大内義隆単語

52件
オオウチヨシタカ
7.9千文字の記事
  • 6
  • 0pt
掲示板へ

「大内義隆」おおうち・よしたか - 15071551)とは、日本戦国大名周防大内氏16代当大内義興長男で、内藤矩の(正室)。子息は大内義長(養子)、大内持(養子)、大内義尊(実子)、問田亀鶴丸(=大内義教、実子)、大内義胤(実子)、大内珠光(実)。

概要

名門・大内の当として、中国地方全域から九州北部にかけて絶大なを持った大大名。出雲の尼子と敵対して覇を競うが、文弱な性格が武断の怒りを買い、クーデター(大寧寺の変)により当の地位を追われて自した。後は養子の大内義長が継いだ。(実子の義尊は共に自。)

領内に数多くの御用職人商人を抱え、大陸ヨーロッパから積極的に技術や学問、鉱物兵器などを購入して領内発展と軍備増強を促進した。内政と外交経済に通じた教養人だった。
の死後に各地に流出した大内の技術は、日本全体の物品生産や伝統工芸に大きな変革をもたらす。その手腕は歴史界隈でも手放しで称賛されている。その反面、戦国大名としての軍事的功績は振るわず、晩年は文弱に陥って公家趣味と権威義に耽溺してしまった。人格面の問題も多く、毀誉褒貶に満ちた人物である…とされてきたが、近年再評価が進んでいる。

生涯

家督相続まで

大内義興と正室内藤矩のの間に嫡男として生まれる。生まれる直前に、・義明応の政変将軍を追われた10代将軍義稙を奉じて上した。その勢いで11代将足利義澄を蹴落とすと、そのまま京都に居座り続けた為に長年を知らず育つ。

10歳の時にが戻ってくるが時すでに遅く、陶を知らず育った義は、文弱な当同性愛を嗜むガチホモと化していた。14歳にはの行軍に帯同し、尼子経久と戦う日々を過ごしていたが、22歳の時(1528年)にが52歳で病死したので督を継いだ。

室町以降の大内氏は督争いの兄弟喧嘩が頻発しており、当が死ぬと内乱が恒例行事となっていた。義から義への場合は例外であり、督継承はスムーズに行われたが、この穏便な政権委譲が義の文人大名化に拍を掛けることになる。

戦国大名として

1530年、九州少弐資元を討つべ連を遠征させるが、田手畷の戦いで敗れ失敗すると、寝技(買収策)に方針転換する。朝廷に多額の献金を行い続けた結果、1536年には大宰大弐に任官してもらう。

少弐氏の官職は大宰少弐だから、大宰大弐の自分のほうが偉い」という大義名分を獲ると、まだ官位による権威が生きていた当時は役に立ったようで、龍造寺胤栄ら少弐の部下が離反して、少弐を滅ぼす。

1534年、豊後の大友義鑑を討つべく陶房を遠征させるが、勢場ヶ原の戦いで逆転負けを喫したため、今度は婚姻策に転換する。1538年に12代将足利義晴の仲介で和し、大友義鑑に出す。このから生まれた甥が、後の大友宗麟大内義長となる。

1540年、出雲尼子晴久が安芸に侵攻してくると、下の領代表だった安芸の毛利元就に援軍を派遣し、これを退けた。翌年には武田信実を滅ぼし、安芸の支配権を確立した。

1542年に尼子経久が逝去し、尼子臣が大量に離反してくると、これを尼子を滅ぼす絶好の機会と捉え、自ら出雲に遠征した。義は、弱体化した尼子を倒す程度なら大内軍のを動員する必要はないと考え、安芸や石見の人領を中心とした連合軍を結成して出雲に侵攻した(第一次月山富田城の戦い)。

だが、尼子軍の予想以上の抵抗と長期にわたる兵によって領達の不満は募り、ついには寝返りや逃亡が頻発。大内軍は総崩れとなり、遠征は失敗に終わる。この時、養嗣子として従軍していた大内持が事故死して大きなショックを受けた義は、ますます戦嫌いとなり以後は戦場に出向くことはなくなった。

