亡霊派遣社員千尋の奇妙な異日常(イニチジョウ)とは、日本のライトノベル作家美濃健文が2013年6月に発表した幻想文学群。健文は本文を「官能小説の一種」と位置づけているが、その内容は官能小説にしては説明臭く、また通常の小説にしては中身が薄く、ライトノベルにしては語彙が重い。したがって、文学でもなんでもないのだが、せっかく書かれたので大百科で発表された。現在公開されているのは2話(~3話草稿部分)までであるが、続きは「書かれる可能性もあれば、書かれない可能性もある」らしい。
一、
大きな刃物を両手に持った老人が「鼻毛切りはどこだ」と叫びながら小さな子供を追いかけているが、自分の居場所はなく寂しく思う、そんな夢を見て目が覚める、彼女の朝は夕焼けを見ていたお友達から仲間はずれにされたピンクのワンピースを着ている小学生、何故か一人だけ不本意に初潮を迎えてしまった浅黒い肌のブサイクな女児の体育館で送る新たな生理のように孤独で暗く、何よりも重い。それは喧しく退屈だ。雑音が聞こえる。鬱陶しい。
千尋(ちひろ)は29歳、もうすぐ30歳を迎える。実家で母と年子の弟と共に暮らす。父は彼女が中学の頃に離婚しており現在は同居していない。平日は小さな会計事務所の派遣社員として働き、週末は近くの販売店で接客をこなす。大きな黒縁の眼鏡をかけ、痩せているが背は女性にしては高い。服装は年不相応に地味であり、慢性的な夜更かしと不摂生な生活により肌は荒れ、加齢臭すら漂う老け込んだその姿は40代にも見える。
彼女は職場で「幽霊」と呼ばれた。地味な職場での地味な仕事、多くの者とは挨拶しか交わさない。千尋は決して社交術を得ていない人間ではなかったが、職場においては彼女は亡霊に等しい外観を呈していた。それは彼女が積極的に望んでいるわけではなかったが、かといって果敢に拒絶して変革を求めるほど大きな問題でもなかった。彼女は自身が浮世の亡霊であることに疑問がなかった。
今日始めにまかされた仕事は白紙に小文字のA(a)が書かれた紙のコピーを2300枚取ることだった。コピーした1枚1枚を虫眼鏡と物差しで丁寧に確認し、少しでも向きが歪んでいたらその一枚と同時にコピーしたものを全て破棄して新たに取り直さなければならない。また、インクの色が変わってはいけないし、用紙の紙質も全て統一されていなければならず、場合によっては全てはじめからやり直さなければならない。何のための仕事なのかは、一切説明はなく、ただ正確に、またなるべく時間をかけずに完結させることを求められる(大半そのような業務)幽霊はそのような仕事を何の苦もなくこなす。元々小学校の頃より単純作業が得意であった。同級生達が根を上げる面倒な計算の課題を千尋だけは一つの溜息も洩らさず、静かに速やかに仕上げていた。
昼休みには一人で近所の喫茶店に出かけた。コーヒーとサンドイッチだけを頼み、席に着くと数分も経たずに昼食を終わらせ、残りの時間はただ夢想に耽るか、読書をするか、そのままうとうとと昼寝をした。午後はまた同じ作業。
淡々とした仕事を追え、いつものように帰路につく。自宅と職場は電車で1時間以上かかり、やや遠い。疲れはあまりない。しかし、電車では大概千尋は眠っていた。電車で眠るのが好きだった。
女性らしい飾りのない簡素な自室であるが、片付けられておらず、雑然としている。千尋は物を整理する、掃除するという観念が無かった。どこで拾ったかわからない広告の山をかきわけ、空いた隙間にコーヒーを入れたマグカップを置いた。
彼女の生活の本質は夜にあった。モニターの電源を入れる、男性的なデザインのPCが2台、うち1台は故障しており、使われないまま2年以上部屋の隅に置かれている。サイズの合わない大きなヘッドフォンをつける。『放送開始』彼女はこのボタンを押すことで知る人ぞ知る『真夜中のアイドル』に変貌する。
