亡霊派遣社員千尋の奇妙な異日常(イニチジョウ)とは、日本のライトノベル作家美濃健文が2013年6月に発表した幻想文学群。健文は本文を「官能小説の一種」と位置づけているが、その内容は官能小説にしては説明臭く、また通常の小説にしては中身が薄く、ライトノベルにしては語彙が重い。したがって、文学でもなんでもないのだが、せっかく書かれたので大百科で発表された。現在公開されているのは5話までであるが、続きは「書かれる可能性もあれば、書かれない可能性もある」らしい。
一、
大きな刃物を両手に持った老人が「鼻毛切りはどこだ」と叫びながら小さな子供を追いかけているが、自分の居場所はなく寂しく思う、そんな夢を見て目が覚める、彼女の朝は夕焼けを見ていたお友達から仲間はずれにされたピンクのワンピースを着ている小学生、何故か一人だけ不本意に初潮を迎えてしまった浅黒い肌のブサイクな女児の体育館で送る新たな生理のように孤独で暗く、何よりも重い。それは喧しく退屈だ。雑音が聞こえる。鬱陶しい。
千尋(ちひろ)は29歳、もうすぐ30歳を迎える。実家で母と年子の弟と共に暮らす。父は彼女が中学の頃に離婚しており現在は同居していない。平日は小さな会計事務所の派遣社員として働き、週末は近くの販売店で接客をこなす。大きな黒縁の眼鏡をかけ、痩せているが背は女性にしては高い。服装は年不相応に地味であり、慢性的な夜更かしと不摂生な生活により肌は荒れ、加齢臭すら漂う老け込んだその姿は40代にも見える。
彼女は職場で「幽霊」と呼ばれた。地味な職場での地味な仕事、多くの者とは挨拶しか交わさない。千尋は決して社交術を得ていない人間ではなかったが、職場においては彼女は亡霊に等しい外観を呈していた。それは彼女が積極的に望んでいるわけではなかったが、かといって果敢に拒絶して変革を求めるほど大きな問題でもなかった。彼女は自身が浮世の亡霊であることに疑問がなかった。
今日始めにまかされた仕事は白紙に小文字のA(a)が書かれた紙のコピーを2300枚取ることだった。コピーした1枚1枚を虫眼鏡と物差しで丁寧に確認し、少しでも向きが歪んでいたらその一枚と同時にコピーしたものを全て破棄して新たに取り直さなければならない。また、インクの色が変わってはいけないし、用紙の紙質も全て統一されていなければならず、場合によっては全てはじめからやり直さなければならない。何のための仕事なのかは、一切説明はなく、ただ正確に、またなるべく時間をかけずに完結させることを求められる(大半そのような業務)幽霊はそのような仕事を何の苦もなくこなす。元々小学校の頃より単純作業が得意であった。同級生達が根を上げる面倒な計算の課題を千尋だけは一つの溜息も洩らさず、静かに速やかに仕上げていた。
昼休みには一人で近所の喫茶店に出かけた。コーヒーとサンドイッチだけを頼み、席に着くと数分も経たずに昼食を終わらせ、残りの時間はただ夢想に耽るか、読書をするか、そのままうとうとと昼寝をした。午後はまた同じ作業。
淡々とした仕事を追え、いつものように帰路につく。自宅と職場は電車で1時間以上かかり、やや遠い。疲れはあまりない。しかし、電車では大概千尋は眠っていた。電車で眠るのが好きだった。
女性らしい飾りのない簡素な自室であるが、片付けられておらず、雑然としている。千尋は物を整理する、掃除するという観念が無かった。どこで拾ったかわからない広告の山をかきわけ、空いた隙間にコーヒーを入れたマグカップを置いた。
彼女の生活の本質は夜にあった。モニターの電源を入れる、男性的なデザインのPCが2台、うち1台は故障しており、使われないまま2年以上部屋の隅に置かれている。サイズの合わない大きなヘッドフォンをつける。『放送開始』彼女はこのボタンを押すことで知る人ぞ知る『真夜中のアイドル』に変貌する。
「あ、あ、あ、?きこえる?きこえますか?」
緩やかに音量を調節し、彼女は一言、二言、画面の奥にいる透明な友人達に話を始めた。彼女の夜の名前は、千尋を取って『ちぃねいろ(小音色)』と言う、彼女はいわゆる、インターネットで自己を曝け出し、不特定多数のものと交友する「配信者」だった。
彼女の人気は高かった。いわゆる「顔出し」ではない。素顔を明かさず、言葉だけで放送の時間は流れる。さながらラジオのようでもあるが、配信はそれほど形の整ったものではない。むしろ情報が不完全であればあるほど、配信者の生々しい人間性が浮き上がる、そのような意味で、彼女は無防備な、無垢の幼女を演じる技術と知力に長けていた。彼女の発する表情、声、言葉の僅かな機微は一度発せられれば、透明な友人達が貪るように受け入れた。暗闇の中、モニターの青い光にその青白い顔を照らされながら、静かに画面越しの遠い友人に話しかける『ちぃねいろ』の姿は、決して優雅には見えない。彼女にとっては、その日々の行為は、一人で池の辺に座り込み、群がる魚に小さな食パンの欠片を投げるような、ささやかなことであった。実際、そのようにして彼女はこの小さな仕事を始めた。池の中は、乱舞していた(不思議なほどに)
彼女の夜の、表の仕事が終わった。ここからが長い。彼女は自身の配信に関するありとあらゆる情報を熟知しなければ気がすまなかった。それはいわゆる彼女の生来の生真面目さであった。正義ではなく、欲望に基づく認知の作業が彼女の裏の仕事だった。ツイッター、ブログ、掲示板、エゴサーチをかけ、自らに関する言説を収拾、気になるものは画像も含めてコピーを取り、専用のフォルダに保存した。裏稼業の最後に行うのは、自らが管理する掲示板の書き込みの削除。彼女は比較的温厚であったが、ネット上で彼女に行われる苛めは現実のそれより悪質で、陰湿であった。人気を得た代償、というほど事態は単純ではなかったが、姿も見えず素性もわからない彼女に、心から憎悪の念を抱くものが、そこには確かに存在した。昼の日常で幽霊と呼ばれた地味な女性は、夜の偶像の世界でもおぞましい苛めに耐えて生きていた。しかしそれは、彼女にとって他者の想像するほど困難なことではなかった。
何より、彼女を不安に感じさせる書き込みが、続いていた。そのような書き込みを見つける度に、千尋は寒気を感じ、恐怖から一方の手でもう一方の手首を掴んだ。
「ちぃねいろさん、あなたの素性を特定しました」
「ちぃねいろさん、もうすぐあなたのところへいきます」
「ちぃねいろさん、もう逃げられませんよ?」
あるいは、このような情報こそ徹底して調べあげ、把握すべきであるのかもしれない、しかし彼女はこの情報をただ静かに黙殺し、削除の後は、全てを忘れた。このようなものは存在しなかったと、考えるようにした。それが彼女の夜の仕事の終わりだった。PCの電源を落とす。夜明けは近い。少しの睡眠の後、昼の幽霊は同じ職場へ向かう。
その日は来る。会社帰り、彼女は池袋の駅のホームで、数人の男性に声をかけられ、囲まれ、拉致された。
二、
真琴はその湿った数本の指を意志を持った毒蛇の群れさながらに屈曲させ、拘束される女子の十分に熟れた柔らかく白い肉肌の表面を幼子の無邪気に遊戯する如く優美に這い回らせ、その感触を楽しんだ。千尋は一切表情を変えない。彼女は決して「不感」ではなかった。それどころかむしろ、どの肢体もよく使われており、並みの女性より「感」の良い肉体を得ていた(自身は自覚していない)表情を変えないことは、作為というよりは彼女の芯に深く棲みこんだ一種の癖のようなものであった。男性の多くは、自身が感情を動かすことは許されない、という意識が潜在している。彼女は男性ではなかったが、感情を持ちながらそれを拒否する癖は、男性の持つそれによく似ていた。真琴はそんな千尋の本質を認知し、しばしば鋭く嫌悪した。真琴は他者の情動を弄ぶ快楽に自身を見出すことを好んでいた。