文事傾倒と最期

第一次月山富田城の戦いの後、亡くなった持に代わる後継を用意する必要があった。義大友から自身の甥にあたる丸(大内英、後の大内義長)を猶子に迎えるが、1545年に側室との間に実子(大内義尊)が出来たため、英は大友に戻されてしまう。

一方、備後では山名理が尼子と手を組み挙兵。義は自ら戦場に出ることはかったが、兼や毛利元就らが備後を侵攻。67年に渡る長期戦となるが、1550年に山名理を追い落とすことに成功する。
他方、尼子とは小競り合いが続く程度で大きな戦には発展せず、肥後統治を進める大友との戦も起きなかった。

この間、毛利元就は三男(小早川隆景)を当不在だった竹原小早川の当に据え、次男(吉川元春)を吉川の当に据えており、安芸での大内を上回るようになる。
しかし、義はこれに意を唱えることはせず、三男に「」の字を与え、幼少ながら病弱盲目であった沼田小早川の当嫡させ、小早川の統合も認めている。
というのも、当不在&幼き当病弱かつ盲目小早川、当が尼子に裏切った吉川の安定化には、両の縁族である毛利を借りる必要があった。
また、毛利の当は義の下で人質として過ごした毛利隆元に継承されていた。義内藤盛のを自身の養女として隆元がせることで、両の繋がりを示すことにした。

問題は大内内で、文治の相良武任と武断陶隆房(後の陶晴賢)の対立が第一次月山富田城の戦いを機に顕著となっていた。義は両者の対立を解消させようと試みるが、武任は房ら武断排除の書状を献じたことで対立の表面化を防ぐことは出来なかった。房に至っては大友と手を組み、クーデターの準備を進めていた。

そして運命1551年。陶隆房が引き籠って謀反の準備をすると、討伐せずに話し合いで解決しようと試みたが失敗。反乱が勃発し、居だった山口館を包囲される。

遠方の吉見正頼や連は味方だったものの、近隣の内藤盛、包、毛利元就重矩が反乱側に与した為に逃げることができず、義は逃亡先の大寧寺で自害した。これを大寧寺の変という。

人物

ガチホモがアダとなる

衆道が一般的だった戦国時代でも、希有なほどの重度の同性愛者だった。毛利隆元小早川隆景兄弟、陶兄弟、相良武任、冷泉隆豊、清ノ四郎、安富内らが義と交わった、もしくは交わった疑いがある。

その入れ込みようは尋常でなく、山口から陶隆房の住む富田若山まで、片35キロ6時間かけてで往復していた時期すらあった。毛利元就長男毛利隆元に至っては、本来人質という立場にもかかわらず賓客のような扱いをしたことで、臣達から不信感を抱かれている。

も、細川政元上杉謙信と違って、子や側室もそれなりにいたため、両遣い(バイセクシャル)だったのかもしれない。

1550年、フランシスコ・ザビエルは義に謁見した際に、キリスト教の教義で衆道は禁じられていると嗜められると布教許可を取消すほど激怒した。この為、ザビエルへ逃れる羽になった。

出雲遠征時に義と衝突した陶隆房は寵を失い、相良武任や冷泉隆豊など文治美人官僚達が寵を獲るようになり陶隆房を含む武断は遠ざけられたという。

あまりに衆道にのめりこみすぎて夫婦の営みが疎遠になりすぎ、最初の正室、万里小路秀房の貞子逃げられている。仕方なく貞子の側近である下級公家小槻(大宮)治の、おさいの方に手を出したところ妊娠し、1545年に男子大内義尊)を出産

嫡子の祖の立場となった大宮治は、用もないのに1546年頃から山口館に居座って贅沢三昧をするようになったために大内の財政を圧迫する。この公家の贅沢三昧は、陶隆房ら武断神経を逆撫でし続けたようで大寧寺の変勃発時にっ先に殺されている。


というのが通説ではあるのだが、このザビエル激怒した事件は偽が怪しい。

出自はフロイスの『日本史』であるのだが、フロイスの来日はザビエル死後11年後で、さらに『日本史』はザビエル死後40年後に書かれたもので、エピソードの虚実に検証を要するからである。