「あ、あ、あ、?きこえる?きこえますか?」
緩やかに音量を調節し、彼女は一言、二言、画面の奥にいる透明な友人達に話を始めた。彼女の夜の名前は、千尋を取って『ちぃねいろ(小音色)』と言う、彼女はいわゆる、インターネットで自己を曝け出し、不特定多数のものと交友する「配信者」だった。
彼女の人気は高かった。いわゆる「顔出し」ではない。素顔を明かさず、言葉だけで放送の時間は流れる。さながらラジオのようでもあるが、配信はそれほど形の整ったものではない。むしろ情報が不完全であればあるほど、配信者の生々しい人間性が浮き上がる、そのような意味で、彼女は無防備な、無垢の幼女を演じる技術と知力に長けていた。彼女の発する表情、声、言葉の僅かな機微は一度発せられれば、透明な友人達が貪るように受け入れた。暗闇の中、モニターの青い光にその青白い顔を照らされながら、静かに画面越しの遠い友人に話しかける『ちぃねいろ』の姿は、決して優雅には見えない。彼女にとっては、その日々の行為は、一人で池の辺に座り込み、群がる魚に小さな食パンの欠片を投げるような、ささやかなことであった。実際、そのようにして彼女はこの小さな仕事を始めた。池の中は、乱舞していた(不思議なほどに)
彼女の夜の、表の仕事が終わった。ここからが長い。彼女は自身の配信に関するありとあらゆる情報を熟知しなければ気がすまなかった。それはいわゆる彼女の生来の生真面目さであった。正義ではなく、欲望に基づく認知の作業が彼女の裏の仕事だった。ツイッター、ブログ、掲示板、エゴサーチをかけ、自らに関する言説を収拾、気になるものは画像も含めてコピーを取り、専用のフォルダに保存した。裏稼業の最後に行うのは、自らが管理する掲示板の書き込みの削除。彼女は比較的温厚であったが、ネット上で彼女に行われる苛めは現実のそれより悪質で、陰湿であった。人気を得た代償、というほど事態は単純ではなかったが、姿も見えず素性もわからない彼女に、心から憎悪の念を抱くものが、そこには確かに存在した。昼の日常で幽霊と呼ばれた地味な女性は、夜の偶像の世界でもおぞましい苛めに耐えて生きていた。しかしそれは、彼女にとって他者の想像するほど困難なことではなかった。
何より、彼女を不安に感じさせる書き込みが、続いていた。そのような書き込みを見つける度に、千尋は寒気を感じ、恐怖から一方の手でもう一方の手首を掴んだ。
「ちぃねいろさん、あなたの素性を特定しました」
「ちぃねいろさん、もうすぐあなたのところへいきます」
「ちぃねいろさん、もう逃げられませんよ?」
あるいは、このような情報こそ徹底して調べあげ、把握すべきであるのかもしれない、しかし彼女はこの情報をただ静かに黙殺し、削除の後は、全てを忘れた。このようなものは存在しなかったと、考えるようにした。それが彼女の夜の仕事の終わりだった。PCの電源を落とす。夜明けは近い。少しの睡眠の後、昼の幽霊は同じ職場へ向かう。
その日は来る。会社帰り、彼女は池袋の駅のホームで、数人の男性に声をかけられ、囲まれ、拉致された。
二、
真琴はその湿った数本の指を意志を持った毒蛇の群れさながらに屈曲させ、拘束される女子の十分に熟れた柔らかく白い肉肌の表面を幼子の無邪気に遊戯する如く優美に這い回らせ、その感触を楽しんだ。千尋は一切表情を変えない。彼女は決して「不感」ではなかった。それどころかむしろ、どの肢体もよく使われており、並みの女性より「感」の良い肉体を得ていた(自身は自覚していない)表情を変えないことは、作為というよりは彼女の芯に深く棲みこんだ一種の癖のようなものであった。男性の多くは、自身が感情を動かすことは許されない、という意識が潜在している。彼女は男性ではなかったが、感情を持ちながらそれを拒否する癖は、男性の持つそれによく似ていた。真琴はそんな千尋の本質を認知し、しばしば鋭く嫌悪した。真琴は他者の情動を弄ぶ快楽に自身を見出すことを好んでいた。
