」に限らない。最も旧型(が故に損失を恐れられなかった)で、かつ高速な金剛型の4隻のみが戦艦として多数の作戦に用いられた。前線に出なかった事と徹底的に情報が秘匿された事で、アメリカ軍は大和型の全容を認知できていなかった。米潜スケートが大和を雷撃した時、艦長は正確に大和の大きさを報告したにも関わらず上層部は「そんなでかい戦艦がある訳ないだろ」と一蹴。変な報告をしたとして、その艦長を陸上勤務にしてしまった。

建造後、数度の改修が行われ、主に側面副砲二基の撤去と対空火器増設が行われている。

初めて主砲による砲撃を行ったのは、あ号作戦におけるマリアナ沖海戦で、この作戦では前衛部隊に配置され敵機と交戦したが、対空射撃のみであり敵艦隊と撃ち合うことはなかった。その後捷号作戦(レイテ沖海戦)に投入され、アメリカの護衛空母・護衛駆逐艦と遭遇して初めて敵艦を狙って主砲を発射した(サマール島沖砲撃戦)。大和の46cm主砲用徹甲弾は、厚い防御装甲を持つ敵戦艦の装甲を破った後に艦内で爆発するよう特に起爆を遅く設定した遅発信管が用いられており、装甲のない護衛空母・護衛駆逐艦相手では命中した徹甲弾は爆発すること無く敵艦を突き抜けて反対側の海に飛び出したとも言われている。このレイテ沖海戦において「武蔵」を失っている。ちなみに大和自体は参加していないが、礼号作戦ではアメリカ軍が重巡足柄を「大和型戦艦」と誤認。ミンドロ島の敵軍がパニックに陥り、迎撃が杜撰になって第二水雷戦隊の突入を許したというエピソードがある。どれだけアメリカ軍が大和型を恐れていたかを表している。最終的に「大和を沖縄の海岸に乗りあげて砲台としてアメリカを迎え撃つ」天一号作戦の一環として参戦し沖縄に向かう途中の坊ノ岬沖にて撃沈されている。

※・・・菊水作戦は一航空隊の航空攻撃戦を指す作戦名だが、天一号作戦と混同し使用されるケースがある。

「大和」最後の戦いであった坊ノ岬沖海戦において、正午よりアメリカ空母機動部隊の艦載機の襲撃にあう。
戦争後半におけるアメリカ空母搭載の艦載機が放つ爆弾及び魚雷は開戦当時のものとは大きく破壊力が増しており、またレイテ沖海戦での「武蔵」に対峙した戦訓もあり、「大和」は多数の魚雷・爆弾を浴び、午後2時23分、傾斜による弾薬庫の誘爆、あるいは機関部の水蒸気爆発と思われる爆発と共に海に没した。
沈没地点は北緯30度22分 東経128度04分の地点。戦後数十年を経て平成の世に入ってから、海底に眠る大和の姿が明らかになり、艦体が二つ以上に分かれているのが確認された。現在、この「大和」の引き上げ計画も検討されているようだが、そっとしておいてほしいという意見もあるだろう。


昨今、この天一号作戦直前の「大和」を写した写真が発見され、木製甲板がすべて黒一色に塗られていたことが明らかになっている。またこの甲板塗装は捷号作戦時点から行なわれていたとの説もある。

戦後、「大和」の(日本人的美意識の集約ともいえる)悲劇的結末は多くの小説などの題材に選ばれ、映画化もされている。また、広島県呉市の「大和ミュージアム」こと呉市海事歴史科学館には、1/10サイズの精巧な「大和」の模型が置かれており、多くの来館者でにぎわっている。

艦歴

未曾有の巨大戦艦を建造するにあたり、帝國海軍は様々な試行錯誤を行った。技術先進国ドイツで実用化されていた電気溶接やディーゼル機関を大和の建艦に導入しようと、まず潜水母艦大鯨で実験。結果は大失敗で、技術の未熟さが露呈した。ディーゼル機関に関しては水上機母艦瑞穂でも試験的に搭載されていたが、こちらも定格出力が出ず失敗。2つとも導入は見送られ、従来のリベット打ちとタービンエンジンを採用する。1936年11月、戦艦比叡が呉工廠で近代化改修に入ったため、実験として大和型に搭載予定の九八式方位盤照準装置と九八式射撃盤を装備。ブラウン・ボベリー式ターボ・ポンプも先行実験の名目で搭載されている。

昭和12年度海軍補充計画(通称マル三)にて、戦艦第1号艦の仮称で建造が決定。1937年8月21日に建造訓令が出され、11月4日に呉工廠第4船渠で起工。1938年、ドイツのワグナー社から巨大旋盤2台を購入。主砲の製造に使用された。また、ドイツ海軍の空母(後のグラーフ・ツェッペリン)開発に協力したお礼に貰ったドイツ製工作機械や鋼板技術も投入されており、ドイツの高い技術力と日本の建艦ノウハウが合体した。

1940年8月8日午前8時30分に進水式を挙行、軍艦大和と命名される。進水後は丙錨地ポンツーンに回航、艤装工事を受ける。1941年9月5日、呉鎮守府に編入。10月16日から18日まで土佐沖で予行運転を実施。11月29日、徳山沖で公試を行い、最高速力27.46ノットを記録。開戦直前の12月7日には主砲1発の試射を行った。

1941年

1941年12月8日、大東亜戦争開戦。その時、大和は呉に向けて回航中で、ハワイ作戦援護のため外洋に出る長門率いる艦隊とすれ違っている。翌9日から12月15日まで最終艤装工事を行い、12月16日に竣工。戦艦長門と陸奥からなる第1戦隊に編入され、初代艦長に高柳儀八大佐が着任した。12月21日に呉を出発し、柱島泊地へ回航。長門の西側に投錨した。

