オーテモンとは、1955年生まれの日本の競走馬・種牡馬である。黒鹿毛の牡馬。
短距離を得意とする種牡馬ライジングフレーム産駒の中で唯一の、天皇賞を勝利した晩成の名馬。
主な勝ち鞍
1960年:天皇賞(秋)(八大競走)、東京記念、日本経済賞
※当記事では活躍した当時に合わせて旧馬齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。
父ライジングフレームは同時代のライバル種牡馬ヒンドスタンと比べると大競走に縁がなかったものの、平場でよく組まれていた短・中距離のハンデ戦で本領を発揮し「格のヒンドスタン、ハンデのライジングフレーム」と呼ばれていた。ヒンドスタンをはるかに超える産駒総勝利数1379と戦艦勝利数176はノーザンテーストやサンデーサイレンスに更新されるまで残り続けていた。時代を超越していたと言える種牡馬成績を誇っていた。
母カネユキは中央競馬で60戦15勝。1949年の優駿牝馬2着や50年の天皇賞(秋)4着などの実績がある。オーテモンは3番目の産駒。
母父プリメロは現役時代愛ダービーや愛セントレジャーなど15戦3勝。日本の小岩井農場で種牡馬入りした後はダービー馬4頭を含むクラシック勝利馬15頭を送り出す大成功を収めた。母父としても現在も様々な名馬の母系に入って現代まで影響を残している。
1955年3月11日に浦河の冨岡牧場で誕生。トキノミノルの馬主として知られる永田雅一氏に購入されると「オーテモン」と名付けられた。オーテモンの馬名の由来が日本の城の正門として使われていた「大手門」からなのはわかるのだが、なぜそれを競走馬に…?それとも実業家らしく千代田区の大手町から取られたのかもしれない。永田氏京都出身だけど。
3歳になったオーテモンはトキノミノルのライバルとしてクラシックで鎬を削ったイツセイを手掛けていた尾形藤吉厩舎に入厩した。
1957年10月の新馬戦にトキノミノルの主戦だった岩下密政騎手を背にしてデビューし5着。その後2戦してどちらも2着した後11月末の3歳特別戦で勝ち上がった。翌月には中央2歳の大一番朝日杯3歳ステークスに格上挑戦し、1勝馬にもかかわらず1番人気に支持されたが、重馬場に足を取られてカツラシユウホウの3着に敗れた。2週間後の優勝戦も同じく2着に敗れ、3歳時は6戦1勝だった。
4歳時は1月の千葉4歳特別から始動。1番人気の支持を受けたが同期の牝馬ガーネツトの3着。そこからオーテモンは1月に2回のペースでレースに出走し続けだが、特別戦2着、弥生賞4着、スプリングステークス3着と前哨戦で善戦して名を挙げることには成功するものの地方からやってきたダイゴホマレの前に敗れ、肝心の皐月賞はタイセイホープ[1]の14着。NHK杯6着を挟んだダービーもダイゴホマレの14着とさっぱり振るわず、岩下騎手とのコンビはここまでとなった。
オーテモンは新しく野平好男騎手とコンビを組むと、次走は当時「残念ダービー」と言われていた中山4歳ステークスとなった。しかしここもあえなく8頭立て7着(後繰上り7着)に敗れ、2勝目は7月の4歳特別戦(30万下)であった。その後もオーテモンは4歳秋の王道とも言えるセントライト記念、菊花賞、カブトヤマ記念、有馬記念に出走を続けたが、好走すれども勝ち切れず、結局合い間に出走したハンデ戦で1勝を挙げるに留まっている。
5歳時の1959年も4歳時と同じく殆どの重賞で掲示板に入るものの勝てない日々が続いた。10月まで14戦、その内重賞は8戦も走って勝ったのはハンデ戦1勝とオープン戦2勝の僅か3勝。勝った相手は後の天皇賞馬クリペロ、安田記念馬ヒシマサル、ダイヤモンドステークスを勝ったアヤノボルなど決して弱くはないのだが[2]、何故か勝てそうなレースになると馬場状態が悪くなるという運の悪さもあってなかなか勝利に結びつかなかった。
11月になるとオーテモンは初めての天皇賞挑戦の為前哨戦の目黒記念(秋)4キロのハンデ差があった牝馬エドヒメに1馬身半及ばなかったものの2着として天皇賞(秋)へ歩を進めた。1959年の天皇賞(秋)は実績馬が少なく、ライバルアヤノボルも秋は調子を落としていた。馬場も良馬場であったためオーテモンは1番人気に支持され、馬主の永田氏もその気になって競馬場に足を運んでいた。レースではアヤノボルが大逃げを仕掛け、オーテモンは後ろから、エドヒメがその後ろにつけていた。アヤノボルは差を付けたまま最終直線まで粘ったが、外からガーネツトが上がり始め、一手遅れてオーテモンが仕掛けた。オーテモンは先に抜け出したガーネツト目指してじりじりと迫り、並んだところがちょうどゴール板前だった。
