本田美奈子(1967年7月31日 - 2005年11月6日)は、日本で活動していた歌手、女優、声楽家である。故人。
本名は工藤美奈子。活動期間は1985年から2005年。いわゆる80年代アイドルを経て、90年代以降は主にミュージカルで活動していた。
ミュージカル『ミス・サイゴン』でヒロインのキム役に選ばれて以降、当時のアイドル歌手としては異例のミュージカルでの活躍を見せ、歌唱力・演技力を高く評価された。1992年度第30回ゴールデン・アロー賞演劇新人賞を受賞。今日においては、邦楽分野でも指折りの歌姫と呼称されるに至る。
2005年1月12日、急性骨髄性白血病と診断を受けて緊急入院、その翌日にはその事実が公表された。
臍帯血移植や抗癌剤治療を受けるが、肺への合併症から容体が急変し、同年11月6日午前4時38分、家族らの見守るなか、死去した。38歳だった。(wikipediaより引用)
歌が好きだった母の影響もあり、幼いころから歌うことに興味を抱いていた彼女だが、実際に歌手に向けて動き出したのは1981年にさかのぼる。
山口百恵やピンク・レディー、中森明菜などを輩出したオーディション番組「スター誕生」に中学3年生で出場。この時彼女は柏原芳恵の「ハロー・グッバイ」を歌唱。見事決戦大会まで勝ち進んだものの、残念ながら各プロダクションやレコード会社からの指名を受けることはなかった。
ちなみにこの時、徳永英明と松本明子も同じ本選・決勝大会に出場し、松本明子のみが指名を受けている。
彼女が再び歌手への道を歩むことになったのが1983年。高校生になった彼女が初めて原宿に出かけていたところ、松本伊代や杏里らが所属していた芸能事務所「ボンド企画」の担当者からスカウトを受ける。
1983年当時、ボンド企画では「少女隊」のメンバー探しを行っており、美奈子もその候補として声をかけられたのだった。しかし、当時の事務所社長だった高杉敬二氏が、録音された彼女の歌声を聞いて驚愕。少女隊のメンバーとしておくには惜しい人材として、ソロのアイドル歌手としてデビューさせることを決め、美奈子にその意向を持ちかけた。
ただ、美奈子自身はアイドルになるつもりはなく、演歌歌手でのデビューを希望。しかし、当時の事務所で演歌歌手をプロデュースした経験がなかったため、高杉氏がその事情を説明したところ、アイドル歌手としてのデビューをすんなりと受け入れた。
1984年、歌手志望者の登竜門的な音楽賞である「長崎歌謡祭」に本名の工藤美奈子名義で出場し、グランプリを獲得。翌1985年4月に、「本田美奈子」という芸名で「殺意のバカンス」を発売、デビューを果たす。
アイドル歌手としてデビューを果たした本田美奈子だが、彼女にとって、「アイドル」として扱われることに違和感を感じていた。そのため、デビュー当初からアイドルとは別の路線を確立しようと試行錯誤を重ねている。
デビュー曲である「殺意のバカンス」や、初めてのオリコントップ10にランクインした曲である「Temptation(誘惑)」が、およそ新人歌手らしからぬ大人っぽい雰囲気を醸し出した歌詞であったのも、その意向の表れといえる。
1985年12月には新人歌手ながら日本武道館でのコンサートを開催、成功を収める。その後、FNS歌謡祭の最優秀新人賞、日本レコード大賞の新人賞を獲得するなど、85年デビュー組の中では華々しい成功を収めた。
しかし、彼女にとっての悲願であった「ザ・ベストテン」へのランクインや日本レコード大賞の最優秀新人賞を手にすることができなかった。どうすれば個性を出して多くのファンを獲得できるのか考え、導いた結論が「アーティスト路線」への更なるシフトだった。
1986年2月、彼女の代表曲となる「1986年のマリリン」をリリース。
当時としては異例の「へそ出しルック」や「腰を振る振り付け」など、「アイドルではなくアーティスト」との姿勢を打ち出したこの曲で一気に人気を獲得。結果的にこの曲で初のオリコントップ3にランクインしたり、ザ・ベストテンで最高2位を記録、夜のヒットスタジオにも出演を果たすなど、美奈子にとって大満足の結果となった。
その後も「HELP」や「Sosotte」など、ロックテイストやセクシーな路線の楽曲を次々と発表しつつ、ドラマの主題歌にもなった「Oneway Generation」ではアイドル的な路線も見せるなど、意欲的な活動を展開。この頃、ゲイリー・ムーアやブライアン・メイから楽曲提供を受けたり、フレディ・マーキュリーやマイケル・ジャクソンなど、海外の著名なアーティストらと交流を深めている。
1988年には、「MINAKO with WILDCATS」を結成し、本格的なバンド活動を展開。女性ロックバンドの先駆けであるSHOW-YAが主催する「NAONのYAON」に出演するなどしたものの、商業的な成功を収めることができず解散。再びソロ歌手に転向することとなる。
