酒井忠次 単語


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「酒井忠次」(さかい・ただつぐ 1527~1596)とは、戦国時代の武将である。酒井小平次、小五郎、左衛門尉。
徳川家に仕えて軍事・外交で活躍し、家康の事業を支えた。その功績を讃えられて後世、徳川四天王、徳川十六神将の筆頭格となった。

概要

三河の国人、酒井忠親の次男。正室は碓井姫(徳川家康の叔母、光樹院)。
松平広忠、徳川家康に仕えた。
家康が経験した主要な合戦のほぼ全てに参加し、優れた部隊指揮で勝利を重ねた。
 諸大名との交渉も担当し、徳川家の勢力維持に努めた。
調略や行政でも功績を遺している。
その働きぶりは主君の家康だけでなく、織田信長や豊臣秀吉からも賞賛された。

晩年は引退し、京都で生活した。墓は京都の知恩院にある。
忠次には複数の側室もいて、子孫は繁栄した。

エピソード(の一部)


酒井忠次は徳川家臣団の重鎮でしかも活動期間が長く、子孫は江戸時代全期を通じて繁栄したため、多くの資料が忠次に関する記述を残した。
信憑性が疑わしい話もあるが、江戸時代以降に酒井忠次がどのような評価を受けていたか知ることができる。

・『海老すくい』の踊りが得意で、軍議や外交の席でも披露して出席者の緊張を和らげた。
 最高位の重臣でありながら気さくに振る舞う人物だったとされる。

・忠次の智謀と指揮能力は、主君の家康だけでなく織田信長や豊臣秀吉からも賞賛された。
 天下人になった信長や秀吉でも、忠次と会う時は気を遣った。
 逆に忠次は彼らの前に出ても平然としていた。

・武勇の人でもあり、甕通槍という槍を振るって活躍した。
 また忠次が着用したと伝わる鎧は現存しており、どれも派手な意匠である。

・忠次が遠江の宇津山城を攻略した時の逸話。
 城主の小原鎮実は城から逃げる際、忠次を殺害しようと倉庫に爆薬を仕掛けていた。
 罠は作動したが火薬の量が足りなかったので、爆音に忠次たちは驚いたが無傷で済んだ。
 

・三方ヶ原の戦いで徳川軍が大敗した時の話。
 城に戻った忠次は太鼓を打ち鳴らして城兵を鼓舞し、家康を出迎えて励ました。
 さらに城門を開け放ち、篝火を焚くよう城兵に指示した。
 接近した武田軍は、浜松城の無防備な様子を見て不気味に思い、戦わずに引き上げた。

・長篠城の傍も流れる豊川は三河国を潤す重要な河川だが、当時は洪水が頻発していた。
 1570年、忠次は用水路を作る工事を行った。
 長篠の戦いでは、酒井勢は豊川を渡り奇襲を成功させた。

・長篠の戦いの後の話。
 功労者の忠次を信長は絶賛し、「まるで背中に目がついているようだ」と言った。

・娘の於虎の話。三河の有力な国人である牧野康成は、於虎を嫁に貰いたいと忠次に申し入れた。
 忠次はすぐに断った。不思議に思った家康が理由を尋ねると、忠次は「牧野は勇猛で優れた武将です。いずれ謀反して三河を奪いかねません」と答えた。
 家康は「それほどの人物なら、忠次の与力にしよう」と言った。
 忠次の娘婿になった牧野康成は長篠の戦いなどで活躍したので、牧野家は繁栄した。

・遠江の諏訪原城を攻めた時の話。
 城を見下ろす火剣山に砦を築いた忠次は、狼煙を使って武田軍を混乱させた。

・徳川家が甲斐を制圧した時の話。
 家康は「武田家の家臣だった者たちを、忠次の寄騎にしよう」と考え、忠次に相談した。
 忠次は断り、家康が期待を寄せる井伊直政の寄騎にするのが良いと進言した。
 この話を聞いた榊原康政が、半数は自分の寄騎にして欲しいと訴えた。
 忠次は「元々寄騎の件は俺に付けるという話で、その俺が井伊を殿に推薦したのだから、口を挟むな」と言って康政を諭したので、康政は諦めた。

・徳川家が秀吉の命令で関東に転封されると、酒井家は3万7千石の大名になった。
 本多忠勝・榊原康政・井伊直政は10万石以上の大名になった。
 忠次はすでに隠居していたが、家康に酒井家の石高を増やすよう訴えた。
 この時、家康は「おまえも我が子は可愛いか」と皮肉を言った。
 かつて家康の息子信康が織田信長に疑われて切腹させられた際、信長に会いに行った忠次は、信康を助けようとしなかった。
 忠次は自分の過ちを恥じて、引き下がった。

