「陶晴賢」(すえ・はるかた - 1521 ~ 1555)とは、日本の戦国武将である。当初の名乗りは陶隆房(すえ・たかふさ)であり、晴賢と改名したのは晩年。
概要
周防大内氏庶流の陶氏の生まれ。大内家の重臣(周防国守護代)として大内義隆の下で重きを為した。父は、同じく大内家の重臣だった陶興房。母は右田弘詮の娘。(母が陶弘護の娘で、問田隆盛の弟である養子説もある)子息は陶長房、陶貞明。(鶴寿丸という末子がいた説もある)
父をも上回る武勇と軍事的才覚を発揮し、西国無双の侍大将とまで呼ばれる。敵対する出雲尼子家と激しい抗争を繰り広げ、大内家を軍事面で支えた。
だがその強権的な政治手法と独善的な性格が周囲の反感を買い、次第に大内家中で孤立。遂には自身を抑え込もうとした当主・大内義隆を討ち、事実上の大内家の支配者となる。(大寧寺の変)
斜陽の大内家を復興させるべく各地に遠征を行ったが、義隆と同盟関係にあった毛利元就に反旗を翻されて対立。毛利家を討つべく軍を発したが、元就の策略に翻弄され、厳島にて敗北。自刃した。
生涯
第1章『栄光の初陣と出雲遠征』
1521年(大永元年)、陶興房の次男として生まれる。
陶氏は大内家の庶流であり、代々大内氏の重臣を務める名家であった。元服後は大内義隆から一字を賜って隆房を名乗り、1539年(天文8年)に父が死去したため家督を継いだ。(兄がいたが、既に戦死していた)
父である陶興房は大内家の重臣であり、武勇に優れた名将であった。隆房は上昇志向の強い性格だったために父親に追いつき追い越すことを常に志していたという。
それに加え、大内家は当主の代替わりごとに御家騒動を起こしてきた経緯があった。幸い(?)なことに、大内義興から義隆への権力継承時には何も起きなかったが、後年になって表面化する武断派と文治派の対立は、既に大内家中で燻りつつあった。このような状況下で、一刻も早く権力を握りたい隆房は、尋常でないほどの功名心と権勢欲に取り憑かれていったのである。
そんな隆房に、渡りに船とばかりに戦乱の種がもたらされる。
1540年(天文9年)、尼子晴久率いる尼子軍3万が、毛利元就の籠もる吉田郡山城を攻撃。当時、毛利家と同盟関係にあった(事実上の大内配下としていた)大内義隆だったが、尼子軍が大軍であることを理由になかなか援軍を出そうとしない。これを隆房は強引に説得し、毛利家への援軍1万を率いて出陣する。これが、隆房の初陣であった。
戦いは翌年まで続き、隆房は見事に尼子軍を撃退することに成功。滑り出しは好調であった。だが、若くして大成功を収めた隆房は増長し、尼子軍の追撃と尼子領への遠征を企図する。この遠征計画を、毛利元就は無謀だと諌め、当主である大内義隆も乗り気ではなかったが、隆房は強引に進軍計画を進めてしまう。
1542年(天文11年)、大内義隆を総大将とする出雲遠征軍が出陣する。隆房は軍監として、義隆からほぼ全権を委任された。毛利元就を始めとする安芸や備後の国人領主らも、これに従った。
遠征は緒戦こそ順調だったが、やがて尼子家の影響力の強い出雲国内に戦場が移ると、次第に進軍が滞るようになっていく。元々、諸豪族の連合軍という側面の強い大内軍側は、戦意が低かったのだ。やがて年が暮れると、雪国である出雲が舞台だったこともあり、大内軍は降雪に悩まされた。
それでも大内軍は、尼子家の本拠・月山富田城を包囲することに成功する。だが、そこまでだった。かねてより疲労の蓄積していた諸豪族の軍は、尼子側の調略を受け、次々と寝返ったのである。(特に、豪族の1人だった吉川興経は月山富田城に攻め込むと見せかけて、そのまま城内に飛び込んでしまったという)
出雲遠征は完全に失敗に終わり、大内軍は瓦解・潰走した。隆房自身も命の危険に晒され、撤退中は魚の肝のみを啜って我慢するほど凄惨な帰路となった。
