蕭何とは、戦国時代末期~前漢の人物。漢王朝を興した高祖・劉邦と同じく沛の出身で後に前漢の宰相となった。
劉邦の功臣の中でも最も著名な三傑(残り二人は張良・韓信)に挙げられる。
劉邦の文官の筆頭として、秦との戦いにおいては事務を処理し、楚漢戦争では後方からの援軍による支援と補給を支え、漢王朝の建国後は宰相として、劉邦・呂雉に仕え、その政務をつかさどった。
同じ三傑の韓信を推薦し、楚漢戦争を劉邦の勝利に導いたことでも知られる。
劉邦と同じ、沛県の豊邑の出身。法律に詳しく、事務処理に長け、公正であったため、沛県の主吏(司法をつかさどる役人)の部下となった。
当時は、秦の始皇帝により、中国は統一され、中国では各地にいた王は廃され、全土が秦の郡や県として皇帝が直接、統治することになっていた。秦では、中央から郡や県を統治する長官にあたる官吏を派遣し、それを補佐する役人を地元から採用した。
劉邦や蕭何が住んでいた沛県はかつては秦に滅ぼされた楚の土地であり、蕭何は、秦から派遣された沛県の県令(沛県の官吏の長官)の部下の役人の一人となった。
蕭何は沛の遊侠の一人に過ぎなかった劉邦を役人でありながらかばい、劉邦が亭長(田舎の交番もしくは出張所の長ぐらいの役人)となると劉邦を助けてやった。役人がヤクザと癒着していたと見るべきか、劉邦のすぐれた人物を見抜いて沛の統治に活用していたと見るべきかはなんともいえない。
劉邦が任務として咸陽へ労役者を送る役目を担った時には、他の役人たちは300銭送ったのに対し、蕭何は500銭を渡したという。
ある時、蕭何は、秦から派遣されていた沛の県令と親密な関係となっていた呂公に対する沛の有力者が挨拶を行う会において、進物をつかさどる役割を与えられた。蕭何は、余りに来客が多いため、「進物が千銭以下の人は、堂の下に座ってもらいます」と宣言した。この時、劉邦があらわれて、銭を一銭ももたずに、「進上 一万銭」といつわって書いた名刺を出した。劉邦の名刺を見た呂公は、自ら劉邦を出迎え、劉邦の人相があまりの貴相であったため、奥に通して上座に座らせようとした。この時、蕭何は「劉季(劉邦のこと。季は字(あざな)とはいえ、呼び捨てである)はもともとほら吹きで、実行したことがほとんどありません」と、後々を考えると不敬極まりないことを言ったが、劉邦は上座に座った。呂公は、娘の呂雉を劉邦の妻とすることにし、劉邦と呂雉は婚姻を結んだ。
蕭何は、この夫妻が後に天下の主となり、自分がその筆頭の大臣として二人の補佐をすることになるという運命を知るはずもなかった。
その後、蕭何は沛県の上位にある泗水郡の事務官となる。成績は第一位であり、蕭何は秦の中央の役人に抜擢されるが、蕭何は固辞している。この後は、蕭何は沛にもどり、沛の主吏になった。沛には蕭何の他に、地元から採用された主要な役人に獄掾(ごくえん。獄吏の長のこと)であった曹参がいて、蕭何と仲が良かった。この二人の家は沛でも有力者であったと考えられる。
だが、劉邦が再び、咸陽へ労役者を送る役目を担った時に、労役者が逃亡してしまう。死刑になると考えた劉邦も逃亡した。秦の始皇帝の政治は過酷さを増していき、沛の中でも劉邦のもとにはせ参じるものが多かった。
始皇帝が逝去し、二世皇帝として、始皇帝の子である胡亥が即位すると、秦の暴政はさらに激しくなり、陳勝と呉広という人物が反乱を起こした(陳勝・呉広の乱)。反乱は大きく広がり、陳勝は張楚という国の王を名乗る。各地の郡や県では、秦から送られてきた長官を殺し、反乱に応じる動きが広がっていた。沛の県令も殺されることを恐れるようになった。
蕭何は曹参とともに県令に呼ばれ、県令から陳勝の乱に応じることを相談された。蕭何は「秦の役人であったあなたが反乱を起こしても、沛の子弟は命令をきかないでしょう。それよりは、劉邦を呼び戻して、沛の民をおどかして命令をきかせた方がいいでしょう(『史記』によると、本当にこのように話している。「劉邦なら人望が厚いから民も従うでしょう」ではない)」と県令に進言した。
