桶狭間の戦いとは、永禄三年(1560年)に尾張国桶狭間付近で起こった戦いである。織田信長と今川義元が戦った。わずかな寡兵を率い、今川の大軍を強襲した織田信長が、今川義元含む数多の重臣を戦死させて勝利した。のちの織田信長の躍進を含め、戦国乱世を平定するきっかけとなった戦いとも言われている。
駿河に領国を持つ今川氏と、尾張に領国を持つ斯波氏の両守護は、応仁の乱の頃から度々争っており、斯波氏の実権が織田氏に移りつつあった頃になっても、それは変わらなかった。織田信長の父親にあたる織田信秀と、内乱を経つつも家督を相続した今川義元の覇権争いは、一進一退の攻防を経て、やがて三河に勢力を持つ松平広忠を事実上麾下に加えた今川義元が、小豆坂合戦の勝利、安祥城攻略を経て、三河における領国覇権を確立させる結果となる。この後、広忠の息子である竹千代(のちの徳川家康)を掌中におさめて重用し、義元の勢力はさらに勢いを増した。
一方、三河において今川義元との覇権争いで劣勢となっていた織田家は、当主であった織田信秀が風土病で1551年に病没すると、いよいよ暗雲立ち込める事態となった。既に1547年、織田信秀は美濃の斎藤道三と戦って敗れており、この時は家臣であった平手政秀の差配で、なんとか織田信長と濃姫の婚姻関係を結ぶことで和議を取り持つことができたものの、今川義元が三河における覇権争いで織田に勝利すると、いよいよ織田家一門や、主筋にあたる斯波家の圧力もあり、内外に敵を抱えて、しかも戦況劣勢のまま当主織田信秀が病没するという顛末となる。
織田信秀の死後、家督を継いだのは織田信長であった。しかし、織田信長はうつけとして有名であり、しかも当時はまだ17歳であった。乱世に幼君や若君が家督を相続すると混乱が起きるのは世の常である。「あの信秀様ですら勝てなかった今川義元に、うつけのガキが勝てるわけねえべ」と思ったかどうかは定かではないが、この頃、尾張国内では織田を見限り、今川に味方する勢力が跡を絶たなかった。鳴海城の山口教継、岩崎城の丹羽氏勝が今川義元とよしみを通じ始めたのである。
当然、織田信長は離反した両者を討伐しようと考えるものの、背後に今川義元がいては積極的な合戦は難しく、結局双方とも、小競り合いの末に引き分けとなった。丹羽氏勝はその後、織田今川を行ったり来たりを繰り返すが、山口教継は後年、勢力を今川義元に吸収された上、用済みとばかりに粛清される。山口の後任として鳴海城には岡部元信が入り、今川義元は盤石の支配体制を築いていく。
この頃の織田信長は、既に今川義元の圧力によって窮地に追い込まれつつあった。尾張国内では、離反した鳴海城、岩崎城に同調して、沓掛城、大高城、寺本城も今川方に靡いた。さらに今川義元の後援を受けた松平一門の松平親乗が、尾張織田方の拠点である蟹江城を攻め落とした。背後には伊勢に拠点を持つ服部友貞との連携があったと言われている。
苦しい展開になりつつあった織田信長は、義父にあたる斎藤道三に援軍を依頼した。天文18年(1549年)の正徳寺会見で、織田信長の類稀な資質を見抜いていた道三はこれを快諾。斎藤道三の援軍を得た織田信長は、今川方の拠点であった村木砦を攻略、ひとまず尾張西方と三河方面の今川軍を分断することに成功する。また鳴海城、大高城を押し込めるように、砦群を築いて防備を固めた。この時築いた鷲津砦、丸根砦、中島砦などは、のちに大きく役割を果すことになる。
しかし、局地的に見てわずかに織田信長の抵抗、善戦が見られるものの、大局的な戦略で言えば今川義元の勢力拡大は著しく、尾張では今川義元への対処、ひいては織田信長の処遇をどうするかが課題とされていた。そして、この勢力著しい今川義元に対して、織田大和守家当主である織田信友が、彼をアテにして尾張の領主になろうと考えた。ただ、この計画は未然に露見・失敗し、信友は殺害され、彼の遺臣達は今川へ逃れるなど、ひとまず信長は1つ危機を乗り越えた。