ここで大内家を、2つの不運が襲った。まず1つは、大内義隆が寵愛していた養嗣子・大内晴持が、撤退中の混乱によって船から落ち、溺死してしまったこと。この出来事は、義隆を落胆させ、以後の彼から覇気を奪い、極度に厭戦的な思考に陥らせてしまう。そしてこれこそが、後の大内家滅亡の遠因ともなった。
そしてもう1つが、安芸の謀神・毛利元就の憤怒を買ってしまったことである。無謀な遠征計画に付き合わされて命の危険に晒されたばかりか、大内軍の一員として最後まで戦い抜いたにもかかわらず、何の返礼も寄越さない大内家に、元就は愛想を尽かしたのである。
これ以降、毛利家は、安芸国内における大内家の影響力が減退したこともあり、独自の動き(吉川家と小早川家の乗っ取りなど)を見せていき、やがては独立勢力となっていく。
斜陽期を迎えた大内家を、隆房は何とかして支えようとするが、内外で芽吹き始めた戦禍の火種を摘み取ることは、彼といえどできなかった。
第2章『大寧寺の変』
出雲遠征の失敗により、大内家は著しく勢力を縮小させた。当主・義隆は、寵愛していた養嗣子を失ったことで政治を顧みなくなり、代わりに政治を取り仕切る文治派の官吏・相良武任が幅を利かせるようになった。対する武断派の頂点に立っていた隆房は、遠征が失敗したこともあって中央から遠ざけられた。これは権勢欲と自尊心の強い隆房にとって、耐え難い屈辱だった。
1545年(天文14年)、義隆に待望の実子である義尊が生まれた。これを契機として、隆房は相良武任を暗殺して大内家の中枢に返り咲こうと画策する。そして一時は武任を追放することに成功したが、当主・義隆は武任を重用しており、彼の裁定によってすぐに武任は復帰してしまう。
一方の隆房は、武任暗殺未遂の嫌疑を掛けられて詰問を受け、家中で孤立する羽目になった。(この時は、両派の仲裁役を果たしていた冷泉隆豊の取りなしによって、隆房は事無きを得た。だがこれがきっかけで、隆房と義隆の関係は決定的に悪化していくことになる)
大内家中で醜い政争が繰り返されている間も、領国の財政は日毎に悪化していった。義隆による過剰な文化振興策によって、山口には多くの文化人や公家衆が集い、山口は「西国の小京都」と呼ばれる大文化都市となる。だがその一方で、文化振興費や寺社の修繕費、公家の遊興費がかさみ、大内家の財政は火の車となってしまった。
大内家の衰退と滅亡が現実味を帯び、隆房の焦燥感は頂点に達しようとしていた。
1550年(天文19年)、半分隠居状態にあった隆房は、大内家を改革して復興を果たすため、現在の当主である義隆を廃し、文治派を直接排除することを決める。事実上のクーデターである。その年の暮れには、国中で「陶隆房が謀反を起こす」という風聞が流れるまでになったが、義隆は無為無策だった。
1551年(天文20年)、隆房は遂に軍勢を率いて、大内家の本拠・山口を包囲した。義隆は、隆房による謀反の噂を最初から信じておらず、彼が兵を挙げたと聞いてもなかなか信じようとしなかった。だが山口館が包囲されて火がかけられそうになると、義隆はやっと現状を把握し、大寧寺へと避難した。義隆に追従した重臣・冷泉隆豊は、隆房と対話による解決をしようと模索したが、隆房はこれを許さなかった。
進退窮まったと悟った大内義隆は、息子の義尊と共に自刃した。これが、後世で言う「大寧寺の変」である。(まだ幼児だった義尊については、隆房は殺すつもりではなかったとされる。また同時に、相良武任や冷泉隆豊といった文治派や親義隆派の武将達、三条公頼や小槻伊治などの公家衆も殺害された)