1942年

1942年1月14日、室積沖で戦艦陸奥が曳航する標的に向けて射撃訓練。1月18日から翌日にかけて、瀬戸内海西部で陸奥と砲撃試験を実施。試験中に民間の帆船が迷い込んでくるトラブルがあったものの、無事完了。2月12日に戦艦長門から旗艦の座を継承。山本五十六大将が乗艦し、大将旗を掲揚。2月19日、柱島を出港して伊予灘で訓練。夜遅くに柱島へと戻った。2月20日、連合艦隊参謀長の宇垣纏少将が乗艦。23日まで第二段作戦の図上演習を行った結果、イギリス領セイロン島への上陸作戦は失敗と判定された。3月30日、大和の訓練を山本五十六大将が視察。照準機の水平設定が間違っているとして高柳艦長と砲術長が叱責された。5月初旬、山本長官は大和艦上でミッドウェー作戦の図上演習を実施。5月19日に呉を出発し、4日間の戦闘訓練に従事。その横には就役したばかりの商船改造空母隼鷹がいた。

5月29日午前6時、ミッドウェー作戦参加のため柱島を出撃。大和には山本長官が乗り込み、主力部隊の旗艦となっていた。17時頃、軽巡洋艦川内率いる第3水雷戦隊が合流。他にも先鋒を務める南雲機動部隊、上陸部隊を乗せた攻略船団がミッドウェー近海に向かっていたが、敵に位置を悟られないよう厳重な無線封鎖を敷いていたため連携が取れない状況にあった。翌30日、米潜カトルフィッシュが放った通信を傍受したが、解読は出来ず。6月4日深夜、大和は敵空母らしき呼び出し符丁を傍受。山本長官は「赤城に知らせてみてはどうか」と打診したが、既にミッドウェー島まで約250海里の所まで来ており、不用意な送信は敵に位置がバレる恐れがあった。幕僚たちが集まって協議した結果、「現在は無線封鎖中であり、また第1機動部隊は連合艦隊より優秀な通信解析班を持っているから危険を冒してまで知らせる必要は無い」と結論付けられた。しかしこの通信は赤城では傍受されてなかった。

6月5日早朝、ミッドウェー海戦が始まったが、主力部隊は空母4隻他からなる南雲機動部隊の遥か後方に位置しており、戦局に寄与する事無く南雲部隊空母全滅の報を聞く事になる。艦橋には沈痛な空気が流れた。最もミッドウェー島に近かった栗田健男少将の第7戦隊に艦砲射撃を命じたが、6月6日午前0時15分に中止。午前2時55分にはミッドウェー作戦そのものの中止を命じて退却を開始した。内地に向けて帰還中の6月10日、南鳥島の北東100海里で敵潜水艦と遭遇し、2本の魚雷を撃たれている。反撃で副砲・高角砲を射撃した。6月14日19時、柱島に帰投。6月20日、柱島で停泊中の大和艦上で日本空母の脆弱性に対する研究会が行われた。軍令部、艦政本部、航空本部員など多数乗艦し、3日に渡って討議。得られた戦訓を綿密に精査した結果、火災に対する脆弱性が指摘された。これを受けて建造予定の雲龍型は炭酸ガス方式から泡沫式に消火装置を改め、格納庫内の通風も強化している。

8月5日、2番艦武蔵が竣工。大和と第1戦隊を編制する。8月7日、ソロモン諸島ガダルカナル島とツラギにアメリカ軍の大部隊が奇襲上陸。ソロモン戦線が形成される。8月10日、大和艦上で対策会議が開かれ、山本長官は第一次ソロモン海戦で快勝した三川艦隊の成功を利用して一気に島を奪回したいと主張した。8月17日午後12時30分、特設空母春日丸、第7駆逐隊3隻を率いて柱島を出港。道中の8月27日にタロアへ向かう春日丸と曙を分離し、自身はトラック諸島に向かう。翌28日、トラック入港直前で米潜フライングフィッシュに捕捉される。アメリカ軍にとって大和型は未知の存在であり、フライングフィッシュは「金剛型戦艦」と識別した。4本の魚雷を発射し、2回の爆発音を探知したため2本命中と判断したが、実際は早爆であり1本も命中していなかった。雷撃に気付いた大和は零式水上偵察機を発進させ、4発の爆弾を投下させたが逃げられている。その日のうちにトラックへ入港、連合艦隊旗艦として指揮を執った。9月9日、夏島南方の泊地へ移動。燃料及び速力の問題と機密保持から出撃が許されず、長らく泊地内で過ごす。一時は山本長官が大和と武蔵を率いてヘンダーソン飛行場を砲撃しようとしたが、長官の身を案じた栗田少将が金剛と榛名で代行した。10月17日、ガ島の陸軍総攻撃に向けて大和と陸奥は自身の燃料を給油船健洋丸に移した。南太平洋海戦終結後、角田覚治中将は大和を含む泊地内の戦艦を飛行場砲撃に投入しろと司令部に激昂したが、燃料不足と一蹴されてしまった。いつ頃からか、大和ホテルの蔑称で呼ばれるようになった。

1943年

1943年2月11日、戦艦武蔵に旗艦の座を譲渡。山本長官が大和を去った。4月18日、泊地内で主砲発射訓練を実施。5月8日、アメリカ軍によるアッツ島攻囲を受けてトラックを出撃。5月13日に柱島へ帰投し、翌日呉に回航。5月21日から30日まで第4船渠で整備を受けるとともに、対空機銃4基を追加した。7月12日に再度入渠。21号対空電探2基と零式水中聴音機を装備し、射界の狭い艦中央両舷の15.5cm三連装砲を陸揚げ。代わりに25mm三連装機銃を追加した。過大な航続距離を是正するため搭載燃料を減らし、主舵と補助舵の制御を容易なものにした。