ここがどこであるのか、千尋にはわからない。数人の男に拉致、そして電気のようなもので気を失った。そこまでは覚えている。ただ少なくとも、自身の肉体的な能力では今の状況は脱出困難であることは十分に理解した。拘束により身体の自由を奪われている。
齎された今の状況は、両者にとって最も厄介で、憎悪の塗れた心の戦場であった。真琴はその厄介さを楽しむつもりであった。ほどよく先端の感覚が和らいできたその手はやがて興奮によって僅かな震えを始め、その意志は気丈に身を固めて見せる小さな下腹部へと進行していく。
これから何が起こるのか、千尋はわかっている。彼女は自身を統制できないことを恐れる。その厚く守られた前頭葉(女子の頭)が、彼女の自負する最大のセックスシンボルであった。遠く未来まで自身の姿を想像し、観察した後は再び冷静に現在を見た。
だがそれでも、彼女は激しく動揺している。内心の動揺を抑えることはできなかった。千尋は処女だった。自らが蹂躙される。その危機を本能的に恐れないもの(人間)があるだろうか。
「ふふ…ひさしぶりだよ…こんな恥ずかしいものをつまみ食いするなんてね…?」
真琴はそっと妊婦の腹をさするように優しく、千尋の下腹部を撫でる。
「あんたはね、見栄を張っていただけだ。今も、自分だけは誰にも崩されないつもりでいる。」
千尋は答えない。全てが終わるまで、何も口にするつもりはなかった。真琴は気に留めず話しを続ける。
「あたしは、なんとなくだけど、あんたの『ほんとうのきもち』がわかるんだ。あんたは、生まれたときから、誰にも怒られたことがなかった。いわゆる優等生タイプだろう?でも、心の中は暗かった。友達がいないから?そうじゃない。あんたを悩ませてきたことは、もっとくだらない、不潔で、もっと恥ずかしいことだ。」
真琴は千尋の耳元まで口を近づける。唇からシーチキンの油の臭いが漂った。千尋の苦手な臭いの一つだった。
「当ててやるよ。あんたは、ずっと秘密にしてきたことがあるんだ。あんたのその秘密は、きっとあんたの母親しか知らない。兄弟や、親友や父親も知らないんだ。それでもね、千尋?あたしはわかるんだよ。どういうわけだかね?」
沈黙のまま、僅かに時間が流れた。千尋は自らが物理的に強制して壁に押し付けられていることを改めて感じ、背中と、寒さにより引き締められた小さな臀部に、コンクリートの残酷な固さを感じた。
真琴は千尋のブラウスの谷間をつかんでいる。その目はぼんやりと、陶酔の表情を浮かべつつあった。
「『ちぃねいろはAカップ』だって、あんたは言っている。それが希少価値だから?違うだろう?あんたの秘密は…」
「…やめて」
千尋は小さな声で呟いた。呟いたその一瞬も、顔面は死人のように無表情である。下を向き、視線は一切動かさない。
「そうか、やめてほしいんだ?」
「…」
「それなら、泣いてみせてみな?」
「…」
次の瞬間、真琴はつかんでいたブラウスを力まかせに引き千切った。千尋は思わず僅かな悲鳴をあげた。しかし、それをやむを得ずと思わせんばかりに、彼女はすぐに気を取り戻し、表情を凍らせた。この瞬間のことを聞かれれば、悲鳴をあげたのは、単に不意の仕打ちに驚いたからに過ぎないと、説明するのかもしれない。
引き千切られたブラウスの中から現れたそれは、なんとも奇妙なものであった。そこに備えてあるはずの千尋の『小さなAカップ』を覆っているのは、いわゆる女性の下着ではなかった。