永田氏は写真判定中にもかかわらず意気揚々と表彰台の方へ移動を始め、同じく移動し始めたガーネツトの陣営の前で「俺の馬が勝ったんだぞ!」と大声で永田ラッパを吹き鳴らした。ガーネツトの陣営はそれを聞いてすっかり意気消沈してしまったが、長い写真判定の結果オーテモンはガーネツトの2着となってしまい、ガーネツトの陣営は大喜び。愛馬の勝利を全く疑っていなかった永田氏は逆に愕然とした表情で固まってしまったという。年末の有馬記念は不良馬場での開催だった為道悪が知られていたオーテモンは6番人気まで人気を落としたものの、他のメンバーも不良馬場ではいつも通りのレースが出来なかったのか、地力を見せて4着とした。結局5歳時も重賞は勝利できなかった。
6歳となった1960年、オーテモンはこれまで所属していた尾形厩舎から田中和夫厩舎に移籍した。移籍初戦は2月の京王杯スプリングハンデに決まり、トップハンデを背負って4着に好走。3月に新設された第1回東京記念でシゲミノルをハナ差で破り6歳にして遂に重賞初勝利。当時6月に行われていた日本経済賞でも前年の菊花賞馬ハククラマを半馬身差で破って重賞2勝目を挙げた。ハククラマとはハンデ差4kgあったけど。ただ自身も前年の活躍で斤量を背負うことが多くなり、平場のオープン戦は1戦しか出走せず、重賞でも掲示板にギリギリ入るか入らないかと言った成績だった。
前年2着の雪辱を果たすべく出走した天皇賞(秋)は、朝から小雨が降りしきる11月に行われた。この天気ではもはやレースどころか競馬場に行く前からすらオーテモンの勝ちは無理だと思われたか、11頭立て8番人気と大きく人気を落とし、永田オーナーも肩を落としつつ挨拶回りをしつつ愛馬の走りを見ようと東京競馬場へ足を運んだ。しかしやはりオーテモンの道悪下手を良く知るオーナーは最初から勝てるとは思わず、平服姿であった。
しかし、レース本番でオーテモンは最後の直線で前年の皐月賞馬ウイルデイールと一緒に鮮やかに馬群から抜け出すと、ウイルデイールを置き去りにしてどんどん足を延ばして行く。最後には内の方から迫ってきたオンワードベルを振り切り6歳にして八大競走初制覇。前年2着に敗れた雪辱も果たした。レースを見ていた永田オーナーは我に返ると大慌ててで表彰式に出るために平服から背広姿に着替えることになった。オーテモンはこの活躍により続く有馬記念では12頭立て1番人気に支持されたが、前を走る当年のオークス馬スターロツチを最後まで捉えきれず。1と4分の3馬身差の2着に敗れた。しかし二冠馬コダマを始め、前年ダービー馬コマツヒカリ、菊花賞馬キタノオーザ、皐月賞2着のマツカゼオー、後の天皇賞馬ヤマニンモアーなど多くの強豪に先着している。オーテモンは秋2戦の活躍を評価され最優秀5歳以上牡馬を受賞。これをもって引退となった。通算成績54戦9勝。うち重賞3勝。
引退後はリーディングサイアーライジングフレームの後継として種牡馬入りしたものの、中央で活躍する産駒は現れなかった。しかし地方ではNTV盃を勝ったマルヤマオーカンと、69年の南関東アラブ三冠を制したアラブの名馬セカンドホーリを輩出している。しかしオーテモンは産駒たちの活躍を見ることなく1966年以降は行方不明になってしまっている。当時は引退馬に対する意識は全くなかった時代であったため、消息の手掛かりは残っていない。
*ライジングフレーム Rising Flame 1947 黒鹿毛 |
The Phoenix 1940 鹿毛 |
Chateau Bouscaut | Kircubbin |
Ramondie | |||
Fille de Poete | Firdaussi | ||
Fille d'Amour | |||
Admirable 1942 黒鹿毛毛 |
Nearco | Pharos | |
Nogara | |||
Silvia | Craig an Eran | ||
Angela | |||
カネユキ 1946 鹿毛 FNo.12 |
*プリメロ 1931 鹿毛 |
Blandford | Swynford |
Blanche | |||
Athasi | Farasi | ||
Athgreany | |||
第四バツカナムビユーチー 1940 黒鹿毛 |
*ダイオライト | Diophon | |
Needle Rock | |||
バツカナムビユーチー | *シアンモア | ||
第三ビユーチフルドリーマー | |||
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最終更新:2025/03/27(木) 13:00
最終更新:2025/03/27(木) 12:00
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