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第一次世界大戦(World War Ⅰ)とは、1914年~1918年に勃発した人類史上初の世界戦争である。
ここでは1914年のサラエボ事件から1919年のベルサイユ条約締結までを簡潔に記述する。
なお、第二次世界大戦が勃発するまでは、「大戦争(Great War)」「世界大戦争(World War)」「欧州大戦(War in Europe)」などと呼ばれていた。
| 概要 ・前時代との比較 ・参戦国 ・オーストリア=ハンガリー帝国 ・セルビア王国 ・ドイツ帝国 ・ロシア帝国 関連動画 関連商品 関連項目 |
この戦争は、人類史上初の全世界を巻き込んだ大戦争となった。近代の戦争から現代の戦争への転換点となった戦争でもある。
19世紀に起きた戦争との大きな相違点は、
以上の点から、それまでとは桁違いの死者を出した戦争でもある。19世紀までは一度の戦争で死者が10万人出ることはあまりなかったが、この戦争では900万人くらいの死者が出たといわれる。
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| ※都合上、国旗・国名は簡潔な物を使用しています。 | ||||||||||||||||||||||||||
オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子フランツ・フェルディナントが暗殺されたサラエボ事件を機に戦争を起こす。世界戦争を計画していたわけではないが、結果的に当時のヨーロッパにくすぶっていた火種全てに、火を点ける結果となってしまった。
地政学的に火種の尽きない地域バルカン半島にあるだけに、周辺諸国ともめることが多かったセルビアは、一部の過激派が暴走し隣国オーストリア=ハンガリー帝国の皇太子を暗殺してしまう(サラエボ事件)。このことから戦争に参加し一時は滅亡の危機に瀕するが、最終的には敵が勝手に他国との戦争で負けてくれたため、タナボタ的勝利を収める。
名宰相ビスマルクを排斥したことで知られるヴィルヘルム2世が、領土的野心を持って参戦。40年前の普仏戦争でフランスとの関係がこじれたままだったのに加え、イギリスと制海権をめぐって争っていた時期でもあり、これら諸問題を戦争で片付けようと目論む。
シュリーフェン・プランと呼ばれる作戦計画に基づき対フランス戦を行おうとする。
冬になると凍ってしまい使えなくなる港しか持たないロシアにとって、不凍港の獲得は悲願であった。そのため古くから黒海進出を目指していたが、当然周囲の国々がそれを許すはずも無く、過去の計画は全て失敗していた。オーストリア=ハンガリー帝国が戦争を起こした際、これに参加しオーストリア=ハンガリー帝国(とオスマン帝国)を排除すれば黒海へ進出できると考える。
オーストリア=ハンガリー帝国の圧力に日々さらされる隣の小国セルビアでは、ハプスブルグ家率いる帝国への反発を強めていた。そのさなか1914年6月28日に帝国の皇太子フェルディナントが、当時帝国領であったサラエボ市の市庁舎を訪問した。訪問の理由はあまり明確になっていないが、市庁舎へ向かう途中で皇太子夫妻は1度目の襲撃を受ける。攻撃は外れ、後ろの車が爆弾によって吹き飛ばされるも、皇太子夫妻は無事であった。しかし市庁舎訪問終了後2度目の襲撃を受け、夫妻はセルビア人テロリストによって射殺されてしまう。これが後にサラエボ事件と呼ばれ、これを機に帝国はセルビアへ宣戦を布告した。
オーストリア=ハンガリー帝国とセルビア王国の間で戦争が始まると、ロシア帝国がセルビアを支持して戦争に参加。ロシアはオーストリア=ハンガリー帝国とオスマン帝国を排除して黒海への進出を目論んでいた。
ロシアが戦争に参加するとこれに反応してドイツが戦争に参加。ドイツはこの戦争に参加する直接の理由が無かったが、様々な領土的野心から戦争に加わったといわれている。
イギリスとフランスはドイツに宣戦を布告されたため、止むを得ず参加した。オスマン帝国もロシア帝国に挑まれる格好になったため参加。
イタリアはオーストリア=ハンガリー帝国とトリエステ地方及びチロル地方の領土問題でもめていたため、この戦争を好機と捉え参戦。
