「大内義隆」(おおうち・よしたか - 1507~1551)とは、日本の戦国大名。周防国大内氏16代当主。大内義興の長男で、母は内藤弘矩の娘(正室)。子息は大内義長(養子)、大内晴持(養子)、大内義尊(実子)、問田亀鶴丸(=大内義教、実子)、大内義胤(実子)、大内珠光(実娘)。
概要
名門・大内家の当主として、中国地方全域から九州北部にかけて絶大な影響力を持った大大名。出雲の尼子家と敵対して覇を競うが、文弱な性格が武断派の怒りを買い、クーデター(大寧寺の変)により当主の地位を追われて自刃した。後は養子の大内義長が継いだ。(実子の義尊は共に自刃。)
領内に数多くの御用職人や商人を抱え、大陸やヨーロッパ諸国から積極的に技術や学問、鉱物資源や兵器などを購入して領内発展と軍備増強を促進した。内政と外交、経済に通じた教養人だった。
義隆の死後に各地に流出した大内家の技術は、日本全体の物品生産や伝統工芸に大きな変革をもたらす。その手腕は歴史家界隈でも手放しで称賛されている。その反面、戦国大名としての軍事的功績は振るわず、晩年は文弱に陥って公家趣味と権威主義に耽溺してしまった。人格面の問題も多く、毀誉褒貶に満ちた人物である…とされてきたが、近年再評価が進んでいる。
生涯
家督相続まで
大内義興と正室内藤弘矩の娘の間に嫡男として生まれる。生まれる直前に、父・義興が明応の政変で将軍を追われた10代将軍義稙を奉じて上洛した。その勢いで11代将軍足利義澄を蹴落とすと、そのまま京都に居座り続けた為に長年父を知らず育つ。
10歳の時に父が戻ってくるが時すでに遅く、父の薫陶を知らず育った義隆は、文弱な当主同性愛を嗜むガチホモと化していた。14歳には父の行軍に帯同し、尼子経久と戦う日々を過ごしていたが、22歳の時(1528年)に父が52歳で病死したので家督を継いだ。
室町以降の大内氏は家督争いの兄弟喧嘩が頻発しており、当主が死ぬと内乱が恒例行事となっていた。義興から義隆への場合は例外であり、家督継承はスムーズに行われたが、この穏便な政権委譲が義隆の文人大名化に拍車を掛けることになる。
戦国大名として
1530年、九州の少弐資元を討つべく杉興連を遠征させるが、田手畷の戦いで敗れ失敗すると、寝技(買収策)に方針転換する。朝廷に多額の献金を行い続けた結果、1536年には大宰大弐に任官してもらう。
「少弐氏の官職は大宰少弐だから、大宰大弐の自分のほうが偉い」という大義名分を獲ると、まだ官位による権威が生きていた当時は役に立ったようで、龍造寺胤栄ら少弐の部下が離反して、少弐家を滅ぼす。
1534年、豊後の大友義鑑を討つべく陶興房を遠征させるが、勢場ヶ原の戦いで逆転負けを喫したため、今度は婚姻策に転換する。1538年に12代将軍足利義晴の仲介で和睦し、姉を大友義鑑に出す。この姉から生まれた甥が、後の大友宗麟と大内義長となる。
1540年、出雲の尼子晴久が安芸に侵攻してくると、傘下の領主代表だった安芸の毛利元就に援軍を派遣し、これを退けた。翌年には武田信実を滅ぼし、安芸の支配権を確立した。
1542年に尼子経久が逝去し、尼子家臣が大量に離反してくると、これを尼子家を滅ぼす絶好の機会と捉え、自ら出雲に遠征した。義隆は、弱体化した尼子家を倒す程度なら大内軍の主力を動員する必要はないと考え、安芸や石見の国人領主を中心とした連合軍を結成して出雲に侵攻した(第一次月山富田城の戦い)。
だが、尼子軍の予想以上の抵抗と長期にわたる派兵によって領主達の不満は募り、ついには寝返りや逃亡が頻発。大内軍は総崩れとなり、遠征は失敗に終わる。この時、養嗣子として従軍していた大内晴持が事故死して大きなショックを受けた義隆は、ますます戦嫌いとなり以後は戦場に出向くことはなくなった。
文事傾倒と最期
第一次月山富田城の戦いの後、亡くなった晴持に代わる後継を用意する必要があった。義隆は大友家から自身の甥にあたる塩乙丸(大内晴英、後の大内義長)を猶子に迎えるが、1545年に側室との間に実子(大内義尊)が出来たため、晴英は大友家に戻されてしまう。