実はザビエル本人が義とのやり取りの模様を知人に手紙として送った書状が残っており、ここには『1時間以上に渡り義ザビエルの説明を聞き、自ら送り出した』とある。その後ザビエルはさらなる布教のために向かうが天皇将軍に会うことは出来ず、荒した京都では長期滞在に向かないため山口に戻っている。

山口に戻ってきたザビエルを手厚く迎えた義は、その後正式に山口での布教許可するお触れを出している。キリスト教に非常に寛容であった

なぜ食い違いが起きてしまったかに関してはある程度見当がついており、ザビエルの死後6年後ザビエルに同行していた『ジョアンフェルナンデス』が友人に送った手紙の中に『山口で命の危機にあった』とある。これは布教許可のわずか2ヶに起こった大寧寺の変の結果、宣教師たちは陶晴賢山口を追い出されており、この際に大内に敵意を持ってしまった可性がある。

これがさらに捻じれた形でフロイスに伝わってしまったと見られる。なおフロイスに関しては上・ヴァリニャーノに『大いに慎重さに欠け、誇もあり中庸を保てない』『(日本史を読んで)長げーよ!短くまとめろよ』とボロクソ言われている事を留意していただきたい。

ちなみに明確に衆道関係にあったと言えるのは泰と幼少期の陶晴賢くらいなもので、同時代的には特筆すべき数ではない。

『亡の将』というのはどうしても評価を下げる傾向にあるため、この衆道関係のエピソードも大いに盛られていると見てよい。要はホモを滅ぼしてはいない

大寧寺の変の影響

本能寺の変ほどではないが、当時の日本全体に及ぼしたは大きかった。まず大内領内の豊前・筑前・石見は陶の支配を拒否し、長門内藤督争いで分裂していたのを機に、かねてより独立の動きがあった安芸の毛利元就が造反する。

吉見正頼と内藤隆が陶憎しの感情により毛利に加勢し、陶隆房周防と安芸の手勢だけ(それでも2万以上の軍勢で、毛利軍を圧倒はしていた)で厳島の戦いに挑まざるをえなくなり、敗死する。

豊後の大友宗麟漁夫の利を得て、毛利が制圧しきれなかった大内の旧領をもぎ取って復する。肥前龍造寺隆信は後ろの大内義隆を失ったことで基盤を失い、佐賀を逃亡する憂きにあう。

大内義隆の死による大内側の混乱を重く見た明は、大内義隆の後継者の大内義長を簒奪者として扱い交易を却下、一方で毛利大友も同様に却下され、ここに勘合貿易が名実共に断絶してしまう。乱後から明の禁政策が次第に緩くなりつつあったこともあり、以後日中交易は大名や商人らによる私貿易が中心となった。

大内が囲っていた職人は四散し、様々な技術が内に伝播していった。

金儲けが上手1(倭寇と結託)

・義将軍を再擁立した際に、日明貿易の勘合符を手に入れた。これにより大内博多商人細川商人から交易利権を奪うことに成功した。

くない細川高国らは、期限が切れた古い勘合符で遣明派遣する。賄賂を利用した細川の遣明が有利に扱われたことで大内側が怒り、明の港であるにも関わらず細川を焼き払いドサクサに紛れて明軍も蹴散らすなど、大暴れした。

当然、明は怒ってまっとうな貿易が制限され、密貿易が流になってしまった。これを1523年寧波の乱という。の代に縮小された日明貿易は、後期倭寇が活性化の原因となり明や朝鮮が手を焼いているのを鑑みて、倭寇黒幕である宗氏・松浦党・博多商人・明人らを利益誘導で従えて暴れさせたり取締るふりをして、倭寇取締りを外交カードとして利用し、1536年と1547年遣明派遣している。なお後期倭寇は皮にも大内義隆の死後、戚継による大規模倭寇取り締まりや明禁政策融和とそれに伴う民間貿易・南蛮貿易との貿易競争に敗れ、次第に衰退していくこととなる。

金儲けが上手2(博多商人と結託)

