クロアチア独立国とは、1941年4月10日から1945年5月8日にかけて存在したバルカン半島の国である。第二次世界大戦では枢軸国として参戦していたが、戦争末期に侵攻してきた共産党パルチザンに降伏して消滅。
概要
建国まで
元々クロアチアはユーゴスラビアに属する自治州の一つに過ぎなかった。1918年12月1日に建国されたユーゴスラビア王国にはセルビア人、クロアチア人、スロベニア人がいたが、建国当初からセルビア人による専制政治が行われ、セルビア人優位の現状にクロアチア人が反発。セルビア人とクロアチア人との間に不和が生じて対立を深める。そして1928年6月20日、セルビア人急進派によってクロアチア人議員4名とクロアチア農民党の党首ステパン・ラディッチが射殺される議会発砲事件が発生。これを受けて1929年1月、セルビア人の王アレクサンドル1世は王室の独裁を宣言し、自身に反対する全ての政治活動を禁止。露骨なまでの迫害と抑圧を受けたクロアチア人はクロアチアの独立を叫ぶようになる。
1929年、議会でザグレブ州の代議士兼弁護士を務めていたアンテ・パヴェリッチ博士は独立を掲げる民族主義政党ウスタシャ(蜂起する者という意)を結党。不満を抱くクロアチア人からの支持を得て独立の気運が高まっていく。党首のパヴェリッチは前々から暴力による打倒セルビア人を掲げており、危険人物としてイタリアに国外追放されていたが、イタリアやハンガリーの支援を受けて活動。1920年代からセルビア人絶滅の腹案を温めていた。ウスタシャを恐れた中央政府は行政区画改革や新憲法の制定を行ってクロアチア人の不満を抑えようと試みたが、かえって中央集権を招いて不満を爆発させてしまう。やがてウスタシャは政府に対するテロ行為を繰り返すようになり、同じくユーゴスラビア政府と敵対するブルガリアの内部マケドニア革命組織と手を組み、ベニート・ムッソリーニ率いるイタリアのファシスト党から援助を受けるなど着実に勢力を伸ばしていく。1934年にはウスタシャと内部マケドニア革命組織が協力して訪仏中のアレクサンドル1世をマルセイユで暗殺。政府はウスタシャを弾圧したがクロアチア人のテロ攻撃は留まる所を知らなかった。
困り果てたユーゴスラビア政府はゼルビア人とクロアチア人の対立を抑えるべく、1939年に国内の一部をクロアチア自治州にして事態の収拾を図った。こうしてクロアチア人直轄の土地が誕生したが、対立問題は一向に解決せず、それどころか目先の解決策に走った代償として国内の政策に更なる矛盾を生じさせた。半独立状態となったクロアチア自治州は北方で勢いを付けていたナチスドイツに接近して関係を強化。
1939年9月3日、ドイツ軍のポーランド侵攻を機に第二次世界大戦が勃発。ドイツ軍の鮮やかなまでの電撃戦と連勝によりブルガリア、ハンガリー、ルーマニアが枢軸陣営に入り、ユーゴスラビアは周囲を枢軸国に囲まれる。ドイツからの圧力で1941年3月25日に日独伊三国軍事同盟に加入するが、反枢軸派のセルビア人の反発を招き、イギリスの支援を受けてクーデターが発生。現政権を倒して反独政権が樹立された。この事に激怒したヒトラー総統はユーゴスラビア侵攻を命令。4月6日よりドイツ軍、イタリア軍、ブルガリア軍、ハンガリー軍の猛攻撃を受け、これに呼応するかのようにクロアチア自治領も蜂起。世界最強の名を持つドイツ軍を前にユーゴスラビア軍は各方面で容易く粉砕されて敗北。4月10日16時10分、ザグレブを制圧したドイツ軍はウスタシャを支援して即座に「クロアチア独立国」の建国を宣言。首都は蜂起した町ザグレブに指定された。
4月15日にパヴェリッチ博士がイタリアからザグレブに帰還。翌日から首相の座に就いた。パヴェリッチ博士の要請で国王にはイタリアの王族であるトミスラヴ2世を即位させるが、これは形式上のもので、実権は全てアンテ博士にあった(そもそもトミスラヴ2世はクロアチア独立国に来た事すらない)。
クロアチア独立国
黎明期
1941年4月10日に誕生したクロアチア独立国は、4月15日に独伊から国家承認を受ける。4月17日、何とか戦い続けていた母体のユーゴスラビアが枢軸軍に降伏。国土はクロアチア独立国、ブルガリア、ハンガリー、ルーマニアによって切り取られていき、元々のクロアチア自治州に加え、ボスニア全土とセルビアの一部を獲得して領土を拡充。しかしパヴェリッチ博士の実権が及んだのはウスタシャ州のみであり、それ以外の地域は独伊が実効支配していた。アンテ博士は早速組閣を行って4月30日に国籍法を制定。クロアチア人以外は無国籍にされ、スポーツや映画などの娯楽が禁じられた。
