果断が笑顔につながり
自信は涙に流される
ふと舞い込む幸運
あるいは突然の失意約束された未来など
どこにもない
シナリオは常に書き換えられ
予定調和は崩されるどんなエンディングでも
受け入れる準備はあるか?
1991年の有馬記念で14番人気ながら1番人気のメジロマックイーン以下を退け、脅威のレコードタイムで勝利した馬である。その後全く勝てなかった事から「世紀の一発屋」「史上最強の一発屋」とも称される。
※馬齢は特に記載のない限り旧表記です。
誕生日を見ると南半球産?と一瞬見紛うほど、競走馬としては異例の遅生まれである。当然、同期の馬たちに比べてその分だけ成長が遅く、そこから起因する虚弱体質故に、成長するまでろくに調教でも追えなかったと言う。87年12月、栗東の内藤繁春厩舎に入厩するが、母クニノキヨコを担当していた内藤調教師は、ダイユウサクの体つきと大人しすぎる性格から、タイトルを取るのは無理だと、半ばあきらめていた。
競走馬登録された当初は馬主・橋本幸平の孫・幸作(3人の孫の中で一番喧嘩が強かったらしい)から名をとって「ダイコウサク」と命名されるはずだったが、厩舎所属騎手であった熊沢騎手が書いた登録書類の文字を内藤師が読み違えて、「ダイユウサク」となってしまった。馬名変更も出来たが、その後のあまりの惨敗続きに変える事が出来なかったという。
デビューは遅れに遅れて4歳の秋、88年10月30日。中央開催場の未勝利戦なんてとっくに終わっており、1勝クラスのレースに出て1着から13秒遅れの大惨敗である。
当時は10月と11月の福島競馬場で、まだ勝ち星を上げていない馬の救済目的で1日の殆どのレースが4歳未勝利戦という開催が開かれていた。一縷の望みをかけてここに臨むものの、そもそもここに出るような馬は能力的にかなり厳しい馬ばかりというのに、そこでも1着から7.3秒遅れの超惨敗だった。
体が弱すぎて障害競走への転向も無理、橋本オーナーが馬を持っている地方・愛知競馬への移籍も獲得賞金がないのでそもそも無理。さすがにこれはどうしようもないと「乗馬への転用(という名目の何か)」が持ち上がってくるが、内藤師は「体調さえ整えば能力が出せるのでは」と判断し、現役続行となる。とはいえ、ろくに調教もできず、騙し騙し走らされる虚弱児を担当したがる厩務員は誰もおらず、最終的に未勝利馬を主に担当していた若手・平田修に押し付けられる形となった。
5歳春になってもダイユウサクは四苦八苦していた。小倉競馬場への出発日に熱を出して遠征中止になったり、追い切りで900万円以下の条件馬に先着したと思ったら中京競馬場での本戦でソエを発症、惨敗したり。しかしとうとう、4月16日の5戦目で未だ未勝利馬ながら1勝クラスの競争で初勝利し、周囲の期待に応える。枠連は3万1640円もついた。
ここからまともに走り始めるようになり、阪神の芝1200mのコースレコードを更新するなど、半年で9戦して5勝2着2回4着1回で準オープン入り。唯一掲示板を外したのは格上も格上のG2・高松宮杯で、そこでも11頭中7着だから恥ずかしい走りをしていない。なお、5月の京都・5歳上400万下では初めて熊沢重文が騎乗し、以後の主戦騎手として多くの競争を共に走ることになる。
準オープンでも好走を続け、結局この年は3月から12月までの10ヶ月間を休むことなく16戦も走った。夏までは相変わらず脚部不安と隣り合わせだったが、当時導入が始まっていたプール調教が功を奏したのである。賞金だけで7000万円も稼ぎだし、その他の手当などを含めれば購入費や厩舎への預託費くらいは軽く元をとった。つくづく引退させずに良かった。
年が明け、疲れを取るために半年間の休養を入れるが、6月に復帰した後も好調は続いた。格上挑戦となる重賞でも好走し、その流れで条件戦・ムーンライトハンデキャップ(村本善之が騎乗)を制して、遂にオープン馬に出世したのだ。
GI初挑戦となった天皇賞(秋)は6着のオグリキャップ(ちなみに同期である)に半馬身差と迫る7着。前年までの状態と相手の力量を鑑みれば善戦と言っても過言ではない。秋天後は鞍上が熊沢騎手に戻り、トパーズステークス、飛鳥ステークスとオープン特別を2連勝している。