日本、ブルガリアなどその他の国々は参戦する直接の理由が無かった。しかし諸々の同盟関係の手前、手伝わないわけにも行かず、やや遅れて参戦した。
アメリカは「栄光ある孤立」モンロー主義を通じて戦争には参加しない方針であったが、ドイツが大西洋で無制限潜水艦作戦を実行したため、最終的には参戦した。
この第一次世界大戦の開戦に至る経緯については様々な分析がなされているが、直接の開戦理由ははっきりしていないとも言われている。サラエボ事件はほんの端緒に過ぎず、それまでの欧州諸国の間にあった様々な要因(歴史的要因やナショナリズムの勃興もあった)がすべて絡み合い、当事者たちの判断がすべて悪い方向に向かっていったとしか思えないような展開の果てに起きた戦争でもある。いささか極端な意見としてすべては偶然の産物でしかなかったという意見もある。
明らかになっていることを書けば、国家指導者達は楽観的で開戦間際まで状況が破滅的であることを理解できなかった(気が付いた時には止める術がなかった)。多国間に絡み合うように結ばされた同盟関係は自動的な開戦を生む破目にもなった。また主な通信手段が電報だったため本国の指導者たちと外交官たちの間には暴走と様々な過誤も生んだ。軍隊指導者は自ら、あるいは先達が作り上げた事前の戦争計画に拘泥して"自国の置かれた外交的立場"などお構いなしに"自動的に"総動員体制へと邁進していったのである。
6月末のサラエボ事件に端を発したこの戦争は、クリスマスまでには終わるという楽観論が当初大勢を占めていた。が、その予定は簡単に覆される破目になる。
オーストリアとセルビアの間で軍が衝突をしたことを受けて、ロシアが参戦を決定。ロシアの参戦を受けてドイツは事前立案されていた戦争計画"シュリーフェン・プラン"にもとづいてロシアが総動員から戦線へ展開する時間差をついて、両面作戦を回避するためもう一方の国境を接するフランスに対して作戦行動に移る。
この"シュリーフェン・プラン"はベルギー領内を迂回してフランス・パリを包囲するという作戦行動のため、"自動的"に(当時中立国宣言をしていた)ベルギーに対して宣戦布告することになる。イギリスはこれを受けて最後通牒をドイツに対して送ることになり、ここに欧州全域を巻き込むだけではなく世界大戦への道が作られることなった(驚くべきかあきれるべきか、ドイツを含め参戦国の大半が動員にあたっては鉄道のダイヤを元にして考えていたため、動員を限定することも止める術も持ち得なかった。止めた途端に軍の動員計画だけではなく自国の経済活動にすら混乱が生じることは自明だったため、軍指導者たちにとって動き出した計画は誰にも止めることが出来なかったのである)。
結果から言えばドイツのシュリーフェン・プランは頓挫した。理由はいろいろあるが小モルトケが改良(改悪)したせいだという理由がもっぱらだろう。一方には当時の鉄道を中心にした補給網にとらわれていた動員と兵力移動スピードでは当初作戦案どおり決行されていたとしてもパリの包囲はならなかっただろうとも言われる。
そして戦場では違う光景が現れていた。いざ戦闘が始まってみると、突撃した騎兵・歩兵が敵の機関銃で皆殺しにされるという悲惨な状況が相次ぎ、旧時代の戦い方がまったく通用しないということを思い知らされる羽目となった(フランス軍では伝統的な鮮やかな軍服を迷彩服に替えるとは何事かという牧歌的意見もあったが、戦場においては単なる派手な目標にしか過ぎず、大損害を出すこととなった)。
対応として東部・西部戦線では互いに塹壕を掘ることなった。特に顕著だったのは西部戦線で、果てはドーバー海峡からスイスまで届かんばかりの長い塹壕を掘ることになったが、守備を固めることには成功したものの攻め手に欠け、できることといえば遠くから砲弾を撃ち込む程度のものだった。膠着した戦況を打破しようとした結果、攻め込まずに敵を倒せる毒ガス、機関銃に耐えつつ前進ができる戦車、塹壕を飛び越えて進める飛行機が史上初めて実戦に投入された。ただしこれらの兵器は当時まだ考案されたばかりのものがほとんどで、決定打と言えるほどの力は持たなかった。
