政治家 単語


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フランス第二共和政とは、1848年の二月革命から1852年のルイ・ナポレオンの皇帝即位まで続いたフランスの政体(共和国)である。激しい政治闘争の混乱により4年に満たない短命に終わった。

概要

フランス革命によって激動の時代を迎えたフランスでは、ナポレオン(1世)の帝政を経て、昔に戻ろうとする反動的な力が働いていた。ワーテルローの戦いでナポレオンが失脚するとブルボン朝が復活し、中世的な貴族特権や絶対王政を復活させようとする。

それに対して1830年に七月革命が起こり、ブルボン朝のシャルル10世を追放し、ルイ・フィリップによる立憲君主制が始まった。しかしルイ・フィリップの七月王政はブルジョワに優しく人民に厳しいものであったため、人々は自分たちで政治を行うための共和制を望みはじめた。

  • 絶対王政
    王様が専制君主となって国の政治を行うシステム
  • 立憲君主制
    王様はいるが、議会の定める憲法の下での存在となる。王様の政治権力は強力~皆無まで様々。天皇制のある現代の日本もこれ
  • 共和制
    王様はおらず、国民の中から選ばれた人が国のトップ(=大統領など)に立つシステム

国民の興奮は1848年に最高潮に至り、二月革命をもって七月王政を倒し、第二共和政が樹立された。これは労働政策を行ったり普通選挙による議会をもっていたりと近代的な国家システムであった。

しかし、国立作業場を巡る争いをはじめとした数々の政治闘争が発生し、その政治基盤は不安定であった。四月の普通選挙の後に六月蜂起が勃発。そしてやがて国民の信頼を失っていった。その後、大統領選で皇帝ナポレオンの甥のルイ・ナポレオンが当選した。

1851年にルイ・ナポレオンが国民の支持の下でクーデターを起こして共和政を崩し、翌年に国民投票で皇帝に即位して第二帝政が開始された。

関連する主な党派

色んな党派がたくさん登場するのでややこしい。その党派が革命的か反動的かだけはチェックしておこう。基本的には上の方ほど反動的で、下の方ほど革命的である。

党派 階級的基盤 代表的人物 思想
正統王朝派(レジティミスト) 土地所有ブルジョワジー ファルー、ベリエ 昔は良かった!革命なんてなかった事に!→(七月革命後)まずはブルボン朝復活を目指す
オルレアン派 金融、大工業ブルジョワジー ギゾー、ティエール、モレ、バロ、デュパン、シャンガル、ニエ 人権ありきの立憲君主制が理想、金持ちが政治に参加できる
ブルジョワ共和派(純粋共和派) 中産階級(ブルジョワ、弁護士、官僚) ラマルチーヌ、マラスト、カヴェニャック、ジラルダン 七月王政下ではオルレアン派ほど恩恵に与れていないが、社会主義者ほどの不満も無い
小市民的民主派(モンターニュ派) 小市民(小店、手工業) ルドリュ=ローラン まずは普通選挙を実現して政治に参加、(上からの)改革を
社会主義者 プロレタリアート ルイ=ブラン、コシディエール 労働者の社会を作るために(下からの)改革を
革命的共産主義者 プロレタリアート ブランキ 人民による武力革命、武装独裁が必要だ!!
ボナパルト派 ルンペンプロレタリアート マニャン、モルニ公、モーパ フランス革命の成果を重視しつつ、皇帝による強力な中央集権を目指す

正当王朝派とオルレアン派は1848年5月に連合して秩序党へ、小市民的民主派と社会主義者は1849年1月に提携して社会民主党を形成した。

前史 ~ 復古王朝

王政復古、ブルボン朝の復活 

               

 ルイ18世            シャルル10世

→フランス革命

→ナポレオン

1815年、ナポレオンがワーテルローの会戦において破れてセントヘレナ島に流されると、フランス革命のときに亡命していた貴族(エミグレ)が復権を求めて帰国した。ルイ16世の弟、ルイ18世が国王に即位しブルボン朝も復活。

エミグレの望みはかつての絶対王政と封建的貴族特権の復活であったが、それは半ばにしか達成されなかった。しかし、それでもかつて王権と強く結びついていたカトリック権力を回復させたり、反革命的な王政復古の動きは続いた。

そんな中で行われた下院議員選挙では「国王よりも王党派的」と言われるユルトラ(超王党派)が勢力を伸ばし、封建社会へのさらなる回帰を目指した。野心に燃えるユルトラは皮肉なことに国王ルイ18世と対立するまでに至り、ついにはユルトラ議会は国王に解散させられてしまった。

次に行われた選挙では立憲王党派が優勢となった。彼らの下でフランスの自由化が進むと思われたが、その矢先にブルボン王族の暗殺事件(ベリー公暗殺事件)が発生し、結局、時代錯誤なユルトラの内閣がフランスに成立した。ユルトラ議会は自由主義を徹底的に弾圧し、カトリック権力や封建制度の復活などフランスを中世へ逆行させる政策を次々ととった。

1824年、ルイ18世が崩御し、シャルル10世がフランス国王に戴冠する。シャルルは宗教心が強く、それによりさらにカトリック教会は勢いづいていく。

七月革命と、ルイ・フィリップの七月王政

               

           ルイ・フィリップ         チャールズ・ラフィット

1829年、亡命貴族と自由主義者の間の緊張は極限まで高まっていた。

きっかけになったのはシャルル10世の憲法に対するクーデタともいえる四か条の王令の発布であった。

  1. 出版の自由の停止
  2. 新議会の解散
  3. 議員定数の削減
  4. 新選挙法に基づく選挙の実施

この強力な反自由的で反動的な七月王令をみて、反政府系勢力が一斉に反発。彼らはトリコロール(フランス国旗)をかかげて蜂起する。フランス七月革命の勃発である。

まず反王権派の新聞社に対して警察が介入。パリ都内の小競り合いには軍隊まで投入された。労働者はパリの各所にバリケードを築き、大銀行家のラフィットや労働者や職人までもがそれに協力した。この戦闘での死者は800人、けが人は4000人弱とフランス大革命や後の二月革命に比べれば戦闘自体は小規模であった。