が、弘治二年(1556年)、今度は織田信長の最大の盟友であった斎藤道三が、息子である斎藤義龍と争って敗死するという事件が起きる。世にいう長良川の戦いである。信長本人も救援に赴いたが、既に戦況は義龍側優勢となっており、結局、道三派であった義弟の斎藤利治ら一部の人間が織田を頼って落ち延びてくるものの、美濃全体で見れば反織田方となるという事態に陥り、信長はついに全方面に敵を抱える羽目になった。
こんな四面楚歌の状況では、流石に不安に陥る者も出始めた。織田一門であった織田信賢、そして織田信長の実弟でもあった織田信行が信長に反旗を翻したのである。背後にはもちろん、斎藤義龍らと結びついてこの窮地を脱したいという思惑があった。しかし、織田信長は数に劣る状況で織田信行軍と戦い、稲生合戦でこれに勝利すると、柴田勝家らの離反を受けて、弘治三年(1557年)、ついに織田信行は信長方の武将(河尻秀隆、池田恒興、信長本人と諸説あり)に誅殺され、翌年の永禄元年(1558年)には織田信賢も信長に敗れ、更に翌年に追放された。
一方、信長が必死の思いで尾張を駆けずり回って戦争し続けていた頃、今川義元は尾張を支配するための盤石な布石を打っていた。天文23年(1554年)には、武田信玄、北条氏康と三国同盟を結んで後顧の憂いをなくし、翌年には竹千代(のちの徳川家康)を元服させて松平元康とし、さらに自らの姪を嫁がせて一門とした。この時点で今川義元の三河支配は既に盤石なものとなり、尾張方面も岡部元信、鵜殿長照など重臣を派遣して基盤を固めた。実権は自身が握っているが、家督は嫡男である今川氏真に譲っている。
この頃の織田信長は、尾張を統一できていないどころか、西に服部友貞、東に今川義元、北に斎藤義龍、南に今川重臣の岡部元信らがおり、四方全てが敵という絶望的な状況に陥っていた。ただし、斎藤義龍に関してはこの当時、武田信玄と美濃を巡って対立関係ができており、武田信玄は今川義元の同盟者でもあった。また武田信玄が美濃を攻める際に織田信長と手を結ぶという外交案を企図していたという説もあり、今川武田で外交の齟齬が生じていたともされている。果たして斎藤が織田に史実以上に圧力をかけていればどうなっただろうか、と考えられなくもないが、のちの結果から見れば、織田信長が勝つべくして勝ったとも言えるかもしれない。
| 織田軍の主な武将 | 今川軍の主な武将 |
|---|---|
|
|
※ 赤字は同合戦戦死者
全体的な傾向として、織田方は兵力で大幅に劣っていながら、外交でも絶望的な状況で孤立無援に近い状況であった。一方の今川方は、多方面に軍が展開しているものの、外交でも戦力でも織田を圧倒しており、尾張侵攻の最後の盤石な一手を成さんとしていた。既に織田の敗色は濃厚とされており、織田方の武将でも曖昧な態度で桶狭間に参加しなかった勢力、人物も多かった。
例によって桶狭間の戦いの規模、内容、戦果は諸説ある。ここではある程度通説に準じて記述することとする。
永禄三年(1560年)5月12日、今川義元は総勢数万という軍勢で尾張へ軍を進めた。今日、上洛を企図するもの、尾張を平定するもの等諸説あるが、ともかく今川義元は織田信長を叩くべく軍を進発させる。軍勢の数は総勢で5万、4万5千、2万5千とも言われるが、既に駿河遠江三河を抑え、伊勢尾張にも協力勢力がある状況では圧倒的な優勢が見込めていた。
同年5月17日、三河にほど近い沓掛城に入ると、義元は周辺勢力への呼びかけや、尾張方面に駐屯する今川軍との連携を差配し、朝比奈泰朝らに鷲津砦、松平元康らに丸根砦を攻撃するよう命じた。また松平元康らへは、大高城の救援も命じている。元康の陣容には、本多忠勝や酒井忠次など、のちの徳川を支える重臣の姿もあった。
一方、今川の大軍来襲を聞いた織田方では、籠城か抗戦かで揉めたと伝わっている。四面楚歌の挙句、圧倒的兵力差とあってはやむを得ず、また信長本人が命じたこともあり、ひとまず織田軍本隊は清洲城で待機することとなる。だが、今川軍は織田の勢力圏に入ると、同年5月18日に大高城の救援、鷲津・丸根砦の陥落を実行。結局両砦では翌日まで持ちこたえるものの、織田秀敏、佐久間盛重の宿将2人が戦死を遂げた。