7月16日、在日ドイツ海軍武官パウル・ヴェネッカー大将が大和を訪問する事に。だが、いくら同盟国であっても機密の塊である大和を見学させる事に艦長松田千秋少将が難色を示し、在独海軍武官野村直邦中将との間で論争が起きた。一応ヴェネッカー大将の大和見学は行われたが、1時間以内かつ限られた通路しか通れなかった。彼は昇降機、防空指揮所、艦橋、主砲の出来の良さを褒めたという。翌17日、出渠。7月21日より速力試験と出動訓練に従事。8月16日に軍隊と物資を積載して呉を出港、夜に八島泊地へ回航される。翌日、戦艦長門、扶桑、特設空母大鷹、重巡高雄、愛宕等とともに出発。横須賀を経由してトラック方面に向かった。8月23日、トラック入港。9月18日、敵機動部隊迎撃のためトラックから有力艦隊が出撃。しかし燃料の都合から、大和、武蔵、扶桑は泊地内に留め置かれた。会敵は果たせず、9月25日に艦隊は帰投した。10月5日から6日にかけて敵機動部隊がウェーク島を空襲。近く敵が大規模行動を起こすと判断した旗艦武蔵は再度艦隊の出撃を下令。今回の出撃は大和と武蔵も含まれた。10月17日朝、艦隊は勇躍トラックを出撃。基地用のレーダーがあるマーシャル諸島ブラウン島に向かった。ところが伊36にハワイを偵察させてみたところ、港内に戦艦と空母それぞれ4隻の停泊を確認。敵艦隊の出撃は無かった。10月19日にひとまずブラウン到着。古賀大将はウェーク方面に敵が来攻すると考え、10月23日に出撃。ウェーク近海で索敵を行ったが、やはり敵影を発見できず。燃料だけ浪費して10月26日に帰投した。

12月12日、戊輸送作戦参加のためトラックを出港。12月17日に横須賀へ寄港し、独立混成第1連隊4131名と軍需品を積載。駆逐艦秋風、谷風、山雲に護衛されてトラックに向かった。ところが12月25日、トラックの北西約180海里で水上航行中の米潜スケートに発見される。午前5時18分、艦尾魚雷発射管から4本の魚雷を発射。1本が右舷第3主砲塔下に直撃した。約5mの破孔が生じ、3000トンもの浸水が発生する。しかし大和では少し揺れた程度で、被雷に気付く者はいなかったという。護衛の駆逐艦が爆雷6発を落としたが、逃げられた。夜遅くにトラックへ到着し、工作艦明石から応急修理を受けた。

1944年

1944年1月10日、軽巡大淀、駆逐艦満潮、朝雲、藤波に護衛されてトラックを出港。翌11日18時、浮上中の米潜ハリバットを捕捉して回避。1月14日23時30分、伊豆諸島南方で米潜バットフィッシュのレーダーに捕まるが、無事振り切った。1月15日午前7時10分には米潜スタージョンがスクリュー音を探知。浮上すると10km先に大和の姿があったが、24ノットの高速だったため攻撃する間も無く取り逃がした。3回潜水艦に発見されながらも、1月16日に呉へ到着。1月28日に第4船渠へ入渠し、スケートに開けられた破孔箇所を調査。2月3日に一旦出渠し、2月25日から再度呉工廠に入渠。中央部両舷の副砲塔を撤去して代わりに12.7cm三連装機銃や25mm機銃を搭載。15cm探照灯2基を陸揚げした。3月18日、出渠。4月11日、呉を出港して伊予灘で公試を実施。夜、柱島へ帰投。4月17日に呉へ回航し、輸送物件の積載と補給。重巡摩耶や駆逐艦雪風、島風等とともに出発する。道中で沖ノ島に立ち寄って部隊を揚陸したのち、マニラ方面に移動。4月28日にマニラへ寄港して部隊を降ろし、5月1日にリンガ泊地へ到着した。5月3日に「あ」号作戦が発令され、翌日宇垣纏中将が大和に乗艦。長門から第1戦隊旗艦の座を継承する。5月11日に出港し、タウイタウイ泊地へ移動。現地で武蔵と合同訓練を行い、錬度を高めた。

6月10日18時、第三次渾作戦参加のためタウイタウイを出撃。戦艦武蔵、軽巡能代、駆逐艦沖波、島風とともにハルマヘラ島バチャン泊地に向かう。出港直後、米潜ハーダーのものと思われる潜望鏡を発見。回避運動を行う際に危うく武蔵と衝突しかける一幕があった。6月12日にバチャンへ到着するも、アメリカ軍がマリアナ諸島に来襲した事で渾作戦どころではなくなってしまう。タウイタウイを出発した小沢治三郎中将率いる機動部隊との合流を命じられ、翌13日22時に出港。6月15日、ミンダナオ島東方で米潜シーホースに発見され、位置情報を通報される。午前10時に第1補給隊と合流し、6月16日15時30分に小沢艦隊と合流。燃料補給を受ける。大和は栗田健男中将率いる第2艦隊とともに機動部隊本隊の前方約100海里に位置。空母を守る盾に起用された。