県令は同意して、劉邦を呼ばせることにしたが、呼ばせた後で心変わりを起こし、城を閉じて、蕭何と曹参を殺そうとする。蕭何は、曹参とともに命からがら城壁を越えて脱出して劉邦のもとに逃げこんだ。
劉邦は城内の沛の民に向けて手紙を射込むと(部下の夏侯嬰を使者にしたという記述もある)、沛の民は県令を殺し、劉邦を迎え入れた。沛の有力者が劉邦を県令にしようとすると、劉邦は辞退する。
蕭何と曹参は、文官であり、反乱が成功しなかった時には、家族が皆殺しになることを恐れて、(『史記』にはこのように記述されている。「劉邦こそが主にふさわしいと思った」とか、「劉邦をかねてから慕っていた」というわけではない)、劉邦を推薦する。劉邦は秦に対して反乱を起こすことを決め、沛公を名乗った。
それからの蕭何は劉邦の部下として、劉邦を補佐して、様々な事務や内務を監督し、処理した。
劉邦が秦の都である咸陽に入った時には、諸将が財宝を山分けしているときに、蕭何は秦の宮中に入って、秦の法律書や戸籍、地理書などを保存した。劉邦は蕭何を宰相に任じた。
後に項羽が咸陽において略奪し、宮殿や市街地を焼き払った時に、多くの書物が失われた。しかし、蕭何が秦の法律書や戸籍、地理書などを確保していたおかげで、劉邦は天下のことを知ることができた。
劉邦が項羽によって漢王に封じられ、僻地である漢中に左遷させられた時に、劉邦とその武将である周勃・樊噲・灌嬰が怒って、項羽と一戦交えようとした。蕭何は劉邦たちを諫めて、「このまま項羽と戦えば必ず死にます。漢中に行くことは死ぬよりはましです。漢中の王になって、人材を集め、帰ってから三秦(元の秦国の土地)を奪えば、天下を図ることができます」と進言する。劉邦は同意した。(『漢書』ではこの時、丞相に任じられている)
蕭何は漢中において、新たに劉邦の軍に入ってきた韓信と知り合った。蕭何は韓信と話し合い、その才能を見出す。蕭何は韓信を劉邦に何度も推薦するが、劉邦は韓信を抜擢しなかった。ある日、劉邦から抜擢を受けることはないと思った韓信は劉邦の軍から逃亡する。蕭何は韓信が逃亡したと知り、劉邦も報告もせずに韓信を追う。劉邦は蕭何が逃亡したと思い、大いに怒るとともに、頼りを失ってしまったようになる。
数日経って、蕭何が帰ってくると、劉邦は怒りかつ喜んで、逃亡した理由を聞いた。蕭何は韓信を追ってひきとめて帰ってきたことを説明し、韓信は「国士無双」の人物であり、漢中の地で王になるのならともかく、項羽と天下を争うのなら、韓信を用いるように進言する。蕭何は、劉邦が韓信を将軍にしようとしても諌め、どうしても全軍の大将にするように進言した。さらに、韓信を呼びつけて大将に任じようとする劉邦を諫め、礼をつくして檀上で任命するように諌めた。劉邦はその通りにし、韓信を大将に任じた。漢の全軍はこの人事におどろいた。
韓信は、中国史に名だたる名将の一人に数えられるほどの軍事能力の持ち主であり、蕭何と同じ「漢の三傑」に数え上げられ、楚漢戦争を劉邦の勝利へと導くこととなる。
しかし、この頃から、漢の将軍に任じられた曹参とは不仲になってしまったようである。
劉邦が項羽と戦うために決起して、関中を攻めている時には、(『史記』によるとこの時に)丞相に任じられ、後方である漢中に留まり、現在の四川省にあたる巴と蜀の地をうまく統治して、兵糧を提供させる。
劉邦が楚漢戦争を戦った時には、蕭何は後方にあたる関中にとどまり、都にあたる櫟陽(れきよう、この時の漢の首都)において、法律や規則をつくり、漢の宗廟や社稷、宮殿、県や邑(ゆう、県の下にある村のこと)を新たに建てて、統治をおこなった。
蕭何はできるだけ劉邦の許可をもらうようにして、小さいことは自分で処理して、劉邦が関中に帰ってから報告した。また、兵を出すための基礎となる戸数をはかり、劉邦の軍へ補給を行った。劉邦が敗北すると、そのたびに老人や少年までを動員して関中の兵を徴発して劉邦に援軍を送った。