ここがどこであるのか、千尋にはわからない。数人の男に拉致、そして電気のようなもので気を失った。そこまでは覚えている。ただ少なくとも、自身の肉体的な能力では今の状況は脱出困難であることは十分に理解した。拘束により身体の自由を奪われている。
齎された今の状況は、両者にとって最も厄介で、憎悪の塗れた心の戦場であった。真琴はその厄介さを楽しむつもりであった。ほどよく先端の感覚が和らいできたその手はやがて興奮によって僅かな震えを始め、その意志は気丈に身を固めて見せる小さな下腹部へと進行していく。
これから何が起こるのか、千尋はわかっている。彼女は自身を統制できないことを恐れる。その厚く守られた前頭葉(女子の頭)が、彼女の自負する最大のセックスシンボルであった。遠く未来まで自身の姿を想像し、観察した後は再び冷静に現在を見た。
だがそれでも、彼女は激しく動揺している。内心の動揺を抑えることはできなかった。千尋は処女だった。自らが蹂躙される。その危機を本能的に恐れないもの(人間)があるだろうか。
「ふふ…ひさしぶりだよ…こんな恥ずかしいものをつまみ食いするなんてね…?」
真琴はそっと妊婦の腹をさするように優しく、千尋の下腹部を撫でる。
「あんたはね、見栄を張っていただけだ。今も、自分だけは誰にも崩されないつもりでいる。」
千尋は答えない。全てが終わるまで、何も口にするつもりはなかった。真琴は気に留めず話しを続ける。
「あたしは、なんとなくだけど、あんたの『ほんとうのきもち』がわかるんだ。あんたは、生まれたときから、誰にも怒られたことがなかった。いわゆる優等生タイプだろう?でも、心の中は暗かった。友達がいないから?そうじゃない。あんたを悩ませてきたことは、もっとくだらない、不潔で、もっと恥ずかしいことだ。」
真琴は千尋の耳元まで口を近づける。唇からシーチキンの油の臭いが漂った。千尋の苦手な臭いの一つだった。
「当ててやるよ。あんたは、ずっと秘密にしてきたことがあるんだ。あんたのその秘密は、きっとあんたの母親しか知らない。兄弟や、親友や父親も知らないんだ。それでもね、千尋?あたしはわかるんだよ。どういうわけだかね?」
沈黙のまま、僅かに時間が流れた。千尋は自らが物理的に強制して壁に押し付けられていることを改めて感じ、背中と、寒さにより引き締められた小さな臀部に、コンクリートの残酷な固さを感じた。
真琴は千尋のブラウスの谷間をつかんでいる。その目はぼんやりと、陶酔の表情を浮かべつつあった。
「『ちぃねいろはAカップ』だって、あんたは言っている。それが希少価値だから?違うだろう?あんたの秘密は…」
「…やめて」
千尋は小さな声で呟いた。呟いたその一瞬も、顔面は死人のように無表情である。下を向き、視線は一切動かさない。
「そうか、やめてほしいんだ?」
「…」
「それなら、泣いてみせてみな?」
「…」
次の瞬間、真琴はつかんでいたブラウスを力まかせに引き千切った。千尋は思わず僅かな悲鳴をあげた。しかし、それをやむを得ずと思わせんばかりに、彼女はすぐに気を取り戻し、表情を凍らせた。この瞬間のことを聞かれれば、悲鳴をあげたのは、単に不意の仕打ちに驚いたからに過ぎないと、説明するのかもしれない。
引き千切られたブラウスの中から現れたそれは、なんとも奇妙なものであった。そこに備えてあるはずの千尋の『小さなAカップ』を覆っているのは、いわゆる女性の下着ではなかった。
それは衣類というよりは、『器具』であった。
「そう、そうだと思ってた。」
「…」
「もうやめて欲しいだろう?」
「…」
「この鉄板を外してもいい?」
「…」
「鍵の番号は?」
胸の小さな女性はしばしば『まな板』などと揶揄される。偏平な上半身はさながら板のようであるから。暴力的に自身の身体的特徴を測地される女性の内心の絶望と屈辱を、男子諸君は想像しない。千尋の上半身を覆うものは、比喩によるそれではなく、物理的、人工的な『まな板』そのものであった。鉄の板のようなものが、その胸囲に張り付けられていた。
千尋は、自らの胸を鉄の板で被覆し、押さえつけ、締め付け、細工により『まな板』を作っていた。それは、谷間の位置にある錠前により、接合されていた。開けるには鍵の番号が必要。
「番号、あててやるよ。」
1…5…7…
「…あ…」
「なんだい?」
「…」
「もう少し難しい番号にしておくんだったね。まさか誰かに開けられるとは思わなかったかい?」
ガチャリと大きな音を立てて、その鋼鉄の器具の接合は解かれた。千尋の身体が小さく痙攣し始めた。それは恐怖であろうか。
「やあ。おかえり。」
千尋の『まな板』が外された。そこにあったのは、今までそこにあったとは思えないほど巨大な、肉の膨らみであった。間違いのない、男性を誘惑するに十分過ぎるほどに大きく、女性らしく熟れた果実が実っていた。
「なるほどねぇ…」
真琴の確信していた『ちぃねいろ』の真実、その1つは当たっていた。ちぃねいろは、Aカップではない。それは、Jカップであるか、それ以上とも思われた。彼女は紛れも無い『超乳』の所有者だった。
何故女性として優位であるはずの自身の特性を隠していたのか、千尋は頑丈な鋼鉄の器具でその巨大な肉塊を押さえつけ、人工的な『まな板』を、現実においても、もちろん夜の現実においても演じ続けていたのである。
「でもね、あたしの感じていた秘密は、こんなものではないんだよ。」
「…」
「その脇をあけな。ちぃねいろ?」
鋼鉄の器具が外されてから、千尋は不自然に左の脇を締め、何かを隠し続けていた。それこそが、ちぃねいろこと千尋の、存在を規定する核心部分であるかのようだった。
「…もう、やめよう?」
「なにをいっている?もう、お前は戻れないんだよ」
真琴は千尋の手枷を繋いでいるロープをローラーによって強引に引き上げた。左の脇が無理に広げられる。
「や、やだっ…!」
千尋は急に頬を紅色に染め、凍り付いていた目は理性を失った幼児のそれへと変わった。瞬く間に両の瞼にじわりと潤みが現れた。彼女の左の脇は、自分と母親以外は、誰もみてはいけなかった。真琴は大仰にその箇所を覗き込んだ。
そこには、見たこともない珍妙な物体がぶら下がっていた。
とても奇妙な形をしている。一見すると瓢箪のようであり、睾丸を入れた皮の袋のようでもある。実際、長時間締め付けられていたそれは、それであることが疑わしくなるほどに皺くちゃになり、しぼんでいた。しかし、それでも誰の目からみても、それが何であるかは、先端の特徴的な突起物を見れば明らかであった。それは、女性の乳房だった。
彼女の上半身の前面に放りだされている2つの大きな乳房、それが人を欺くに十分なほど巨大であること。それも一つの大きな嘘であった。しかし、それは、本当の秘密を隠し通すための、いわば「嘘のための嘘」に過ぎない。本当の秘密は、明らかな嘘のすぐ近くに、まるでそれが秘密ではない当然の事実であるかのように存在していた。
それが真実。千尋は身体の震えが止まらない。彼女の左の脇の下には、細長く奇妙な形をした、乳房がある。彼女は奇形だった。
「そうだ、それが真実だ『ちぃねいろは胸が3つある』」
「やめよう?」
「わたしはわかっていたよ?確認しただけだ」
「ねえ、やめて。お願い。」
真琴は狂喜した。自らが憧れた千尋の情動は、彼女に支配されつつあった。
「かわいいもんじゃないか。おっぱいが3つあるからってなんだ?そもそもこんなもの、1つあっても邪魔だと思わないか?」
「…」
千尋は再び黙り込もうとした。自身が冷静さを失いつつあることを思い返したのである。