6月19日、マリアナ沖海戦に参加。午前9時20分、大和の見張り員が西方より接近する敵味方不明機を確認。正体は第601海軍航空隊で味方だったのだが、事前に味方機が上空通過する事を知らされていない第2艦隊は敵機と判断。大和は僚艦と回頭を行い、46cm主砲から三式弾を発射。これが実戦における最初の主砲発射であった。三式弾により4機の零戦が損傷。唯一味方機だと見抜いていた武蔵は対空射撃の停止を求めたが、聞き入れられず各艦とも射撃を続ける。味方機が両翼を振ってバンクした事で、ようやく同士討ちは終結。最初の主砲発射が味方相手になってしまった。6月20日夕刻、200機以上に及ぶ敵機の大群が小沢艦隊を攻撃。大和は無傷で攻撃を乗り切ったが、大型空母3隻、300機以上の航空機、700名の搭乗員を喪失して事実上小沢艦隊は戦闘能力喪失。やむなく退避行動に移った。6月22日、中城湾に到着。遺体の移動や駆逐艦への燃料補給を施し、翌日出港。荒天の玄界灘を突破して6月24日に柱島へ帰投した。5日後、戦艦武蔵とともに柱島を出発して呉に回航。7月2日、タンカー日栄丸から燃料補給を受ける。7月5日から7日にかけ、十時和彦陸軍大佐率いる第49師団歩兵第106連隊3522名が乗艦。7月8日午前8時45分に出発し、戦艦武蔵や長門等とともに南方への兵力輸送に従事。中城湾を経由し、7月16日16時10分にリンガ到着。便乗の陸軍部隊を輸送船に移乗させた。翌日から武蔵と月月火水木金金の猛訓練を開始。

10月17日、アメリカ軍がレイテ湾スルアン島に上陸。これを受けて翌18日に捷一号作戦が発令され、ブルネイへの進出が命じられた。大和は夜のサンベルナルジノ海峡突破を容易にするため、煤で黒色に塗装した。10月18日に艦隊はリンガを出港、10月20日正午に補給地のブルネイに到着した。ところがタラカンを出発した給油船団が米潜水艦の襲撃を受け、被害こそ無かったものの到着が遅れていた。やむなく大型艦から中型艦、中型艦から小型艦へ給油する事になり、同日夜に大和は重巡摩耶に横付けして給油した。東郷元帥の孫であり、摩耶の甲板士官だった東郷良一少尉が「クラス会だ!」と叫び、両手一杯にビールを担いで大和に乗り込んできたとか。燃料補給の傍ら、長門から零式観測機を受領する。大和は栗田健男中将の艦隊へ編入され、主力部隊の一員となる。艦隊の目的地は敵が橋頭堡を築いたレイテ湾。そこへ至るには数々の難関が待ち受けていた。

血染めのレイテ沖海戦と失意の帰国

10月22日午前5時、全艦艇32隻の給油が完了。午前8時、旗艦愛宕に率いられて出港。西村艦隊の艦艇が見送ってくれた。出港直後にスコールが降ったが、その後は快晴。海も穏やかだった。艦隊は18ノットに増速し、午前10時3分にアベノロック北方を通過。午後12時45分、針路15度に変更。レイテ湾への最短ルートとなるパラワン水道を目指す。翌23日早朝、パラワン水道で敵潜の襲撃を受け、旗艦愛宕と摩耶が沈没。高雄が大破落伍という手痛い損害を受ける。海を泳いだ栗田中将は岸波に救助され、攻撃から約10時間後の夕刻に大和へ移乗。旗艦任務を引き継ぐ。

10月24日早朝、栗田艦隊はミンドロ島南方を北東方向に進んでいた。午前7時43分、タブラス海峡を北上。艦隊は二つに分かれ、それぞれ輪形陣を敷いた。大和は前方を進む第1部隊の中心に位置する。午前8時10分、3機の偵察機が出現した事で空襲は免れない事態となった。シブヤン海海戦の幕開けである。タブラス海峡を抜けた直後の午前10時25分、空母第2群ボーガン隊の第一次攻撃隊44機が出現。1分後、大和は接近する敵編隊に向けて三式弾を発射した。大和と武蔵があまりにも巨大過ぎたので、敵は長門を大型巡洋艦と誤認したという。その巨体さ故に多くの敵機が大和型に殺到した。

午前10時32分、2機のアベンジャーに襲われたが命中弾無し。午前10時47分頃、大和の見張り員が潜望鏡を発見。他の艦も同様の報告を上げた事から潜水艦が潜んでいると判断され、艦隊運動の妨げとなる。この攻撃で妙高が大破落伍、艦隊に追随できなくなりブルネイへ引き返した。午後12時6分、マリンゲス島南方で第二次攻撃隊が襲来。13時25分、シブヤン島北東に差し掛かったところでシャーマン少将率いる第3空母群の第三次攻撃隊68機が出現。ルソン島南部を飛び越えて栗田艦隊に殺到する。6分後、大和が砲撃開始。攻撃が集中した武蔵の艦首が沈下し、速力低下。13時50分、ヘルダイバーが投じた爆弾2発が1番砲塔前部に命中。その頃、シャーマン隊に瑞鶴から飛び立った20機の爆装零戦が到達。至近弾4発を与え、更なる攻撃隊発進の機会を失わせた。14時26分、シブヤン島北方でデビソン少将率いる第4空母群の第四次攻撃隊25機が襲撃。栗田中将は落伍しかけている武蔵に合わせようと、艦隊速力を22ノットに低下させた。4分後、4機のヘルキャットと12機のヘルダイバーが襲い掛かり、5発の500kg爆弾と7発の250kg爆弾が投下された。1発が左舷錨鎖甲板を貫通して内部で炸裂。左舷艦首水線部に破孔が生じた。更に2発が第1砲塔に直撃。3000トンの浸水被害が発生し、左へ5度傾斜するも注水装置で1度までに回復。14時55分に第五次攻撃隊が出現し、15時30分に攻撃が止まった。実に261機の航空機が栗田艦隊を攻撃したのだった。多くの攻撃を吸収した武蔵は満身創痍と化し、ついに洋上で停止した。

