後藤象二郎(1838~1897)とは、幕末から明治時代初頭にかけて活躍した人物である。
土佐藩上士。幼名は保弥太。諱は元曄。
義理の叔父であり師でもあった吉田東洋の薫陶を受け、彼の推挙によって山内容堂体制の土佐藩で出世を遂げていった。しかし、1862年に東洋が武市瑞山率いる土佐勤皇党によって暗殺。それに伴い象二郎も失脚してしまう。
ところが、1863年の「八月十八日の政変」後大監察となり復権。もともとは公武合体論を唱える吉田東洋の教えを受け継いでいたものの、事件を受けて尊王攘夷派弾圧に傾き、武市瑞山を処刑したことを筆頭に土佐勤皇党への弾圧を加えていった。
さらに山内容堂の信頼を得て土佐藩参政として藩の実権を握り、性格に難はあったものの以降の土佐藩の基本路線を定めていった。1866年には開誠館を設立。対外貿易のために上海に行くなど外交活動を精力的に行い、また亀山社中の坂本龍馬と面会し海援隊創設に力を貸した
そして坂本龍馬の船中八策を受け、山内容堂を説得。徳川慶喜に大政奉還を行わせることに成功する。しかし、結局藩政は討幕に傾き、以後戊辰戦争において後藤象二郎が何かをしたということはなかった。
その後明治政府では参与、参議といった要職を務めるが、征韓論をめぐり1873年の明治六年政変で辞職。翌年幼馴染の板垣退助とともに愛国公党、幸福安全社を組織し民撰議院設立建白書を左院に提出。板垣退助が自由党を結成すると党の運営に努力した。しかし一方で、逓信大臣、農商務大臣を務めるなど立場の不鮮明が批判されることとなった。
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最終更新:2024/05/01(水) 02:00
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