「あんたは、この脇っちょについたおちんちんみたいな小さいおっぱいのせいで、幼心に耐えられないほど深い傷を負ったんだ。コンプレックスなんていうほど、簡単なものじゃないんだろうね、あんたにとっては?ある意味、大事なものなんだ。だから、わざわざこんな面倒なことをしてまで、隠そうとする。それが自分そのものであるかのように」
「…」
「これからどうすると思う?」
真琴はその男性器さながらに細長く萎れた小さな3つ目の乳房を、手のひらで静かに包み込み、軽く握った。
「ヤギの乳搾りってわかる?」
言葉を発するや否や、真琴は握っていた小さな乳房を突然粗暴な握力で握り締め、挟み潰し、揉みしだき始めた。突然の激痛に千尋は絶叫する。
「おやおや、いきなりなんでそんなに騒ぐんだ?これはそんなに痛いのか?」
千尋がその胸を隠していたのは、秘密のためであり、恥のためであったが、それだけではなかった。それはいわゆる奇形であったから、その箇所には異常なほどに神経が集約されていた。それは、そっと触れただけで痺れるような痛みを伴うほど鋭敏であった。不意に強い痛みが起きないように、それは日常的に厳重に保護されていた。
真琴はそれをわかっていた。にやりと薄い笑みを浮かべ、その手の動きを一切休めようとしない。千尋は恐ろしい悲鳴をあげ、やめてと何度か叫び、それでも事態の変わらないことで大粒の涙をぼろぼろとこぼし、やがて激しい痙攣を始めた。全身を激しく震わせ、拘束されたままの身体を一直線に硬直させ、その後しばらくだらりと動かなくなった。彼女は失神した。
何度繰り返したであろうか、千尋は土産物のカエルの玩具のように、幾度も同じ方法で激痛を弄ばれ、同じように失神した。真琴はその様子を何度も飽きもせず観賞し続けた。どこともわからない場所に無限に続く悲鳴、そのうち涙は流れなくなった。行為をやめたのは数時間後であった。
「なぁ、こうして長い間二人で遊んでいると、友情ってものが芽生えてこないか?」
うなだれる千尋の顎を指先で突きながら、真琴は小さな声で話した。
「あたしは、あんたが好きだよ。こんな風に仲良くなれたことを、心底嬉しいと思ってる。なあ、友達にならないか?というか、あたしの下僕にならないか?きっとあんたは、いい下僕になると思う。」
「私の…」
絶叫を繰り返し、喉は痛々しいほどに枯れている。千尋が僅かに顔をあげ、口を開いた。
「あなたは、私のことが好き?」
「うん、大好きだよ。」
「なら、…」
千尋は目を大きく開き、真琴の目を見る。
「なら、あなたの秘密を私に教えて」
「…?」
「あなたの秘密、あるんでしょう?」
「秘密、ないよあたしは。全部筒抜けだから」
「そう、じゃあ友達にはなれない。もちろん下僕にも」
「何言ってるんだよ。わけわかんねぇな」
「あなたは私の友達になりたいんでしょ?そのために、私の秘密を確かめたかったなら、あなたは友情のために、秘密の交換が必要な女だってことだと思う。だから、あなたの秘密を私が知らなければいけない。それができないなら、無理」
「うるせぇなババァ」
真琴は再び千尋の3つ目の乳房を揉み始めた。千尋は苦痛に顔を歪める。声は荒げない。むしろより静かに、ゆっくりと、千尋は口を動かした。
「真琴さん?ねぇ、私と『キス』できる?」
真琴は苛立ち、股に蹴りを入れた。まともに入ったことで千尋は低い唸り声をあげたが、それでも話をやめない。
「ねぇ、しようよ?友達なんだから。」
真琴は興奮して大声をあげる。相手の攻撃の本質が掴めない。
どれほどの時間か、二人は長い接吻を行った。絡み合うお互いの唇の裏側には、青海苔の生臭い臭いが立ち込めていた。どのような刹那に両者はその接吻に至ったのか、どちらもわからなかった。丁度その間の時間が存在していなかったかのように、真琴が怒りに我を忘れ千尋の第3の胸を揉みしごいていた時間と、両者の安らかな接吻の時間とは、不連続かつ無矛盾に接続していた。二人の求めていた、あまりに静かな安息。それが真琴の秘密だったのかもしれない。
時間は再び不連続に途切れ、真琴は刃物のような奇声を上げて地面に転がった。真琴は、気持ちが悪いと大声で繰り返し、泣き叫び、そして嘔吐した。
「おれに何をしたんだお前」
真琴は数分かけて嘔吐を続けた後、咳き込みながらゆっくり立ち上がった。
「真琴さん、仲良くしましょ?」
真琴は千尋の目を見た。そして、ものの数秒のうちにその場から姿を消してしまった。よほどその目が怖かったのか、わからない。千尋はその場に拘束されたまま、半裸にされた身体を揺らし、ぼっと静かに歌を歌った。そして、小さな声で、嘘つき、と呟き目を閉じた。
三、
約束を破ったことが問題なのだと、言われた。池袋での拉致、監禁は、「友人同士の喧嘩」として解決された。それは、千尋が望んだことだった。その後千尋の生活は、それまで以上に急速に悪化していった。それまで昼と夜に明確に分かれていた生活は境界を失い、曖昧なものとなった。
まず土日の販売のアルバイトをやめた。その2ヵ月後、派遣社員を解雇された。
彼女は正規の職につく気になれなかった。どうしても。自分はもう、心を奪われた人間である、と思っていた。
放送にも身が入らない。
しばしの無為の日々の後、彼女はある奇異な求人に目を止めた。
彼女はこの仕事ほど自分に向いていないものはないと感じた。この仕事は、つまりカレーを食べたくないときに、カレーを食べる仕事だ。カレーを食べたいときに、喉からホウレンソウを引き抜かなければならない。その苦痛はどんな肉体的な苦痛よりも深刻だと、千尋は考えた。しかしそれ故に、興味を抱き、気がつくと電話をかけていた。
「お名前なんて読んだらいいですか?」
「としくんって言って。」
「…」
「千尋です。」
「ちひろさんですね。」
千尋の新しい職場は「お伺い屋」と呼ばれる、限定された趣向の、主に男子を顧客とするサービスを提供するお店だった。『お客さんの言うどんなことにも必ず従う』というのが、そのお店のコンセプトだった。たとえば、飛び跳ねろと言われれば、その場で飛び跳ね、これを被れと言われれば、被る。千尋は面接のときに質問を求められ、ごく自然にいくつかの疑問点を尋ねた。
「命を絶てといわれたら?」
「法に違反することを要求されたら?」
「物理的に不可能なことを求められたら?」
店の返答は単純で、もし自分ができなければ、他の者と交代するか、残り時間分の代金を返し帰ってもらうことができる、ということだった。それは、たとえば物理的に不可能でなくても、自分の限度を超えていれば、要求を拒否することができるということだ(ただしその分の歩合は自分には割り振られない)
千尋は、そのようなお店に一体どのような需要があるのか、どのような顧客が存在するのか、いまひとつ飲み込めない部分があったが、一通りの説明を聞いて承諾し、仕事を引き受けた。
仕事を始めてすぐに感じたことは、世にいる男性というものの空想がいかに幼稚で、貧弱であるかという一種の失望だった。4畳半ほどの小さな白い部屋にパイプイスが2つ向かい合っているだけの簡素な「お伺いルーム」。待機していると、受付を済ませた客の男性が現れる。時間の書かれた受付カードを受け取り、アラームをセットする。今から10分。時間のある限りは何度要求してもかまわない。
返事一つで、ああ、またつまらない客だ、とわかってしまう。少なくとも千尋が受ける客の100%は、このような底の浅い、幼稚で、その割に取ってつけたような高慢さを見せ(内心の劣等感を悟られまいとしながら)自分をつかの間に「隷属させる快楽」を求めてくる、そんな男性しかなかった。
「このオムツを穿け。それで、そこに仰向けに寝ろ。赤ん坊みたいに足を開いて。違う、そうじゃない」