織田信長は、あけて同年5月19日未明、清洲城を佐脇良之含む供回り5騎を連れて飛び出る。この時に幸若舞「敦盛」を舞った後、出陣の準備をして駆け出した。早朝8時頃に熱田神宮で願掛けを行い、佐久間信盛の守る善照寺砦に入る頃には、約3000の兵が集まっていた。だが、この頃に鷲津・丸根両砦陥落と、宿将2人の戦死を知った。
桶狭間の戦いは、その中心戦地すら不透明という謎に包まれた戦いでもある。桶狭間山、田楽狭間をはじめ、候補たる場所には枚挙に暇がない。さらに、この時の織田信長、及び今川義元の挙動すらわかっていない。彼らが何を目的とし、どんな行動を取ったかというのにも複数説がある。全容はまだまだわからないのである。
とはいえ、それでは歯切れが悪いので、通説を基準にその後の顛末を述べることとする。
5月19日正午頃、織田信長は善照寺砦を守る佐久間信盛に兵500ほどを預け、自らは2500ほどの軍勢を率いて善照寺砦を出発する。中島砦経由などルートは複数あるが、ともかく織田信長率いる織田軍は善照寺砦を出た。
一方同じ頃、今川義元も軍を進発させる。今川義元がこの時どこにいたかはわかっていないが、沓掛城、大高城のいずれかであるとされる。ともかく城を出た今川義元は、これまたどこへ行くかわかっていない(大高城、沓掛城、織田信長勢力圏)が、こちらもひとまず軍を進めた。
同じ頃、中島砦付近で、織田軍と今川軍の衝突があった。織田軍の兵は300足らずであり、佐々政次、千秋季忠の2人が率いていたが、今川軍の猛攻で双方とも戦死した。同年同日13時頃、豪雨(雹とも言われる)があたりを覆い、視界不良となった。この間に織田軍本隊は天候、あるいは地形にも恵まれ、一時的に今川軍の捕捉から逃れられる状況にあった。
そしてこの後、織田軍本隊は今川軍を強襲する。相手は今川義元率いる本隊であった。兵数にして織田軍本隊が2000ほど、今川軍本隊が6000ほどと言われている。しかし、織田信長自ら下馬して戦う織田軍の士気は高く、逆に思いもよらないところから攻撃された今川軍は徐々に崩れ始め、ついに服部一忠、毛利良勝らの奮戦により今川義元は重臣たちとともに戦死した。この時義元の愛刀「宗三左文字」も信長のものとなった。
謎だらけの桶狭間の戦いであるが、この戦いはのちの天下統一事業の始まりとして、すこぶる知名度が高い。戦いののち、織田信長は今川領尾張を席巻し、余勢を駆って隣国の制圧に乗り出す。結果、伊勢美濃を領し、三河の徳川家康をその盟友に加えるなど、一躍天下有数の勢力に躍り出る。そして、足利義昭を経て上洛した後、天下統一たる戦いへと乗り出していくことになる。
今川義元の家臣として参戦していた徳川家康は、大高城で義元戦死の知らせを受け取った後、領国三河へと戻った。その後、三河は対織田の最前線となるが、方針を巡って今川氏真と対立。結局織田信長を頼って独立することとなる。のちに天下泰平を築き、江戸幕府を開いた徳川家康の船出であった。
一方、桶狭間合戦で大きな被害を出した今川家は、今川氏真が跡を継ぎ、寿桂尼(今川義元実母)の補佐を受けながら今川家の勢力立て直しに乗り出すが、周辺勢力の圧力に苦しみ、結局武田信玄と対決することになり、最終的には駿河を追われ、正室の実家である北条家の北条氏康を頼った。その後は徳川家康と織田信長を頼りつつも、高家旗本として今川の命脈をひっそりとではあるが、存続させている。
なお、今川との戦いで右往左往した丹羽氏勝は、のちに追放されることになった。(城は彼の息子が受け継ぐ)
急上昇ワード改
最終更新:2025/12/15(月) 04:00
最終更新:2025/12/15(月) 04:00
ウォッチリストに追加しました!
すでにウォッチリストに
入っています。
追加に失敗しました。
ほめた!
ほめるを取消しました。
ほめるに失敗しました。
ほめるの取消しに失敗しました。