そのため、蕭何は劉邦によって関中を全て任された。
蕭何は楚漢戦争中に、劉邦の指示を待たずに数万の援軍を送り、敗走した劉邦の危急を救ったことが何度もあった。劉邦側の兵糧を補給したため、劉邦側は兵糧に困ることはなかった。また、劉邦の留守を預かり、関中では大飢饉が起きていたが、蜀や漢中から穀物を輸送させ、民に食べさせたため、史書に特記されるような大きな問題が起きることはなかった。
そこで、劉邦は何度も使いを送って蕭何の苦労をねぎらった。蕭何はこれを疑問に思い、部下の「これは漢王(劉邦)があなたを疑っているからです。親族の若いものを軍に送れば、漢王もあなたをますます信任するでしょう」という言葉に同意する。果たして、その通りに実行すると、劉邦は大変喜んだ。
やがて、劉邦は項羽に勝利し、天下を平定して、皇帝に即位し、漢王朝を創設する。劉邦は、蕭何を「国を治め、民を安心させ、兵糧を兵に与えることを絶やさない補給においては、わしは蕭何に及ばない」と張良・韓信とともに褒めたたえる。(このことによって、蕭何・張良・韓信は漢の三傑と呼ばれる)
蕭何は、秦の制度を基本にして、時機に適した法律を採用し、「律九章」という漢王朝の法律を定める。
劉邦は、長安を漢の都とすると、功臣たちに恩賞を与えようとした。劉邦は蕭何の功績こそが功臣の中で最大であると考え、そこで蕭何を酇侯(さんこう)に封じ、8,000戸を与えた。(ただし、これは曹参の10,600戸、同じ三傑の張良の10,000戸、周勃の8,100戸より少ない)
劉邦の元で働いた諸将は「我らは多くの戦争を戦ってきました。しかし、蕭何は筆をもって議論しただけです。功績が我らの上位にあるのは納得できません」と不満を述べた。しかし、劉邦は、「諸君らの功績は狩猟の犬と同じである。蕭何の功績はその猟犬の主のようなもの。また、蕭何は一族をあげて従ってくれた。蕭何の功績は忘れてはならないものだ」と答えて、諸将の反論を封じた。
また、劉邦の諸将は「それなら、体に70もの傷を負いながら、多くの戦争で功績をあげ続けた曹参が功績こそ最大です。功績の位階は曹参を第一にしてください」と言うと、劉邦は、一度はその通りにしようとしたが、部下の進言により、蕭何を功績第一位とした。
蕭何はくつを履き、剣を帯びて宮廷に上がり、皇帝に特別の礼遇をとらなくてもよい待遇を与えられる。劉邦はかつて蕭何に200銭多く餞別をもらったことへの恩を感じていた。蕭何の親族も次々と封じられた。
劉邦が韓王信(上述した韓信と別人なので注意)を討伐している時に、長安の留守を任される。この時、蕭何は、未央宮という壮大な宮殿を建てた。討伐から帰ってきた劉邦は、戦争中にこんな壮大な宮殿をつくるとは何事か、と怒りだす。蕭何は、「天下が定まっていないからこそ、宮殿がつくる必要があります。天子(天下を治める天命をさずかった人間、ここでは、劉邦のこと)は四海(天下のこと)を家となす、といいます。壮麗でなければ、天子の威光は鳴り響きません。さらに、子孫にこれ以上壮麗にしないようにしておくのです」と話すと、劉邦は喜んだ。
さらに、今後は陳豨(ちんき)が反乱を起こし、劉邦が反乱討伐をおもむき、また、蕭何は長安の留守を預かった。この時、蕭何は、かつて大将に推薦した韓信が謀反を起こそうとしているということについて、劉邦の皇后である呂雉から相談をうける。蕭何は韓信をだまして、宮廷におびきよせて逮捕し、呂雉とともに韓信を謀反の罪で処刑した。
こうして、蕭何と同じ「三傑」と後世に呼ばれる韓信は死ぬこととなった。蕭何はこのことで後世から批判を受けることもあるが、蕭何がいかなる心理で韓信をおびきよせたかは、史書には書かれていない。
蕭何はこのことを劉邦に報告すると、劉邦は蕭何を相国に任命し、5,000戸を増やされた。