体勢を立て直すべく、栗田艦隊は輪形陣のまま290度回頭を行って西方へ退避。18ノットで西進する。これが効果的だったようで、ハルゼー艦隊は決定的痛打を与えたと判断。新たに北東方面に現れた小沢囮艦隊に注意を向け、サンベルナルジノ海峡をがら空きにした。栗田中将は迂回路のマスバテ海峡を通ってレイテ湾を目指そうとしたが、これでは到着予定時間に5時間の遅れが生じ、レイテ湾口スルアン水道の手前60海里で夜明けを迎えて空襲を受ける羽目になる。仕方なく予定通りサンベルナルジノ海峡を通過する事とし、17時15分に120度方向へ反転。18時30分、瀕死状態の武蔵と遭遇。艦首が水没し、10度ほど左へ傾斜している。旗艦の大和にしてやれる事は、護衛用に重巡利根、駆逐艦島風と清霜を派出する事だけだった。19時頃を最期を看取った浜風から武蔵の沈没が告げられた。23時30分、サンベルナルジノ海峡突入。敵との遭遇が予想されたが、がら空きになっていて会敵は無かった。この時点で栗田艦隊の戦力は戦艦4隻、重巡6隻、軽巡2隻、駆逐艦11隻にまで減じていた。

10月25日午前3時35分、難所のサンベルナルジノ海峡を突破。ついに太平洋へと出た。東進した後、午前4時にレイテ湾を目指して南下。午前6時25分、大和の電探が前方50kmに敵機を捕捉。輪形陣を組もうとしたが、午前6時45分に大和の見張り員が南東方向35kmにマスト数本を発見。当初は小沢囮艦隊から派出した戦艦伊勢、日向と思われたが、距離が近づくにつれ艦載機を発進させている空母を確認。間もなく敵艦隊だと判明し、栗田中将はレイテ湾突入を断念して敵艦隊攻撃に切り替えた。すかさず「戦艦戦隊、巡洋艦戦隊進撃せよ」の号令が下った。隊形を整える時間を惜しんだため、各艦ばらばらに突撃。敵の正体は第4任務群第3集団(タフィ3)で、護衛空母6隻と駆逐艦7隻からなる艦隊だった。午前6時58分、大和が砲撃を仕掛け、東南東31km先の敵艦隊を先制攻撃。続いて戦艦長門、金剛、榛名が砲門を開き、サマール沖海戦が生起した。

この時、大和の初弾が米護衛空母ガンビア・ベイの艦尾に命中したとする説がある。否定的な見方が強いが、2013年8月16日刊行の「週刊大衆」(双葉社)で当時の乗員が「主砲を撃ったら、初弾が命中したんです。現在市販されている史実とされる本の類には、そんな事は書かれていませんが、私らは双眼鏡で見ていたから間違いありません。大和の主砲弾はガンビア・ベイの艦尾のあたりに命中しました。当時、栗田艦隊は着弾したのが自分の弾かどうかが判別できるように、爆煙に色が着いていたんです。当然この色は、戦艦ごとに違って、戦艦長門はピンク、大和は白だったんですよ」と述懐している。

大和の前方5km先を行く重巡鳥海と羽黒も砲撃を開始し、20cm砲弾を浴びせる。たちまちタフィ3は林立する水柱に囲まれた。脆弱な時を狙われた形となった敵護衛空母群は退避を開始。米駆逐艦が煙幕を展開し、逃げる護衛空母群を支援する。午前7時8分、突然のスコールにより大和は空母を見失い、主砲射撃を中止。電探で周囲を探りながら全速で東進する。午前7時15分、スコールが止んだ。その間にタフィ3は艦載機95機を発進させ、更に近隣にいるタフィ1とタフィ2から艦載機を呼び寄せた。上空には100機以上の敵機が飛び交い、散発的ながら執拗な空襲を繰り返してきた。煙幕から飛び出してきた敵駆逐艦ジョンストンが北方の重巡部隊に魚雷10本を発射し、熊野と鈴谷を損傷・脱落させる。勇敢な反撃だったが、それが命取りになった。直後に大和を含む艦艇から大小様々な砲弾が撃ち込まれ、ずたぼろにされた状態で煙幕に隠れた。ジョンストンの代わりに今度はホーエルが突撃し、金剛と羽黒を雷撃するが、こちらは戦果に恵まれなかった。大和はホーエルに向けて副砲を射撃し、行動不能に追いやる。行き足を止めたホーエルは能代、大和、矢矧から集中砲火を浴びて転覆し、アメリカ軍最初の喪失艦となった。午前7時54分、右100度に魚雷数本が伸びてくるのを確認。大和は左へ転舵して北北東に舳先を向けるが、この回避がまずかった。被雷こそしなかったが、両舷を魚雷に挟まれて併走する形となり、身動きが取れなくなってしまったのである。この椿事は長門も巻き込み、図らずも戦場から3万mも離れてしまう。午前8時4分、ようやく魚雷が沈んだため南下。周囲は硝煙とスコールで視界が悪くなっており、敵艦も僚艦の姿も見えなかった。午前8時14分、大和から艦載機が発進して索敵を行う。その直後、200度方向20kmに戦艦らしき反応を探知(相手は駆逐艦ロバーツ)。電探射撃を加えたが、逃げられている。午前8時21分、艦載機が炎上中の敵空母を発見。南東方向に逃げているとの情報を発したが、敵戦闘機に追い回されてサンホセへの着陸を強いられた。1分後、南南西20km先に2隻の敵空母を発見して主砲射撃を再開。大和はカリニン・ベイに主砲弾13発を命中させていたが、装甲が薄すぎて信管が作動せず、火災こそ起きたものの沈没しなかった。更に1隻の空母が炎上しているのが見えた。この炎上空母はガンビア・ベイで、集中砲火を受けて艦隊から脱落しつつあった。この時、敵駆逐艦のものと思われる12.7cm砲の至近弾2発があり、右舷短艇庫付近が損傷。