それは衣類というよりは、『器具』であった。
「そう、そうだと思ってた。」
「…」
「もうやめて欲しいだろう?」
「…」
「この鉄板を外してもいい?」
「…」
「鍵の番号は?」
胸の小さな女性はしばしば『まな板』などと揶揄される。偏平な上半身はさながら板のようであるから。暴力的に自身の身体的特徴を測地される女性の内心の絶望と屈辱を、男子諸君は想像しない。千尋の上半身を覆うものは、比喩によるそれではなく、物理的、人工的な『まな板』そのものであった。鉄の板のようなものが、その胸囲に張り付けられていた。
千尋は、自らの胸を鉄の板で被覆し、押さえつけ、締め付け、細工により『まな板』を作っていた。それは、谷間の位置にある錠前により、接合されていた。開けるには鍵の番号が必要。
「番号、あててやるよ。」
1…5…7…
「…あ…」
「なんだい?」
「…」
「もう少し難しい番号にしておくんだったね。まさか誰かに開けられるとは思わなかったかい?」
ガチャリと大きな音を立てて、その鋼鉄の器具の接合は解かれた。千尋の身体が小さく痙攣し始めた。それは恐怖であろうか。
「やあ。おかえり。」
千尋の『まな板』が外された。そこにあったのは、今までそこにあったとは思えないほど巨大な、肉の膨らみであった。間違いのない、男性を誘惑するに十分過ぎるほどに大きく、女性らしく熟れた果実が実っていた。
「なるほどねぇ…」
真琴の確信していた『ちぃねいろ』の真実、その1つは当たっていた。ちぃねいろは、Aカップではない。それは、Jカップであるか、それ以上とも思われた。彼女は紛れも無い『超乳』の所有者だった。
何故女性として優位であるはずの自身の特性を隠していたのか、千尋は頑丈な鋼鉄の器具でその巨大な肉塊を押さえつけ、人工的な『まな板』を、現実においても、もちろん夜の現実においても演じ続けていたのである。
「でもね、あたしの感じていた秘密は、こんなものではないんだよ。」
「…」
「その脇をあけな。ちぃねいろ?」
鋼鉄の器具が外されてから、千尋は不自然に左の脇を締め、何かを隠し続けていた。それこそが、ちぃねいろこと千尋の、存在を規定する核心部分であるかのようだった。
「…もう、やめよう?」
「なにをいっている?もう、お前は戻れないんだよ」
真琴は千尋の手枷を繋いでいるロープをローラーによって強引に引き上げた。左の脇が無理に広げられる。
「や、やだっ…!」
千尋は急に頬を紅色に染め、凍り付いていた目は理性を失った幼児のそれへと変わった。瞬く間に両の瞼にじわりと潤みが現れた。彼女の左の脇は、自分と母親以外は、誰もみてはいけなかった。真琴は大仰にその箇所を覗き込んだ。
そこには、見たこともない珍妙な物体がぶら下がっていた。
とても奇妙な形をしている。一見すると瓢箪のようであり、睾丸を入れた皮の袋のようでもある。実際、長時間締め付けられていたそれは、それであることが疑わしくなるほどに皺くちゃになり、しぼんでいた。しかし、それでも誰の目からみても、それが何であるかは、先端の特徴的な突起物を見れば明らかであった。それは、女性の乳房だった。
彼女の上半身の前面に放りだされている2つの大きな乳房、それが人を欺くに十分なほど巨大であること。それも一つの大きな嘘であった。しかし、それは、本当の秘密を隠し通すための、いわば「嘘のための嘘」に過ぎない。本当の秘密は、明らかな嘘のすぐ近くに、まるでそれが秘密ではない当然の事実であるかのように存在していた。
それが真実。千尋は身体の震えが止まらない。彼女の左の脇の下には、細長く奇妙な形をした、乳房がある。彼女は奇形だった。