政治体制はナチスドイツを参考にし、単一政党による独裁政治を実施した事でウスタシャ以外の政党は解体された。しかし彼らの前身はテロ組織だったため国家運営のノウハウは全く持っておらず、党員たちの主義主張もバラバラで、このままでは空中分解しかねない状況だった。そこで目先の目標として掲げたのが「異教徒の排除」である。ウスタシャはカトリック教の影響を色濃く受けており、思想統一のためにも異教徒狩りは丁度良い名目だったのだ。標的になったのは国内に住む190万のセルビア人、ロマ人、共産主義者、ユダヤ人たち。「劣等で危険な人種」である彼らを一掃し、純粋なクロアチア人国家を作るのがクロアチア独立国の最終的な目的となった。まず彼らを収容するための絶滅収容所を国内の約70ヵ所に設置。収容所の設置はあの師匠のドイツよりも早かったという。同じくユダヤ人を敵視しているカトリック教会はウスタシャを献身的に支援。ウスタシャに派遣した聖教者を幹部党員にして基盤の薄い政党を支えた他、聖教者を関わらせる事で異教徒の排撃に正当性を持たせた。
一方、枢軸軍の侵攻を受けてイギリスに亡命したユーゴ国王やセルビア人は国内外からクロアチア独立国に対してレジスタンス活動を開始。特にドラザ・ミハイロビッチ大佐率いるレジスタンス組織チェトニクは早々に活動を開始し、進駐してきたドイツ軍と交戦して森林や山間部を奪取。チェトニク以外にもセルビア人によるパルチザン組織が6月22日にブレゾビカの森で組織が結成。ボスニアとダルマチアは実質パルチザンの包囲下となり守備隊に緊張を強いる。しかし同じ敵を抱えるパルチザン組織と言えど主義や思想が異なるため共同戦線を張る事は少なく、むしろ敵対関係にまで発展したケースもある。
独立したとはいえクロアチア独立国は国境そのものが不明瞭な状態だった。これを解決すべく、5月13日にドイツと協定を結んで国境を明確にする。5月18日午後12時30分、イタリアからの圧力を受けて協定を締結。国境を接するイタリアはクロアチア独立国の影響力を最小限に留めようと、クロアチア独立国海軍が小型巡視船しか持てないように仕向けた。一方で海岸線の軍事的支配権を与えたり、セルビア人迫害をイタリア軍が手伝っている。パヴェリッチ博士はこの協定に署名した後、独立を支援してくれた独伊に公然の場で感謝を述べた。6月15日、粉砕されたユーゴスラビアに代わって日独伊三国軍事同盟に参加し、大日本帝國とも関係を持つ。続いて日独伊防共協定にも参加。
ドイツ傀儡国の印象が強いものの、ドイツ占領地域では最も大きな自治権が与えられ、主に枢軸国と少数の中立国から国家承認を受けるなど一国家としての基盤を十分に築けていたと言える。また日本との関係は良好で国交樹立も行われている。しかし国境を面する同盟国のイタリアとは領土問題を抱えていた。大クロアチア主義では自国の領土となっているはずのダルマチア地方がイタリアに占領されていたため、問題の表面化こそ無かったが火種が燻っていたのである。故に外交上の配慮から日本は長らくクロアチア独立国に大使館を設置しなかった。
1941年6月22日に独ソ戦が勃発するとクロアチア独立国もソ連に宣戦布告し、周囲の枢軸国と歩調を合わせた。ドイツ軍は対ソビエト戦に注力していたため、クロアチア独立国の治安維持と統治はウスタシャに一任。8月16日、ウスタシャに対する反対運動を抑圧するべく警察、国防、人事、情報局の部門を統括する監視局を設立。初期のパヴェリッチ博士の治世は独伊にとって不満足なものだったらしく、9月にクロアチア農民党の党首マチェクに全権を移譲するよう迫ったが、パヴェリッチ博士は拒否。マチェクも首相の座に就く事を拒否したため失敗に終わった。10月27日にイタリアと更なる協定を結び、モンテネクロに隣接する国境を線引きする。12月8日に日本が米英に宣戦布告すると、12月14日にクロアチア独立国も宣戦布告した。