こうして大内家の実権を握った隆房は、九州の大友家から、大友宗麟の弟にして義隆の姉の子である大友晴英(大内義長)を迎え、新しい大内家当主へと据えた。同時に、隆房は晴英から一字を賜り、「晴賢」を名乗った。形式的な改名ではあるが、これは従来の義隆体制との訣別を示したものとも言える。
名を改めた隆房もとい晴賢は、大内家の文治体制を見直し、一気に武断政治へと転換を図る。だが、大内家を覆う暗雲は晴れることはなかった。対外的には名君として通っていた義隆を討ったことで、大逆人である晴賢への反発と非難、不満が各地で噴出したのである。
第3章『厳島の戦い、そして終焉』
1554年(天文23年)、義隆の姉を正室としていた石見の豪族・吉見正頼が、反晴賢の兵を挙げる。晴賢は直ちにこれを制圧しようとするが、これと同時に安芸では、かねてより独自の行動を見せ始めていた毛利元就が、独断で大内領の城を攻略。安芸を乗っ取ってしまっていた。
実のところ、晴賢は義隆を討つ前に、元就と密約を結んでいた。その内容は「義隆を討った際に生じるであろう各地の争乱の鎮定に、毛利家も加勢してほしい。見返りに、安芸国内の施政権を認める」というものであった。
元就の独断を見かねた晴賢は詰問状を送り、同時に吉見正頼討伐に協力するよう要請するが、元就はこれに「我が毛利は、先代義隆公の代から安芸の裁定自由を認められている。それを、晴賢殿も追認なさったはず。今更、毛利を抑えようとなされるのは明確な協定違反だ」と返答した。
晴賢はこれに激怒し、毛利家と陶家の関係は急速に悪化していく。(実際に晴賢に返答の書状を送ったのは、元就の長男・毛利隆元だったとされる。隆元は義隆に恩義を感じており、その義隆を殺した晴賢に激しい敵意を抱いていたことが確認されているため、文面も隆元が考えたものである可能性が高い)
1555年(弘治元年)、晴賢は2万(3万~5万?)の大軍を出陣させ、安芸に向かった。
だがそこで、晴賢は進軍ルートで悩んだ。陸路で安芸に侵入するルートは既に封鎖されており、強引に突破を図った先遣隊の宮川房長は敗退していた。(折敷畑の戦い)
一方、海路で安芸に侵入するには、軍事的・経済的拠点である厳島を攻める必要があった。厳島には、既に毛利軍が城を建設し、そこには元・陶軍武将(裏切り者)だった新里宮内らが籠もっていたためである。毛利側に威圧を加えるためにも、厳島は何としても奪還せねばならなかった。
だがその海路案に、重臣だった江良房栄が強硬に反対した。厳島は狭く、大軍が行動するには不利なので、敵の奇襲の危険がある、というのである。だが、晴賢は房栄の諫言を聞き入れるどころか、逆に房栄を「毛利軍に内通している」という嫌疑をかけて処断してしまったのである。
晴賢の元には、毛利方の動向を知らせる様々な情報が入ってきていた。
「厳島の城の防備は薄く、兵も少ないので攻められると困る」
「江良房栄は、元就の知己であり恩もあるので、毛利軍に内通している」
「陶軍が厳島を攻めれば、その隙に吉田郡山城を奪取する」(毛利家の重臣・桂元澄より)
晴賢はこれらの情報を鵜呑みにして、海路を経由して厳島を攻める道を選んだ。
晴賢が直率する陶軍は、厳島に上陸。毛利軍の抵抗は極めて軽微で、厳島に建てられた要害である宮ノ尾城も、晴賢の率いる大軍の前に風前の灯火となった。晴賢は、自身の勝利を疑わなかった。このまま厳島を攻め落とせば、まだ諸豪族の連合体に過ぎない毛利軍など、早晩に瓦解する。そう信じていた。
だが晴賢は、自分が既に死地に立っていることを知らなかった。
江良房栄が危惧した通り、毛利軍は奇襲を仕掛けてきたのである。暴風雨に紛れ、密かに厳島に上陸して反抗の機会を窺っていた毛利軍3000(異説アリ)が、厳島の狭い平地に固まっていた陶軍を直撃したのである。