一進一退の攻防の末に、月末には反政府派が大勢を得て臨時政府を樹立する。シャルル10世は亡命。代わりにルイ・フィリップを頂点とする立憲君主政が立った。これを七月王政というが、しかしこれは人民が望んだ共和制ではなかった。

ルイ・フィリップの即位によって王権神授説に基づく絶対王権は崩れ、憲法と議会に従う世俗的な君主が誕生した。また絶対王権と結びついていたカトリック教会は迫害され、フランスの反教権化が進行した。中世的な貴族や地主の特権は次々と否定され、フランスはブルジョワ的価値観に立脚した国家へと変化していった。共和派は取り締まられたものの、自由主義的な風潮が世の中を覆っていた。

しかし革命の受益者はブルジョワばかりであり、とりわけ初代首相に就任したラフィットをはじめとした銀行家が革命の利益を獲得した。ロスチャイルド家などによる金融貴族が国家財政に群がり、いわば一種の金融封建制が生まれていた。産業革命の萌芽が芽生え始めるフランスでは既に労働者たちが苛烈な労働環境と劣悪な生活環境に苦しんでいた。こうした社会問題から社会主義運動もまた活発になっていく。

ルイ・フィリップの七月王政はたしかにアンシャン・レジーム(旧体制)への逆戻りを阻止した。といっても近代的な自由主義国家へと移行するわけでもなく、それは中庸的なブルジョワ国家であった。選挙権は金持ちに限定され、議会はブルジョワに支配されるものであった。そこで共和派や選挙から疎外された人々は議会の外での大衆運動や、ジャーナリズム運動による政治改革を頑張っていた。

例えば「改革宴会」という名の選挙法改正運動。これは政治集会を禁じた法律の網の目をくぐるために会食という形がとられる政治活動であった。この集会は、当初こそ正当王朝派とオルレアン左派の議員や、有権者など政府側を中心とするサロン的なものにとどまっていたが、しだいに共和派や非有権者の一般市民も参加するようになっていった。マラストの主催する穏健共和派の『ナシオナル』、ジャコバン派の『レフォルム』新聞を中心とする急進共和派がこの運動の中心であった。

七月王政では政治家と官僚の兼任が可能であったため、政治家や官僚の不正が横行し、都市での政治に対する不満が高まっていた。一方で1840年代には農村で飢饉が相次ぎ、イギリスの金融恐慌も相まって社会不安は高まっていた。それらのフランス市民の憤懣が爆発したのは1848年のことである。

革命と普通選挙

二月革命の勃発

                

フランソワ・ピエール・ギヨーム・ギゾー    ルイ・アドルフ・ティエール

1847年まで続いた社会不安がようやく安定し始めた1848年2月24日、18年続いた七月王政はあっけなく崩壊する。

きっかけは単純な事件であった。1848年2月22日、正当王朝左派のバロと、反体制新聞の『ナシオナル』派の共和主義者たちの呼びかけによって、パリ第12区で改革宴会の催しが予定されていた。当時の12区は労働者が多く住む街であり、フランス大革命以来、民衆蜂起の伝統を持つ場所であった。

政府はこの宴会を禁止処分にし、主催者であるバロらも衝突を恐れて延期を決定した。しかし、急進派学生や共和派結社の活動家たちは禁令に反抗してデモを敢行し、ブルボン宮を取り囲んだ。市内では暴動が発生し、各地にデモ隊と賃金労働者の手によってバリケードが築かれた。フランス二月革命の勃発である。200人から始まって、ブルボン宮に向かう途中どんどんと膨らんでいった群衆は、その日のうちに正規軍によって鎮圧された。政府もこの時点ではこの事件を大したものだとは思っていなかった。

しかし革命の火は翌日、2月23日にますます燃え上がっていった。政府は正規軍を動員し戦略拠点を確保したが、パリ国民衛兵12連隊のうち招集に応じたのは2連隊のみで、残りは革命派、あるいは日和見の立場をとった。ルイ・フィリップはあわてて「選挙権が欲しければ金持ちになりたまえ」と問題発言をしたりと以前から人気の低かったギゾーを解任したが、それで国民の感情が和らげられることはなかった。ギゾーの後がまにはモレがついたが、彼はギゾーよりもさらに柔軟性に欠ける人物であった。

その日の夜、国民衛兵の合流に士気を高めたデモ隊が赤旗を掲げながら、キャプシーヌ街を進行した。そのとき、正規軍がこの人々に対して一斉射撃を浴びせかけた。36人の死者と約70人の負傷者をだしたデモ隊はそれでも女性の死体に松明を掲げながら葬送行進をつづけた。このキャプシーヌ街の惨劇により民衆運動はますます燃え上がった。蜂起はさらに拡大し、150以上のバリケードがパリを覆った。市庁舎やチュイルリ宮が相次いで陥落し、暴徒は王宮にまでなだれ込んでルイ・フィリップの玉座を窓から放擲し、バスチーユ広場にまで担いでいって燃やした。

パリ市民は暴徒に好意的であったわけではないが、それ以上に彼らは国王ルイ・フィリップのことを嫌っていた。2月24日、追いつめられたルイ・フィリップはとりあえずギゾーの後継者であったモレをわずか一日で解任し、ティエールバローを中心とした自由主義的な内閣をつくった。そして次に、アルジェリアの征服者ビジョウを鎮圧部隊の指揮官に置いた。ルイ・フィリップはこのときまだ事態を収束することができると希望を抱いていた。

ビジョウはその日の早朝から革命市民への攻勢を開始する。とはいえ、彼の攻勢とはまず対話であった。すさまじい緊張状態のなか進められた話し合いの結果、ビジョウは革命市民と戦う意思をなくしてしまった。コンコルド広場やシャートードオで偶発的な武力衝突はあったものの、両者は和解し、かたやルイ・フィリップは完全に悪役に立たされてしまった。

キャプシーヌ街の惨劇 ↓

臨時政府、第二共和政のスタート

               

      アルフォンス・ド・ラマルチーヌ         ルイ・ブラン

その日の夜には反乱者がパリを完全に制圧した。ここにきて、それまで反乱に参加していなかった各種の政治指導者が彼らのもとに訪れた。理念のない革命市民たちはバリケードでパリを制圧することができても、それ以降なにをすべきかが分からなかったので、その指針を得るために政治指導者を必要としたのである。