千尋はよほど不可能なことでなければ大体の要求は淡々と答えた。それは性的な要求も少なくなかったが、そんな要求も千尋にとっての予想の範疇を越えないものであったし、それを一々拒んでいることが煩わしいと感じた。今の瞬間目の前の男性に「隷属」してみせることが何であろうか。もっとも、それは隷属ではない。やや、奉仕の心持である。(あまりに不憫であるから)ただし、秘密を見せることだけは頑なに拒んだ。
アラームが鳴る。大概の男性は時間がきてもどこかやりきれないような、不満そうな表情を浮かべていることが、千尋は気になった。一時とはいえ、そこは異性に対する現実的に可能な限りの自由を与えられた時間のはずだ。そこで彼が行ったことは、彼が心から最も望んでいた願望の表出ではなかったのだろうか…?頬を強く叩いてくれ、(スカートを穿いて)倒立しながら歌を歌え、髪をくしゃくしゃにさせろ、ビー玉を口に入れてこの皿の上に出せ。思い思いの願望を投げかけてくるどの男も、何故そんなに焦っているのかと思うほど、必死に見えた。
千尋はひょっとしたら、この仕事は自分に向いているのではないか、などと考え始めた。「男性に従う仕事」しかしその男性は、自分の自由にできない何かに盲目的に従い、支配されている。自分はその支配の関係を傍観し、欲動の流れに緩く付き合っていればよい。要はただそれだけで、黙々と2300枚のコピーを取り続けるような作業を何日もこなすよりもはるかに多くの賃金が得られるのだ。とはいえ千尋は得られた賃金の多くは貯金するか、家計に入れていた(使い道がないため)
仕事に慣れてくると、再び放送への意欲が戻ってきた。シフトは不規則であったから、配信頻度や時間帯も以前より不規則になった。ただ平日の昼の時間帯は放送を避けた。それは視聴者に「働いていないのでは?」といった感想をもたれることが煩わしかったから、という気持ちも多少あったが、これまで自分と話してきた透明な友人達を大事にしたい、といった気持ちもあった(自分が餌をやらなければ彼らは死んでしまうかもしれない)
今自分のしていることは、昼も夜も似ている。自分というものの襞を切り取って(それは本来必要かもしれないが、今の自分には不要な部分)欲しいといっている人たちに渡す。昼間は一人の目の前の人に手渡しする。夜はなるべく小さく分けて、ぱっと広く投げてやる。彼らはこちらから見れば不思議なほどに喜ぶ。それがどこかおかしい。どうしてもっと多くを望まないのか、仕事を始めてしばらくするとそんな疑問も湧いた。もし自分が自分の思う「一般的な男性」であるなら、異性が何の要求にもこたえるというのなら、第一に思い浮かべるのはもっと直接的な行為、つまり、性器同士の接触ではないのだろうか…?ところが実際には、様々な不思議な要求をする男性はいくらでもいるが(そればかりであるが)そのことそのものを求めてくるものは、何故かほとんどいなかった。もちろんいないわけではなかったが(そんな客の一人に千尋は易々と処女を捧げている)
そんなある日、千尋はやや気になる客と出会った。
彼は時間の間、何の要求もしない。それどころか、ほとんど話すこともしない。受付のカードを渡し、時間を告げると小さく頷き、それっきり、ほとんど動きがない。ただ、少しずつこちらを見ている。見ていることも知られたくないという風に、視線を動かさずに、わずかに視界の中に自分を入れている。千尋は多少気味が悪かった。「ご用はなんですか?」などと尋ねても見たが、ぼそぼそと相槌を打ち、また黙ってしまった。初めてあった時には、ただそうしているうちに時間が過ぎてしまった。
しばらくすると、またその客はやってきた。それも、指名をして、前回より多くの時間を取っていた。しかし、その日も何の要求もしなかった。二人でただ黙っているだけの時間、千尋は相手の考えていることを様々に予想した。きっとそのどれかが正解だろう。間違いがないのは、彼もまた「支配されている男性」の一人であるということ。それも、おそらく自分が普段受けている男性よりは、よほど悩みが深いのだ。自分が支配されているということを、彼はわかっているのかもしれない。とにかく、彼はいつまでも黙っている。少し声をかけようかとも思ったが、今回は自分もあえて黙っていることにした。そして、その日も何もせずに帰っていった。
その後も繰り返し、その客はやってきた。もしかするとこの男性は異性と「ただ黙っている」ことが好きなのかもしれない、と考えた。しかしそう考えると、千尋は内心落胆した。いつからそんな気持ちを持つようになったのだろうか。長い沈黙の中で、千尋の脳裏にはいつかの池袋での出来事が思い起こされた。あの日の無限に続いた激痛、自らがあれほど精神をかき乱され、激しく羞恥を覚えたことがあっただろうか。真琴はあれからどうしているのか。千尋はどきりとする。あの日のような絶望的な快楽を、求めているとでもいうのだろうか…?
突然目の前の「だんまり男」が口を開いた。酷く抑揚のない、力のない、壊れかけのPCの作業音のような声だ。ほとんど自分の口を、他人とコミュニケーションを取ることに使ってきたことがないのではないか?
「動物は、好きですよ。」
「どんな、動物?」
「私は、犬が好き。」
「どうして?」
「くんくんと、懐いてくる。たまらない。飼ってはいないけど」
それきり、またその男は黙ってしまった。そのまま時間が過ぎる。その日の放送で千尋は犬がかわいいことについて語った。仕事中に、好きな動物について尋ねられたと。気がつくと、随分とその客のことが気になってしまっている。次はいつ来るだろうか。
だんまり男はその後しばらくこなかった。それまで週に一度は現れていたが。一月か、二月経った頃に、彼は再び千尋の元に現れた。久しぶりだったためか、千尋はどこか嬉しくなり、男に健やかに話しかけた。
「2時間ですね。こんにちは。いつも指名してくれてありがとう。今日は、とても長いお時間ですね」
「…」
「いつもとても静かですね?今日も黙っていますか?」
「…いえ」
(いえ?)
ゴソ、ゴソと落ち着かない風に、彼はあちらこちらを見た。ふと彼の足下を見やると、今日のだんまり男は、小さな紙袋を持っていた(いつもは手ぶらである)千尋は、ただそれだけで、胸がトクンと秘かに高鳴るのを感じた。どうしてこんなに興奮するようになってしまったのだろう。きっと今日だんまり男は、自分に何かを「要求」するつもりなのだ。
(なんだろう…?)
千尋は、身体を緊張させながら、静かにだんまり男を見つめた。男はその視線に怯えるように、目をそらし続けた。これでは、今日も何もしないのかもしれない。
「何か、したいことがあるの?」
「…」
「勝手なことを言ってたら、悪いけど、きっとあなたは初めから、私に何かして欲しいことがあるのよね。でもなかなか言い出せなくて、いつも黙ってしまうのでしょう?それでも今日はきっと、それを打ち明けようと思って、長い時間をとってきた。そうよね?」
「…」
何故これほどだんまり男の背中を押しているのだろう。千尋はいつの間に、仕事にのめり込んでいるようだった。
「もちろん、限度はあるけど、それでも私は、なるべくお客さんの望みに答えるようにしているよ。だから、せっかくお金を払っているのだったら、私を利用したらいいと、思うのだけど…?もちろん、いつも通り黙っていたいなら、それでいいと思うよ」
だんまり男は、うつむいて返事をしない。
「がんばって。」
彼は足元の紙袋に手を伸ばした。ガサゴソと中身を取り出したそれは、やや大きめの丼の形をした瀬戸物の器だった。蓋がしてある。だんまり男はそれを千尋に差し出す。千尋はその器を受け取り、膝の上に置いた。
(…天丼?)