まさか毛利軍が、暴風雨を突破してまで襲撃してくるなどとは夢にも思わない陶軍は、突然の襲撃によってたちまち指揮系統を崩壊させ、潰走する。晴賢自身も危険に晒されたため、本陣を捨てて逃走。厳島を脱出して再起を図ろうとしたが、脱出用の船は既に兵達によって乗り逃げされるか、毛利軍に味方した村上水軍の手によって沈められてしまっていた。
晴賢はその時になってやっと、自分が元就の策略によって踊らされ、自ら死地を作ってしまったことを悟った。
観念した晴賢は、大江浦(高安原との説も)にて自刃した。享年35歳。介錯は忠臣だった伊香賀隆正が務め、その後隆正は毛利軍と差し違えて戦死。
晴賢の首は、草履取りだった乙若という少年が岩場に隠したが、毛利軍によって捕らえられたために、隠し場所は程なく判明。晴賢の首は元就の手に渡り、首実検の際に叩かれた。
何を惜しみ 何を恨みん 元よりも この有様に 定まれる身に
晴賢の辞世の句。
大内家の未来のためとはいえ主君を討ったこと、権勢欲に囚われてしまったことなどを後悔し、こうなったのは当然の報いだと達観しているようである。
晴賢のような聡明な武将が、何故元就の策略にこうも簡単に弄ばれてしまったのだろうか。権勢欲と焦燥感に取り憑かれた気性の荒さを、元就に見透かされていたのだろうか。或いは、遠からずこうなるであろうことを既に悟りつつも、敢えて火中に飛び込んだのだろうか。真相は闇の中である。
晴賢の死後
大内家の筆頭家臣にして、事実上の支配者だった陶晴賢が死亡したことで、大内家は著しく衰退。やがて中国地方の盟主の座は、毛利家が取って代わっていくことになる。
晴賢が死んだ後、陶家の家督は嫡男の長房が継ぐ。だが、晴賢がいなくなった事による政治的空白が埋まるはずもなく、元就の調略も相まって大内家は内乱状態となる。
晴賢によって父を殺された杉重輔が、陶家の居城だった富田若山城を攻撃し、長房は弟の貞明と共に自刃。長房の遺児・鶴寿丸(晴賢の末子との説も)は救出されるが、後の大内家滅亡に伴って家臣に殺害され、陶家の嫡流は断絶した。(陶隆綱などの傍流は生き残り、毛利家の家臣となる)
厳島の戦いから2年後の1557年(弘治3年)、毛利元就は防長経略を行い、大内家を徹底的に攻撃。晴賢の朋友だった内藤興盛の孫・隆世などが奮戦したが戦死し、傀儡当主だった大内義長も自刃。およそ150年の長きに渡って、中国地方を支配し続けた大大名家・周防大内家はここに滅亡した。
その後も、大内義隆の従兄だった大内輝弘などの残党が決起、御家再興を図るものの、結局は毛利軍によって鎮圧されてしまい、旧領回復は果たせなかった。
人物総評
後に『西国無双の侍大将』と謳われるほどの勇将であった。最盛期(出雲遠征の失敗前)には義隆の寵愛もあって、軍事部門において独裁的な権限を持つほどだった。
だが、それ故に武断・軍事偏重の政治手法となり、独善的な性格も相まって各所で敵を作りやすかった。その弊害は出雲遠征失敗後に早くも表れ、義隆の寵愛を失うと途端に権威を失墜させ、失脚してしまう。
当主である義隆が元々文弱だった上、文官肌で戦争向きではない重臣が家中に増えていくという逆境の中、大内家の勢力維持のために各地で奔走した実績は評価できる。1545年(天文14年)に彼が失脚するまでは、瀬戸内の海賊討伐や尼子家との小競り合い、備後の諸豪族追討などをこなしている。
だがそれも、政治への興味を失った義隆の下では、延命処置に過ぎなかった。大内家を救うためには当主を交代させるしかない。晴賢がそう思ったのも無理からぬ事だった。
一般的に、晴賢が義隆を殺したことは戦国初期から中期にかけて横行した『下克上』だと評する向きもある。だが晴賢にとっては、義隆へのクーデターは大内家という枠組みのためであり、またその後継を立てていることから、少なくとも要職を独占はしても、御家乗っ取りまでは考えていなかったと推察される。