長篠合戦の勝者

1575年、武田軍が長篠城を攻撃。徳川・織田の連合軍が救援のために現地へ向かった。
 長篠城の兵糧倉は武田軍に焼き払われて、籠城側の食糧事情は深刻だった。

連合軍の接近を知った武田軍は、長篠城の西に広がる設楽原に主力を移動させ、陣地を築いた。
現地に到着した連合軍はすぐに武田軍の陣地を攻撃せず、陣地を築いた。
それから3日間、長篠城の危機を知りながら連合軍は動かなかった。
武田軍の陣地に行く手を遮られて動けなかった、という可能性が考えられる。兵数は連合軍が遥かに勝っていたが、武田軍が守備に徹して待ち構える陣地への攻撃が成功する見込みは薄かったのかもしれない。

しかし睨み合いが続く間に長篠城が陥落してしまったら、徳川家にとっては最悪の結果になる。
徳川家は前年、高天神城の救援に失敗していた。
また同盟者の織田家は背後に大敵本願寺を抱えていた。
一方、武田家は長篠城を連合軍が見捨てたという事実を作れば、十分な成果になる。
(後に徳川家が高天神城を奪還する際、同じことをした)
戦いが長引けば有利なのは武田軍の方だった。
長篠城は南西と南東が川と崖に守られていて、その方角から味方が出入りできない欠点があった。

両軍の対峙から3日目、酒井忠次は軍議で別働隊による迂回奇襲を提案した。
この提案は信長に即却下されたが、軍議の後で忠次は信長に呼ばれて作戦を一任された。
一方、武田軍は後方にも砦や陣地を構えて長篠城を囲んでいた。
連合軍が迂回救援を行うことは、歴戦の武田軍の武将たちなら当然想定していたと思われる。
敵の想定を上回る奇襲を行う必要があった。

忠次は現地の土地勘がある北三河衆、東三河衆を別働隊の主力とし、さらに家康の旗本、織田家の金森長近勢を加えて4千の大軍を編成した。
夜になると酒井勢は設楽原の南を流れる豊川を渡った。
豊川の南には船着山があり、酒井勢は武田軍に発見されないようさらに南下して山の南側の麓を大きく回った。
長篠城を通り過ぎてから豊川を北に渡り、長篠城の東の山々の背後に回り込んだ酒井勢は、夜明けを待って武田軍の砦を奇襲した。
この襲撃は完璧で、警戒していたはずの現地の武田軍は混乱し壊滅した。
酒井勢は次々に砦を攻め落とし、西の宇連川を渡って長篠城の北の武田軍陣地も突破した。
それから長篠城に入城し、守備軍と一緒に再び出撃して城の周りの武田軍陣地を攻撃した。
敗走した武田軍は城の西を流れる豊川を渡って主力部隊との合流を図ったが、酒井勢は追撃して川を渡った。
そこにも武田軍の陣地があり、その陣地を突破すると武田軍主力の陣地の裏に出る。
酒井勢は目の前の陣地に攻撃を仕掛け、武田軍も応戦した。
一連の戦いは昼過ぎまで続き、その間に連合軍と武田軍の主力決戦が行われ、連合軍が勝利した。
酒井勢の奮闘は後に長篠合戦図屏風(の端)に描かれた。

長篠の戦いは武田軍が織田・徳川軍の陣地を攻撃して返り討ちにされた、とされる。
ただし信長公記では、酒井勢の動きを丘の上から見ていた信長と家康が全軍に武田軍主力の陣地を攻撃するよう指示し、それらの動きを見た武田軍は陣地から出て連合軍を迎撃した、となっている。
また長篠の戦いの前、織田軍主力は近畿で三好・本願寺軍と戦っていた。武田家は織田軍主力の動向を見計らって軍勢に召集を掛けたのかもしれない。
さらに武田軍の動員可能数は2万を超えることから、武田軍は(弱体化していた徳川軍だけならともかく)織田軍との主力決戦を望んでいなかった、という説がある。
その場合、酒井勢の活躍によって武田軍は主力決戦を強いられた。忠次は長篠城を救い、徳川家を救い、最後に信長の願いまで叶えた恐ろしい男ということになる。