午前8時40分、南東方向の水平線上に新手の敵空母が出現。最も東にいた榛名が攻撃に向かった。10分後、敵情把握のため再び艦載機を発進させたが、敵戦闘機によってすぐに交信が途絶した。南西に進み続けると、燃え続けるガンビア・ベイの船体が見えてきた。他の空母は既に戦場から離脱しており、厳しい燃料事情を考えて追撃を断念。この海戦で護衛空母ガンビア・ベイ、駆逐艦サミュエル・ロバーツ、ホーエル、ジョンストンを撃沈。ヒーアマンとデニスを大破させた。日本側の被害は重巡鈴谷、筑摩、鳥海沈没、熊野大破であった。

海戦後、栗田中将は北上と集結を命じた。栗田艦隊の艦艇は別々に応戦したため、広い海域に散在していたのだ。午前9時6分、アベンジャー7機が襲来。魚雷を回避しながら1機のアベンジャーを撃墜した。4分後、マバラカットを出撃した神風特攻隊敷島隊の零戦9機が大和の上空を通過していった。午前10時30分頃、ようやく集結を完了。午前11時、再びレイテ湾を目指すため南下を始める。栗田艦隊の艦艇は16隻にまで減少。ブルネイ出撃時のちょうど半数である。もはや艦隊を2つに分けられる数ではなく、輪形陣は1つに統合された。午後12時17分、南西方向からタフィ2艦載機約50機が襲来。37分間の対空戦闘を行った。小沢囮艦隊から交戦状況を知らせる通信が2通しか入っておらず、本当に敵空母を釣り上げているのか不安視されるように。付近に敵機動部隊が潜んでいる可能性を捨て切れなかった栗田中将は、参謀全員の反対を押し切って午後12時55分に北上を命じた。突入が遅れた事でレイテ湾の輸送船団もいないだろうと判断され、13時10分に反転。帰路についた。その僅か1分後、北東より接近する100機の機影をレーダーで探知。間もなく激しい空襲が行われ、利根が1発の命中弾を受けたが落伍艦は出なかった。続いて15時45分、47機の敵機が出現。大和は至近弾多数を受けた。連戦に次ぐ連戦で敵も疲れているのか、精彩を欠く攻撃だった。16時16分、北方に60機以上の機影が探知されたが、これは珍しく味方機だった。16時45分、50機の敵機が出現して最後の攻撃を仕掛けてきた。この攻撃も何とか乗り切り、サンベルナルジノ海峡へと急ぐ。17時40分、左舷上空を西進する九九式艦爆32機を発見。発光信号で攻撃したかどうか尋ねてみると、「敵を発見せず」と返ってきた。この日だけで栗田艦隊は延べ487機から攻撃を受けた。21時、サンベルナルジノ海峡に到達。来た道を引き返していく。

10月26日未明、パナイ島沖タブラス海峡北口に達した。午前8時、スールー海通過中に30機のアベンジャーから攻撃される。それが終わると次はヘルダイバーとアベンジャー計50機が出現。前甲板に2発の命中弾を受けた他、軽巡能代が被雷して落伍。駆逐艦浜波と秋霜を護衛に残した。午前10時40分、今度はB-24爆撃機30機が襲来。陸上機は艦上機と比べると鈍重で、大和が放った三式弾によって5機編隊のB-24が壊滅。海に墜落した後も爆発が起き続けたという。この攻撃を以って空襲は終了。針路を北西に向けると、燃料切れが迫っている島風以下5隻の駆逐艦をコロン島に向かわせる。夕刻、パラワン水道北東端を通過して南シナ海に出た。遊弋中の敵潜水艦を避けるため新南諸島を大きく迂回する航路を選んだ。10月27日は丸一日平穏だった。戦死した乗員29名の水葬が行われ、遺体を海に落とした。

10月28日21時、生き残った艦艇は出撃拠点のブルネイへ帰投。浸水3000トンと注水2000トンにより艦首が少し沈下していた。さっそく御室山丸から燃料補給を受ける。10月30日、20機のB-24がブルネイを空襲。投弾を受けたが、在泊艦艇も対空砲火を上げ、12機を撃墜して追い払った。今やこのブルネイも敵の空襲圏内であり、大本営は戦艦に帰国するよう命じた。11月6日、駆逐艦夕月と卯月に護衛された隼鷹と軽巡木曾が入港。残余の艦艇に弾薬を補給した。11月8日午前3時、ブルネイを出港。多号作戦支援のため新南群島方面で活動し、11月11日にブルネイ帰投。11月15日、第1戦隊の解隊に伴って第2艦隊直轄となる。翌16日、泊地にB-24爆撃機40機とP-38戦闘機15機が襲来し交戦。同日18時15分、戦艦長門や金剛等とともにブルネイを出港。帰国の途につく。敵潜が潜んでいる危険なバシー海峡を荒天に紛れて突破し、大陸沿いの航路を通る。東シナ海は一年中荒れている海で、ここなら敵潜の出現率が低いとされた。

ところが11月21日、基隆北方で米潜シーライオンの雷撃を受けて戦艦金剛と駆逐艦浦風が撃沈された。11月23日、宿毛湾に到着。長門とともに呉へ回航されたが、大和が先に入渠してしまったため長門が入渠できず、横須賀に向かった。呉工廠で修理と対空兵装の強化を実施。