穏健共和派は自分たちの発行する『ナシオナル』紙の編集室で、臨時政府の構成員のリストをすでに検討していた。その中には王党左派のバローの名前はなく、かわりにルドリュ・ローランが付けくわえられた。

ジャコバン派(急進共和派、社会的共和派)は自らの『レフォルム』新聞で、『ナシオナル』とは別のリストを作成していた。とはいえ彼らはまったく独立してリストを作ったにも関わらず、その内容はほぼかぶっていた。しかし著名な社会主義者のルイ・ブランと労働者代表のアルベールは外されていた。

国王の側にいたティエールとバロー内閣も、国王退位後のフランスの政府について考えていた。議会はティエールとバローこそが臨時政府の指導者にふさわしいと結論をだした。ティエールは1834年に労働者の暴動を鎮圧した実績があり、バローもその実力を代議士たちから認められていたのである。しかしティエールはその実績ゆえに民衆からは敬遠され、バローは王党左派であったため、共和派の市民たちからは好かれていなかった。彼らは結局ブルボン宮に突入してきた反乱者たちから権力を奪われてしまった。

ルイ・フィリップはイギリスに亡命し、デュポン・ド・ルールを首長とする臨時政府が成立した。詩人のラマルチーヌ、『ナシオナル』派のマラスト、アラゴ、『レフォルム』派のフロコン、ルドリュ・ローランらが中心となって共和制を宣言した。ラマルチーヌやアラゴらは共和派ではなかったが、民衆の圧力に応じて共和主義者を自称するようになった。この日和見共和主義者たちのことを「翌日の共和派」と呼ぶ。臨時政府には『ナシオナル』紙の名簿から排除されていたルイ・ブランとアルベールも、民衆の要望にこたえて便宜的な秘書官として参加することになった。

ジャック=シャルル・デュポン・ド・ルール

実は、宣言をするまえに臨時政府は「共和国を宣言すべきかどうか」で揉めていた。

  • 直ちに宣言した場合 →全国フランスはパリの決定に基づいて共和国となる
  • 宣言をしなかった場合→フランスの各地の賛同を得てから共和国となる。拒否される可能性もある。

穏健共和派は「地方人民に相談することこそが民主主義の原則だ」と主張した。ジャコバン派は反対に「パリ市民が共和国を望んだからこその革命である」として共和国宣言を行うことを主張した。穏健派のほうが多数派であったものの、彼らは結局パリ市民の意思を妥協的に受け入れ「[地方]人民に諮問し、もし承認されるのであれば臨時政府は共和国を希望する」と発布した。反乱軍はこの宣言を事実上の共和国の声明だと考え、満足した。

ここにフランス第二共和政が始まる。だが、これらの革命は民衆を苦しめる問題を何一つ解決するものではなかった。七月革命でブルジョワに革命を奪われたことを民衆は忘れてはいなかった。武器を手にした労働者たちは、機械工マルシェを先頭に、共和政が真に民衆のためになるように赤旗を国旗にせよと臨時政府につめよった。

しかし結局彼らはラマルチーヌに翻弄され、トリコロールをフランス国旗にすることを受け入れた。だが民衆運動によって人々は、臨時政府に社会主義者のルイ・ブランと機械工アルベールを加えることに成功した。さらに彼らは労働権と生活権の保証も獲得した。とはいえこれは微妙なバランスの上に立った、かりそめの安定にすぎなかった。

以上の二月革命には3つの特徴がある。

  1. 人民の中から自然発生的に勃発した、政治指導者不在の革命であった。
  2. 革命の火が盛り上がったのはカピュシーヌ発砲事件があったからで、それは偶発的な革命であった。
  3. 臨時政府は共通の目的をもたない寄せ集め集団であった。

このように、二月革命はごった煮のような革命であった。しかしその影響は大きく、各地で三月革命を引き起こした。まずオーストリアではウィーン会議の主催者であるメッテルニヒが失脚、プロイセン、イタリア、ポーランド、スイスでも革命や暴動が発生し、イギリス、スイス、東欧諸国と様々なところに革命の影響は広がっていった。諸国民の春と呼ばれるそれら諸々の革命は、ナポレオン戦争以来のウィーン体勢の崩壊を意味していた。

革命クラブ

マルク・コシディエール

臨時政府の穏健共和派は多数派で、地方の支持を受けていたものの、自分たちの地位が不安定なものだと知っていた。臨時政府なんていったところで、パリの労働者の機嫌を損なえばいとも簡単に瓦解してしまうものなのだ。

そこで穏健派は民衆の意向を受けて、ジャコバン派のコシディエールがパリ警察の警視総監になることを承認した。また内務大臣の地位もやむなくルドリュ・ローランに譲った。国民兵の招集権は内務大臣の特権であったため、穏健派にとってこれは大きな譲歩といえる。コシディエールは、パリの秩序を維持するために労働者からなる特別な警察隊を組織した。

ジャコバン派と過激共和派側の有力な支持者には、革命直後に世に出てきた数々の革命クラブがあった。これらの政治クラブの特に強力なものはジャコバン派支持の立場をとっていたのだ。

  • カベによる『中央友愛協会』。平和的共産主義思想によってパリの労働者から支持されていた。
  • ラスパイユの『人民の友クラブ』
  • ブランキによる『中央共和協会(ブランキクラブ)』
  • 雄弁家クレオル・バルベスを有する『大革命クラブ』

カベもラスパイユも非暴力を基本としてはいたが、傲慢な富裕者には一切の手加減をしなかった。これら4つのクラブのうち3つはジャコバン派に属していたが、ブランキの『中央共和協会』のみは左派を支持していた。

これらの政治クラブはフランスを揺るがす恐ろしいものだと新聞で報道されていたが、その実はそれほど怖いものではなかった。彼らが影響を持っていたのはパリだけであり、地方にも生まれ始めた政治クラブとは連携に失敗していた。これらのクラブは、パリをいまだ騒がす暴動を鎮圧したりしていた。政治クラブの中でもっとも有能だったブランキは、かつてフランス大革命で恐怖政治を指導したロベスピエールやマラーとは違い、単なる反乱者にすぎなかったことが臨時政府にとって幸運だったといえよう。