だが、その辺りのアピール力と外交力が晴賢には足りず、義隆と親交のあった周辺豪族が一斉に蜂起、反晴賢同盟が出来上がってしまった。この反晴賢同盟の結成が、安芸における毛利元就の反逆を許す契機にもなってしまったことを考えると、晴賢のクーデターは精彩を欠いていたと言わざるを得ない。
その後の毛利元就との謀略戦では、絵に描いたように翻弄されてしまった。厳島の戦いに至った経緯や、その前後の事実に関しては様々な異説があるが、晴賢が側近の人心掌握にすら集中できず、元就による奇襲の危険性を承知していながら自ら厳島へ渡海してしまったことなど、明らかな失策を幾つも犯している。
晴賢の直情径行型の性格、独善的な一面などを突かれた結果なのかも知れないが、或いはこの時点で晴賢は既に正常な精神状態にはなかったのかもしれない。側近を有無を言わさず処断したり、自分が有利な戦なのに、妻や家族に遺書を送っていたとされることなどを考えると、精神の均衡を失っていた可能性は十分にある。
総評すると、彼は『西国無双の侍大将』ではあったが、それ以上でもそれ以下でもなかったと言える。軍事にも政治にも精通した聡明な人物だったが、あくまでも軍事優先の政治を貫こうとして周囲から孤立するなど、人心掌握の能力には恵まれていなかったことが窺える。また、大局観に欠けていたことも致命的だった。(戦国時代という歴史ピリオド上、軍事優先の政治方針は決して間違いではなかったが、身内の理解を得られなかった)
優れた侍大将であり武将ではあったが、一国を担う大名の器ではなかったと言えるのではないだろうか。或いは、生まれる場所と時代を間違えた人物だったのかもしれない。
主君・大内義隆との『ただならぬ』関係
晴賢は幼少の頃から器量に優れ、将来を嘱望されていた。父・興房と同様に武勇に長け、政治面でも決して無能ではなかった。
その才を、主君である大内義隆も大いに買っていた。晴賢が大内家の重臣となれたのは、陶家という名家の血筋と父祖の政治基盤も勿論あっただろう。だが、晴賢が義隆に重用されたのには、もう1つの理由があった。
それは、容姿が端麗だったことである。
大内義隆が、ゲイ衆道を嗜み、美少年や美青年を好んでいたのは有名な話である。そんな彼に、眉目秀麗で器量にも長ける、素晴らしい美青年の側近ができた。これを義隆が見逃すはずはなく、即座に接近した。義隆と晴賢は、さほど時間もかからずに、アツい関係で結ばれたのだ。
その義隆の熱の入れようは尋常でなく、陶家の居城である富田若山城まで、わざわざ馬で5時間以上もかけて晴賢に会いに行ったことがあった。しかしこの時は晴賢は眠っており、その眠りを妨げては悪い、と義隆は遠慮。仕方なく晴賢への恋慕の念を込めた和歌を残して、そのまま山口へ帰っていった。対する晴賢も、義隆の寵愛に応えようと、必死に背伸びをした。(これが、上昇志向の強い性格に拍車をかけたのかもしれない)
だが、晴賢の熱意は時に空回りをし、凄惨な結果をもたらすこともあった。出雲遠征の敗退と、それによる義隆の愛人養嗣子の事故死が、まさにそれである。
積み重なるミス。そして、晴賢が成長(老化)していくことに伴う容姿と性格の変化、そして義隆自身の心境の変化によって、2人の仲は徐々に離れていった。
義隆の寵愛を失うことは、自身の凋落をも意味していることを、晴賢は理解していた。だがその一方で、義隆は晴賢の努力を見なくなっていた。やがて義隆の寵愛は、相良武任や冷泉隆豊といった性格の合う文治主義の家臣達へと移っていった。嫉妬に狂った晴賢は、義隆やその寵愛を欲しいままにする者達への逆恨みと、思い通りにならない現状への激しい不満を募らせていった。
