「冷泉隆豊」(れいぜい・たかとよ 1513 ~ 1551)とは、周防国の守護大名・大内氏に仕えた文武両道の誉れ高き武将であり、陶晴賢の謀反の際に主君・大内義隆を最後まで守って奮戦し、自刃した大内義隆の介錯を行った後に、切腹して殉じた忠臣。
「冷泉」家は、藤原為家の子を祖とする和歌の師範の家柄だが、冷泉隆豊は母方の祖先が冷泉家につながると言うだけで、実質的なつながりはない。
概要
大内氏の庶流にあたり、妻がゆかりがあるからというだけで冷泉姓を名のった冷泉興豊(多々良興豊)の嫡男に生まれる。
はじめに大内義興に仕え、大内義興が没すると、家督を継いだ大内義隆に仕えた。
安芸仁保島の戦いや国府城の戦いに従軍し、出雲遠征に従軍した際は鯛浦・大根島で尼子勢と戦い、安芸の佐東銀山城主も務めた。
また、大内氏の警固衆(水軍)を統率し、1546年~1547年にかけてはしきりに伊予に出兵、河野氏や能島村上氏を破って芸予諸島を制圧、伊予から安芸、周防にかけての瀬戸内海の制海権を握った。
このように武人としての高い名声がある一方、和歌にも堪能で、筥崎宮には冷泉隆豊作の和歌が納められている。まさに文武両道の人物で、常に大内義隆と共にあった。
しかし1542年、大内義隆は尼子晴久に大敗を喫した上に、その際にお気に入りだった養嗣子・大内晴持が戦死してしまう。義隆はやる気をなくして戦争を忌避するようになり、蹴鞠や和歌等の遊興にのめり込み、京都より落ち延びてきた公家達と遊びふけるようになってしまった。
※ただし前述の冷泉隆豊の伊予出兵は晴持戦死後のことであり、必ずしも軍事を蔑ろにしていたとは言えない面もある。義隆の戦争忌避、文化傾倒については江戸時代初期成立の軍記物語『陰徳太平記』に依るところが大きく、留意の必要性がある。
教養と武人の心をあわせもつ冷泉隆豊は、そんな堕落した大内義隆を何度となく諌めるも効果が無く、義隆お気に入りの文官・相良武任と武官・陶隆房(陶晴賢)が衝突しはじめると、両者の排除を何度となく義隆に諫言したものの効果が無く、大内家中は文官と武官に分かれて一触即発の状態となった。
※同時に、相良武任と陶隆房の折衝役も担当して、家中が分解しないように苦慮していた。
陶隆房が、大友家より一度は大内義隆の養子となった経験のある大友晴英(大内義長)を再度迎い入れる約束をとりつけると、
隆房と刺し違えます
と、繰り返し陶隆房を抹殺すべきだと大内義隆に諫言したものの、お気に入りの隆房が謀反を起こすわけがないと高をくくる義隆に無視されてしまうのだった。
1551年、普段は仲良く喧嘩していた杉重矩らの協力を得た陶隆房が謀反を起こすと、他の大内家臣や大内氏についていた国人が離反していく中で、冷泉隆豊は大内義隆に従って反乱軍と戦い、義隆を法泉寺に撤退させる。さらに大津郡仙崎では船を入手し海路をとって脱出を図るも、突然の嵐にあって断念を余儀なくされる。義隆も自分の天運が尽きたことを悟り自害を決心、最期を相応しい場所で迎えるべく、大内氏の菩提寺である大寧寺まで逃走させた。
※この時、陶隆房は、大内義隆が逃げられるようであれば逃げ切ってほしいと思っていたとの説がある。
大寧寺に着くと一行は束の間の休息を得る。皆が湯漬けを食べていると、冷泉隆豊は大内義隆が隆房の討伐を許さなかったことを嘆き、はらりと涙をこぼした。それを見て天野隆良が「この期に及んで何を嘆くのか」と追及すると、隆豊は、
「仰せの通りまことにつまらぬことを申しました。返す返すも恥ずかしく思います。人は最後の一念次第で六道に流転、転生するといいます。それならば私は怒りの一念によって修羅道に生を受け、早ければ3年、遅くとも7年のうちに陶の首を取って見せましょう。もし陶が7年後にも生きていたならば、私の怨霊もなかったものとお思いください」
と言いきり、眼をかっと見開いた。その形相のすさまじさは修羅の三つ目もかくやというほどの恐ろしい有様であったという。
遂に大寧寺は陶方に付いた大内家重臣、杉重矩と内藤興盛の軍勢に包囲される。冷泉隆豊は、取り囲む軍勢に向けて義隆が自刃することを告げ、自刃するまでは静かにするように言い放った。義隆を追ってきた杉・内藤の軍勢も、隆豊の言葉をうけて義隆の自刃を見守ることとなる。その態度に隆豊は敵・味方に分かれても、彼らが同じ大内家臣であるということを深く感じ取ったという。
大内義隆が辞世の句を読み上げてから自刃を遂げると、冷泉隆豊は介錯を行い、首を陶方に渡すまいとその遺体を焼く。そして大寧寺の経蔵に立て籠もって杉・内藤軍と最後の戦いを果たした後、腹を十文字に切ってその腸をつかみだすという凄絶な自害を遂げた。
みよや立つ 雲も煙も なか空に さそひし風の 末ものこらず
※末ものこらず=陶ものこらず=陶も滅ぶ
この辞世や大寧寺で述べた言葉の通りに、数年後、厳島の戦いでの毛利元就の奇襲により、陶晴賢は自刃を遂げて陶氏は滅亡した。
※厳島の戦いの際、落ち延びようとする陶晴賢の前に、亡霊武者となった冷泉隆豊が現れたとの逸話が残っている。
大内義隆と冷泉隆豊の墓所の前の坂は「冷泉坂」と呼ばれている。
※その他「冷泉隆豊」の詳細についてはWikipediaの該当記事参照の事。
関連動画
▼大内義隆主役の替え歌歴史シリーズにて陶晴賢はぶち殺しましょうと進言する役で登場。(0:58あたり)
補足
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||||
覇王伝 | 采配 | 69 | 戦闘 | 74 | 智謀 | 21 | 政治 | 40 | 野望 | 12 | ||||||
天翔記 | 戦才 | 140(B) | 智才 | 42(C) | 政才 | 74(B) | 魅力 | 59 | 野望 | 25 | ||||||
将星録 | 戦闘 | 66 | 智謀 | 37 | 政治 | 41 | ||||||||||
烈風伝 | 采配 | 28 | 戦闘 | 51 | 智謀 | 22 | 政治 | 33 | ||||||||
嵐世紀 | 采配 | 32 | 智謀 | 7 | 政治 | 23 | 野望 | 9 | ||||||||
蒼天録 | 統率 | 32 | 知略 | 16 | 政治 | 65 | ||||||||||
天下創世 | 統率 | 32 | 知略 | 17 | 政治 | 64 | 教養 | 64 | ||||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||||
天道 | 統率 | 74 | 武勇 | 80 | 知略 | 68 | 政治 | 70 | ||||||||
創造 | 統率 | 71 | 武勇 | 74 | 知略 | 66 | 政治 | 68 | ||||||||
大志 | 統率 | 69 | 武勇 | 73 | 知略 | 66 | 内政 | 67 | 外政 | 68 |
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