1989年にソロ歌手として活動を再開したものの、このころすでに流行歌手の傾向がJ-POP系に移行しつつあり、ヒット曲に恵まれない状況だった。その為、90年頃には彼女がデビュー前に希望していた演歌歌手への転向を、当時所属していた東芝EMIとは異なるレコード会社から持ち掛けられることもあったという。
同年秋、社長の高杉氏の誘いで招かれた食事の席で東宝の酒井喜一郎プロデューサーと出会う。ちょうどその頃東宝では、ミュージカル「ミス・サイゴン」の出演者募集を行っていたのだが、酒井は彼女の姿や歌声を聞いた際に主人公のキム役にぴったりだと確信。オーディションへの応募を持ち掛けた。
美奈子自身は歌手とは異なる活動との考えであまり乗り気ではなかったものの、高杉や酒井らの説得に応じて、募集締め切りギリギリでオーディションを受けることになった。
1万1千人以上が応募したといわれるこのオーディションで、彼女はブロードウェイミュージカルのスタッフや、ミス・サイゴンを手掛けたプロデューサーらの前で歌声を披露。審査は6~7次にわたって行われたが、彼女は1回目の選考段階ですべての審査員から「主人公のキム役にふさわしい」と高い評価を受け、見事主役の座を手に入れた。
キム役へ選出されたのを機に、美奈子は芸能活動の休止を決断。ボイスレッスンや演劇の練習など、1年以上に及ぶ訓練期間を経て、ついにミュージカルデビューを果たすこととなる。
1992年、ミュージカル「ミス・サイゴン」が初演を迎えた。多くの一般大衆から「アイドル歌手の無謀な挑戦」と見られていたものの、公演を重ねるたびに高い評価を得るようになり、1年半のロングラン公演を終了するころには「ミュージカル女優・本田美奈子」としての立場を獲得するに至った。
公演期間中には舞台装置に足を轢かれて大けがをするなどのアクシデントにも見舞われたが、1か月の療養を経て復帰。舞台を降板してもおかしくないほどのアクシデントにも関わらず早期復帰をしたのは、彼女の「ミス・サイゴン」に対する情熱の深さを物語っている。
「ミス・サイゴン」での成功をきっかけに多くのミュージカル作品に出演。「屋根の上のヴァイオリン弾き」「王様と私」「レ・ミゼラブル」といった有名作品はもちろん、寺脇康文と岸谷五朗が率いる地球ゴージャスの「クラウディア」といった前衛的な作品でも主要キャストの一員として名を連ね、話題を集めた。
1994年には、4年ぶりに歌手活動を再開。彼女の代表作となる「つばさ」をリリース。
ミュージカルの挑戦を機に手に入れた強靭な背筋や呼吸法により、30秒近いロングトーンを披露。もともと歌唱力の高さに定評のある美奈子にとっても、エポックメーキングといえる作品に仕上がった。
また、翌年に発売された「ら・ら・ば・い~優しく抱かせて」では、歌の後半にオペラ歌手のような超ハイトーンボイスを披露したり、復帰後初のアルバム作品では演歌風の楽曲や「愛の賛歌」のカバーなどを収録したりするなど、より歌手としてのスキルを高めようと取り組んでいた。
1990年代後半から、コンサートでクラシックの楽曲を歌う機会が増えるようになり、99年にはオーケストラによる本格的な音楽を披露するテレビ番組として知名度の高い「題名のない音楽会」にも出演。
翌2000年には作曲・編曲家である服部克久からの推薦で日豪親善コンサートに出演し、サラ・ブライトマンの「Time to say goodbye」などを披露するなど、オーケストラやストリングスとの共演も増えていった。
そして2002年、「声楽ではない分野で活躍する歌手のクラシック作品」の構想を練っていた日本コロムビアの岡野博行氏からのラブコールを受け、彼女自身も長年構想していた「クラシカル・クロスオーバー」への挑戦を決断。
「君といつまでも」の作詞や「ミス・サイゴン」の日本語詞を手掛けた岩谷時子と、松田聖子や中森明菜、寺尾聰などの楽曲を編曲したアレンジャーの井上鑑が中心となって作品作りを行い、翌2003年5月、初の本格的クラシカル・クロスオーバーアルバム「AVE MARIA」をリリース。
翌2004年には、彼女にとって最後のシングル作品となる「新世界」とクラシカル・クロスオーバーアルバム第2弾の「時」を発表。
伸びやかで張りのある歌声とクラシック楽曲との調和が評判を集め、コンサートやテレビでの歌唱も行われるなど徐々に軌道に乗り始め、翌年のデビュー20周年に向け良いスタートを切った。
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最終更新:2024/05/24(金) 02:00
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