臨時政府の労働政策、リュクサンブール委員会と国立作業場

国立作業場の様子

臨時政府の安定が崩れたのは「労働権」と「労働の組織化」に関する問題であった。臨時政府は労働者むけの社会政策として2つの機関を設けた。ひとつはリュクサンブール宮で開かれた「労働者のための政府委員会」(通称リュクサンブール委員会)であり、もうひとつは国立作業場である。

だが、リュクサンブール委員会はルイ・ブランを委員長としたものの、なんの予算も権限ももたない諮問機関であり、「労働組織化省」の設置を要求する民衆の圧力をかわすためのものにすぎなかった。しかしブルジョワの抵抗にあってほぼ無力だったものの、労資調停の役割をわずかなりとも担った委員会は近年の再評価も起きている。

委員会は労働組織化の具体的プランも議会に送ったが、すでにジャコバン派は勢力を失っており、それは無視された。この報告書は、

  1. 経営不振の企業から施設を買収して社会作業場を設立する
  2. 鉄道、鉱山などの国有化
  3. 農業コロニーによる失業者の吸収
  4. 国営市場による商品流通の国家管理
  5. 国立銀行による信用貸し付けの民主化

などを骨子としている。これは社会主義者として有名だったルイ・ブランの著作『労働組織論』をほぼ引き写したものであった。

もう一つの国立作業場のほうは、失業労働者にその能力や技術とは無関係に土木の公共事業の仕事を与えて、一日2フラン(働かなくても1〜1.5フラン)を支給するというものであった。これを担当した公共事業大臣のマリは、これらの失業労働者たちを軍隊式に編纂し、リュクサンブールに集まる意識の高いベテラン労働者たちに対抗させようとした。

もともとリュクサンブール委員会はこの国立作業場の管理を担う予定であったのだが、実際にここを監督したのは公共労働省であった。その大臣のマリは穏健派のなかでももっとも穏健で、ルイ・ブランの理論を実行するつもりはまったくなかった。そもそも国立作業場とはいっても工場などは存在せず、労働者は各地の役所から失業証明書をもらい、土木作業などをしていただけである。それはルイ・ブランが想定したような社会主義的工場とは似ても似つかないものであった。

国立工場が設立されるとすぐに、技術者のエミル・トーマスはそこの責任者に任命された。その際に彼は自分の部下として「技術製造中央学校」の生徒たちを雇うことを認めてもらっている。パリの労働者は先輩から指導を受けるという徒弟文化があり、労働者たちは彼ら元学生から仕事面でも労働環境面でも自分の味方になってくれることを期待していた。

国立作業場の評価は当初のまちまちで、社会主義が失敗であったと証明するために国立作業場が頓挫することを望んでいる者や、労働者に政治に目を向けさせないためにもっと国立作業場を充実させると主張する者もいた。エミル・トーマスは穏健な共和派であったが、彼は効率主義者であった。彼は社会主義的工場よりも、より効率的に労働者を働かせるための工場を望んだ。彼はそのための援助を大臣のマリに望んだが、それは受けいれられなかった。

しかし国立作業場は彼らの想定をこえて膨れ上がってしまった。1848年3月末には3万人弱であった登録労働者は、5月にはパリ人口の1割にあたる10万人を突破した。これは国立作業場の噂を聞きつけた地方労働者がパリに集まってしまったからである。これは、ただでさえ金に困っていた臨時政府にとって致命的な財政的負担となった。

臨時政府は財政再建と金融パニックの緩和のために、国民割引銀行網の創設に取り組み始めていた。政府はこの財源のために45%も直接税を増税した。これによる地方民衆の不満は政府だけでなく、パリの国立作業場の労働者と、それを支えていると誤解されたルイ・ブランら社会民主派にも向けられた。

とはいえ、国立作業場のおかげで政府はしばし労働者たちから政治のことを忘れさせることができた。この後の1848年3月、4月と続けて革命クラブがデモを決行するが、国立作業場の労働者たちはそれに加わらなかった。そしてやがてトーマスと彼の若い技術者が、労働者の求心力を失い始めたとき、臨時政府がもつ軍事力と政治力は2月の革命勃発時とは比べ物にならないほど強大になっており、もはや労働者のご機嫌を伺う必要もなくなっていた。

カトリックと臨時政府

カトリック教会と共和派の同盟もまた危ういバランスの上に成り立っていた。二月革命が発生したとき、聖職者たちは以前の革命のときのように反教権弾圧が起きるのではないかと不安がった。しかしそれは杞憂であった。2月24日にチュイルリ宮を襲った群衆は、国王の礼拝堂から十字架と聖杯を運び出し、王宮近くのサン・ロック教会へとデモ行進した。それは世俗的なルイ・フィリップから十字架を奪い返し、神聖な場所へと移そうとする意図であった。

彼らはキリストと自由を礼賛する言葉を叫びながら、市街戦で傷ついた戦友に秘蹟を与えてくれる聖職者を求めていた。パリ大司教アッフルはみずから病院を訪れ、宗教的秘蹟を患者に与えた。このような市民と教会の結びつきに続いて、3月初旬にはアッフルが臨時政府を訪問し、共和派とカトリックの友好関係を築いた。ラマルチーヌは「1848年の革命はキリスト教の発露である」とまで語った。

もともとカトリック教会は反七月王政の立場であった。教会の教書でも自由放任(レッセフェール)経済を批難し、政府に弱者救済の社会政策を要求していたのだ。世俗的な宗教色の強い社会主義者やジャコバン派の原始キリスト教礼賛を踏まえれば、この同盟は不自然なものではなかった。

3月20日、シャン・ド・マルスを埋め尽くした数千の民衆が歓喜するなかで、トリコロールをくくりつけた「自由の木」の植樹祭典が行われた。それは、カトリックの司祭がこの木をおごそかに聖別するという異例の形式であった。その後一週間、パリの街区で、さらには全国の町村で同様の植樹祭典が繰り広げられた。このとき教会と臨時政府は蜜月の関係にあった。

だがこの良好な関係は長続きしながった。共和派の目指す初等教育改革(無償・義務化、教員の待遇改善)は、教会が初等教育を担うとするカトリックとは真っ向から対立するものであったのだ。臨時政府の公教育大臣カルノーが、初等教員を共和主義教育の伝道者と呼び、4月の憲法制定議会選挙で司祭と教師がプロパガンダ合戦で対立したことをきっかけにその関係は壊れていった。