男は千尋を恐る恐る少しだけ見ると、器の方にじっと目をやった。
「開けていいの?」
だんまり男は黙って小さく頷いた。千尋はその蓋をそっと開けてみた。
開けた次の瞬間、千尋は反射的に蓋を閉じた。蓋を持っていた半身の神経が引きつるように痛んだ。中身を一瞬見ただけで、それは千尋の脳髄に鮮明な嘔吐感を送り込んだ。千尋は、胃酸が逆流するのを堪えた。
千尋はその器の形状から、何となくその中に入っているものを、食べ物の一種だと想像していた。そして、手作りの料理でも作ってきたのではないかと。その千尋の予想は、ある意味で幾分か当たっていた。ただしその内容は千尋の想像の範疇を、初めて超えた。そこにあるものは、小さな頃から、台所や、不潔な駅の洗面所で、もしくは、長く掃除されていない廃ビルの隅で、よく見ている。もっとも、よく見たことはない。それはそこにあることが、納得のいかないものだ。何故か彼らは、平気な顔をして、まるで自分達が先客だとでも言う尊大な態度で、長く人類と同居している。そう、あの、触覚を持った、虫だった。
無理を要求する客はこれまでも無いわけではなかった。たとえば、自傷行為を要求する。そういったものは千尋は単純に、冷静に断った。無理です、と静かに話し、納得してもらい、帰ってもらった。だが、今回のような場合は、一体どうしたらいいだろう。彼は、初めから自分の要求は受け入れられるはずがないとわかっている。それでもおそらく、この密かな恐ろしい願望に支配され、束縛され、きっと大変な孤独を感じてきたに違いない。そうでなければ、これほど静かに沈黙できなかっただろう。
そこに入っていたのは、一匹、二匹ではなかった。本来そこにいないはずの、歪な触覚を持った不潔なそれが、わさわさと、数え切れないほど、ひしめくように、動いていた。それは、いうなれば…
(ゴキブリ丼…)
千尋は思わず嗚咽してしまった。一瞬その光景を見ただけで、脳に焼き付いてしまった。おそらく、その絵を生涯忘れないだろう。器の中にいるそれは、どれも生きている。すぐに蓋を閉じなければ、何匹か逃げ出しただろう。そもそも、この男は、これだけの数を、一匹一匹、集めたのだ。千尋は太ももに不自然な痛みが走った。思わず膝に乗せていたそれが転がるのではないかと、あわてて左手をしっかり沿える。
少し、落ち着こう。千尋は、息を整えた。大げさな程ゆっくりと、息を吸い、胸に手を当てて、吐いた。胸を覆っている金属の板が自分を締め付けるのを感じた。その様子を、だんまり男は静かに見ている。
「それで、…これを、どうしたいの?」
「食べて…」
だんまり男は、紙袋に入っていた残りのものを、これまでより遥かに積極的な態度で、取り出した。調味料、箸とフォーク、ペットボトルの緑茶が入っていた。千尋は、背筋が凍りついた。この男は、本当に、本気だ。一瞬の興奮ではない。千尋は、逃げるしかないと感じた。
「申し訳ないですけど、あまりに無理なことは、お断りさせて頂いているんです。もちろん、勇気を出して打ち明けてくれたのはわかっています。ただ、私聞いたことあります。パフォーマンスでこれを食べた人がいたみたいだけど、しっかり焼いたのに、その後お腹の中で、その…、だから、無理です。わかるよね?ごめんなさい。」
男は黙ったままだ。席を立とうともしない。どうしたらいいだろう。
「ええと、これは、お返ししたらいいかな?まだ時間が残っているけど、…」
丼を返そうとしたが、男は受け取ろうとしない。
「お願いします。食べてください。」
「ごめん、それは、無理だから。」
「それは、この虫たちが、不潔だからです。きっと、こんなものなくなればいいのにとかの、穢れているから。だから嫌いなんですよね?食べたくないって、当たり前だ。ぼくだって、食べたことなんかない。食べたいとも、思わないよ。」
「じゃあ、やめようよ?」
「マヨネーズも、持ってきた。」
「だから、えっと…」
男は急に席を立った。その場でバタン、バタンと飛びはね、地面を強く踏みつける。故障したロボットのようだ。初めから千尋は何となく、そのだんまり男の目つきや仕草に気になるものを感じていた。きっと彼は、何かしらの致命的な情操の欠陥を持っている。
「お願いします。これがないなら、ぼくはどうしたらいいの?」
「やめて、ちょっと…」
男は千尋の手にあるそれを奪い、千尋の目の前で蓋を開けた。途端に2匹、3匹のそれが勢いよく飛び跳ねてきた。
「きゃぁっ!」
「ほら、これだけ集めたんだ。一匹一匹、拾って集めてさ。大事にしてくれよ、ねぇっ!」
「やめて、お願い」
千尋は椅子から転がって、地面に勢いよく膝を打ち付けた。すぐに立ち上がり、部屋の隅へ走った。相手が言うことを聞かなければ非常ボタンを押す。だんまり男は千尋の手首を掴み、引き止める。
「待って、やめてくれ!そういうつもりじゃない」
「じゃあ、どうしろっていうんですか!」
千尋は大声をあげた。馬鹿げている。千尋は男の手を振りほどいた。千尋の大声に、男はびっくりして、急に手をだらりとして、違う方向を見た。器から出てしまった何匹かのそれは、床に硬直し、その気味の悪い触角を動かしていた。男はよたよたと部屋を歩いて、それを手で静かに拾い、器に戻した。千尋の目は充血している。
「どうしろって、…やっぱり、無理なんだ。いやだ、そんなの」
男は、器を手に持ったまま、その場でぶるぶると震える。千尋はそんな男の様子を、壁に寄りかかりながら、見ていた。急に疲れを感じて、その場にしゃがんだ。そのまま、しばらく時間が流れた。千尋の髪はくしゃくしゃだった(いつもの髪触り男に散々髪を触られたため)
「食べなくても、いい。」
まるで仕事を放棄したように、しゃがんだまま反応のない千尋に、だんまり男はゆっくり近づいていった。
「食べなくていいから、とにかく、この中にあるこれを、ちひろさん、できる限り、受け入れてください。この中にいるこれが、ぼくなんだ。ぼくは、誰からも嫌われて、穢れている、いつもいるのに、いないものとされる。ぼくは虫なんだ。ぼくを受け入れてください。」
「どうして、そんなにあなたは、気持ちが悪いの?」
「お願いします。なんなら、見るだけでいい。残った時間、じっと目をそらさないで、器の中のものを、みてください。ぼくたち男を見るように、眺めてください。」
千尋は、そんなことに悩んでいるわけではないのだ。
「仮に、本当に食べなければいけないのなら、私は食べることもできる。」
「…え?」
「もちろん、食べない。だけど、食べるしかないなら、きっと食べる。」
「じゃあ…」
「そんなことじゃないのよ」
気がつくと、千尋の目つきは、いくらか恍惚を浮かべていた。彼女は自らの下半身、その小さな肉の筒を守る厚い脂肪の膨らみ達に、そっと手をやった。それは、ぼうっと熱を帯びている。
(こんなこと、私は望んでいない…)
千尋は自分に言い聞かせる。しかし千尋は、しっとりと静かに、濡れていた。
(こんな興奮、待っていたわけじゃない…)
だんまり男は、千尋を見つめる。
「ねえ、食べてくれる?」
「いいえ。でも、見るだけなら。」
「…本当に?」
その後の時間は、人の作る光景としては、いささか不気味であった。椅子を片付け、床に二人、向かい合って座り込んだ。真ん中に、丼を置く。
「じゃあ、開けるね?」
「待って…」
「え?」
「いいよ。開けて」
男が蓋を開けた。千尋はぐっと唇に力を込めて、その器の中を凝視した。それは、何度も見てきたはずだが、全ての瞬間が始めてみる映像、とも思えた。常にガサガサとしており、電波の途絶えたテレビのノイズのようでもあった。無数の虫たちの乱雑な手足の絡まりが、動きが、複雑怪奇に自らの脳裏に流れ込み、千尋の神経を掻き回した。数秒で、千尋は顔をあげ、荒い息を吐いた。頬に汗が滴っている。器から出たものは、男がすぐに拾い集める。
千尋は息を吸い込み、水面に潜るように、再びその虫の群れの中に意識を落とし込んだ。おそらく、このような経験は、生涯なし得ないだろう。彼女はある意味、興奮していた。いつも静かな彼女が、今日は積極的だった。じっと眺め、無理矢理に、彼らと精神を同化しようと、努めた。一度やると決めると、彼女は真面目だった。しばらくすると、急に胃酸がこみ上げてきたが、無理に飲み込んで、続けた。このまま最後までいこう。
集中が高まり、器からでている虫が、拾われていないことに気がつかなかった。何匹かが、床に着いた千尋の手の甲から腕へと、上ってきた。千尋は、それを払うことなく、ただ器の中だけを見続けた。そのうち、千尋の首の後ろ、うなじにねっとりと粘ついた男の舌が伸びてきた。彼が、チロリ、チロリと舐めている。
(え…?)
