足利尊氏は、鎌倉時代~南北朝時代の日本の歴史上の人物。
室町幕府の創始者で、初代征夷大将軍。生没年1305~1358年。
足利氏は、源氏の流れを汲む家系で、八幡太郎義家の息子義国が、足利の地に封を得たことに由来する。
鎌倉幕府でも足利氏は威望が高く、頼朝の系統が衰微してからは、源氏での家格は第一のものがあった。
それゆえ、執権北条氏に対しては、面白からぬ感情があり、尊氏も幕府の事情に振りまわされ、不満を抱いていたという。一国の太守ながら、少年~青年時代の主だった記録はなく、歴史上に登場し始めるのは、30才前であり、尊氏の前半生は不詳な点が多い。
※最初の名は尊氏ではなく、高氏。この記事では尊氏で統一します。
当時の鎌倉幕府は、元寇の傷跡深く、威令ふるわず、弱体の様相を見せ始めていた。
この機に乗じようと、後醍醐天皇を首魁とする、朝廷勢力は幕府打倒の陰謀を巡らしている。
尊氏も幕府打倒の綸旨を受けて、討幕の志を抱き、最初は幕府に与力すると見せかけてから、出師を反して六波羅(幕府の一大拠点)を攻め落とした。
尊氏の妻子は、幕府の本拠鎌倉にあったが、事前に脱出しており、さらに4才の嫡子義詮にも、各地の武士が集い、一軍を為した。時を同じく同族の新田義貞も挙兵しており、義詮の軍と連合して、鎌倉を攻め立てる。鎌倉は落ち、当主北条高時は自刃し、鎌倉幕府は滅亡した。
幕府を倒し、朝廷による「建武の中興」が行われたものの、論功行賞で致命的なミスが発生する。
実際に働いた武士が冷遇され、朝廷の縁故のものが厚く遇された。
そんな中、尊氏は功績第一として顕彰されている。この時期に改名し、高氏から尊氏としている。
新政府に失望した武士達は、次第に幕府を懐かしみ、自分達の権益を確保してくれる棟梁を渇望し始めた。
筆頭武士である、尊氏の危険性を看取した朝廷は、尊氏の官位を過度に進め、官打の呪詛を試みるも、かえって尊氏の箔付けに止まった。実際として皇子の一人に尊氏討伐を命じていたが、尊氏の知るところとなり、皇子は蜥蜴の尻尾切りにされている。
幕府は滅びたものの、北条氏の勢力は残存しており、北条高時の遺児時行は再興の兵を上げ、各地の勢力を統合して鎌倉を奪還する。これに対し、尊氏は朝廷の命令を無視して、自ら兵を率いて北条軍を打ち破り、鎌倉に鎮座する。そこで独断の執務を行い、専横する気配を見せ始める。尊氏を粛清する為に、朝廷が用意したのが新田義貞であった。
新田氏は足利氏の祖である義国から分家した家系である。 義国の長男の義重は、なぜか家督を継ぐことが出来ず、新田氏の祖となった。義重の裔が義貞である。
尊氏的には、義貞こそが君側の奸であり、義貞討つべしと気炎をあげたものの、後醍醐天皇が激怒し、義貞達に大義を与え兵が起きると、尊氏は臆して出家をしようとするまで消沈する。
それを弟直義が一計を案じ「出家しても皆殺し」という偽の綸旨を見せると、仕方なく賊軍を率いて、官軍をなんとか退ける。反撃を行い、西へ軍を進め、京都へ上洛するが、北から北畠顕家がやってきて、新田義貞も官軍を再編成して連合した。京都をかけて会戦が行われるも、賊軍は大敗北し、尊氏は九州まで落ちる事となった。
このままでは大義名分が欠けている為、ひそかに京都に使者をたて、後醍醐帝に対する系統の、光厳上皇から院宣を受けて官軍(新)となる。
九州での尊氏は苦戦で、切腹も考えたほど追い込まれたものの、なんとか勢力を回復させ、西日本に割拠する。西方を足がかりに東に軍を進め、関西摂津で、新田義貞と楠木正成との連合軍を打ち破り、正成を敗死させる。雄敵の北畠顕家は、北方の反乱を鎮める為に不在と、時期を得る事もできた。
尊氏は京都に入り、光厳上皇の弟君を擁立する。これが光明天皇であり、北朝の君主となった。帝より征夷大将軍の任ぜられて、幕府を再興する。