デモ

アレクサンドル・ルドリュ・ローラン

1848年の3月から5月にかけて、立て続けに反政府のデモが発生した。

まず最初に 3月17日のデモがあり、翌月4月16日にはリュクサンブール委員会と政治クラブが合同してデモを行った。このときのデモには二つの目的があった。第一に、臨時政府にもっと労働者のためになるような政策をとるようしてもらうこと。第二に、その月に予定されていた憲法議会を延期してもらうことである。革命派は、いま選挙をすれば自分たちが不利になることを知っていたのである。彼らは同盟を強化し、宣伝に力をいれ、政府から具体的に旨味のある譲歩を引き出すために時間を稼ぎたかったのだ。とはいえいくら時間を稼いだとしても彼らが選挙で勝てる見込みはなかった。革命派の目指したものは発言力のある少数派であった。

しかし4月16日のデモは失敗におわった。ジャコバン派の有力者で内務大臣のルドリュ・ローランは国民兵を招集し、デモ隊が政府のある市庁舎に来ることを阻止した。ローランはどちらかというと急進革命派であったので、同じく革命派の行動を妨害したことになる。いっぽうでローランはその数日前に、労働者の暴動が反革命の穏健派を政府から追放する運動を援助もしている。ローランがデモを妨害した理由は明確には分かっていないが、一説には彼がブランキを信頼できなかったと言われている。

時間は前後するが、4月末の憲法制定議会の普通選挙の結果は極左にとって惨敗であった。そのため彼らは自分たちの力を意思をしめすために、5月15日に再度のデモを決行する。その詳細は後述。

四月普通選挙

1848年3月5日、臨時政府は憲法制定国民議会の選挙に、半年以上同一市町村に住んでいる21歳以上のすべての男子に投票権を与える政令を布告した。これによって有権者数は七月王政のときの25万人から一気に900万人にまで増えた。ただ、女性はまだ除外されていた。また何ぶんはじめてということで選挙制度にも色々不備があった。こうした限界はありながらも、民衆が議会を通じて政治参加するという近代国家がこのときはじめてヨーロッパに生まれたのである。

この普通選挙の結果は、皮肉なことに普通選挙を熱烈に求めていたジャコバン派にとっては芳しくないものであった。投票率は84%。議席880のうち穏健共和派は500議席を獲得するいっぽうで、ジャコバン派が獲得した議席はわずかに100であった。これは、急進的に革命が進むパリをみて、地方の農村的フランスがブレーキをかけたものとされる。ジャコバン派で臨時政府の内務大臣ルドリュ=ローランは地方に派遣委員を送り込み、師範系教師を動員して必死の選挙干渉をおこなったが、司祭や地方名望家の牙城を崩すことはできなかった。

残りの280議席は共和派が占めた。当時はだれもが共和派を自称していたが、その実体はオルレアン派か正当王党派であった。彼らは後に合流して、秩序党として知られるようになった。彼らの本質は反革命であり、保守派であった。

こうして成立した制定議会は、臨時政府にかえて、5月4日、アラゴ、ガルニエ・パジェス、マリ、ラマルチーヌの4人の穏健共和派と、ジャコバン派のルドリュ・ローランの5名からなる執行委員会を任命した。ルドリュ・ローランが残ったとはいえ、二月革命勃発時の均衡は秩序志向の「翌日の共和派」に大きく傾いた。正当王朝派とオルレアン王朝派の勢力も相まって、パリの労働者とジャコバン派への包囲網は一段と狭められた。

失望と反発

六月蜂起

ルイ・ウジェーヌ・カヴェニャック

議会の多数派を占めた「翌日の共和派」にとって、まずなによりも金融恐慌からの脱出が問題であり、産業革命に乗り遅れないための産業資本の育成に必要な国民的信用制度を作り上げることを目指さなければならなかった。

1848年3月にフランス銀行の改革が行われ、中小企業向けの低金利貸し付けする国民割引銀行が全国67の都市に設立されていた。これにより秩序と生産を回復し、産業の時代にふさわしい国民経済が発達することを政治家たちは期待していた。一方で国立作業場は秩序と財政のいずれにとってもジャマなものでしかなくなっていた。この作業場が閉鎖されるのも時間の問題であった。

制定議会の普通選挙の惨敗に失望した共和派民衆クラブやリュクサンブール派の労働者たちは、5月15日、ポーランド独立支援を叫んで議会に乱入し、議会の解散と新臨時政府の樹立を宣言したが、すぐに国民衛兵に鎮圧されてしまった。この議会乱入事件によってアルベール、ブランキ、バルベら有名なリーダーが次々と逮捕され、無関係であったルイ・ブランまで関連を追及されて亡命した。また警視総監コシディエールも更迭された。この事件のとき彼らに対抗させるためにあったはずの国立作業場の労働者たちが、将校ピュジョルに率いられて約14000人もがデモに参加したことは与党の穏健共和派に衝撃を与えた。

このデモの失敗の結果、穏健共和派は革命以来はじめて完全に主導権を握り、いまや「アカ」と呼ばれるようになった労働者たちの駆逐に躍起になり始めた。彼ら労働者は革命的で反フランス的な存在と、穏健共和派はみていたのである。

そしてまた彼らを収容していた国立作業場の閉鎖も決まっていく。エミル・トーマスは「国立作業場の廃止は暴動の発生を意味する」と強く主張したが、彼の警告は閉鎖の日時を延期しただけ5月26日には彼は解任されてしまった。

6月21日、公共事業大臣のトレラは、国立作業場に登録する18歳〜25歳の労働者の全員に対して兵役につくか、地方の土木工事に就くかの選択を迫った。コルボンやコンシデランは議会でこれに反対し、国立作業場を生産共同組合に再編することを提案したが、一蹴されてしまった。この命令の提案者は、後に公教育大臣となる王党派のファルーであった。労働者の代表が公共労働大臣のマリに訪問したとき、マリは「武力に訴えてでも勧告を実行する」と述べた。