そして晴賢と義隆は、大寧寺の変という最悪の結末を迎えるのである。
(※以上の記述は、筆者の推論と妄想が多分に含まれております。決して史実がこうであったと決定づけるものではありませんので、冗談半分でお読み下さいませ。ただ、陶晴賢と大内義隆の間に衆道関係があり、この衆道関係のもつれが、後年の対立に結びついたのではないかという説があるのは事実です)
逸話色々
- 毛利家の居城である吉田郡山城が尼子軍に攻められ、風前の灯火となった(そのように聞かされた)際、元就の長男・隆元は父が尼子家に降伏できるようにと、自害して人質の役割を終えようとした。それを制したのが晴賢であった。晴賢は隆元に「貴殿の父は必ず助ける」と約束し、直ちに援軍を取り纏めて元就の救援に向かった。この事を隆元は後年まで恩義に感じていたようだが、晴賢が義隆を討ったことで両者の関係は険悪になった。
- 晴賢は大内家の重臣であるのと同時に、周防国守護代という役職も務めていた。これは、中国地方の守護大名である大内家から、周防国の軍事と内政を委任され代行する役職だった。
だが、後に文治派と呼ばれる派閥の領袖となった相良武任は、この体制を改革し、軍事と内政に関する権力を大名に集中させようとした。これによって既得権益を脅かされた晴賢や内藤興盛(長門国守護代)は、武断派と呼ばれる守護代中心の派閥を形成、文治派と対立を深めていったのである。 - 1543年(天文12年)に、晴賢は瀬戸内の制海権を確保するため、伊予の河野軍と戦っている。この戦で晴賢は越智安成を始めとする多くの敵将を討ち取るも、成果は挙げられず撤退した。この時に晴賢の軍勢と戦ったのが、後に『鶴姫伝説』の元となる大祝鶴(鶴姫)である。
- 謀反を起こす2年前、1549年(天文18年)に毛利元就が息子達を伴って山口を訪れた際、晴賢は元就達の逗留している館へ出向き、会合を設けている。ここで何が話されたのかは詳細は不明だが、晴賢は元就の次男である吉川元春と親交を築き、義兄弟の契りまで結んでいる。
晴賢としては、表面的には毛利家と大内家の同盟関係を確認するためだったのだろう。だが、この2年後に謀反を起こしていることを考えると、それだけの接触ではなかった可能性が高い。相手が相手だしねぇ・・・ - 大寧寺の変によって、大内義隆を慕って集まっていた文化人や技術者達は立場を失い、軒並み日本全国へと離散した。だが技術者達が他国へ逃れたことで、それまで大内家が寡占状態にしていた機織り技術(西陣織に発展)や灰吹き法(甲州金や佐渡金山に応用)が全国に伝わり、中世日本に技術革新をもたらすことになる。
まぁ、陶晴賢がそこまで考えていたかは疑問である。日明貿易も途絶しちゃったし・・・ - 名前が特徴的で、初見では正しく読めないことに定評のある人物である。某国人と間違えた人は多いはず。
信長の野望における陶晴賢
「信長の野望」(PC)シリーズにおける陶晴賢(隆房)の能力一覧。
どの能力値も非常に高い、優秀な武将。軍事も政治もこなせる。ただし活躍した年代が年代だけに、登場するシナリオが限られているのが惜しいところ。大寧寺の変イベントは天翔記以降ほぼ恒例行事だが、厳島の戦いがイベント化されたのは天道以降でかなり最近。どちらにしても大内家終了のお知らせとなる事が多い。
初期の作品は野望が高く義理が低い危険人物だったが(武将風雲録では、自分が擁立した大内義長にも謀反を起こす)烈風伝以降は義理のステータスはごく標準になっており、大内家でプレイしても安心して使えるようになった。