「そうだ、それが真実だ『ちぃねいろは胸が3つある』」
「やめよう?」
「わたしはわかっていたよ?確認しただけだ」
「ねえ、やめて。お願い。」
真琴は狂喜した。自らが憧れた千尋の情動は、彼女に支配されつつあった。
「かわいいもんじゃないか。おっぱいが3つあるからってなんだ?そもそもこんなもの、1つあっても邪魔だと思わないか?」
「…」
千尋は再び黙り込もうとした。自身が冷静さを失いつつあることを思い返したのである。
「あんたは、この脇っちょについたおちんちんみたいな小さいおっぱいのせいで、幼心に耐えられないほど深い傷を負ったんだ。コンプレックスなんていうほど、簡単なものじゃないんだろうね、あんたにとっては?ある意味、大事なものなんだ。だから、わざわざこんな面倒なことをしてまで、隠そうとする。それが自分そのものであるかのように」
「…」
「これからどうすると思う?」
真琴はその男性器さながらに細長く萎れた小さな3つ目の乳房を、手のひらで静かに包み込み、軽く握った。
「ヤギの乳搾りってわかる?」
言葉を発するや否や、真琴は握っていた小さな乳房を突然粗暴な握力で握り締め、挟み潰し、揉みしだき始めた。突然の激痛に千尋は絶叫する。
「おやおや、いきなりなんでそんなに騒ぐんだ?これはそんなに痛いのか?」
千尋がその胸を隠していたのは、秘密のためであり、恥のためであったが、それだけではなかった。それはいわゆる奇形であったから、その箇所には異常なほどに神経が集約されていた。それは、そっと触れただけで痺れるような痛みを伴うほど鋭敏であった。不意に強い痛みが起きないように、それは日常的に厳重に保護されていた。
真琴はそれをわかっていた。にやりと薄い笑みを浮かべ、その手の動きを一切休めようとしない。千尋は恐ろしい悲鳴をあげ、やめてと何度か叫び、それでも事態の変わらないことで大粒の涙をぼろぼろとこぼし、やがて激しい痙攣を始めた。全身を激しく震わせ、拘束されたままの身体を一直線に硬直させ、その後しばらくだらりと動かなくなった。彼女は失神した。
何度繰り返したであろうか、千尋は土産物のカエルの玩具のように、幾度も同じ方法で激痛を弄ばれ、同じように失神した。真琴はその様子を何度も飽きもせず観賞し続けた。どこともわからない場所に無限に続く悲鳴、そのうち涙は流れなくなった。行為をやめたのは数時間後であった。
「なぁ、こうして長い間二人で遊んでいると、友情ってものが芽生えてこないか?」
うなだれる千尋の顎を指先で突きながら、真琴は小さな声で話した。
「あたしは、あんたが好きだよ。こんな風に仲良くなれたことを、心底嬉しいと思ってる。なあ、友達にならないか?というか、あたしの下僕にならないか?きっとあんたは、いい下僕になると思う。」
「私の…」
絶叫を繰り返し、喉は痛々しいほどに枯れている。千尋が僅かに顔をあげ、口を開いた。
「あなたは、私のことが好き?」
「うん、大好きだよ。」
「なら、…」
千尋は目を大きく開き、真琴の目を見る。
「なら、あなたの秘密を私に教えて」
「…?」
「あなたの秘密、あるんでしょう?」
「秘密、ないよあたしは。全部筒抜けだから」
「そう、じゃあ友達にはなれない。もちろん下僕にも」
「何言ってるんだよ。わけわかんねぇな」
「あなたは私の友達になりたいんでしょ?そのために、私の秘密を確かめたかったなら、あなたは友情のために、秘密の交換が必要な女だってことだと思う。だから、あなたの秘密を私が知らなければいけない。それができないなら、無理」
「うるせぇなババァ」
真琴は再び千尋の3つ目の乳房を揉み始めた。千尋は苦痛に顔を歪める。声は荒げない。むしろより静かに、ゆっくりと、千尋は口を動かした。