5ヶ月間で7戦走って3勝3着1回4着2回、獲得賞金は7500万円と前年を超えた。なんという孝行息子。既に黒字ではあったが、内藤師は橋本オーナーに現役続行を申し出、オーナーもそれを承諾した。
7歳になると年明けの金杯(西)を一番人気で快勝、重賞を初制覇する。このレースでは空馬のメジロマーシャスも抑えている。続く産経大阪杯ではホワイトストーンの2着に入るが、裂蹄のため約半年の休養を余儀なくされる。
9月に復帰し、朝日チャレンジカップで7着、京都大賞典で5着に入った後、スワンステークスではこれまでの好位~中団からの競馬ではなく、思い切った後方待機策を取ると鋭い末脚を見せ、4着に食い込んだ。GI2戦目となったマイルチャンピオンシップでも、ダイタクヘリオス、ダイイチルビー、ケイエスミラクルなど強力なメンバーの中で初のGI掲示板確保となる5着に食い込んだ。
マイルCSの好走を受け、平田厩務員と熊沢騎手はスプリンターズステークスへの出走を希望したが、内藤師は「ここで1つオープン戦を勝てば有馬記念を推薦で出走出来るのでは……」と考え、マイル戦の阪神競馬場新装記念に出走させた。この当時、有馬記念は出走登録した馬のうちファン投票の上位10頭に優先出走権が与えられ、残りの登録馬は推薦委員会の推薦を受けないと出走できないシステムだったのだ。そしてダイユウサクは、59kgのハンデをものともせずあっさりと勝利する。
これでこの年7戦して重賞勝ちを含む2勝2着1回4着1回5着2回。獲得賞金は堂々の1.1億円と大台超え。この実績で見事有馬記念の推薦に滑り込む……かと思いきや、すったもんだの末に紛れ込む形となった。この年の推薦委員会において、ダイユウサクに推薦を行うかには賛否両論があったらしい。1年を通して重賞路線で堅実に走り続けてきた馬に対してかなり厳しい評価なのだが、そのくらい当時の推薦委員会とはガチな場所だったのだ。もっともこの後推薦制度は急速に形骸化し程なく消滅、他のG1と同じくファン投票上位馬以外も賞金順に出走可能となる。結果後にはレゴラスが出走できるレースにもなったり。
この年の有馬記念は、例年に比べると出走メンバーの層が薄かった。無敗で二冠を達成したトウカイテイオー、菊花賞馬レオダーバン等4歳の有力馬が故障で出走を取りやめていたのである。
15頭立ての1番人気は当時現役最強と言われたメジロマックイーン。天皇賞(秋)では1着入線ながら斜行で18着降着、前走のジャパンカップでも外国馬相手にやられ運の悪さを見せてしまったが、高評価は揺るぎないものであった。その証拠に1番人気で単勝も1.7倍、2番人気のナイスネイチャが8.7倍だったのを見れば期待度が分かる。他にGI馬も居たがそれぞれ故障明けだったり(メジロライアン)、明らかに距離が不向きだったり(ダイタクヘリオス)、そもそも繰り上げだったり(プレクラスニー)、明らかに終わった馬扱いだったり(オサイチジョージ)でメジロマックイーンの地位は変わらないものと見られていた。
対してダイユウサクはメンバー中唯一の7歳馬、それまでのレースも過密ローテ且つ距離もバラバラ、好走したレースも最長で2000mまでとあっては、14番人気の単勝137.9倍も致し方ない所であった(15番人気は誰が見ても超・絶不調とわかるオースミシャダイ)。が! 当日、中山競馬場に集った競馬関係者は驚いた。何と内藤師が、まるで表彰式に出るのは当然とでもいわんばかりの正装で現れたではないか。
「内藤先生、何してるんすかw」と皆に言われたのは言うまでもない。だが内藤師はダイユウサクが究極に仕上がっていたので「これなら無様なレースはしないだろうし、これはもしかするともしかするかも……」と判断し、これまでそんなことは言ったことがないのに「もう1回やれと言われても不可能だ」と断言するほどに勝利を信じていた。さらに言うと、有馬記念を数日後に控えたある夜、内藤師は不思議な夢を見ていたのだ。