一方、備後では山名理興が尼子と手を組み挙兵。義隆は自ら戦場に出ることは無かったが、弘中隆兼や毛利元就らが備後を侵攻。6~7年に渡る長期戦となるが、1550年に山名理興を追い落とすことに成功する。
他方、尼子とは小競り合いが続く程度で大きな戦には発展せず、肥後統治を進める大友との戦も起きなかった。
この間、毛利元就は三男(小早川隆景)を当主不在だった竹原小早川家の当主に据え、次男(吉川元春)を吉川家の当主に据えており、安芸での影響力は大内家を上回るようになる。
しかし、義隆はこれに意を唱えることはせず、三男に「隆」の字を与え、幼少ながら病弱で盲目であった沼田小早川家の当主を廃嫡させ、小早川家の統合も認めている。
というのも、当主不在&幼き当主が病弱かつ盲目の小早川家、当主が尼子に裏切った吉川家の安定化には、両家の縁族である毛利家の力を借りる必要があった。
また、毛利家の当主は義隆の下で人質として過ごした毛利隆元に継承されていた。義隆は内藤興盛の娘を自身の養女として隆元に嫁がせることで、両家の繋がりを示すことにした。
問題は大内家内で、文治派の相良武任と武断派の陶隆房(後の陶晴賢)の対立が第一次月山富田城の戦いを機に顕著となっていた。義隆は両者の対立を解消させようと試みるが、武任は隆房ら武断派排除の書状を献じたことで対立の表面化を防ぐことは出来なかった。隆房に至っては大友と手を組み、クーデターの準備を進めていた。
そして運命の1551年。陶隆房が引き籠って謀反の準備をすると、討伐せずに話し合いで解決しようと試みたが失敗。反乱が勃発し、居城だった山口館を包囲される。
遠方の吉見正頼や杉興連は味方だったものの、近隣の内藤興盛、弘中隆包、毛利元就や杉重矩が反乱側に与した為に逃げることができず、義隆は逃亡先の大寧寺で自害した。これを大寧寺の変という。
人物
ガチホモがアダとなる
衆道が一般的だった戦国時代でも、希有なほどの重度の同性愛者だった。毛利隆元・小早川隆景兄弟、陶興昌・隆房兄弟、相良武任、冷泉隆豊、清ノ四郎、安富源内らが義隆と交わった、もしくは交わった疑いがある。
その入れ込みようは尋常でなく、山口から陶隆房の住む富田若山まで、片道35キロを6時間かけて馬で往復していた時期すらあった。毛利元就の長男・毛利隆元に至っては、本来人質という立場にもかかわらず賓客のような扱いをしたことで、家臣達から不信感を抱かれている。
尤も、細川政元や上杉謙信と違って、子や側室もそれなりにいたため、両刀遣い(バイセクシャル)だったのかもしれない。
1550年、フランシスコ・ザビエルは義隆に謁見した際に、キリスト教の教義で衆道は禁じられていると嗜められると布教許可を取消すほど激怒した。この為、ザビエルは堺へ逃れる羽目になった。
出雲遠征時に義隆と衝突した陶隆房は寵愛を失い、相良武任や冷泉隆豊など文治派の美人官僚達が寵愛を獲るようになり陶隆房を含む武断派は遠ざけられたという。
あまりに衆道にのめりこみすぎて夫婦の営みが疎遠になりすぎ、最初の正室、万里小路秀房の娘の貞子に逃げられている。仕方なく貞子の側近である下級公家小槻(大宮)伊治の娘、おさいの方に手を出したところ妊娠し、1545年に男子(大内義尊)を出産。
嫡子の祖父の立場となった大宮伊治は、用もないのに1546年頃から山口館に居座って贅沢三昧をするようになったために大内家の財政を圧迫する。この公家の贅沢三昧は、陶隆房ら武断派の神経を逆撫でし続けたようで大寧寺の変勃発時に真っ先に殺されている。
というのが通説ではあるのだが、このザビエルに激怒した事件は真偽が怪しい。
出自はフロイスの『日本史』であるのだが、フロイスの来日はザビエル死後11年後で、さらに『日本史』はザビエル死後40年後に書かれたもので、エピソードの虚実に検証を要するからである。
実はザビエル本人が義隆とのやり取りの模様を知人に手紙として送った書状が残っており、ここには『1時間以上に渡り義隆がザビエルの説明を聞き、自ら送り出した』とある。その後ザビエルはさらなる布教のため京に向かうが天皇・将軍に会うことは出来ず、荒廃した京都では長期滞在に向かないため山口に戻っている。