「真琴さん?ねぇ、私と『キス』できる?」
真琴は苛立ち、股に蹴りを入れた。まともに入ったことで千尋は低い唸り声をあげたが、それでも話をやめない。
「ねぇ、しようよ?友達なんだから。」
真琴は興奮して大声をあげる。相手の攻撃の本質が掴めない。
どれほどの時間か、二人は長い接吻を行った。絡み合うお互いの唇の裏側には、青海苔の生臭い臭いが立ち込めていた。どのような刹那に両者はその接吻に至ったのか、どちらもわからなかった。丁度その間の時間が存在していなかったかのように、真琴が怒りに我を忘れ千尋の第3の胸を揉みしごいていた時間と、両者の安らかな接吻の時間とは、不連続かつ無矛盾に接続していた。二人の求めていた、あまりに静かな安息。それが真琴の秘密だったのかもしれない。
時間は再び不連続に途切れ、真琴は刃物のような奇声を上げて地面に転がった。真琴は、気持ちが悪いと大声で繰り返し、泣き叫び、そして嘔吐した。
「おれに何をしたんだお前」
真琴は数分かけて嘔吐を続けた後、咳き込みながらゆっくり立ち上がった。
「真琴さん、仲良くしましょ?」
真琴は千尋の目を見た。そして、ものの数秒のうちにその場から姿を消してしまった。よほどその目が怖かったのか、わからない。千尋はその場に拘束されたまま、半裸にされた身体を揺らし、ぼっと静かに歌を歌った。そして、小さな声で、嘘つき、と呟き目を閉じた。
三、(草稿)
約束を破ったことが問題なのだと、言われた。池袋での拉致、監禁は、「友人同士の喧嘩」として解決された。それは、千尋が望んだことだった。その後千尋の生活は、それまで以上に急速に悪化していった。それまで昼と夜に明確に分かれていた生活は境界を失い、曖昧なものとなった。
まず土日の販売のアルバイトをやめた。その2ヵ月後、派遣社員を解雇された。
彼女は正規の職につく気になれなかった。どうしても。自分はもう、心を奪われた人間である、と思っていた。
放送にも身が入らない。
しばしの無為の日々の後、彼女はある奇異な求人に目を止めた。
彼女はこの仕事ほど自分に向いていないものはないと感じた。この仕事は、つまりカレーを食べたくないときに、カレーを食べる仕事だ。カレーを食べたいときに、喉からホウレンソウを引き抜かなければならない。その苦痛はどんな肉体的な苦痛よりも深刻だと、千尋は考えた。しかしそれ故に、興味を抱き、気がつくと電話をかけていた。
「お名前なんて読んだらいいですか?」
「としくんって言って。」
「…」
「ちひろです。」
「ちひろさんですね。」
千尋の新しい職場は「お伺い屋」と呼ばれる、限定された趣向の、主に男子を顧客とするサービスを提供するお店だった。『お客さんの言うどんなことにも必ず従う』というのが、そのお店のコンセプトだった。たとえば、飛び跳ねろと言われれば、その場で飛び跳ね、これを被れと言われれば、被る。千尋は面接のときに質問を求められ、ごく自然にいくつかの疑問点を尋ねた。
「命を絶てといわれたら?」
「法に違反することを要求されたら?」
「物理的に不可能なことを求められたら?」
店の返答は単純で、もし自分ができなければ、他の者と交代するか、残り時間分の代金を返し帰ってもらうことができる、ということだった。それは、たとえば物理的に不可能でなくても、自分の限度を超えていれば、要求を拒否することができるということだ(ただしその分の歩合は自分には割り振られない)
千尋は、そのようなお店に一体どのような需要があるのか、どのような顧客が存在するのか、いまひとつ飲み込めない部分があったが、一通りの説明を聞いて承諾し、仕事を引き受けた。