しかし、召平という人物から、「あなたは実戦に従ったわけではないのに、領地を加増されたのは、韓信が謀反を起こしたので、あなたの忠誠を疑っているからです。加増を辞退され、私財を投じて軍費を出せば、陛下(劉邦)はお喜びになるでしょう」という進言を受ける。そこで、その言葉通りにしたところ、劉邦は大変、喜んだ。
九江王に封じた黥布が漢に対して反乱を起こしたので、劉邦が討伐におもむいた。蕭何は民衆を安心させ、従わせるように努め、国力をあげて劉邦の軍を助けるようにした。
しかし、劉邦は討伐中に何度に使者を出して、蕭何の様子を探らせてきた。蕭何は食客の一人から、「あなたは関中で人心をつかむこと、十数年です。みな、あなたを慕っています。陛下(劉邦)が様子を探るのは、あなたが関中でなにか事を起こすことを心配しているからです。多くの土地を安く買いたたき、代金を支払わないことにより、あなたの名声を汚せば、陛下は安心するでしょう」という進言を受け、その通りに実行した。劉邦は、とても喜んだ。
劉邦が関中に帰還すると、民衆から上書が差し出された。その上書には「蕭何が無理矢理、民の膨大な広さの田や宅地を安く買っております」と書かれていた。劉邦は蕭何に会うと、史書を読む限り心からうれしそうに笑って「民のものを奪って自分のものにしたのだな」と言って、上書を見せて、「みずから民に謝罪しろ」と蕭何を責めた。蕭何が「長安は土地が狭いのです。陛下がお持ちの(漢王朝の)苑(その。狩猟を行う土地)には空き地がたくさんあります。民衆が中に入って耕作することをお許しください」と話すと、劉邦は「相国(蕭何)は商人から財物を受け取ったのに、民衆に我が土地を使わせ、これ以上の人気を得ようとするのか」と怒り出し、蕭何を牢獄につないだ。
しかし、劉邦は部下から「蕭何が楚漢戦争中や陳豨・黥布討伐中に関中で反乱を起こせば、函谷関(関中の東を守る関所)より西は蕭何が奪ってしまったでしょう。いまさら、商人から財物を受け取りはしません。蕭何は疑ってはいけません」と諌められる。
劉邦は不満に感じながらも、蕭何を赦免する。老年となっていた蕭何は劉邦に陳謝した。劉邦は、「わしは殷の紂王のような暗君に過ぎないのに、相国(蕭何)はすぐれた宰相である。わしは民にわしの過ちを伝えようとして、相国を捕らえただけだよ」と蕭何に語った。
劉邦が死去し、皇帝として、劉邦と呂雉の間の子である劉盈(りゅうえい。後世、恵帝と呼ばれる)が即位する。蕭何は相国として、呂雉と恵帝を補佐した。
蕭何は病気にかかり、恵帝はみずから蕭何の邸宅を訪問して蕭何を見舞った。恵帝が、「あなたに万が一のことがあった場合、誰をあなたの後任にすればいいのかな」とたずねると、「臣下を知るものは、主(恵帝)に及ぶものはおりませぬ」と答える。恵帝は、「曹参はどうだろう」と重ねてたずねた。蕭何は、韓信を大将に推薦した頃から曹参と不仲になっていたが、「陛下(恵帝)は立派な人物を私の後任に選ばれました。死んでも思い残すことはありません」と答える。
蕭何が死去すると、恵帝から「文終侯」と贈り名された。曹参は蕭何が死去したことを知ると、「私はすぐに都に呼ばれて、宰相となるだろう」と側近に語った。はたして、すぐに使者が来て曹参を都へ召した。
他の功臣で蕭何ほどの扱いを受けた人物はいなかったと伝えられる。
蕭何は、己の宅地や田地を決める時に、不便なところや良くないところにしていた。家をつくっても屋根や塀を立派なものして飾らなかった。蕭何は「私の子孫がすぐれた人物は、必ず、私の倹約した態度を模範とするだろう。また、子孫がかしこい人物ではなかったとしても、権勢のある家に奪われることはないだろう」と語っていたと伝えらえる。