東部戦線では3年もの間一進一退が続いていたが、ロシアでは戦争の長期化で国民の間に不満が高まり、ドイツがレーニンら革命家たちの帰国を手伝ったこともあって1917年ロシア革命が起きてしまう。これで戦争どころではなくなったロシアは戦争から手を引き、ドイツ帝国とブレスト=リトフスク条約を締結、ウクライナを含むロシアの広範囲の領土をドイツ帝国に割譲した。しかしこの後のドイツ帝国の敗戦に伴いロシアは条約の廃棄を宣言し、1919年のヴェルサイユ条約で失効した。
ロシア革命によって東部戦線が自然消滅。戦力は西部へ向けられることとなった。西部戦線では戦域に隈なく張り巡らされた塹壕によって、攻めることが困難な状況になっており、ドイツでは迂闊に攻めるよりも補給を断って相手を干上がらせる戦術へと切り替えが進んでいった。もっとも有名なのが無制限潜水艦作戦である。「大西洋を航行する船はとりあえず攻撃」という大雑把かつ広範な作戦によって、大西洋を航行する無関係な船舶も沈められ、世界経済は混乱した。特に戦争特需に沸くアメリカ合衆国の被害が大きく、それまで参加予定がなかったアメリカの参戦を招いてしまう。
アメリカの参戦によって、物量面で中央同盟国側は圧倒的に劣ることになり、ドイツなどは優位に進めていた戦域が多数あったにも関わらず、最終的には物量が不足すると共に将兵らに厭戦気分が蔓延した。
誰もが長く続く陰惨な戦いに心を痛めていたのだ。カイザー・ヴィルヘルム二世がドイツの実質的戦争指導者でもあったルーデンドルフを更迭したことも厭戦気分を増す結果となる。最後の決定的な出来事はロシアでもそうだったように海軍から発生した。
状況の打開を目指してドイツは艦隊の出撃を命じようとしたものの、水兵たちがこれを自殺行為と判断。命令を拒否し反乱を行う。この反乱事件は瞬く間に全海軍でも行われ、次に陸軍までも波及し、ヴィルヘルム二世の退位を求める革命となった。この騒動を受けて、アメリカ側から退位を求められてもいたヴィルヘルム二世は亡命し、ここに革命が成立した。それは長く続く戦いの終わりでもあった。その前には騒動の発端でもあったオーストリア=ハンガリー帝国も崩壊していた。
1918年11月11日に第一次世界大戦終戦。フランスにあるコンピエーニュの森で休戦協定が結ばれ、翌年講和会議が行われることとなる。
年が明けた1919年1月パリで講和会議が開かれ、戦後処理が行われる。講和条約の締結だけはパリではなくベルサイユで行われた。これはドイツ帝国が普仏戦争で勝った時に条約を結んだ場所であることへの意趣返しである。この意趣返しはさらに第二次大戦にも続き、ナチス・ドイツのフランス降伏文書は、コンピエーニュの森でわざわざ休戦協定を行った食堂車輌まで用意して行われることになる。
この講和会議の内容は大変感情的なもので、ほとんどが英仏によるドイツへの賠償を請求するものであった。
とはいえ英仏にとっても事情があった。英仏はアメリカの多大な貸付によって戦争を行っていたこともあり、アメリカの支払い要求もまた強かった。まさしく負担はより低いところへ流れていくようにドイツの賠償となって形になっていったともいえる。
ベルサイユで調印された条約を元に戦後の新体制がヨーロッパに建設された。これをベルサイユ体制と呼ぶ。
ロシアとの戦争で疲弊したところに連合国側の分断工作が入り、帝国内の諸民族が次々に独立。なし崩し的に帝国は分解。中世ヨーロッパを支配し続けた名門ハプスブルグ家は没落し、祖国を追放された。現在ハプスブルグ家はオーストリア共和国への忠誠を誓うことで帰国を許され、欧州議員をやったりしている。
戦争の発端となったセルビアは小国であるがゆえに負け続けた。勝つ要素が無かったために滅亡するものと思われていたが、オーストリア=ハンガリー帝国が解体されたために運良く戦勝国側に回ることができた。近隣諸国とともにユーゴスラビア王国を結成する。
敗戦によって、帝政が崩壊。軍備解体と、巨額の賠償金を課せられた。国名をワイマール共和国と改称し民主的な国家となったが、敗戦後ことあるごとに英仏にいびられ、徐々に恨みが溜まっていき、ついにはナチスが台頭する。
ロシア革命によって終戦前に国が崩壊。ソ連となる。大戦後はロシア内戦が勃発し、自国民同士で殺しあう凄惨な戦いが展開された(皇帝以下皇族、貴族、資本家、宗教者たちは亡命できたものを除いてほとんど滅ぼされ、多くの国民が亡命を余儀なくされる)。内戦に勝利したレーニンは資本主義的政策ネップを取り入れるなど一応柔軟に対応し、ソ連は急速に国力を上げていくことになる。この時代スターリンはレーニンの陰で裏の仕事をこなしていたため、表舞台に居なかった。