一方、京都を追われた後醍醐天皇は退位せず、南朝として二朝が天下に存在する事となった。西と中央を押さた後の戦局は、北朝の優位となり、北畠顕家、新田義貞といった南朝の主だった領袖も討たれ、北朝の威勢は高まった。反面、次第に内部での権力抗争が顕在化し始める。
尊氏は軍事の権を握り、その下には政治の足利直義と、軍事補佐の高師直の二元老が存在した。
直義、師直の両者が対立することにより「観応の擾乱」と呼ばれる内紛が勃発。まず直義により師直が粛清され、続いて直義も尊氏により排除される。失脚した義直はすぐ病死したが、尊氏による毒殺説が濃厚である。
この時の尊氏の動向は複雑怪奇であり、両者の間で良い顔しながら、師直が殺されると直義に、なにやってんの?と激怒し、揉めた挙句、直義に負けそうになると、一時南朝に降るという事までしてのけている。
さらに庶子の直冬が、義直の養子となっていたが為に、直冬から父の敵として憎まれる。
直冬は旧直義派の旗頭となり、南朝に与し、尊氏と直接武力を交えるまで険悪となった。 結局、尊氏は直冬との戦闘でうけた矢傷がもとで亡くなる。
征夷大将軍は義詮が継ぎ、南北朝の統一は、孫の義満の代のこととなった。
幕府の創始者としては、時代によって賛否が別れている。戦前は暴落、戦後は暴騰、現在は安定。
最高位の武門の御曹司という、恵まれた生まれであった為か、逆境にあっては出家、自害をほのめかしたりと、時々心が折れる事があった。九州から再起して、上洛を果たした時には、逆境でもないのに遁世を考えていたりと、躁鬱の気質があったという説もある。
一生涯では、天下を偃武する事ができず、幕府を開いてからも、各地のまつろわぬ者達の討伐に明け暮れて、最高権力者としては暫定的な位置に止まった。
幕府創始者としては珍しく、西日本でも転戦を行っているが、戦争はあまり強くはなく、戦争の天才の弟もいなかった。政治の天才の弟ならいたのだが。その直義との兄弟仲は非常に良かったが、貴顕が進み、それぞれが大実力者となると派閥の争いもからんで険悪なものとなっていく。
自身は象徴的な位置にいる事を好み、実際の政務は直義に任せている事が多く、両将軍とも称された。直義死後は息子の義詮に委ねている。
鷹揚で気前が良く、恩賞を惜しみなく分け与え、武士たちの信望を結集させる事が出来た。ただしそれが後々に祟って、制御できぬ諸侯を多く生み出す事にもなった。だが結果として、南北朝クオリティともいえる俗物の世では、まれな資質であり、彼をして大将軍たらしめた要素ともなっている。
じつのところ、叛逆したものの、後醍醐天皇に対しては、忠誠心を抱いていた節があり、少なくとも帝を裏切った事には良心の咎めを覚えていた。 追放されていた帝が崩御した時には非常に悲嘆し、仏事を七日七晩行い、天竜寺を建立した。(怨霊対策という説もある) 反面、自分が擁立していた北朝の帝にはあまり敬意を抱いていなかったという。南朝に降る時には、信用される為に、北朝の帝の処遇はお任せするという項目を設けている。
正室は赤橋登子。赤橋氏は北条宗家に近い家系で、登子の兄、北条守時は鎌倉幕府の最後の執権。
嫡子義詮(2代将軍)は登子の所生。庶長子に直冬がいたが、弟直義の養子となっている。
足利宗家は断絶されているが、分家筋としては、喜連川氏が江戸時代では大名となっている、現代では足利姓に復して存続している。「足利」の記事が詳しい。
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最終更新:2025/12/11(木) 16:00
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