1942年初頭、ボスニア中部、東部、北東部でドイツ軍、クロアチア独立国軍、その他のパルチザン組織に挟まれて身動きが取れなくなったチェトニクは状況を打開するため一度ドイツに接近するも失敗。次にクロアチア独立国へ接近し、5月28日に条約を締結。武器の供出と負傷者を病院に収容する見返りに、チェトニクはウスタシャ州での敵対行為を停止し、他のパルチザンを協同で掃討する事で合意した。この条約によりウスタシャ州はパルチザンの攻撃に悩まされる事が無くなり、チェトニクは弾薬と武器を潤沢に補給出来るようになるという両者win-winの条約だった。パルチザンとの戦いで発生した未亡人と孤児は手厚く保護され、チェトニクの司令官が推薦すれば強制収容所から釈放されて家に戻れたという。この条約はドイツ軍も黙認していた。
軍備
独立を宣言した翌日の1941年4月11日、アウグスト・マリッチ陸軍総司令官の指揮のもとクロアチア郷土防衛隊が発足。ユーゴスラビア王国軍を手本とし、国土をサヴァ地区、オシイェク地区、ボスニア地区、ヴルバス地区、アドリア海の五地区に分け、担当を設定した。4月30日に独立国軍の憲兵隊が発足し、6月26日にウスタシャの管轄となった。それに伴って治安警察組織との統一化が図られ、国内のパルチザン掃討に投入された。憲兵隊の拠点はパルチザンの襲撃を受けやすく、1942年4月17日までのおよそ1年間で283名の将兵が戦死。192名の負傷者と245名の行方不明者を出している。
クロアチア独立国軍は陸海空の三軍を有し、陸軍は10~15個の歩兵及び山岳師団を保有。ただ1個師団約5000名程度で、旅団相当だった。海軍は5000トン以下の艦艇しか持たない沿岸警備隊レベルで、空軍もユーゴスラビアから戦利品として得た旧式の航空機や装備が中心だった。他にもウスタシャ、武装親衛隊、ドイツ軍内のクロアチア人部隊を戦力として保持。戦力に乏しいせいか、国軍の主任務は治安維持だった。ウスタシャはアンテ博士の私兵同然で、セルビア人の虐殺にばかり傾倒。加えてウスタシャと国軍は犬猿の仲という有り様。唯一切り札となりえたのはドイツ軍が教育を施したクロアチア人部隊くらいだった。一方で空軍は独ソ戦に参加している。
また母体(?)のユーゴスラビアには降下猟兵部隊があった事から空軍内で降下猟兵部隊の創設が叫ばれ、1942年1月に第1軽歩兵降下部隊が結成された。空軍からの志願兵で構成されているが、入隊するには健康診断と体力テストに合格する必要があった。ゴブリブニツァに養成学校を建設したが、友邦ドイツのヴィットシュトックで学ぶ事もあった。しかし1942年12月19日の降下訓練で2名の訓練生が墜落死し、訓練は一時中止。ユーゴスラビア時代の装備では性能不足であると思い知らされ、ドイツから新鋭装備を供与して貰う事になった。1943年7月6日、アンテ博士やスロバキア空軍の代表団が見守る中、ザグレブで降下演習を実施。無事45名の隊員が降下に成功し、クロアチア独立国は降下猟兵部隊を手にした。
ユーゴスラビアから戦利品で得た航空機を使い、空軍は独ソ戦に参加したりパルチザン掃討に加わっている。東部戦線では1500回以上に及ぶ出撃と283機のソ連軍機を撃墜した戦果が残っており、1942年12月からは国内のパルチザン掃討に参加。侵入してくるイギリス軍機やアメリカ軍機、ソ連軍機を旧式機のみで迎撃しながら度々勝利するなど高い能力を示し、クロアチア独立国が降伏するその時まで戦い続けた。
民族浄化
クロアチア独立国はこれまでの恨みを晴らさんとばかりに、セルビア人虐殺を宣言。ウスタシャはセルビア人系住民を民族の怨敵とし、「セルビア人問題解決」を国の最重要課題に定めた。これにはカトリック教も加担しており、親衛隊の隊長兼司祭のイヴォ・クヴェリナも教義を例に挙げて虐殺を推進した。またドイツと同じようにユダヤ人を迫害し、強制収容所へ送った。更に反ファシスト派のクロアチア人まで収監された。クロアチア人と同盟国の者以外は、人間扱いされなかったのである。特にセルビア人への憎悪は凄まじく、ありとあらゆる方法で追放ないし処刑が行われた。処刑道具は50個に及んだ。その凄まじさたるやバルカンのアウシュヴィッツと形容されたほど。この徹底した殺戮劇にはドイツもドン引きし、信頼失墜に繋がる事からクロアチア独立国に自制を呼びかけたが、効果は無かった。あまりにも犠牲者が多すぎて、その数は計測不能。一説によると最大で100万人に及ぶという。