気がつくと、自分は男に後ろから抱擁されていた。首筋をじろじろと、嘗め回されている。
千尋は自分を抱擁する両腕を振りほどいて立ち上がり、男の方を見た。首にはだらりと涎がついている。男は目を大きく開いて、千尋をじっと見ていた。千尋はだんまり男の頬を思い切り平手で打った。バチンッと大きな音が鳴る。そして怒りの混じった静かな声で男に言った。
千尋はそれまでの我慢が切れたように、顔を真っ赤にした。背中にはじっとりと黒いガソリンのような汗が滲んでいる。鉄の板が擦れているためだ。
「あなたは、私にこの器の中のものを、愛して欲しい、受け入れて欲しいって、言った。あなたの望みは、そういうものだったのでしょう?それだけを打ち明けられずに、悩んでいた、そうではないの?」
「それは…」
「そうではないのね。じゃあ、私の今までしたことは、何なの?あなたが今していることが、あなたの望みなら、最初からできたのではないの?」
「君がしてくれたから、ぼくの心を押さえつけていた何かが、解き放たれたんです。そういうものですよね?おかげで、ぼくは自分のもっと素直な思いを、発揮できると思った。」
「何それ。…つまんない」
「そうではないの?自分を封印しているものが、ある。その鍵をみんな、探している。同じだよ。君のその、鍵穴だって、そういうことだろ」
「鍵穴…?」
饒舌になっただんまり男は、手をぶらぶらさせた。
「私の鍵穴…?どうして、私のそのことを、あなたは知っているの…?」
「ねえ、あなた、誰の知り合いなの?私のことを知っていたの?初めから…」
「いや、待って、違う」
「時間ね。お帰りください。」
急に事務的な口調になり、千尋は冷たくいい放った。男は床にいるそれらを拾い集め、荷物をまとめた。千尋の肩に一匹残っていた。
「とっていい?」
「うん、取って。」
帰り際に、男は振り向いて言った。
「また、きてもいい?」
「どちらでも。お待ちしております。」
「ぼく…、おれ、甲斐っていう、名前です。ひょろひょろだから、学校だと、カイワレって呼ばれてた。覚えて、くれますか?」
「今日は楽しかったわ。カイワレさん。またね」
「うん、また。」
四、
蒸し暑い日が続いていた。浴室の天井には密かに蛞蝓が這っていた。千尋はそれに気づかず呆然とバスタブに浸かり、ざわざわと騒がしい夢想に耽っていた。
千尋は風呂によく入る。彼女の配信以外で好きなものは1に睡眠(ただし長くは眠らない)2に空想すること、3つ目が入浴だった。脱衣所の壁には鋼鉄の胸板が静かに置かれている。外されたばかりのそれは彼女の一日分の汗と油を吸いきれず、腐りかけの生魚のような悪臭を匂わせていた。定期的に手洗いをしているが、忙しい日や気分が乗らない日は何もしない。彼女は体臭をすら気にしなくなっていた。所詮浮世のことである。
バスタブから上がり彼女は洗い場に立った。彼女は風呂場でイスを使ったことがない。彼女は非常に髪が長かったが、髪を洗うのは面倒くさかった。全体に満遍なくシャンプーをつけるとバサバサと過剰に泡立て、真っ白なモグラのようになった。その様子を薄目を開けて鏡で見ると、再び目を閉じてゴリゴリと頭皮を掻き毟った。口の中にシャンプーが入り、唾ごと吐き出した。鬱陶しい泡はさっさとシャワーで洗い流す。トリートメントはしない。
そして身体を洗う。どちらかというと身体を洗う方が好きだった。彼女は立ったまま、石鹸のついた小さなタオルで全身を丁寧に撫で回していく。胸の部分は時間がかかるので最後にしている。それ以外のわかりやすい部分から順に仕上げる。彼女は股間を洗うために、洗い場全体を跨ぐほど大きく、両足を開き、蟹股になった。それは、一般的な女性は勿論、男性であっても取らない滑稽な所作であったが、ごく幼い頃から、彼女は何の違和感もなくそうしてきた(秘密のため他人と入浴する機会も無かった)つまり彼女にはその体勢が何の矛盾も無い自然なその部位の洗い方であった。両足を真横に開き、片手を壁に沿えて軽く身体を支え、天井を仰ぎながら、もう一方の手でその複雑な形をした肉襞の渓谷を丹念に磨く。洗いながら、千尋は浴室の天井に蛞蝓が這っていることにようやく気づいた。彼女は悲鳴をあげることもなく、それをどうしようとも思わなかった。ただ、目の神経の奥にその不愉快な生き物が入り込むのを感じ、滑るような不快感を感じた。雑音で意識が一瞬途切れる。
胸を洗うのを忘れたまま、石鹸を洗い流し、再びバスタブに入った。手のひらで浴槽に浮かんだボウフラのような何かを取り、外に捨てる。入浴は好きなはずだが、今日は落ち着かない。暑さのせいなのか。千尋はもう少し満足感を得ようと無理に深く潜り、深呼吸した。脇腹の小さな乳房が一瞬じわりと痛んだ(たまにある)気がつけば30歳の誕生日を過ぎていた。自分は一体、何をしているのだろう?唐突にこんなつまらない疑問が浮かび、すぐに打ち消した。甲斐(カイワレ)はあの日以来、全く店には顔を出さなかった。その翌日にすぐさま現れようと、もしくは店をでてからすぐに再び指名を取り直して目の前に戻ってこようと、千尋は構わなかった。彼が何者であるのか、わかってしまったから、特別楽しみにする対象ではなくなった。ただ、一通りを知ってみて、冷静に彼の無防備な心を見つめてみると、決して嫌いというわけでもなかった。あの日に彼に“要求”されたことそのものによる、精神的な傷は決して癒えなかったが、自分のことを心の底から恐れながら必死に懇願する(そのように見えた)彼の姿は、思い浮かべると、どこか微笑ましかった。また彼は、私に同じ“要求”をするのだろうか、それともその後に彼の行った「より素直な欲求」の続きを行おうとするのだろうか。対した歓心もなく千尋はそんなことを考えた。
浴室から上がると居間には真琴がいた。彼女は胸元が大きく開いた、いわゆるメイド服(街頭でチラシを配るアルバイトが着用させられるそれであるし、千尋も「お伺い屋」で何度も着用している)をこんもりと全身に被り、居間のテーブルにずんぐと重そうな腰を下ろして不潔極まる小汚い尻餅を付きながら、片手に缶チューハイを持ち、足の指をビラビラと乱雑な方向に開いた状態で、その場に放り出していた。真琴は浴室から上がった千尋をシナチクの臭いがする中年男性が年下の事務員の女性にその道徳を破壊することに快楽を見出すためだけの低俗な性的嫌がらせをするように、粘着質に、その湿りのある肢体を眺めやり、嘗め回した。口元にクチュクチュと涎が垂れ、舌先を血を抜かれて腐った泥鰌のようにブルブルと震わせ、陰湿に目元を緩ませている。不意の訪問による精神的苦痛を与えることに真琴は上機嫌だ。
千尋は意識を集中させその存在を完全に無視した。千尋は自らの視界に真琴の姿が映った瞬間に、真琴の脳裏にある自分自身への歪んだ要求を察知し、それを提供することが自身への辱めとなることを即座に理解した。ただし、その理解から拒否へと神経が移るまでの僅かの時間に、夥しい不快感が自らに立ち上ることを回避することには失敗した。(何故、彼女がここにいるのか?)それは、数秒かからずとも、以前の拉致とそれに伴う昏睡の時点で真琴は千尋の一切の個人情報(本名、住所、連絡先、生年月日、職歴や学生時代のサークルや過去の交際相手に至るまで)を奪い去っており、それらを情報として保管していることは把握していたから、その悪用次第で千尋に今回のような形で不意の精神的苦痛を与えにくることは容易であると考えることができた。千尋に欠けていたのは、それを真琴が実際に実行しうるかどうかについて予め精神的余地を残しておくことだった。とはいえ、それは大して重要なことではなかった。精神的苦痛には十分慣れていたからだ。
真琴は千尋のその無視の姿勢を見て歓喜に震え、その場で小便を漏らし始めた。だらだらとテーブルから尿液が滴り始め、付近に悪臭が込み上げた。喘ぎ声をあげた後で、彼女は奇声を上げ、手に持った缶チューハイをテーブルに強く、5回叩きつけた。炭酸入りのレモンチューハイが辺りに散乱し、先に放出された尿液とゆっくり混じりあおうとしていた。千尋はその一切に関心を払わず、静かにホットミルクを作り始めた。もっとも、千尋は風呂上りにホットミルクを飲むことはほとんどなかったから、行動をもって相手の存在に関心を払ってしまったことを脳内では認めざるを得なかった。