山口に戻ってきたザビエルを手厚く迎えた義隆は、その後正式に山口での布教を許可するお触れを出している。義隆はキリスト教に非常に寛容であった。
なぜ食い違いが起きてしまったかに関してはある程度見当がついており、ザビエルの死後6年後ザビエルに同行していた『ジョアン・フェルナンデス』が友人に送った手紙の中に『山口で命の危機にあった』とある。これは布教許可のわずか2ヶ月に起こった大寧寺の変の結果、宣教師たちは陶晴賢に山口を追い出されており、この際に大内家に敵意を持ってしまった可能性がある。
これがさらに捻じれた形でフロイスに伝わってしまったと見られる。なおフロイスに関しては上司・ヴァリニャーノに『大いに慎重さに欠け、誇張癖もあり中庸を保てない』『(日本史を読んで)長げーよ!短くまとめろよ』とボロクソ言われている事を留意していただきたい。
ちなみに明確に衆道関係にあったと言えるのは杉隆泰と幼少期の陶晴賢くらいなもので、同時代的には特筆すべき数ではない。
『亡国の将』というのはどうしても評価を下げる傾向にあるため、この衆道関係のエピソードも大いに盛られていると見てよい。要はホモで国を滅ぼしてはいない。
大寧寺の変の影響
本能寺の変ほどではないが、当時の日本全体に及ぼした影響は大きかった。まず大内領内の豊前・筑前・石見は陶家の支配を拒否し、長門の内藤は家督争いで分裂していたのを機に、かねてより独立の動きがあった安芸の毛利元就が造反する。
吉見正頼と内藤隆春が陶家憎しの感情により毛利家に加勢し、陶隆房は周防と安芸の手勢だけ(それでも2万以上の軍勢で、毛利軍を圧倒はしていた)で厳島の戦いに挑まざるをえなくなり、敗死する。
豊後の大友宗麟は漁夫の利を得て、毛利が制圧しきれなかった大内家の旧領をもぎ取って復興する。肥前の龍造寺隆信は後ろ盾の大内義隆を失ったことで基盤を失い、佐賀を逃亡する憂き目にあう。
大内義隆の死による大内側の混乱を重く見た明は、大内義隆の後継者の大内義長を簒奪者として扱い交易を却下、一方で毛利・大友も同様に却下され、ここに勘合貿易が名実共に断絶してしまう。乱後から明の海禁政策が次第に緩くなりつつあったこともあり、以後日中交易は大名や商人らによる私貿易が中心となった。
大内家が囲っていた職人は四散し、様々な技術が国内に伝播していった。
金儲けが上手1(倭寇と結託)
父・義興は将軍を再擁立した際に、日明貿易の勘合符を手に入れた。これにより大内と博多商人は細川と堺商人から交易利権を奪うことに成功した。
面白くない細川高国らは、期限が切れた古い勘合符で遣明船を派遣する。賄賂を利用した細川の遣明船が有利に扱われたことで大内側が怒り、明国の港であるにも関わらず細川の船を焼き払いドサクサに紛れて明軍も蹴散らすなど、大暴れした。
当然、明国は怒ってまっとうな貿易が制限され、密貿易が主流になってしまった。これを1523年寧波の乱という。父の代に縮小された日明貿易は、後期倭寇が活性化の原因となり明や朝鮮が手を焼いているのを鑑みて、倭寇の黒幕である宗氏・松浦党・博多商人・明国人らを利益誘導で従えて暴れさせたり取締るふりをして、倭寇取締りを外交のカードとして利用し、1536年と1547年遣明船を派遣している。なお後期倭寇は皮肉にも大内義隆の死後、戚継光による大規模倭寇取り締まりや明国の海禁政策融和とそれに伴う民間貿易・南蛮貿易との貿易競争に敗れ、次第に衰退していくこととなる。
金儲けが上手2(博多商人と結託)
大内は大陸から技術を持ち込むことに熱心で、硫化銅精錬法、絹製法、灰吹法など門外不出の技術を博多商人と共に賄賂などを駆使して手に入れている。
博多商人・神屋寿禎に1526年頃、石見銀山を再開発させたり、1533年に慶寿と宗丹という技術者を朝鮮から招いて灰吹法を研究するなど、鉱山採掘と技術開発に柱心して莫大な利益を生んだ。先祖の大内教弘も、明国から硫化銅の精製法を持ち帰り、閉山していた長登銅山を再採掘していたり、寺尾鉱山に精製技術を研究していた跡がありこの一族には金儲けの旨さに定評がある。