1942年には大規模な軍事パレードを実施し、隆盛を極めた。1月14日にはドラクセニチ村でセルビア人の掃討作戦を行った。司令官から話があるとの名目でセルビア正教会内に集められた村民は片端から虐殺され、200人の女子供が犠牲になった。また、ヤセノヴァツ収容所の周辺にはセルビア人が沢山住んでいたが、徹底的な掃討作戦により、5月8日に駆逐が完了。武装ウスタシャは大人だけを殺害し、子供は餓死するよう仕向けた。クロアチア独立国内にいたドイツ軍中尉は、親を亡くした数百人の子供が青空の下で水と食糧を求めて泣いている姿を見かけたという。再教育のため、収容所に送られた孤児も大量にいた。幸運な乳児はクロアチア人家族に引き取られたが、ヤセノヴァツ収容所だけでも1万9431名が獄死した。
ユダヤ人も迫害対象となっていたが、国家に貢献したユダヤ人はパヴェリッチ博士によって「名誉アーリア人」とされ、迫害から保護されている。このように片端から絶滅させていた訳ではないようだ。
滅亡への道
クロアチア独立国があるバルカン半島は最前線から離れていた事もあり、しばらく戦火に焼かれる事は無かった。1943年9月8日にイタリア王国が降伏すると、お飾り国王だったトミスラヴ2世が退位し、名実共にパヴェリッチ博士が全権を掌握。イタリアが脱落した事で日本はクロアチア独立国に大使館を設置。人員はベルリンの駐独大使館から抽出された。11月には旧ユーゴ領にてユーゴ共産党率いるパルチザンが蜂起してクロアチア独立国軍とドイツ軍を悩ませた上、苛烈な民族浄化で村や両親を失ったセルビア人がパルチザンに合流して日に日に規模が増大。
1944年8月、ソ連軍の侵攻で東欧の枢軸国が次々に寝返る中、ムラデン・ロルコヴィッチ外相とアンテヴォキッチ陸軍大臣がパヴェリッチ博士に対してクーデターを決行するが、失敗して2名とも処刑された。このためクロアチア独立国は最後まで枢軸側に踏み留まる事になるが、もはやソ連軍による国土侵攻は避けられず、1945年初頭までに国軍はドイツ軍とともに首都ザグレブまで後退。だがチトー率いるパルチザンの攻勢は凄まじく、国内に残っていた部隊やウスタシャの要人もオーストリアへ撤退した事でクロアチア独立国は実質形骸化する。一方、パヴェリッチ博士は僅かな手勢とともにザグレブに残って勇敢ながらも絶望的な抵抗を続けた。降伏寸前の4月29日、ザグレブ市内で昭和天皇の誕生パーティが開かれた。
そして1945年5月8日、共産党パルチザンが本拠地ザグレブに到達して遂に降伏。ドイツ軍はパヴェリッチ博士に独立国軍を率いてイギリス占領下のオーストリアを西進するよう命じたが、イギリス軍は軍の入国を拒否してパルチザンに引き渡した。しかしパヴェリッチ博士は上手く亡命に成功。行方をくらます。後ろ盾のドイツが降伏した後もクロアチア独立国は戦い続けていた。ボスニアの町オジャクにてペタル・ライコビッチ率いる独立国軍とユーゴスラビア軍が交戦(オジャクの戦い)。5月25日にクロアチア独立国軍が投降した事で欧州戦線における最後の戦いが終結した。最後まで戦い続けたのはドイツではなくクロアチア独立国だったと言える。兼ねてより準備されていたクロアチア人民解放国家反ファシスト委員会によってクロアチア連邦国が樹立。11月29日にはクロアチア人民共和国へ改名した。
戦後に独立は否定され、全土をユーゴスラビアに再度併合された上でクロアチア独立国の関係者には因果応報とも言うべき過酷な弾圧が待っていた。だが、勝者たるユーゴ共産党にもまた過酷な運命が待っていた。クロアチア人民共和国はユーゴスラビア連邦人民共和国の一部と見なされ、ソ連から内政への干渉を受ける羽目になる。やがてソ連とユーゴ共産党との意見が対立。1948年6月28日にコミンフォルムから追放され、長らく貧困に喘ぐ事になる。このような大虐殺を経てもクロアチア人とセルビア人の対立は終わらず、現代に至るまで互いを憎悪し続けている。
一方、オーストリアに亡命したパヴェリッチ博士は欠席裁判で死刑を言い渡された。追っ手から逃れるべく、イタリアやスペインを転々とし、南米アルゼンチンにまで逃げ延びた。しかし1957年4月10日、ブエノスアイレス郊外で何者かの襲撃を受け、重傷を負う。この傷が致命傷となり2年後に死亡した。
余談だが、ポーランドボールにクロアチア独立国をモチーフにしたキャラクターがいる。
国家承認した国々
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