5枠に入ったダイユウサクがメジロマックイーン以下の各馬を完封して勝利。その上、内藤師は何故か、本来調教師は買ってはいけないはずの馬券(当然ダイユウサク絡みのもの)を大量に持っていた。換金に行った際に「現金にしますか?小切手にしますか??」と聞かれ「億というお金は見たことないから現金で」と答え、大量の札束とともにダイユウサクと馬運車で帰る……。
内藤師は「5枠に入ったらうちの馬の単勝を買ってよ」と冗談交じりで話していたが、ダイユウサクは実際に5枠に入ったことからその気になり、岡部幸雄騎手に当日の乗り役として声をかけたほどだったという(実際の鞍上はいつもの熊沢騎手であった)。橋本オーナーにも競馬場での観戦を薦めたが、オーナーは忘年会への参加を優先して地元・名古屋に留まった。実業家としてパーティーをすっぽかすわけにはいかなかったのだが、結局出走時間に抜け出して、幸作少年を始めとする3人の孫と、料亭ロビーのテレビ前に向かった。
ちなみに熊沢騎手は、中山競馬場での騎乗は今回が初めてだったため、競馬場に向かう道中に迷っていた。何かどこかで聞いたエピソードのような……。
レースは、当時はまだ普通の逃げ馬だったツインターボの逃げで始まる。メジロマックイーン鞍上の武豊はハイペースを見越してレースを進める。3コーナー途中までダイユウサクの名前は呼ばれなかった(「ダイユウサクもいる!」)。
4コーナー手前でツインターボが普通の逃げ馬のように失速すると、まず先頭に立ったのはプレクラスニー。前走の天皇賞(秋)、メジロマックイーンに6馬身差離されながら、メジロマックイーンが降着となったことでの繰り上げの天皇賞馬。実力で勝利する為にも負けられないレース。しかし、直線でメジロマックイーンが外から満を持してプレクラスニーに襲いかかる。
その時だった。
後方へ沈んでいくツインターボに引き裂かれるような形で馬群の内側に出来た隙間、そこから猛烈な鬼脚で迫り、プレクラスニー、メジロマックイーンを交わして先頭に立ったのがダイユウサク。気づけば2着メジロマックイーンに1馬身4分の1の差を付けゴール板前を突き抜けていた。激走を目の当たりにした平田厩務員は待機所バスの中で大興奮し、天井をボコボコに殴りつけていたという。
さぁマックイーン出てくるか! マックイーン3番手! ダイユウサク黄色い帽子も伸びてきた!マックイーンは外から、マックイーンは……ッ!?
ダイユウサクだ!ダイユウサクだ!
これはびっくり、ダイユウサク!!
勝ちタイムは2分30秒6。従来のイナリワンのタイムを1秒1も更新するコースレコードであり、12年後の2003年にシンボリクリスエスがコンマ1秒更新するまでレコードであった。7歳馬で勝利したのはスピードシンボリ、グリーングラスに次いで3頭目、有馬記念が万馬券になったのは初めて。あまりの事態に、スタンドからは凄まじい歓声……というより凄まじいどよめきとざわめき(そして断末魔の叫び)がまきおこり、ウイニングランから戻ってきたダイユウサクは怯え切ってホームストレッチ前で立ち往生。右手を真っ赤に腫らした平田厩務員は引き綱を抱えて200mを全力疾走し、愛馬と熊沢騎手を迎えに行った。
レース後の勝利インタビューで、熊沢重文は言った。
「ダイユウサクのファンの皆さん、ご声援ありがとうございました」
このとき場内が一瞬静まった。
「僕ね、あのとき言ってしまってから、まずったなって思いましたよ。しまった、今日はダイユウサクのファンは少なかったんだって。今でも後悔しているんですよ(笑)」
アナウンサーが自分の馬の名前を連呼している……自分の勝負服を着た熊沢騎手が手を振り上げて……いや、ガッツポーズをしているのか? 橋本オーナーはテレビの前で呆然とし、気づけば孫たちに抱きつかれていた。表彰式には馬主も生産者もおらず、家族で東京ディズニーランドに遊びに行くついでに観戦に来ていた橋本オーナーの娘さんとその姪っ子が、それぞれ馬主と生産者台に代理登壇した。期待されていない穴馬が勝った時の表彰式が寂しくなるのは良くある話だが、今回は前述のとおり、内藤師だけは自前の正装という異様な光景が展開されていた。
平田厩務員は夕食後、熊沢騎手を探しながらダイユウサクの馬房へ向かったが、そこには缶ビールの空き缶と『先にダイユウサクと祝杯をあげました』という置き手紙だけが残されていた。熊沢騎手は馬房で平田厩務員を待っていたのだが、新幹線の時間が来てしまったのである。