6月22日の夜、政府との交渉が決裂しにっちもさっちもいかなくなった労働者たちは「パンか、銃弾か! 自由か、死か!」を叫んでゾクゾクとパンテオン広場に集結した。

翌日23日には、パリの東部一帯にバリケードの山が築かれた。この頃には彼らも経験豊富で、そのバリケードはさながら要塞のようであったとされる。19世紀の労働者の暴動ではパリ・コミューンに続いて二番目に大きい六月蜂起がここに始まった。一方で、ファルーは暴動に参加しなかった者には、向こう三ヶ月間、一日1フランを支払い、また300万フランの保証金も分配すると労働者の懐柔を図った。

さらに翌日の24日、議会はラマルチーヌらの執行委委員会体制に見切りをつけ、共和派の将軍ウジェーヌ・カヴェニャックを行政長官に任命し全権を委ねた。彼はアルジェリアを制圧した将軍として有名であった。パリの国民衛兵はあてにならないとみていたカヴェニャックは戒厳令をしき事態を見守っていた。優秀な将軍であったカヴェニャックは地方から6万人の部隊を集結し、労働者のいるバリケードや民家を砲撃するという乱暴な方法で、26日までには蜂起を完全におさえこんだ。

政府軍の押収した銃は10万挺、銃殺者1500人、その他の死者1400人、逮捕者25000人。六月蜂起の惨敗は労働者や民衆に強い敗北感を植え付けた。選挙による議会共和政とブルジョワ共和主義者に対する労働者の不信感はもはや極限にまで高まっていた。

二月革命以来続いていたプロレタリアートと下層中産階級の同盟も完全に破局を迎えた。有名なジャコバン派や社会主義者、革命の指導者は誰ひとりとして暴動には参加せず、また参加できなかったのだ。ブランキとバルベは獄中にいたし、ルドリュ・ローラン、ルイ・ブランらは暴動には何のかかわり合いも持たなかった。六月蜂起はあくまで労働者たちによる無秩序なクーデターであったのだ。

六月蜂起の失敗の余波はフランスの国境を越えて外国にまで及んだ。ヨーロッパの反革命派はフランス政府に勇気づけられ、フランスの地方は最初の革命以来最大の「アカ狩り」「アカの恐怖」を引き起こした。昂奮したブルジョワジーと、棍棒で武装した農民たちは革命家たちをしらみつぶしに探し、社会主義者たちを殺したのである。

六月蜂起後のパリ

六月蜂起の結果、革命家と急進派の勢いは衰えた。しかし権力は共和派の手からも遠ざかりつつあった。カトリック教会はすでに共和派を見捨てており、蜂起の間活動を停止していた執行委員会は、蜂起が集結しても再開されなかった。

六月蜂起の恐怖は「社会秩序の維持」を合い言葉に、それまでバラバラだった党派を再結集させた。正当王朝派、オルレアン派にカトリックが同盟して秩序党が結成され、「翌日の共和派」の多くがこれと親しい関係を結ぶようになった。六月事件以来、穏健共和派は次々と保守派にうつり、議会は右傾化した。保守派は普通選挙すら信じず本質的に反革命で、彼らは王党派であった。

その保守的な議会から全権委任されたカヴェニャック将軍は行政長官となり、12月の大統領選挙まで政権を担当することになった。皮肉にもフランスはこの共和派将軍の軍事独裁体制によって秩序を回復することに成功する。

穏健共和派は、農民やブルジョワが革命に反対するようになると、ますますその力を失っていった。当初は人気のあった穏健派が支持を失ったのは、その年の3 月に45%(45サンチーム税)の直接税の増税を行っていたことが理由としてあげられる。これは国家財政の立て直しのためには不可避であったのだが、この 四月選挙後、この増税法案が実現されると、パリ市民は臨時政府に不満をぶつけ、「昔のほうがマシだった」と保守派支持に転じたのである。

ま た穏健共和派には有力なリーダーがいなかったこともまずかった。カヴェニャックは真面目であったものの今ひとつ機転に欠け、秩序党のティエールや、ルド リュ・ローランと比べると一枚格が落ちる人物であった。カヴェニャックは保守派に譲歩を続け、急進派からは信頼を失った。そしてその上、彼は保守派からも 信頼されず、十二月選挙をもって保守派はカヴェニャックを見捨てた。

穏健共和派が弱体化する一方で、今度はジャコバン派が力を吹き返してきた。ジャコバン派は5月のブランキのデモや六月蜂起に参加することはなかったが、そのリーダーであるルドリュ・ローランは彼らに同情をよせ、労働者の立場に立つ重要な政治家の一人であった。ローランは保守派によるフランスの反動化に対抗し、むかしは仲の悪かった社会主義者と9月22日の政治宴会で同盟することを成功する。

憲法議会には、4種類の活動的な社会主義派がいた。

  • ヴィクトォール・コンシデラン
  • フーリエ主義者
  • ピエール・ルロウ
  • サン・シモン派のルイ・ブランとプルードン

ローランはこれらの社会主義と協力し、反動的な運動に対する闘争を開始したのだ。

六月蜂起 から1851年12の第二共和政の終焉までの3年半は、パリがシーザー主義(カエサル主義)に至るまでの過程であった。シーザー主義とは、ローマの英雄 シーザー・カエサルのようにカリスマ的人物が人民の圧倒的な支持の下に独裁者となる、疑似民主独裁体制のことである(それはすなわち人々が英雄ナポレオンの再来を求めていたことを意味している)。この期間にはいくつかの段階があった。

  • 第一段階、六月蜂起から十二月選挙でルイ・ナポレオンの大統領選就任まで。
  • 第二段階、保守派とルイ・ナポレオンがジャコバン派を倒すために協力した期間。
  • 第三段階、ルイ・ナポレオンと保守派がジャコバン派を弾圧しながらも、互いに敵対していく期間。

そして1851年12月2日、ルイ・ナポレオンはクーデターをおこし、自らをフランスの独裁者に祭り上げたのである。ここに至って、革命派、ジャコバン派、保守派はすべて弾圧された。翌年にルイ・ナポレオンは国民選挙を経てついに皇帝にまで至り、ナポレオン三世の名の下に第二帝政が始まるのである。それでは以下に、ルイ・ナポレオンがいかにしてパリに現れ、また皇帝にまで上り詰めたのかをみていこう。

ルイ・ナポレオンの登場

シャルル・ルイ=ナポレオン・ボナパルト(後のナポレオン三世)