また、博多織の職人満田彦三郎を遣明船で技術研修に派遣し、中国広東で絹織物の技術を持帰させることで明国産に大差を付けられていた日本産の絹織物の品質を飛躍的に向上させた。後に西陣織が隆盛し絹織物の品質上昇に伴い、生糸の国内需要も劇的に増加。江戸時代に養蚕が盛んになり、明治時代になって西洋技術の導入もあったため良質な生糸輸出が日本の発展を大きく支えた。
大内と博多織職人が絹織り技術を持ち帰らなければ、江戸時代を通して養蚕の研究が盛んになることもなかったはずなので、もしかしたら日本の歴史が変わっていたかもしれない。
職人を招致して文化や産業を振興した結果、絹・綾・扇子・屏風・刀剣といった交易に必要な輸出品の多くを領内で調達することに成功し高い収益をあげた。
交易で書物を輸入することで学問を志す僧・公家なども集まり、山口の人口は6万人を超えた。
金払いが良い(末世の道者)
公家や寺社の荘園領が横領される戦国時代では珍しく、逃げてきた公家を手厚くもてなし、東大寺の横領された土地まで奪い返してあげたり、筥崎宮や宇佐八幡宮などの復興にも尽力し、大陸から経典を輸入して寺社に寄進するなど、神仏キリスト問わず寺社を手厚く保護したので、当時の識者からは「末世の道者」(末法の乱れた世で仏教を求める者)と賞賛されていた。
しかしこの褒め言葉も、公家の贅沢が武断派の不満を煽り、陶隆房と東大寺の横領地を巡って険悪になって反乱という結果で滅びた今となっては「道楽が過ぎて家の末代になってしまった人」というアワレな印象をうける。
2020年にトーマス・D・コンラン氏から衝撃の新説、『大内義隆の山口遷都計画』という説が発表されている。
「中国治乱記」「足利季世記」「室町殿日記」の3つには義隆が山口への遷都を計画していたと記述がある。、実際問題その下準備として公家の多くが山口に下向しており、その中には儀式を手掛けるような通常京から離れないような公家たちも山口に下向した事がわかっている。義隆が遷都の第一歩として、荒廃のため京都で行えなくなっていた新年の節会を山口で行うために天皇行幸を計画していた可能性が十分に考えられる。
これを阻止するために将軍の承認の元で陶晴賢が動いたのが大寧寺の変であるという説である。
山口にもう一つの京を作ろうとした大いなる野望を、過ぎた道楽と切り捨てるにはやや乱暴が過ぎる気もする。
官職コレクター
少弐戦で味を占めたのか、その後も朝廷に献金を続け、室町将軍よりも高位の従二位まで昇叙している。
当時の朝廷は貧乏で、天皇のサインを金持ちに押し売りしている状態だった。この莫大な献金で天皇即位式が行われたり、公卿達の生活も救われた。
しかし当時の後奈良天皇は、献金を猟官行為として忌み嫌い、勤皇行為とは認定せず、義隆の死後には何も贈位しなかった。なお1557年に践祚した次代の正親町天皇は、献金には厚く応える性格だったようで、毛利元就や本願寺顕如は贈位されたり門跡の称号を許可された。
- 1514年8歳にして従五位上昇叙。
- 1528年22歳で家督相続とともに周防・長門・石見・安芸・豊前・筑前六か国の守護職に。
- 1530年24歳で左京大夫に任官。
- 1532年26歳で正五位下に昇叙し、周防介任官。
- 1533年27歳で筑前守任命。
- 1534年28歳で従四位下に昇叙。
- 1536年30歳で大宰大弐、左兵衛権佐任官。
- 1537年31歳で従四位上に昇叙。
- 1538年32歳で周防介、兵部権大輔任官。
- 1539年33歳で正四位下に昇叙。
- 1540年34歳で伊予介任官。
- 1541年35歳で従三位に昇叙。
- 1544年38歳で侍従任官。
- 1545年39歳で正三位に昇叙。
- 1547年41歳で兵部卿任官。
- 1548年42歳で従二位に昇叙。