結局この年は年明けの京都金杯と年末の有馬記念を勝ち、文字通り1991年の競馬は「ダイユウサクに始まりダイユウサクに終わった」年となった。尚、このレースで3着になったナイスネイチャは、ここから有馬記念3年連続3着と言う大異業を達成する事になるのだが、それはまた別の話である。
一世一代の大激走で燃え尽きたのか、翌年は勝利どころが掲示板確保も出来ず、6戦して引退となった。
種牡馬になるも目立った産駒が出ずにあっという間に需要が無くなる。その後は1998年に出来た観光施設「うらかわ優駿ビレッジAERU」のオープンに際してその目玉となる功労馬牧場入りする馬の第1号として白羽の矢が立ち、そこへ移動。後に来たニッポーテイオー、ウイニングチケットと共に余生を過ごした。2013年4月、老衰で永眠。28歳だった。
前述のとおり、手違いで「ユウサク」と名付けられたダイユウサクだったが、有馬記念優勝後では前々年に早世した松田優作、2着のメジロマックイーンをスティーブ・マックイーン(メジロマックイーン馬名の由来)に関連付けて話題にするマスコミも多かった。
主戦騎手・熊沢重文がダイユウサクの後、次にGIタイトルを手にするのは14年後の2005年・阪神ジュベナイルフィリーズ。このレースも8番人気のテイエムプリキュアで穴を開けている。
厩務員・平田修は複数の厩舎を移籍した後、2005年に調教師となり、自らの厩舎を開業。カレンブラックヒル、ゴールドドリーム、ケイアイノーテックらGIホースを送り出す名調教師として大成した。
*ノノアルコ 1971 鹿毛 |
Nearctic 1954 黒鹿毛 |
Nearco | Pharos |
Nogara | |||
Lady Angela | Hyperion | ||
Sister Sarah | |||
Seximee 1966 栗毛 |
Hasty Road | Roman | |
Traffic Court | |||
Jambo | Crafty Admiral | ||
Bank Account | |||
クニノキヨコ 1977 鹿毛 FNo.2-c |
ダイコーター 1962 鹿毛 |
*ヒンドスタン | Bois Roussel |
Sonibai | |||
*ダイアンケー | Lillolkid | ||
Bonnie Luna | |||
クニノハナ 1967 黒鹿毛 |
*ネヴァービート | Never Say Die | |
Bride Elect | |||
アキイヅミ | クリノハナ | ||
アサミドリ | |||
競走馬の4代血統表 |
掲示板
85 ななしのよっしん
2024/04/26(金) 09:51:45 ID: tBU2sQ/y9L
平成の有馬でこれより早いタイムだったのは3回だけって考えると凄まじいよな
86 ななしのよっしん
2024/09/04(水) 11:26:23 ID: aw52njSVYw
マイル以下から2000超まで幅広く走ってたのに
何故か芝1800の持ちタイムが2:00.0(未勝利戦しんがり負け)
というか芝1800はこれ1回しか走ってない(厳密には取り消したレースはあるけど)
芝2000のベストはもちろん2分を切っている
いろいろと不思議というか面白い馬である
87 ななしのよっしん
2025/01/18(土) 14:01:03 ID: EjwDRYdMhq
90年の有馬記念をもってオグリ世代は終結し、世代交代したと見せかけての、オグリ世代の最後の伏兵。
1番人気のメジロマックイーンをレコードタイムでみごと撃破。
提供: tk
提供: 禿山の禿鷹
提供: marbul
提供: 淫夢にドハマりしたフリーレン
提供: キャバ嬢の着エロアイドルごっこ
急上昇ワード改
最終更新:2025/03/26(水) 11:00
最終更新:2025/03/26(水) 11:00
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