徳川信康切腹事件

1579年、家康の息子信康が切腹。
その少し前に酒井忠次は安土城へ行き、信長に会っていた。
信長と会った際、信長から徳川信康の行状について問い詰められた忠次は、回答できなかった。
または、忠次は信康と仲が悪く、信康を陥れた。
結果、信長は徳川信康を自害させるよう家康に命令し、家康は徳川家を守るために泣く泣く息子を切腹させた。

この事件は近年では徳川家の内部分裂が原因という説が提唱されている。
詳細はWikipedia等で見ていただくとして、原因が信長の圧力や忠次の陰謀でない場合、忠次の行動は全く違うものだったと考えられる。
「信康を助けるために家康は忠次を派遣して弁明させようとしたが、忠次は信康を助けなかった」
ではなく、
「信康一派の処分を考えた家康は、信康の舅である信長が介入することを阻止するために忠次を派遣した。交渉は上手く行き、信長は介入しなかった」
となり、忠次は奸臣ではなく、天下人を相手に家康の要求を呑ませた有能な外交官になる。
なお事件の際に家康は、重臣の石川数正など信康の側近たちを安土へ派遣しなかった。


事件に忠次の責任はないとすると、酒井家の石高に関する逸話は当然創作ということになる。
酒井家の石高については以下の説もある。

・関東転封で領地が増えたといっても限りがある。その中で酒井家の3万7千石は大きい。
・歴戦の指揮官である他の四天王と、当時まだ二十代半ばの酒井家次との比較。
・秀吉が天下統一したとはいえ、徳川家の周囲には将来敵対するかもしれない大名がいる。
 本多、榊原、井伊は周辺大名への備えを担った。
・領地は報酬である前に、その管理経営は義務であり大変な仕事だった。
・関ヶ原の戦い、大阪の陣で徳川家が自由にできる領地が増えると、酒井家の領地も増えている。
 お家騒動が起きても幕府は穏便に処理しており、酒井家はむしろ優遇されている。
 

経歴・戦歴

酒井家と松平家は先祖が同じとされる。
酒井家は三河の有力な国人衆の一つ。多くの家に別れ、同族や他の国人衆と争っていた。
忠次が属する酒井家は「左衛門尉家」と呼ばれる。


1527年 三河井田城で誕生。
     幼い頃から松平広忠に仕え、主君の逃亡生活にも付き合った。

1537年、父の酒井忠親が死去。

1543年 織田家へ寝返るが、後に松平家へ戻る。

1548年 織田家へ寝返り、三河上野城を守る。

1549年 上野端城の戦いに織田方として参加。襲来した今川軍に敗北。
       安祥城の戦いで織田軍も敗北すると、忠次は今川家に降伏した。
   同年 駿河へ行き、人質に出されていた竹千代(徳川家康)に仕えた。

1556年 福谷城の戦いで柴田勝家を撃退。

1560年 桶狭間の戦いに参加。松平軍の先鋒部隊に加わり、織田家の丸根砦を攻め落とす。
     戦後、家康が岡崎城で自立することを、忠次は他の家臣たちと共に支持した。

桶狭間の戦いで碓井姫の夫は討死し、碓井姫は未亡人になっていた。 碓井姫は忠次と再婚した。

桶狭間の戦い以降、三河へ侵攻する織田家と戦う。
家康と織田家が同盟した後は、吉良家や今川方の国人衆と戦った。

1562年 忠次、徳川軍千人を率いて佐脇城と八幡砦を攻撃。
     一度敗北するが、家康と合流して両拠点を攻略した。

1563年 吉良家、三河一向一揆が徳川家と敵対。
    忠次は家康に味方し、敵対する酒井忠尚の上野城を牽制した。
    同年、今川軍と野戦したが敗北。

1565年 徳川軍を率いて吉田城を包囲。周囲の城を攻略して吉田城を孤立させた。
    半年後、吉田城が開城。
    この時、城から退去する今川軍の安全を保証するために、娘の「お風」を人質に出した。
    戦後、吉田城主に任命され、三河東部の国人衆が忠次の与力に加わった。

1568年 遠江久能城主の久能宗能を調略。
    徳川家に降伏した曳馬城の接収を担当。

   同年 軍団を率いて家康とは別行動し、浜名湖西岸へ侵攻。
    現地の国人衆を味方に付け、境目城を一日で攻め落とす。
    宇連山城を攻撃し、翌年攻め落とす。

1569年 家康と合流して掛川城を攻撃。
    掛川城は開城。忠次は今川氏真を護衛し、今川主従の安全を保証する人質も務めた。
    この件で北条氏政から感謝の手紙を貰った。