1945年

1945年1月1日、大和は生き残っていた戦艦長門や榛名とともに第1戦隊を再編制。1月3日に出渠し、瀬戸内海西部で訓練する。2月1日、燃料不足で横須賀にいる長門を呉へ回航できない事から第1戦隊は解体され、第1航空戦隊へ転属。燃料消費が激しい空母と戦艦の運用を実質断念し、その管轄を第2艦隊に委ねた。2月12日、呉へ入港。3月13日、柱島に停泊していた大和は松山基地から飛来した第343航空隊の紫電改を敵機と誤認し、射撃している。

3月18日午前0時、敵機動部隊が三群に分かれて都井崎南東200海里を北上中との情報が入る。午前4時50分、呉鎮守府は全可動兵力を大和のもとへ集結させ、広島湾に駆逐艦涼月、冬月、花月、霞、浜風、響、桐、杉、樫が集った。3月19日午前6時30分、呉軍港空襲が発生。広島湾にいた大和にも、高縄山を左回りに旋回してきた敵機48機が襲い掛かり、徳山沖で輪形陣を組んで対抗。攻撃は最も大きい大和に集中した。ヘルダイバー11機やヘルキャット15機と交戦し、3~4秒間隔で攻撃が行われる中、砲弾と機銃弾約1万5000発を発射。命中弾を許さなかった。しかし至近弾の影響で方位盤防振装置に不具合が生じた。この戦闘で6機に命中弾を与え、1機を撃墜。

アメリカ軍の沖縄上陸が確実視されたため、3月26日午前11時2分に大本営は天号作戦を発令。敵機動部隊を味方の航空攻撃圏内に誘引すべく佐世保への進出を命じられ、3月29日に呉にて砲弾の補給を受ける。全弾最大まで装填された。次に徳山燃料廠へ回航、駆逐艦花月と冬月から燃料を受け取った。17時30分、大和は第31戦隊や第2水雷戦隊とともに出港。第1遊撃部隊が編制され、大和はその旗艦に据えられた。敵機動部隊が九州南部及び奄美大島を空襲したため誘引の必要が無くなり、佐世保回航も中止。兜島沖で仮泊した後、駆逐艦花月に護衛されて徳山に戻った。4月2日午前10時、三田尻湾に向けて出港。4月4日、岩国基地から飛来した零戦3機が大和の上空を旋回し、対空射撃訓練に協力。

4月5日午前、連合艦隊・軍令部の合同作戦会議で先任参謀が突然大和と第2水雷戦隊からなる第1遊撃部隊を沖縄へ突入させる案を提示した。参加者のほぼ全員が「成功の見込みは無い」と考えたが、航空機による特攻作戦が行われている中で水上艦艇のみが座視している訳にはいかないとして認可された。そして13時59分、連合艦隊司令部より沖縄に上陸したアメリカ軍を撃滅するため、突入準備を下令される。15時には正式な突入命令が下った。大和には第2艦隊司令官伊藤整一中将が座乗して旗艦となる。戦力は戦艦大和、軽巡矢矧、駆逐艦雪風、霞、浜風、磯風、冬月、涼月、朝霜、花月、槙、榧の計12隻だった。当初燃料は2000トンしか集まらず、片道にも足らない量だった。幸か不幸か、ヒ96船団が奇跡的に呉へ到着し、重油1300トンと原油1万2000トンを入手。全艦が往復できるだけの燃料を手にした。17時30分、大和に着任したばかりの海兵74期生や少尉候補生73名が退艦。18時15分、駆逐艦花月が横付けして2回に分けて4000トンを送油。30分後、花月に大発2隻を貸し出して魚雷の移送作業を手伝った。夜、大和艦内で無礼講の送別会が行われた。第2副砲塔にはチョークで「総員死に方用意」と書かれていたという。

4月6日午前2時、大和と矢矧から退艦する少尉候補生、傷病兵、高齢の乗員を竹ざおで花月へ移乗。移乗した候補生は大和の艦橋に向けて仰ぎ挙手の礼を行った。午前6時、徳山沖で第2水雷戦隊と合流。13時に駆逐艦の各艦長と参謀長が大和に参集。作戦会議と打ち合わせを行った。その後、二水戦司令古村少将の発案で帝國海軍最後の出撃に際し、伝統の駆逐艦襲撃訓練を実施。15時20分、徳山沖を抜錨。生きては帰れぬ死出の旅に出た。大和を中心とする直径1000mの輪形陣を組み、速力12ノットで豊後水道を南下。二式水上戦闘機2機や駆潜艇6隻、花月率いる第31戦隊が前路哨戒を担当する。16時10分、大和は第31戦隊の花月、槙、榧に向けて「解列反転し、内地へ帰投せよ」と発光信号を送る。第31戦隊司令の鶴岡少将や花月艦長東日出雄中佐は不服の様子だったが、やがて左へ大きく旋回し、柳井に向かっていった。暗号解析によりアメリカ軍は大和の出撃を知り、豊後水道に展開中の17隻の潜水艦に監視命令を下した。

4月7日未明、大和から零式二座水上偵察機が発進し、対潜哨戒に当たらせる。午前6時に大隈海峡を突破。第三警戒航行序列を組み、之字運動に入った。午前6時57分、駆逐艦朝霜が機関不調を訴えて落伍。午前8時23分頃、ヘルキャットが大和を発見。通報を受けて慶良間諸島からPBM飛行艇2機が飛び立った。午前8時40分には敵艦上機7機が出現したが、艦隊をぐるりと一周しただけで去っていった。午前10時14分、PBM飛行艇2機が第1遊撃部隊を触接。大和から三式弾が放たれたが命中せず、敵機は姿を消した。午前11時7分、大和の電探が100km先の敵大編隊を捕捉。対空戦闘配置を取る。3分後、先ほどのPBM飛行艇が再度出現。午前11時35分には敵艦上機7機が確認された。正午頃、落伍した朝霜から「米軍機と交戦中」との通信が入ったが、間もなく途絶した。不穏な空気に包まれる中、午後12時20分に大和の13号対空電探が敵編隊を探知。そして大和最後の戦いである坊ノ岬沖海戦が始まった。