「一体何の用なのかって、あんたが聞かないようだから、あたしがしゃべってあげよう。あたしはあんたがあたしがこうしてここに勝手にきて、勝手に冷蔵庫の飲み物をあけて、テーブルの上に汚いケツを放り出して、しかもおしっこまで垂れ流していることに何の興味も関心も抱くまいとしながら、心の中が動揺してしまっていることに気づいているよ?そして、その今のあんたの反応はまさにあたしが何度も想像して興奮し、今かと望んでいた理想の姿だからね。あんたはあたしに対して墓穴を掘ったんだということを、あんたの耳に放り込んでやろう。これを聞いてあんたのかわいい脳は、どんな苦痛を感じる?それでも、一切クチを開かないことができるのかい?あたしはあんたが何度も絶叫して、痛みに悶え苦しむ様を見ている。いってみれば恋人のように、激しく睦びあってしまったような中だと思わないか?なぁ、何かいってみろよ。またあの『ヤギの乳搾り』をやってあげてもいいんだぜ?どうせ、『もしかすると私はもうすっかり心を奪われてしまって、あのことから逃れることができないのかもしれない』なんてぼんやり妄想して、興奮したりしているんだろう?」
千尋は出来上がったばかりのホットミルクを頭からかぶった。高熱の白液がかかり、顔面から首、肩、背中へと瞬時に皮が捲れるようなヒリヒリとした痛みが走った。辺りにミルクが散乱する。そして千尋は全力でその場に放尿を始めた。ジェット噴射の如き勢いでその場に人の体液が放出され、ミルクとの華麗なフロマージュが作り出されようとしていた。真琴はその様子と、辺りに込み上げる悪臭に緩んでいた目元を僅かに締め上げた。相手の挑戦的態度に、苛立ちを覚えた。
「放尿には放尿ってことかい?それは無視に続く2ターン目のあんたのあたしへの攻撃ってわけだ。悪いけどあたしはあんたと『どちらがより人間を捨てられるか』の根競べをするつもりはないんだ。少なくとも今はね。もう少し話をシンプルにしようじゃないか。あんたはちょっと、あたしに対して身構え過ぎていると思うよ?なぜならあたしはあんたについてあまりにも『知り過ぎている』からね?あんたにとってはあたしがここにいることは、自分の内臓が新宿や上野の交差点に放置されていることよりも恥ずかしいってことなんだ。それほど深くあんたの心をえぐりだしたあたしが、まさか普通に『ちょっと面白い遊び』をしようとあんたを誘いに来るとは思わないだろう?言ってる意味わかるかい?ちょっと急ぎ過ぎたね。ようするに、クチを開いて欲しいんだ。その瞬間にあたしはあんたの恋人から、ただの遊び友達に成り下がるかもしれないんだよ?」
真琴は話しながら、空になったチューハイの缶を指先で強く握り、潰そうとした。想像よりそれが固く潰れることがないことと、千尋のミルクによる攻撃への苛立ちから不意に僅かな破壊衝動が起こり、その缶を千尋の顔目掛けて投げた。
中の液体がなくなり軽くなった缶は放物線も直線も描かず、やや物足りない曲線を描いてその場に落ちた。からんと床に当たる音がするが、その瞬間千尋は足の小指を冷蔵庫の角にぶつけていた。それは想像より強くあて、またかなり爪を伸ばしていたところを抉るように当たったため、痛みは大きかった。
「痛った…」
千尋は小声でつぶやいた。それは痛みのあまり「思わずつぶやいた」という類のものではなかった。どちらかというと、満員電車やラーメン屋、もしくは定食屋などで大学生(自意識の解消が不完全である)が『これが粋である』と思わんばかりに、自分なりのだらしのない中年の所作を無理に真似て見せるような(たとえば、口を開けて音を立てながら食べる)わざわざつぶやくほどではないものごとを大げさに実況してみせる、そんな周囲にぎこちなさをいだかせる不自然なつぶやきの一種であった。そしてその不自然な3度目の攻撃は、真琴に効果的な刺激を与えた。
「やかましい縛りは解消しよう。あたし達はあんたを正式な仲間として招待したいんだ。それは会員制の倶楽部みたいなもの、あんたは『お伺い屋』で働いているだろう?そうして数多くの客を相手にしてみて、大概の男共の考えていることのつまらなさを嫌と言うほど感じている。あたし達がやっている倶楽部は、そんな生易しいものじゃない。本当に自分だけの妄想に囚われて、その願望を叶えたくて仕方がなかったから来た、もしくはあんたみたいに、どうにもならない気色の悪さを生まれながらに持ってしまったのもいるよ。ようするに生粋の変質者達、化け物達の集まりだ。あんたが配信で相手にしてきた気の弱い連中とは違う、本気で自分の願望を実現することだけを考えている、身勝手極まりない連中さ。どうだい?興味がわいてきただろう?」
千尋は冷蔵庫の横にしまってあったサランラップを取り出し、それをビリビリと拡げて、体に巻きつけ始めた。真琴は何も感じない。完全に見当外れの行為に走っていることを千尋は初めからわかっていた。その千尋の暴走は、真琴の語りを耳に放り込まれることが不本意にも効いてしまっていることを意味するものであった。千尋の精神は相手の侵食行為を許してしまった屈辱に行き当たり、加えて数度に渡る奇行がもたらしたごく一般的な意味での結果への後悔が込み上げ、激しい動揺が直接肉体にダメージを与えた。足の小指の痛みもある。
「ああ…!」
千尋は悔しさで声を荒げた。そして、その場一切を置き去りにして、その場で素裸になり、浴室へと飛び込んでいった。真琴はそこまでを見て満足し、胸元から小さな紙切れを取り出してテーブルに置いた。
「場所はここに書いてある。あんたのことは向こうに顔写真も、名前も告げてあるから、行けば案内してくれるよ。わかっただろう?あんたはあたしのやり方次第で、いかようにも痛めつけられるということが。抵抗しても無駄なんだ。当然あんたはこの紙切れを捨てようとするだろうが、結局ここに来ることになるだろう。何故なら、もう満足できないからだ。ちなみにね、あの男もここにいるよ。それがわかったらもう、戻れないだろうな。ただし一度来たら、あんたはあたしたちの倶楽部のルールに則って、厳しいテストも受けなきゃいけない。じゃあ、今日は帰らせてもらうよ。」
五、
蒸し暑い日が続いていた。千尋は歩きなれた大理石の遊歩道を渡り、日頃自身の背後に付き纏い続ける異常者(変質者)達のねっとりとした視線を地肌に感じていた。彼らは彼女の純粋な崇拝者であるらしく、確認する限り至極無害であった(有益でもなかった)慎重な彼女は彼らの存在が認知されてから数日間、その挙動を潰さに観察した(それは概ね彼女の思考の自然な働きによるもので、自身の能動的な意識の揺らぎから離れているものの、まったくの無意識ではない。有意識と無意識の境界があるとするならば、それはそれらのほぼ境界上にある出来事であった。)それは薄気味が悪いとも思えたが、その気味の悪さの正体は単に彼らが正体不明であることにより、彼らの空想する世界の姿が彼女の想像をはるかに超えているかのように思われることにあるらしいことに気が付くと、途端に脅威の程度が薄まることを感じた。ある日千尋は不意に彼らの目前で衣類を脱ぎ、彼らの空想があくまで有限世界(それもごく狭い領域)に収束することを視認した。観察で得た彼女の結論は単であり、ただ、
(かわいい)
…彼らにはその一言以上の言葉を与える気が起らない所まで考えを進めると、それ以上の思考を停止することとした。千尋は″思考すること”より″思考をやめること”に自信と拘りを持っていた。それは思春期に差掛り自身の個を自覚した十代の頃から一貫して彼女の自意識の領域に留まっており、高等学校の卒業文集の寄せ書きに「我思わず、ゆえに我はない」と書き残したほどだった。ようは「考えることができる」ことより「考えないことができる」ことの方が上等な知性だと思っていたのである。
そんな彼女の一風独特な知性が無関心を装った善意の他者の内心の興味を惹きつけたことは少なくなかったが、彼らの全ては彼女の本質が「思考しない」ことにあるまでは到達するものの、その彼女より「考えない」ことを考えすぎた結果、考え込んだままの姿で石のように固まってしまい、それ以降自ら思考することができなくなってしまうのだった。そして彼らは彼女の生み出した第2、第3の石像として、彼女の渡り廊下(大理石の遊歩道)に並んで安置されていた。
(私は機嫌が悪い)
千尋は丁寧に並べてあった10数体の石像のいくつかを拳で殴り、奇声をあげた。背後の崇拝者達はその様子に瞬間驚き、硬直した顔面をさらに引きつらせたが、その後彼女の取った行動によって興味はすぐに単純化されていった。
(私は何をしているのか)
上半身を晒し、ひらひらと(いつも通り脇腹にある)萎れた瓢箪のように小さな乳房を揺らし、指で弾いて見せた。ピンと小さな音がなると半身には短くやや強い痛みが走ったが、たいしたことはなかった。その小さな第3の乳房によって彼らの空想はただ単に崩壊し、ただ、その小さな恥物が末永く揺れているかどうかだけが己の関心であることを認めさせられた。そんな彼らが自らにより安易な好奇の視線を向けることを感じ、千尋は興奮した。勿論「かわいい」ことへの興奮であり、それ以外の感覚はない。