大内大陸から技術を持ち込むことに熱心で、硫化精錬法、製法、吹法など門外不出の技術を博多商人と共に賄賂などを駆使して手に入れている。

博多商人・神屋寿に1526年頃、石見銀山を再開発させたり、1533年に慶寿と宗丹という技術者朝鮮から招いて吹法を研究するなど、鉱山採掘と技術開発に柱心して大な利益を生んだ。先祖の大内も、明から硫化の精製法を持ち帰り、閉山していた長登山を再採掘していたり、寺尾鉱山に精製技術を研究していた跡がありこの一族には金けの旨さに定評がある

また、博多織の職人満田三郎を遣明で技術研修に派遣し、中国広東で織物の技術を持帰させることで明産に大差を付けられていた日本産の織物の品質を飛躍的に向上させた。後に西織が盛し織物の品質上昇に伴い、生糸の内需要も劇的に増加。江戸時代に養蚕が盛んになり、明治時代になって西洋技術の導入もあったため良質な生糸輸出が日本の発展を大きく支えた。

大内博多職人織り技術を持ち帰らなければ、江戸時代を通して養蚕の研究が盛んになることもなかったはずなので、もしかしたら日本の歴史が変わっていたかもしれない。

職人を招致して文化や産業を振した結果、扇子・屏といった交易に必要な輸出品の多くを領内で調達することに成功し高い収益をあげた。
交易で書物を輸入することで学問を志す僧・公家なども集まり、山口の人口は6万人をえた。

金払いが良い(末世の道者)

公家や寺社の荘園領が横領される戦国時代ではしく、逃げてきた公家を手厚くもてなし、東大寺の横領された土地まで奪い返してあげたり、筥崎宮や八幡宮などの復にも尽し、大陸から経典を輸入して寺社に寄進するなど、神リスト問わず寺社を手厚く保護したので、当時の識者からは「末世の者」(末法の乱れた世で仏教める者)と賞賛されていた。

かしこの褒め言葉も、公家の贅沢が武断の不満を煽り陶隆房東大寺の横領地を巡って険悪になって反乱という結果で滅びた今となっては「楽が過ぎての末代になってしまった人」というアワレな印をうける。


2020年トーマス・D・コンラン氏から衝撃の新説、『大内義隆の山口遷都計画』という説が発表されている。

中国治乱記」「足利季世記」「室町殿日記」の3つには義山口への遷都を計画していたと記述がある。、実際問題その下準備として公家の多くが山口に下向しており、その中には儀式を手掛けるような通常から離れないような公家たちも山口に下向した事がわかっている。義遷都の第一歩として、荒のため京都で行えなくなっていた新年の節会を山口で行うために天皇行幸を計画していた可性が十分に考えられる。

これを阻止するために将軍の承認の元で陶晴賢が動いたのが大寧寺の変であるという説である。

山口にもう一つのを作ろうとした大いなる野望を、過ぎた楽と切り捨てるにはやや乱暴が過ぎる気もする。

官職コレクター

少弐戦で味を占めたのか、その後も朝廷に献金を続け、室町将軍よりも高位の従二位まで昇叙している。
当時の朝廷貧乏で、天皇サインを金持ちに押し売りしている状態だった。この大な献金で天皇即位式が行われたり、卿達の生活も救われた。

しかし当時の後奈良天皇は、献金を猟官行為として忌み嫌い、勤皇行為とは認定せず、義の死後には何も贈位しなかった。なお1557年に践祚した次代の正親町天皇は、献金には厚く応える性格だったようで、毛利元就本願寺顕如は贈位されたり門跡の称号許可された。

  • 1514年8歳にして従五位上昇叙。
  • 1528年22歳で相続とともに周防長門・石見・安芸・豊前・筑前六かの守護職に。
  • 1530年24歳で左京大夫に任官。
  • 1532年26歳で正五位下に昇叙し、周防介任官。
  • 1533年27歳で筑前守任命。
  • 1534年28歳で従四位下に昇叙。
  • 1536年30歳で大宰大弐、左兵衛権佐任官。
  • 1537年31歳で従四位上に昇叙。
  • 1538年32歳で周防介、兵部権大輔任官。
  • 1539年33歳で正四位下に昇叙。
  • 1540年34歳で伊予介任官。
  • 1541年35歳で従三位に昇叙。
  • 1544年38歳で従任官。
  • 1545年39歳で正三位に昇叙。
  • 1547年41歳で兵部卿任官。
  • 1548年42歳で従二位に昇叙。