坊ノ岬沖海戦

1945年4月7日午後12時32分、敵艦上機280機を確認。之字運動を止め、第1遊撃部隊は24ノットに増速。2分後、大和は46cm主砲から三式弾を発射した。内懐に踏み込まれると、今度は全ての対空機銃が火を噴いた。対する米軍機は魚雷や爆弾、機銃掃射で機銃群を潰そうとする。午後12時41分、後部に中型爆弾2発が命中。多数の12.7cm高角砲や対空機銃が破壊された。その直後、更に2発の爆弾が叩き込まれ、爆発炎上。後部副砲と13号対空電探が完全に破壊された。午後12時45分、5機編隊アベンジャーが低空で大和に接近。3本の魚雷が投下され、27ノットに増速して回避を試みるも左舷中央部に1本命中。2350トンの浸水により艦は左舷へ5~6度傾斜し、第8機関室が使用不能に陥った。大和の反撃により1機のヘルダイバーと1機のアベンジャーが撃墜され、1機が大破した。直ちに右舷への注水が行われ、1度にまで復元。続いてF4Uコルセアからロケット弾攻撃を受けたが、命中せず。午後12時50分、第一次攻撃終了。駆逐艦浜風と朝霜が沈没、軽巡矢矧が航行不能に陥っていた。13時、大和は針路180度に変針して南下を始める。

13時20分、126機による第二次空襲開始。大和は22ノットに速力を上げるが、コルセアが投じた爆弾が艦首付近に命中。続けざまに12機のヘルダイバーが肉薄するも、対空砲火で5機に損傷を与えて撃退。13時33分、右60度4000mに20機のアベンジャーを発見。雷撃を予期して単独で左回頭する。その1分後、50度方向2000mから6本の雷跡が伸びてきた。大和の左舷に3本、右舷に1本が命中し、第7、第8、第12機関室、左舷外側機関室、左水圧機室が浸水。副舵が取り舵のままで故障、左舷へ15~16度傾斜して速力18ノットに低下。すかさず右舷に3000トンの注水を行い、5度まで復元。13時40分、230度右一斉回頭を実施。回頭中に4本の雷跡が伸びてきて、2本は回避できたが左舷中央に2本が直撃。その直後に右舷艦首方向から襲撃運動を取っているヘルダイバーを発見、左回頭しながら2機のヘルダイバーを撃墜した。やがて左舷への傾斜は18度に到達。それでも18ノットでの回避運動を続けた。14時、再び右舷艦首より接近する数機の敵機を発見。右回頭で回避を試みるも、左舷中央部に3発の中型爆弾が命中した。右舷タンクが満水になったため、やむなく第3及び第11機関室、右舷水圧機室にも注水した。アベンジャーの6機編成が大和に近づき、5機が左舷側から、1機が右舷側から雷撃。回避運動むなしく立て続けに3本が命中、速力12ノットに低下。14時17分に左舷へ魚雷1本が命中、突如として左傾斜が増大した。もはやこれまでの判断した伊藤中将は幹部を艦橋に集め、冬月に移乗して生存者を救助するよう命令。自身は長官室に入った。14時20分、左傾斜20度になった事で総員最上甲板の号令が下った。

4月7日14時23分、大和は転覆。傾斜120度になったところで副砲塔火薬庫が引火。生じた爆炎により主砲塔内の弾薬にも誘爆し、艦を真っ二つにするほどの大爆発が発生。今際の黒煙は巨大なキノコ雲になり、遠く離れた鹿児島からも視認出来たという。伊藤中将以下2498名が死亡。14時45分、駆逐艦冬月や雪風等が救助活動を行ったが、助かったのは269名だけだった。坊ノ岬沖海戦で戦艦大和、軽巡矢矧、駆逐艦浜風、磯風、朝霜、霞が沈没。16時37分、連合艦隊は作戦の中止を命令。生き残った艦艇は退却した。

1945年8月31日、除籍。

諸元

竣工時のものと比較用に最終状態のものを掲載。

竣工時 最終状態
基準排水量 64000t
満載排水量 72809t
公試排水量 69100t
全長 263m
全幅 38.9m
喫水 10.4m(公試時)
装甲(最圧部) 主砲塔前盾650mm
主砲塔天蓋270mm
舷側装甲410mm 

主機 艦本式タービン4基4軸150000馬力
主罐 ロ号艦本式重油専焼罐12基
速力 27kt
主砲 四十五口径九一式四十糎砲3連装3基9門
副砲 六十口径三年式十五糎五砲3連装4基12門 六十口径三年式十五糎五砲3連装2基6門
高角砲 四十口径八九式十二糎七高角砲連装6基12門 四十口径八九式十二糎七高角砲連装12基24門
機銃 九六式三連装二十五粍機銃8基
十三粍連装機銃2基 
九六式三連装機銃52基
同単装6基 
十三粍連装機銃2基 
艦載機 7機(カタパルト2基)

※実際は46cm砲だが、性能を秘匿するため名称は40cm砲となっている。

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関連項目

  • 戦艦武蔵
  • 宇宙戦艦ヤマト
  • 大艦巨砲主義
  • ストライクウィッチーズ2
  • 軍事関連項目一覧
  • 軍用艦艇の一覧
  • 坊ノ岬沖海戦
  • 大東亜戦争

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