(つまんないことがかわいい)
彼女の不機嫌には理由があった。派遣会社を離れ「お伺い屋」で働き始めてから約一年、千尋の評判はあがっていた。日々限りなく、創造性に乏しい幼稚な要求に付き合うばかりであることは相変わらずだったが、その中、彼女の振舞は特にある種の偏向を持った癖人達に気に入られたのである。それは彼女に日々付きまとう崇拝者達の興味とは本質が異なり、それ故に彼女を参らせていた。彼らは彼女の「意識の流れ」に関心を寄せていた。
「君は、俺のことを気持ちが悪いと思っているのに、どうしてそれを言わないのか、あと、そうやって俺が質問した途端に《じゃあ言う》と受け身になることは失礼だからやめてほしい。それから、今から言うことを必ず次回まで覚えていてほしい。今度聞くから」
千尋はそんな風に彼女の意識を追いかけてくる客を「脳が厄介なタイプ」と呼び、嫌悪した。彼らは大抵彼女よりやや高度な言語力を持ち、それによって追求から逃れようとする彼女の意識の流れを掴み取り、意のままに支配した。何より苦痛を与えたのは、そのやりとりによって彼女は安易に「相手に掴み取られる」ことも許されなかったことである。千尋は相手の追及に可能な限り「考えること」によって抵抗し、その果てに相手の理論によって意識を追い詰められ、屈服する必要があった。そうならず、うかつに抵抗し続けてしまったり、何も抵抗しなかったりすれば、客は心底失望したと言い残し、それきり姿を現さなかったり、中には中傷を始めるものもいたのである。客に失望される痛みは彼女の意識に酷く堪えた。
「あなたにとって、私はどうしたらいいの?たとえば、ゴキブリを食べてくださいっていうお客さんもいた。そういう望みがあるなら言ってほしい」
意識を無理な方向に動かされることによって混乱させられ、極度に緊張した状態の千尋が降参の涙を浮かべ始めると「脳が厄介なタイプ」はようやく少し満足気な顔をした。それが彼らの嗜好であり、それを充足させる技術を備えているものは「お伺い屋」においてもごく少数の他になかったのである。
そして、評判がどこで広まったのか、そんな「脳が厄介なタイプ」の客はここ数週間で増え続けていた。「意識を逃がす」ことの許さない彼らの相手をするごとに千尋は酷く心を消耗し、数時間の休息程度では癒えない傷を受けていた。
(休みはいらない。刺激がほしい。あの大馬鹿どもに飲み込まされた薄汚いものがすべて腹の中から消えてしまうような。)
そして彼女は小さな自動販売機(手回し販売機)の前に足を止めた。お金をいれてハンドルを回すとカプセルが出てくるものだ。子供の頃、幼馴染と少し遊んだ記憶があるが、それ以来この機械に目を留めたことは一度もなかった。彼女が足を止めたのは、たまたま目についたことと、刺激を求めるために「あえて」という気持ちもあったが、何よりケースの表面に書かれていたことが気になったからだった。そこには赤色の歪んだゴシック状の文字で大きく「感情カプセル」と書かれていた。
千尋はそれを見て瞬間、抗精神病薬でも入っているのではないか、と思ったが、それなら遊んだ子供はがっかりするだろうとも思った。「感情カプセル」とはいかなるカプセルなのか、千尋は大して興味はなかったが「あえて」の気持ちを持続して、少し考えた。よく見ると、赤色の大きな文字の下に小さな黒い文字で説明が書かれている。
《感情カプセル:1回500円 開けるとカプセルに書かれた気持ちが楽しめます》
《銀のシールが3枚集まったら、幸せなカプセルがもらえます》
500円は高い、と不満を持ちたかったが、珍しいカプセルだから高めなのだろうといった思考が動き、大した不満を持つことができなかった。銀のシールについては、お菓子のおまけのようでやや心が躍った。最も千尋はそういうものを集めた記憶が浮かんでこなかった。
一通り観察して千尋は、結局このカプセルを何回回そうか、という思いが起きた。全て買ってしまってもいいのではないか。そして、気に入ったもの以外は捨ててしまえばいいのでは?このままでは何かを考えすぎてしまうと思いかけた千尋は急に結論を出した。
(一回回してみて、様子をみよう。)
ハンドルを回すとガチャリと音を立てて、ケースの出口からは赤色とピンク色の半球で閉じられたカプセルが転がり出した。カプセルは彼女が想像したよりも大きかったが、透明ではなかった。カプセルには「恥ずかしさ」と書かれていた。
(いきなり「恥ずかしさ」か。まさか、コンドームでも入っているのかな…)
千尋は即座に自分の類推が進んだことにいささか「恥ずかしさ」を感じたが、それは自身の確信的な遊戯だったことに気が付くとすぐに白けた気持ちになった。あまり期待しすぎるのもよくない、千尋はカプセルをあけてみることにした。
(なんだ、下着か。つまらないな)
中には女性用の下着が入っていた。女性用、というより女児用というべきで、それは子供らしいキャラクターのデザインが入っていた。千尋はそのキャラクターに見覚えがあった。見覚えどころか、それは彼女の大のお気に入りであった。大人になった今でも身の回りにそのキャラクターのグッズを置いているほどだ。
(かわいいな。私も昔はこんなの履いてたな)
千尋はとりあえず懐かしく、その小さな子供用下着を指でつまんで取り出す。しかし、そのように素直に懐かしさを感じようとする千尋の内心は既に、このカプセルが仕掛けていた「恥ずかしさ」の正体に気付き始めていた。気づこうとする思考を今こそ止めておこうとする意識が働き始めたのである。
(懐かしい、懐かしい。ああ、懐かしい)
千尋はその可愛らしい布片を指先で広げ、目を開いて眺めた。そうしている間にも心の底で明らかに、ある別の意識が鳴動を始めていた。
(だめ、それはでてきたら…)
目に意識を集中し、繊維の一本一本を眺めようとするが、彼女はもはや一つの明晰な記憶が呼び覚まされるのを避けることができなかった。それは彼女自身の少女時代の、ちょうどこのような下着を履いていたであろう頃の記憶だった。
(ああ…いや…やめて)
彼女は既にカプセルの「恥ずかしさ」に囚われていた。それは、「感情カプセル」が用意していた仕掛けの正体に、ある非現実的な予感を感じていたからだった。つまり、ひょっとしたらこれは、自分がかつて履いていたものなのではないか、という予感である。
(ああ…やめて…そんなはずはない)
実際、そんなはずはなかったのであるが、一度心におきた「予感」は彼女の想像力を激しく迸らせた。たとえば、誰かがこのカプセルを作る目的で子供の頃から私の履いていたものを回収していたのでは?そして、私が大人になってから、私にこのカプセルを開けさせるだけのために、ここにこのケースを置いたのでは?
(そうだとするなら、それは恥ずかしいどころか、こわいことだ)
ここまで考えたところで、自分がカプセルの仕掛けから逃れるために「あえて」極端な想像をした、という落ち着きに気が付いた。千尋は内心の動揺を感じたまま、その想像の極端さを自嘲し、このカプセルへの関心を無くそうとすることにした。
(たいしたことなかった。これきりにしよう)
そうして全ての関心をなくそうとした時、彼女は、その小さな女児用下着に自分の名前が書かれていることに気が付いた。その瞬間彼女は身をくねらせ、腹の底から響くような、激しい叫び声をあげたのだった。
掲示板
1 ななしのよっしん
2013/06/08(土) 12:52:43 ID: w6XfX5tt14
長いけどわりとすんなり読めたし、ちょいちょい吹いたわwww
よくこんなぶっ飛んだ発想を自然な感じに書けるな。
続編も期待しとくわ。
2 ななしのよっしん
2013/06/09(日) 16:35:51 ID: w6XfX5tt14
マヨネーズwwwwwww
まだ書きかけかもしれないけど三話おつ。
なんというか非現実的な空想でありながら、
恐ろしいほどに(ニコ生という)現実に対する比喩になってる気がするね。
3 近代文学
2013/06/09(日) 19:41:32 ID: QPOAhkinfv
>>1,2
読んでくれてありがとうピョ━━ヽ(^ω^)ノ━━ン!!うれしいです
なんとなく書いただけなのですが、ニコ生の比喩になっているというのは、なるほどという気がしますね
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最終更新:2025/12/11(木) 06:00
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