仕事を始めてすぐに感じたことは、世にいる男性というものの空想がいかに幼稚で、貧弱であるかという一種の失望だった。4畳半ほどの小さな白い部屋にパイプイスが2つ向かい合っているだけの簡素な部屋。待機していると、受付を済ませた客の男性が現れる。時間の書かれた受付カードを受け取り、アラームをセットする。今から10分。時間のある限りは何度要求してもかまわない。
「ちひろです。」
「お、おう!」
返事一つで、ああ、またつまらない客だ、とわかってしまう。少なくとも千尋が受ける客の100%は、このような底の浅い、幼稚で、その割に取ってつけたような高慢さを見せ(内心の劣等感を悟られまいとしながら)自分をつかの間に「隷属させる快楽」を求めてくる、そんな男性しかなかった。
「このオムツを穿け。それで、そこに仰向けに寝ろ。赤ん坊みたいに足を開いて。違う、そうじゃない」
千尋はよほど不可能なことでなければ大体の要求は淡々と答えた。それは性的な要求も少なくなかったが、そんな要求も千尋にとっての予想の範疇を越えないものであったし、それを一々拒んでいることが煩わしいと感じた。今の瞬間目の前の男性に「隷属」してみせることが何であろうか。もっとも、それは隷属ではない。やや、奉仕の心持である。(あまりに不憫であるから)ただし、秘密を見せることだけは頑なに拒んだ。
アラームが鳴る。大概の男性は時間がきてもどこかやりきれないような、不満そうな表情を浮かべていることが、千尋は気になった。一時とはいえ、そこは異性に対する現実的に可能な限りの自由を与えられた時間のはずだ。そこで彼が行ったことは、彼が心から最も望んでいた願望の表出ではなかったのだろうか…?頬を強く叩いてくれ、(スカートを穿いて)倒立しながら歌を歌え、髪をくしゃくしゃにさせろ、ビー玉を口に入れてこの皿の上に出せ。思い思いの願望を投げかけてくるどの男も、何故そんなに焦っているのかと思うほど、必死に見えた。
(この人たちはそんなに、異性が怖いのだろうか…?)
千尋はひょっとしたら、この仕事は自分に向いているのではないか、などと考え始めた。「男性に従う仕事」しかしその男性は、自分の自由にできない何かに盲目的に従い、支配されている。自分はその支配の関係を傍観し、欲動の流れに緩く付き合っていればよい。要はただそれだけで、黙々と2300枚のコピーを取り続けるような作業を何日もこなすよりもはるかに多くの賃金が得られるのだ。とはいえ千尋は得られた賃金の多くは貯金するか、家計に入れていた(使い道がないため)
やや仕事に慣れてくると、再び放送への意欲が戻ってきた。シフトは不規則であったから、配信頻度や時間帯も以前より不規則になった。ただ平日の昼の時間帯は放送を避けた。それは視聴者に「働いていないのでは?」といった感想をもたれることが煩わしかったから、という気持ちも多少あったが、これまで自分と話してきた友人達を大事にしたい、といった気持ちもあった(自分が餌をやらなければ彼らは死んでしまうかもしれない)
今自分のしていることは、昼も夜も似ている。自分というものの襞を切り取って(それは本来必要かもしれないが、今の自分には不要な部分)欲しいといっている人たちに渡す。昼間は一人の目の前の人に手渡しする。夜はなるべく小さく分けて、ぱっと広く投げてやる。彼らはこちらから見れば不思議なほどに喜ぶ。それがどこかおかしい。どうしてもっと多くを望まないのか、仕事を始めてしばらくするとそんな疑問も湧いた。もし自分が自分の思う「一般的な男性」であるなら、異性が何の要求にもこたえるというのなら、第一に思い浮かべるのはもっと直接的な行為、つまり、性器同士の接触ではないのだろうか…?ところが実際には、様々な不思議な要求をする男性はいくらでもいるが(そればかりであるが)そのことそのものを求めてくるものは、何故かほとんどいなかった。もちろんいないわけではなかったが(そんな客の一人に千尋は易々と処女を捧げている)