この官位コレクションも「軟弱な義公家趣味に走った」と言われがちだが、そもそも「曽祖大内)と祖大内)の時点で死後に従三位を贈られており、大内義興)は生前に従三位を贈られている」という事実が抜けている。趣味だなんてとんでもない、れっきとした武卿のなのである。

辞世の句

討つ人も 討たるる人も 諸ともに 如露如電 応作如是観

信長の野望シリーズ

信長の野望」(PCシリーズにおける大内義隆の力一覧。

シリーズ毎に、政治手腕の評価で数値の乱高下がしい。官位と宝による補正が入ったでは補正後統率92政治107という高数値になっている。
ブルジョワなので高価な宝を大量に保有しており、バランス調整のために本来保有していた名物を多数割愛されまくっても、なお「大内筒」「松本」「大内瓢箪」「威肩」などを保有している。
図」のうち消失した「景山図 伝徽宗筆」や「山図 伝李筆」「桃 徽宗筆」などの国級の美術品も多数保有していた。

顔グラは、覇王伝から世記まで長らく軟弱な公家顔だったが(蒼天録で顔向きがちょっと変化)、下創世・では大姿やや時代遅れの感はあるが大大名に相応しい姿となった。ところが、創造PKからは陶晴賢イケメン化したのに合わせ、晴賢を狙って野獣の眼光を放っていそうな顔つきになってしまった。アッー!

大寧寺の変イベント天翔記で初登場。続く将星録では省略されたが、烈風伝以降は恒例に。上述の創造PKから、台詞が変更されて、憎のもつれを含ませた台詞に変わっている。

軍事 内政
戦国群雄伝(S1) 戦闘 政治 野望
武将風雲録(S1) 戦闘 政治 野望 教養
覇王 采配 85 戦闘 76 智謀 44 政治 73 野望 82
天翔記 戦才 152(B) 智才 96(C) 政才 182(B) 83 野望 85
将星 戦闘 37 智謀 33 政治 41
烈風 采配 39 戦闘 21 智謀 32 政治 42
世記 采配 74 智謀 36 政治 85 野望 96
蒼天録 統率 69 知略 26 政治 77
下創世 統率 66 知略 27 政治 76 教養 72
革新 統率 武勇 知略 政治
統率 76 武勇 34 知略 77 政治 89
創造 統率 74 武勇 45 知略 74 政治 83

太閤立志伝V DX

一番い年代である1549年 流亡の章のみの登場。

大寧寺の変もイベントで用意されていて、野戦で敗北すると史実通りに死亡してゲームオーバーとなる。
は文弱なので素の状態のままでは勝利するのは難しい。
臣達でプレイしている場合は義に付くか陶隆房に付くか選択した上で野戦→敗北したら死亡してゲームオーバーとなる(相良武任は逃げるも選択できるとか)。
大内と関係ない主人公の場合は旅人末を語ってくれる。

主人公札は、陶隆房主人公で大寧寺の変イベントを起こして義を破ることでゲットできる。ただ大崎義隆主人公札をゲットすることで同名のよしみということで大内義隆の主人公札もゲットできるので、こちらのが楽ではある。

関連項目

関連記事

親記事

子記事

  • なし

兄弟記事

【スポンサーリンク】

  • 6
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

天外魔境II (単) 記事と一緒に動画もおすすめ!
提供: 侑李
もっと見る

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

大内義隆

62 ななしのよっしん
2023/08/15(火) 03:53:47 ID: KvvE3Hzfs0
コンラン教授山口遷都計画説は飛ばし過ぎと思いつつ、山口に続々廷臣が集結してるのは確かに異様で、行幸くらいは計画されてたのかもね。
でもそうなれば「大内足利に代わって朝廷を支える」構図になりかねないので、大寧寺の変への将軍関与説も動機はあることになる。