その理由についてコーエー側からのコメントは無いが、前作の将星録がリリースされた年に放送された大河ドラマ「毛利元就」によるものが大きいと考えられる。この作品で陣内孝則が演じた晴賢は、それまでの反逆者というイメージとは異なり、大内家の行く末を憂い、敢えて汚名を着て謀反を起こした悲劇の人物として描かれている。これが晴賢の人物像を大きく見直すきっかけとなったと言えるだろう。
顔グラは長年、いかにも武断派といったムサいヒゲのオッサンであったが、創造PKでは「己の能力に酔った若きナルシスト」というべき別人に変貌して誰だお前!?と多くのプレイヤーを驚かせた。ただ、大内義隆に寵愛された美貌や享年35歳という事を考えると、これまで老け過ぎだった感もある。グラも相まって、各種イベントでは元就に踊らされている印象が強くなった。ちなみに大内義隆も同時にグラフィックが変更されて、いやらしい目つきのホモデブっぽくなった。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | 83 | 政治 | 70 | 魅力 | 73 | 野望 | 84 | 教養 | 72 | ||||
覇王伝 | 采配 | 78 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 67 | 政治 | 72 | 野望 | 85 | ||||
天翔記 | 戦才 | 168(A) | 智才 | 140(B) | 政才 | 156(B) | 魅力 | 73 | 野望 | 88 | ||||
将星録 | 戦闘 | 84 | 智謀 | 75 | 政治 | 78 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 79 | 戦闘 | 75 | 智謀 | 67 | 政治 | 69 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 71 | 智謀 | 61 | 政治 | 68 | 野望 | 76 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 72 | 知略 | 67 | 政治 | 69 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 78 | 知略 | 69 | 政治 | 67 | 教養 | 45 | ||||||
革新 | 統率 | 90 | 武勇 | 85 | 知略 | 72 | 政治 | 75 | ||||||
天道 | 統率 | 90 | 武勇 | 86 | 知略 | 78 | 政治 | 75 | ||||||
創造 | 統率 | 86 | 武勇 | 84 | 知略 | 77 | 政治 | 73 |
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戦国無双3Empiresにはモブ武将として登場し、史実通りに厳島の戦いで毛利元就と戦うことになる。
また100万人の戦国無双では、明らかに真・三國無双シリーズの諸葛誕をイメージしたと思しき「正義漢」キャラとして登場し、やたらと「正義」やら「粛清」という言葉を連呼する。
戦国大戦ではVer1.2で主君の大内義隆と一緒に参戦。武力は物足りないが、高統率で制圧・伏兵と特技は悪くない。
計略の「下克上」は、範囲内の敵と味方の武力を下げるもので、その効果は味方を巻き込んだ数が多い程大きい。
巻き込まないと力萎えの術に劣るため、基本的には武力の低い1コストの武将を巻き込んで使う事になる。
そして主君の大内義隆は1コストで、更に相手の統率を下げる「撹乱の呪い」を持っている。史実通り踏み台として最適相性が良い。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 4
- 0pt