この官位コレクションも「軟弱な義隆が公家趣味に走った」と言われがちだが、そもそも「曽祖父(大内教弘)と祖父(大内政弘)の時点で死後に従三位を贈られており、父(大内義興)は生前に従三位を贈られている」という事実が抜けている。趣味だなんてとんでもない、れっきとした武家公卿の家なのである。
辞世の句
討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露亦如電 応作如是観
信長の野望シリーズ
シリーズ毎に、政治手腕の評価で数値の乱高下が激しい。官位と家宝による補正が入った天道では補正後統率92政治107という高数値になっている。
ブルジョワなので高価な家宝を大量に保有しており、バランス調整のために本来保有していた名物を多数割愛されまくっても、なお「青磁大内筒」「青磁松本」「大内瓢箪」「藍韋威肩赤鎧」などを保有している。
「瀟湘八景図」のうち消失した「秋景冬景山水図 伝徽宗筆」や「山水図 伝李唐筆」「桃鳩図 徽宗筆」などの国宝級の美術品も多数保有していた。
顔グラは、覇王伝から嵐世記まで長らく軟弱な公家顔だったが(蒼天録で顔向きがちょっと変化)、天下創世・天道では大鎧姿やや時代遅れの感はあるが大大名に相応しい姿となった。ところが、創造PKからは陶晴賢がイケメン化したのに合わせ、晴賢を狙って野獣の眼光を放っていそうな顔つきになってしまった。アッー!
大寧寺の変イベントは天翔記で初登場。続く将星録では省略されたが、烈風伝以降は恒例に。上述の創造PKから、台詞が変更されて、愛憎のもつれを含ませた台詞に変わっている。
軍事能力 | 内政能力 | |||||||||||||
戦国群雄伝(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | ||||||
武将風雲録(S1) | 戦闘 | - | 政治 | - | 魅力 | - | 野望 | - | 教養 | - | ||||
覇王伝 | 采配 | 85 | 戦闘 | 76 | 智謀 | 44 | 政治 | 73 | 野望 | 82 | ||||
天翔記 | 戦才 | 152(B) | 智才 | 96(C) | 政才 | 182(B) | 魅力 | 83 | 野望 | 85 | ||||
将星録 | 戦闘 | 37 | 智謀 | 33 | 政治 | 41 | ||||||||
烈風伝 | 采配 | 39 | 戦闘 | 21 | 智謀 | 32 | 政治 | 42 | ||||||
嵐世記 | 采配 | 74 | 智謀 | 36 | 政治 | 85 | 野望 | 96 | ||||||
蒼天録 | 統率 | 69 | 知略 | 26 | 政治 | 77 | ||||||||
天下創世 | 統率 | 66 | 知略 | 27 | 政治 | 76 | 教養 | 72 | ||||||
革新 | 統率 | - | 武勇 | - | 知略 | - | 政治 | - | ||||||
天道 | 統率 | 76 | 武勇 | 34 | 知略 | 77 | 政治 | 89 | ||||||
創造 | 統率 | 74 | 武勇 | 45 | 知略 | 74 | 政治 | 83 |
太閤立志伝V DX
一番早い年代である1549年 流亡の章のみの登場。
大寧寺の変もイベントで用意されていて、野戦で敗北すると史実通りに死亡してゲームオーバーとなる。
義隆は文弱なので素の状態のままでは勝利するのは難しい。
家臣達でプレイしている場合は義隆に付くか陶隆房に付くか選択した上で野戦→敗北したら死亡してゲームオーバーとなる(相良武任は逃げるも選択できるとか)。
大内家と関係ない主人公の場合は旅人が顛末を語ってくれる。
義隆の主人公札は、陶隆房主人公で大寧寺の変イベントを起こして義隆を破ることでゲットできる。ただ大崎義隆の主人公札をゲットすることで同名のよしみということで大内義隆の主人公札もゲットできるので、こちらのが楽ではある。
関連項目
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