そんなある日、千尋はやや気になる客と出会った。
彼は時間の間、何の要求もしない。それどころか、ほとんど話すこともしない。受付のカードを渡し、時間を告げると小さく頷き、それっきり、ほとんど動きがない。ただ、少しずつこちらを見ている。見ていることも知られたくないという風に、視線を動かさずに、わずかに視界の中に自分を入れている。千尋は多少気味が悪かった。「ご用はなんですか?」などと尋ねても見たが、ぼそぼそと相槌を打ち、また黙ってしまった。初めてあった時には、ただそうしているうちに時間が過ぎてしまった。
しばらくすると、またその客はやってきた。それも、指名をして、前回より多くの時間を取っていた。しかし、その日も何の要求もしなかった。二人でただ黙っているだけの時間、千尋は相手の考えていることを様々に予想した。きっとそのどれかが正解だろう。間違いがないのは、彼もまた「支配されている男性」の一人であるということ。それも、おそらく自分が普段受けている男性よりは、よほど悩みが深いのだ。自分が支配されているということを、彼はわかっているのかもしれない。とにかく、彼はいつまでも黙っている。少し声をかけようかとも思ったが、今回は自分もあえて黙っていることにした。そして、その日も何もせずに帰っていった。
その後も繰り返し、その客はやってきた。もしかするとこの男性は異性と「ただ黙っている」ことが好きなのかもしれない、と考えた。しかしそう考えると、千尋は内心落胆した。いつからそんな気持ちを持つようになったのだろうか。長い沈黙の中で、千尋の脳裏にはいつかの池袋での出来事が思い起こされた。あの日の無限に続いた激痛、自らがあれほど精神をかき乱され、激しく羞恥を覚えたことがあっただろうか。真琴はあれからどうしているのか。千尋はどきりとする。あの日のような絶望的な快楽を、求めているとでもいうのだろうか…?
「ちひろさんは、動物が好きですか?」
突然目の前の「だんまり男」が口を開いた。酷く抑揚のない、力のない、壊れかけのPCの作業音のような声だ。ほとんど自分の口を、他人とコミュニケーションを取ることに使ってきたことがないのではないか?
「動物は、好きですよ。」
「どんな、動物?」
「私は、犬が好き。」
「どうして?」
「くんくんと、懐いてくる。たまらない。飼ってはいないけど」
それきり、またその男は黙ってしまった。そのまま時間が過ぎる。その日の放送で千尋は犬がかわいいことについて語った。仕事中に、好きな動物について尋ねられたと。気がつくと、随分とその客のことが気になってしまっている。次はいつ来るだろうか。
だんまり男はその後しばらくこなかった。それまで週に一度は現れていたが。一月か、二月経った頃に、彼は再び千尋の元に現れた。久しぶりだったためか、千尋はどこか嬉しくなり、男に健やかに話しかけた。
「2時間ですね。こんにちは。いつも指名してくれてありがとう今日はとても長いですね」
「…」
「いつもとても静かですね?今日も黙っていますか?」
「…いえ」
(いえ?)
ゴソ、ゴソと落ち着かない風に、彼はあちらこちらを見た。ふと彼の足下を見やると、今日のだんまり男は、小さな紙袋を持っていた(いつもは手ぶらである)千尋は、ただそれだけで、どきりとして、胸がトクンと秘かに高鳴るのを感じた。どうしてこんなに興奮するようになってしまったのだろう。きっと今日だんまり男は、自分に何かを「要求」するつもりなのだ。
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