『史記』において司馬遷は、「秦の時代の蕭何は、ただの文書を扱う役人であり、特別、すぐれた行いをしたわけではなかった。しかし、漢王朝が興るにあたって、漢王朝の財政を管理し、苦難している民に対し、法をほうじて、時世に応じた政策を行い、民とともに改革を行ったのだ。韓信や黥布は誅殺されたのに、蕭何の功績は輝き続け、その地位は高祖の群臣の中でも筆頭であった。その名声は後世にまで伝わっている」と絶賛している。なお、秦の時の蕭何を「凡庸な役人」とは言ってはいる。
後世の創作において、蕭何は、同じ三傑の張良や韓信が美形や美男、あるいは才気煥発に描かれることが多いのに対し、比較的、地味な容貌で、真面目で誠実、常識人に描かれることが多い。
創作においては、蕭何は劉邦と同じ沛県の豊邑出身として、劉邦の特別な才能を見抜き、劉邦を慕っていたとすることが多い。
しかし、史実では蕭何は沛県の「豪吏」(地元の有力な家柄出身の役人。中央から来た官吏は地元の有力な家をバックにしている人物の方が頼れる存在であるため、重用される。ただし、役人としては能力も重視され、家柄だけで選ばれるわけではない)であり、家もただの富農である劉邦よりは大きく、亭長である劉邦にとっては上司にあたる。「劉邦を助けた」という史書の記述は、「劉邦を補佐した」ではなく、「上司として劉邦を手助けしてあげた」と解するべきである。
蕭何としても、本文の通り、「劉季(劉邦)はもともとほら吹きで、実行したことがほとんどありません」と言ったり、反乱の責任者の地位を劉邦に押し付けたりしている。
ただし、反乱を起こして、劉邦を主と決めてからは一貫して、劉邦陣営のために(必ずしも劉邦のためとは言い切れない部分もあるが)貢献している。
創作の中で、誠実で真面目に描かれることが多い蕭何であるが、史書では、劉邦の自分に対する猜疑心を感じ取り、何度も保身を図っている。
一度目は、劉邦が何度も使いを送って蕭何の苦労をねぎらった時であり、「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。二度目は、韓信を捕らえて処刑した後であり、今度も「劉邦が自分を疑っている」ことに同意している。蕭何の保身を図った上での貢献に対して、劉邦は大変、喜んだとあり、蕭何の判断・行動は間違いではなかったと史書では裏付けられている。(なお、二度目においては、蕭何は勝手に未央宮を建てたり、呂雉の相談を受けて、韓信を劉邦に判断を仰がずに勝手に処刑しており、劉邦から疑われる理由は存在する)
また、三度目は、劉邦の黥布討伐中のことであり、劉邦が蕭何の様子を探らせた時に、名声を汚すために、「多くの土地を安く買いたたき、代金を支払わず、名声を汚す」という国家にとって利益にならない行動によって保身を行っている。劉邦は大変喜ぶとともに、帰還してから蕭何をその罪で獄につないでいる。
劉邦と蕭何はお互いを信頼し、高く評価してはいたが、全幅的な信頼関係にあったわけではなく、実は緊張状態にあったことが分かる。
蕭何の日本語での専著はないが、陳舜臣の『小説十八史略』か『中国の歴史』か、楚漢関係の小説を読んだこともある(あるいはそれと同等程度の知識のある)人で、蕭何が建国に大きく貢献した漢王朝初期の制度や政策を知りたい場合、ネットの記事より正確なので、こちらの方をおすすめである。
少し難しいが、漢王朝建国時の制度について、中国史好きが話す基本となる学説の説明を要領よく説明している。
第二章の「四 漢帝国の成立」では、皇帝と諸侯王・漢の郡国制と秦の郡県制の違い、「五 漢初の国家機構」では、中央政府の官職の説明と制度・郡県の行政機構について、理解することができる。
これを知れば、統一後の漢王朝の話や三国志を読む理解にも役立てられ、より深い理解が得られることは間違いない。
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最終更新:2025/12/07(日) 05:00
最終更新:2025/12/07(日) 05:00
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