    
1570年 家康に従い近江に出陣、姉川の戦いに参加。
    味方の陣形が崩される中、酒井勢は朝倉軍の猛攻を凌いで勝利に貢献した。

1571年 武田軍が三河北部へ侵攻。忠次の与力たちが撃退した。

1572年 武田軍が三河へ侵攻、吉田城まで迫る。
    忠次たちは抗戦して武田軍を撃退した。

 同年 三方ヶ原の戦いに参加。
    忠次が率いる徳川軍右翼は激突した武田軍の部隊を敗走させた。
    戦闘そのものは徳川軍の惨敗に終わった。
   

1573年 遠江の向笠城を攻め落とす。
    転戦して長篠城攻めに参加。

1574年 武田軍が高天神城を包囲。
    忠次は吉田城で織田軍と合流し救援に向かうが、間に合わず高天神城は降伏した。

1575年 長篠の戦いに参加。別働隊を率いて武田軍を撃破し、長篠城を救援。
    さらに武田軍の陣地を攻撃して勝利に貢献した。

 同年 遠江の諏訪原城攻めに参加して攻め落とす。
    小山城攻めに参加。撤退する徳川軍の殿軍を務めて、城兵の追撃を防いだ。

1579年 高天神城攻めに参加。

1580年 小山城攻めに参加。

1582年 武田家討伐に参加。忠次は駿府に駐留した。

 同年 本能寺の変があった。
    忠次は家康に従い伊賀越えを決行して三河へ帰還。
    帰還後、忠次は軍勢を率いて尾張津島へ進軍し、情報収集を行った。

 同年 徳川軍を率いて信濃南部へ侵攻し、同地方を掌握。
    北上して北条家に味方する諏訪高島城を攻撃。
    北条家の大軍が南下するという報せを受けて城攻めを中止し、甲斐へ向かう。
    途中で捕捉され、交戦。
    北条軍4万に対して徳川軍3千だったが、忠次は殿軍を務めて奮闘し、撤退に成功。
    

1584年 徳川家は織田信雄から援軍要請を受けた。
    忠次は先行して伊勢長島城に入り、織田信雄と会って相談した。
    その後、小牧長久手の戦いに参加。
    前哨戦となった羽黒の戦いでは、徳川軍の先鋒部隊を率いて羽柴軍を撃破。
    最重要拠点の小牧山城を確保した。
    羽柴軍との和睦が成立した後も、酒井勢はしばらく尾張に留まり警戒を続けた。

1588年 隠居して出家した。

1596年 京都で死去。

内政・外交

 1549年 今川家に味方した国人が、織田家に味方したその兄の職権に関して、
     忠次に相談するよう今川家から指示を受けた。

1552年 岡崎城を統治する奉行衆として、大工たちの身分を保証する。

1557年 浄妙寺へ自治権を認める文書を送った。
  同年 今川義元から朱印状を受け取る。
            内容は徳川・酒井家とも縁が深い仏堂賢仰院に関する部外者の取り締まり。

1561年 相模の北条氏康から忠次宛てに、徳川家と今川家の和睦を勧める手紙が送られた。

1565年 遠江曳馬城の家老たちが忠次に徳川家へ味方する旨の起請文を送った。
    忠次たちは彼らを助けることを約束した。

1568年 武田家の山県昌景、穴山信君と交渉して徳川家・武田家の同盟を成立させた。

1569年 掛川城の開城の件で北条氏政から手紙を送られた。
    その後、徳川家と北条家の同盟が成立しており、徳川家は武田家と敵対。
 
 同年 上杉家の使者と会った。上杉家との同盟交渉か。

1570年 豊川の用水路工事を行った。

1579年 家康の使者として大久保忠世と共に安土城へ行き、信長に馬を献上した。
    この年、徳川信康が父家康の命令で切腹した。

1582年 甲斐善光寺別当の身分と領地を保証する文書を送った。

1583年 家康の娘である督姫の北条家への輿入れを実現させた。

1586年 伊豆で家康と北条氏直の会見を実現させた。

 同年 家康の使者として上洛、秀吉に会った。
    忠次は従四位下・左衛門督に叙位任官された。
    秀吉から屋敷を与えられ、以後は京都で生活した。

1589年 北条氏規から忠次へ手紙が送られた。
     秀吉が北条家に送る予定の文書の内容について、ご存じなら教えてほしいという依頼。

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関連項目

  • 戦国時代の人物の一覧
  • 徳川家康
  • 本多忠勝
  • 榊原康政
  • 井伊直政
  • 長篠の戦い
  • 酒井・忠次

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