六月蜂起の後に人気を得た保守派はあえて穏健共和派に議会の重要なポストを任せ、彼らを利用する方策をとっていた。しかし保守化した議会によりパリは急速に反動化していく。

まず7月28日に、秘密結社を禁じる布告がだされた。政治クラブなどの秘密結社は自治権を侵され、政治集会には一般人や警官の立ち入りを許さなければならなくなった。また公共秩序や道徳に反対する提案はすべて禁じられた。とりわけ社会主義者が打破を目指していた私有財産権については強調されて保護された。

8月に制定された二つの法律は出版物に対する新しい制限を設けた。新聞の編集者は、再保証金を支払うように義務づけられ、また、議会や共和国に対する侮辱の表現は違反とされた。これらの法律は行政を支配する保守派によって施行されたので、社会主義者、急進派は出版という非常に強力な政治的武器を奪われてしまったことになる。

11月4日、1848年の第二共和政憲法はこの政権の後、739対30という大差で採択された。しかしともに直接普通選挙で選ばれる一院制議会と大統領制を基本とする新体制は、立法府と行政府が独立的でありすぎため、両者の対立を調整する術をもたなかった。これに加え、大統領の再選が認められないこともまた、第二共和政が短命に終わった原因とされる。

12月10日の大統領選挙では、ナポレオン1世の甥ルイ・ナポレオンが74%の得票率で圧勝した。対抗馬のカヴェニャックは有効得票の1/5にも満たず、ルドリュ・ローランは1/20を得ただけであった。ルイ・ナポレオンは著作『貧窮の絶滅』で社会主義的方針を世に示し、それがブルジョワ共和派の政府に失望した労働者には、カヴェニャックよりはるかにましな革新的候補と映ったのである。カヴェニャックの敗北によって、一応まだ多数派であった穏健共和派は大幅に勢力を失うことになった。

また農民にとって「ナポレオン」というブランドはフランスの全盛期の思い出であり、地方の保守的な名望家支配に終止符を打ってくれる希望の星であった。農民たちは自分たちに重税を課し続ける共和国にはうんざりしていたのだ。マルクスは農民のナポレオン支持を「農民の保守性」と指摘したが、それは一面的な理解である。

一方、適切な候補者を立てられなかった秩序党にとっては政治経験のないルイ・ナポレオンは共和派のカヴェニャックよりも遥かに扱いやすい人物に映った。ルイ・ナポレオンは保守派が自分を支持してくれるのなら以下の4つの公約を守るとした。

  • 政治クラブ規制法を維持する
  • パリに5万の軍隊を駐屯させる
  • フランクフルト国民議会を拒否する
  • イタリア共和派に反対し、サルジニア(サルデーニャ)国王を支持する

労働者、農民、保守派にくわえ、ルイ・ナポレオンはブルジョワやさらには急進派や革命派からの支持も受けた。これほどに「ナポレオン」のブランドはフランス国民にとっては輝かしいものだったのだ。しかしこのルイ・ナポレオンはただ叔父の名前を借りているだけの凡愚ではなかった。

ナポレオンと保守派によるジャコバン派弾圧

オディロン・バロ

12月20日、大統領に就任したルイ・ナポレオンは、すぐさま穏健共和派の内閣を廃止し、保守的な王朝左派のオディロン・バロを首相に、ファルーを公教育大臣に、そしてオルレアン派の将軍シャンガルニエを陸相に任命した。第二共和政下で正式に機能した最初の首相が、共和主義者を排除した王党派連合政権であったのは皮肉なことである。

カヴェニャックの時代、議会はオーストリアと対峙している伊仏国境にあるピエモンテを救助するためにイタリアに遠征軍を送ることを承認していた。ルイ・ナポレオンが大統領になるとこの軍隊はピエモンテ救助だけでなく、ローマに進軍して法王のために玉座を奪還してくるようにとまで発展して命じられた。この命令は明らかに法律を無視しており、議会は大統領に抗議したが無視された。立法府が行政府である大統領を制することのできない異常事態に、議会は予算案を議決後すぐに解散を宣告せざるを得なくなった。

制定議会では曲がりなりにも共和主義者が多数派を占めていたため、一種の二重権力状態が表面化したが、これは解散後の1849年5月の立法議会選挙で決着がつけられた。保守(右)派を結集した秩序党が53%の票を得て750議席中450議席を獲得したからである。与党であった穏健共和派は12%弱、70数議席しか獲得できず完敗した。

一方で急進左派の連合体「山岳派(モンタニャール)」の民主・社会主義者(デモ・ソック)は健闘し、35%、210議席を獲得している。さらにジャコバン派は地方選挙でも勝利をおさめていた。これはジャコバン派がルイ・ナポレオンとティエールを恐れていたからであるとされる。ここにきて革命的勢力が伸長し、ブルジョワに不安を与えた。この選挙によって、いままで憲法制定議会の主導権を握っていた穏健共和(中道)派が壊滅し、政治が保守派と急進派の右翼左翼の両極端になるという構図が議会に生まれた。

だがこの左派山岳派も一ヶ月後には解体されている。ことの経緯はこうである。新しく立法議会が招集されるとすぐにジャコバン派は保守派に攻撃を加えた。先述のように新政府はローマに兵隊を派遣していた。イタリアではフランス二月革命に触発されてローマ共和国が成立していたが、秩序党政権はヴァチカンを擁護する目的があったのだが、1849年6月11日、山岳派はこれを憲法違反だと弾劾し、パリを中心に大デモを組織した。6月13日、彼らの示威行為はバリケード戦にまで発展するが民衆の支持が得られず、あえなく鎮圧された。これによって首謀者のルドリュ・ローランがイギリスに亡命したのをはじめ、山岳派の議員団は壊滅した。

急進派に同調したと疑われた兵士と下士官はアルジェリア連隊へと転任させられてしまった。また当日パリの近い11県で攻囲状態が布告され、二日後の15日にはリヨン市近くの5県にまで拡大された。また攻囲宣言と同時に文民政府所管のすべての権力が軍部に移されることが法律で決まった。議会は「事態を沈静化させるための措置である」といって被告人たちの権利を奪ってしまった。しかし保守派はこの法律によって大統領に過度の力を与えてしまったことに気づいていなかった。