そもそも大内氏、足利将軍を通さずに官位もらったり朝廷と音信したりしているのが異常で、幕府の組みから外れかかってる。そんな大内が官位で将軍えて、足利義維義兄弟になってるとか、義から見れば相当不気味なはず。
尼子や大友との関係も改善してたみたいだし(三好だけど)、大寧寺が起きなければ信長の出番はかったかも。
👍
高評価
6
👎
低評価
0
63 ななしのよっしん
2023/09/17(日) 03:21:01 ID: W4kvTx5yDc
でも最終的に異常になくなってたのは事実なんよなぁ
にみんなして反乱とかじゃなく、見て見ぬふりをして大内を潰すのをよしとするあたりがガチっぽさを感じる
👍
高評価
5
👎
低評価
0
64 ななしのよっさん
2023/11/19(日) 13:35:31 ID: AjjdfZw5EH
そこはシンプルに「朝廷保護とか先代で痛い見ただろまたやんのか…」でいいかと。穏便に当社交代で済ませようとしたけど、余りにもあっさり行き過ぎたので暴走して弑虐まで発展してじった。
👍
高評価
0
👎
低評価
0
65 ななしのよっしん
2023/11/20(月) 05:24:10 ID: MZS6v9kNoK
>>sm42928711exit_nicovideo

👍
高評価
6
👎
低評価
0
66 ななしのよっしん
2023/11/20(月) 21:52:00 ID: q6pZcIgKca
大内長門の守護代・内藤盛が犯で陶はサブって見方はから鱗だったわ
確かに内藤にも動機なくはない(義時代に筋の伯父内藤矩殺された恨)し、内藤大丈夫だろうみたいな楽観視あったからあまり陶への叛意を脅威と捉えてなかった感じなのも合点がいく
石見銀山を管轄する陶晴賢実家?の問田氏と九州内の開発で功績を挙げてた相良武任との対立関係、陶房の・陶武護を殺した吉見氏を厚遇する不満を戚の益田氏と共有(益田吉見論争で長らく対立)とか複数の動機も点と点がって感覚になる…
👍
高評価
4
👎
低評価
0
67 ななしのよっしん
2023/11/25(土) 05:21:51 ID: +2GcvJh8QY
天皇が死後に官位贈ってないのは山口に行った公家たちの多くが反、あるいは天皇線で裏切り者と思っていたんじゃないかと思う
遷都計画なんてのはぶっ飛びすぎだが朝廷の儀礼を行うようなものですら山口逃げてるのはおかしいし大寧寺の変であんだけ高位持ちの公家たちが殺されてるのにほぼ反応はないだろ
👍
高評価
0
👎
低評価
2
68 ななしのよっしん
2023/12/01(金) 13:56:19 ID: iKu3DGbcv6
毛利隆元小早川隆景は一字拝領してるのに元にはあげなかったのは何で?
ネタ的に言えば元が好みじゃなかったとかそんな感じだろうけど実際はどうなんだ
毛利の次男として元してるからバランスを考慮してみたいな感じかね?
👍
高評価
0
👎
低評価
2
69 ななしのよっしん
2023/12/09(土) 13:06:53 ID: W4kvTx5yDc
吉川は尼子(というか根深い族)だからでしょ
毛利はそもそも大内に近い小早川と尼子に近い吉川をどっちも利用して第3軸として立ち上がる元就バランス感覚謀略から生まれたものなんですから
👍
高評価
1
👎
低評価
3
70 ななしのよっしん
2024/03/22(金) 21:08:17 ID: MZS6v9kNoK
>>sm43518757exit_nicovideo

👍
高評価
0
👎
低評価
0
71 ななしのよっしん
2024/03/27(水) 22:24:55 ID: MZS6v9kNoK
ネットで調べていると、日本人初で眼鏡をかけたことがあるとされとるが、本当なのだろうか?(ザビエルからの戴き物だそうな)
ソースhttps://ouchi-culture.com/discover/discover-256/exit
👍
高評価
1
👎
低評価
0

ニコニコニューストピックス