稲葉篤紀(いなば あつのり、1972年8月3日-)とは、愛知県出身の元プロ野球選手(外野手)である。
| OB | |
|---|---|
| 稲葉篤紀 | |
| 基本情報 | |
| 国籍 | 日本 |
| 出身地 | 愛知県 |
| 生年月日 | 1972年8月3日 |
| 身長 体重 |
185cm 87kg |
| 選手情報 | |
| 投球・打撃 | 左投左打 |
| 守備位置 | 外野手、一塁手 |
| プロ入り | 1994年 |
| 引退 | 2014年 |
| 経歴 | |
選手歴
|
|
| 国際大会 | |
| 代表チーム | |
| 五輪 | 2008年 |
| WBC | 2009年、2013年 |
| プロ野球選手テンプレート | |
中京高校(現 中京大中京高校)から法政大学を経て、1995年にドラフト3位でヤクルトスワローズに入団。アマチュア時代はあまり注目される選手ではなかったが、たまたま息子の試合を見にきた野村克也が稲葉に目を留めたことでヤクルトに指名されたという経緯がある。在学当時は内野手(主に一塁手)を守っていたが、プロ入り後は外野手に転向した。
プロ初打席でホームラン、入団二年目で打率3割達成など、非常に華々しいプロスタートを切ったがそれ以降は怪我にも悩まされ打撃不振に陥った。しかし2001年は3割20本塁打90打点を記録しベストナインを獲得。チームの優勝にも貢献し復活の兆しを見せたが、以降は再び怪我などにより打撃不振に陥る。2004年シーズンオフ、MLB移籍を希望しFA宣言するもメジャー球団からのオファーがなく海外移籍を断念。新天地を求め翌年2月にオファーのあった北海道日本ハムファイターズへ移籍した。
2005年は打率.271とあまり良い成績ではなかった。
2006年、新たに打撃コーチに就任した淡口憲治氏と共に打撃改造に取り組んだ結果、自己最多の26本塁打を記録し(打率も3割越え)、日本ハムの優勝、日本一に貢献。
2007年には自身初となる首位打者(.334)タイトルを獲得。
2008年も3割20本を達成し強打者としての地位を確立。北京五輪・2009年WBC日本代表にも選出された。2009年は36歳にして自身初となる3打席連続本塁打を記録。
2011年以降は故障もあって、登録上は外野手だが一塁手(もしくは指名打者)での出場がほとんどになっていた。
2012年は開幕から絶好調で、4月28日の東北楽天ゴールデンイーグルス戦で史上39人目の通算2000本安打を達成。同年に同期入団の宮本慎也も2000本安打を達成したが、その日の試合で稲葉は通算250号本塁打を放った。
2013年から選手兼任一軍打撃コーチに就任。WBC日本代表に選出。レギュラーシーズンでは打撃不振に陥り、3回二軍落ち。チームも最下位に転落した。2014年からは再び選手に専念する。
2014年、9月2日に今シーズン限りでの現役引退を表明。福岡ソフトバンクホークスとのクライマックスシリーズファイナルステージが現役最後の試合となり、ソフトバンクナインと日本ハムナインから胴上げされた。
| 球団 | レス | No | プレイヤー |
|---|---|---|---|
| ヤクルト | 応援歌のピコカキコ一覧#1045 | 12193 | |
| 日本ハム | 応援歌のピコカキコ一覧#240 | 8964 |
| 通算:20年 | 試合 | 打席 | 打数 | 得点 | 安打 | 本塁打 | 打点 | 盗塁 | 犠打 | 犠飛 | 四球 | 死球 | 三振 | 併殺打 | 打率 | 出塁率 |
|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
| NPB | 2213 | 8419 | 7578 | 1021 | 2167 | 261 | 1050 | 74 | 81 | 52 | 570 | 138 | 1269 | 99 | .286 | .345 |
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最終更新:2025/12/11(木) 20:00
最終更新:2025/12/11(木) 20:00
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