保守派、ナポレオンの手によるジャコバン派、左派の弾圧によって第二共和政は共和政なのに議会に共和主義者がいないという訳の分からない状態になった。身 軽になった秩序党政権は クラブや集会を禁止し、出版印紙税を復活させて言論統制を行った。労働者のストライキももちろん禁止。

この時期、穏健共和派は警察から比較的大目に見られていた唯一の共和派であった。これに対してジャコバン派と社会主義派は徹底的に弾圧された。彼らの政治集会は秘密結社法によって規制された。ストライキを行っている労働者に援助を与えた「労働者の友好結社」は、無許可の政治クラブとして警察に弾圧された。警察は、雇用者が認めた場所以外で労働者が集まるものはすべて平和と財産を侵害するものとみなしたのである。当然、ジャコバン派と社会主義者の出版物も弾圧しはじめる。『レフォルム』新聞は多額の罰金によって破滅し、プルードンの発行した優れた社会主義新聞『人民の代表』紙も同様に賠償金で財政的に破綻させた。

こうしてジャコバン派は地方へ、地下へと散っていった。彼らは一見政治とは関係なさそうな組織を装い、パリとリヨンにあった中央委員会の支持を受けていた。彼らは革命のためというよりはクーデター防ぐために武装していた。彼らの勢力はなかなかで選挙で勝てる可能性すら秘めていた。しかし秘密結社のままでは選挙で勝っても結局ナポレオンに勝利の果実を横取りされてしまう可能性がある。結果、彼らは1850年の中頃には選挙を諦めた。

大統領VS保守派

六月蜂起から1851年のクーデターまで、フランスには二つの政治的対立があった。

  • 大統領VS保守派(ナポレオン派VS反ナポレオン派)
  • ブルジョワ的官僚VS共和派

大統領と保守派は協力してジャコバン派や社会主義者を弾圧しつつも、互いに主導権を奪おうと競っていたのだ。ティエールに従順なバロー内閣は大統領を小馬鹿にしていた。一方のナポレオンは六月蜂起で逮捕された者たちの恩赦を求めた。これはバローに拒否されたが彼はノーリスクで人々の人気を得ることに成功した。フランスがローマを法王に返還したあと、法王は反動政策を強いた。ルイ・ナポレオンは無謀と分かっていてあえてそれに意義を唱えた。一方で保守派は法王支持の立場をとったため、そのため後にナポレオンがバローを解任したときに、それは彼の人間性と共和制の勝利のように映った。

ルイ・ナポレオンは1849月10月31日に、バローに代わり自分を支持する閣僚を集めて新内閣を結成した。保守派はこの内閣を不信任にしたが、反対を持続するだけの力を彼らは持っていなかった。すでにナポレオンの人気は議会の多数派と同等であった。これは議会制君主政が破綻していることを意味していた。そしてそれはまた人民がそれを望んでいることも意味していた。社会主義をのさばらせないためには、議会よりも独裁者に政治をやらせるようが良いと市民は考えていたのである。

保守派にはナポレオンと対抗する際に様々な弱点を露呈してしまった。そもそも保守派といっても統一性はなく、ある者は正統派であり、ある者はオルレアン派であり、あたあるものはカトリック派であった。カトリック派はもし自分たちが教会と大統領を和解させることができるのならば、議会政治の原理は喪失してもやむをえないと思っていた。こうした保守派の分裂は当然ナポレオンの利するところである。

第二共和政の終焉、そして第二帝政へ

アルフレッド・ド・ファルー

保守派による一連の反動的立法のうちで一番ひどいものは、 1850年3月の教育立法、ファルー法の制定である。これは近代フランス法のなかでももっとも有名な法律とされる。このファルー法は国家による教育の独占権を放棄するものであった。これによって学士を持つ者ならば誰でも小学校を設立することができた。一見して教育の自由化にも見えるが、その実は近代公教育というフランス大革命の成果を捨て去り、カトリック教会におもねる法律であった。小学校を作れるほど資金力のある団体は教会しかなかったからだ。ファルー法によってカトリック聖職者が国民の初等教育を掌握しただけでなく、それまで大学局が管理していた 中等教育まで聖職者が進出した。歴史の中でふたたび出番を与えられたイエズス会がこの仕事を担っていた。ファルー法は教育の自由化などではなく、教育を教会の手に委ねるという中世への回帰であった。

また、ファルー法は共和主義的教員にたいする弾圧にも威力を発揮した。この時期、選挙法やデモへの参加を理由に、師範学校の教師の40%近くがなんらかの懲戒処分を受けている。現在のフランスの世俗教師の特徴である反教権主義は、このファルー法以後、一段と強くなったとされる。当然、教会権力を厭うものや、市民たちはファルー法を嫌悪し、保守派はさらに人気を落としてしまった。

さらに1850年5月31日には選挙資格の定住期間制限を半年から3年に改定した。普通選挙の原則はそのままであったが、これによって移動の激しい労働者たちは選挙権を失っていった。これによりパリの労働者の40%は選挙権を失うこととなった。

一方、大統領ルイ・ナポレオンは秩序党議会の反動立法から距離をとって中立を装い、選挙権の移住制限法の撤廃を提起するなど、民衆サイドにたつ政治家として自己アピールした。しかし、大統領の任期はわずか4年で、しかも再選は禁止されていたため1852年3月の議会同時選挙をもって彼は権力の座から降ろされることになっていた。このためルイ・ナポレオンは再選禁止条項の修正を狙って全国を飛び回って民衆に声をかけつづけた。

民衆の支持が得られていると確信したルイ・ナポレオンは修正案の否決とともにクーデターを決行。1851年12月2日の朝、ナポレオンは国民に議会の解散を布告し、パリ市内を軍で制圧した。共和派議員もバリケードで抵抗を呼びかけたが、労働者、民衆の反応は冷ややかであった。

翌日、立法議会は解散され、1848年憲法は失効する。形式的にはルイ・ナポレオンが皇帝になるまであと1年第二共和政は続くが、実質的にはこの時点をもって第二共和政はおわった。21日の人民投票では得票率83%、賛成92%という圧倒的支持がルイ・ナポレオンに与えられた。

ルイ・ナポレオンは翌1849年に皇帝ナポレオン3世となり、第二帝政を開始。その統治は1872年、普仏戦争でフランスが敗北するまで続いた。

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