日米は戦地へ物資を売りつける立場だったために戦争特需で大いに潤った。特にアメリカは戦前巨額の対外債務に悩まされていたが、戦後は逆に世界最大の債権国となり超大国への地歩を築き上げた。日本はそれほどでも無かったにしろ、ドイツ領だった南西諸島などを手に入れた。ただしロシア革命のドタバタ騒ぎの中でのシベリア出兵はあまり芳しい結果とはならず、結果的にこの地域の取扱いを巡ってアメリカと対立していくことなる。
オスマン帝国は戦前より衰退の一歩をたどっており、第一次世界大戦に負けたことで滅亡は決定的となった。1922年にトルコ革命が起き滅亡。
イタリアはヘタリアと呼ばれるほど戦争に向かない国だが、今回は戦勝国側に回り「未回収のイタリア」を獲得することに成功。もちろん第二次世界大戦に負けたあとは奪い返された。
ブルガリア王国は敗戦で領土を失い国が混乱。第二次世界大戦中もドイツについたり英仏についたりと混乱しっぱなしで、結局第二次世界大戦が終わって共産主義になるまで混乱し続けた。
貴族が領土目当てに起こした最後の戦争であると同時に、ヨーロッパの古い体制を根底から覆す戦争にもなった。貴族たちは死者などせいぜい万に届くかどうか程度に考えていたが、結局900万人というあまりにも膨大な死者を出し、後のヨーロッパに暗い影を落とした。
特に英仏では、若年層…18歳から25歳の世代男子に著しい減少が発生した。およそ30%程度の男子がいなくなったという話もあり、各地で結婚適齢期の女性が余っていたため、年頃の男性は色々な意味で(あれな意味でも)大変だったという話も残っている。特にフランスでは若年世代の減少が出生率に多大な影響を及ぼし、この回復に百年近い歳月を必要とする。
また、この結果は英仏において戦争を忌避する傾向ともなって現れた。主にイギリスで極力戦争を回避するために最後まで外交交渉に固執した(宥和主義)。欧州大陸とドーバー海峡という天然の要害で隔てられているイギリスとはまた違ってドイツと国境を接するフランスではマジノ線という強固な要塞線を作り、守勢を保つことを第一として考えた。
感情的にも人員動員としても二度と同じ様な戦いは行えないという意識がそこにあったのだ。
ドイツも状況は似たようなものであったが、自国に攻め込まれたわけでもない状況での敗北は、奇妙に現実感覚を失わせてもいた。最後に残ったのは莫大な賠償金であり、ドイツ国民の多くにこのベルサイユ体制をいかに覆すかという意識が芽生えたとしても無理はないだろう。ワイマール共和国もこの賠償金返済に苦しみ、国内には様々な混乱が発生し、NSDAP(ナチス党)の躍進を促すことになる。
アメリカは超大国へと踏み出すことになるが、理想主義と孤立主義がベルサイユ条約前後に働いた。国際連盟がウィルソン大統領の発案で設立されたものの、アメリカ世論は孤立主義を主張し、発案国が参加しないという奇妙な状況になってしまう。
日本も望むと望まないとに係らず国際社会の重要なキーパーソンとなっていたが、この国の不幸な点は欧州大陸で行われたことが一体いかなることなのか、ということを真に理解しなかったという点にあるかもしれない。戦場でも、政治でも。そのことのツケは第二次世界大戦にいたって初めてわかることになった。
ロシアでは共産主義政権が成立することになり、20世紀末まで続く対立の火種ともなっていった。
その後ベルサイユ条約から10年後には世界恐慌が発生、また敗戦国の恨みを徒に増加させるなど戦後処理にも失敗した。これは第二次世界大戦に続く道となっていく。第二次世界大戦後GHQによる日本の処遇が割りと甘かったのは、ベルサイユ条約での戦後処理失敗が教訓にされているためである。
科学技術の発達によって人を殺す方法が効率化され、後の大量破壊兵器の開発に繋がった。
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最終更新:2025/12/15(月) 08:00
最終更新:2025/12/15(月) 08:00
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