北条義宗 / 赤橋義宗(1253~1277)とは、鎌倉時代の武将である。
簡単に言えば北条重時の孫。通称は陸奥孫四郎。正直、人生のほとんどは、極楽寺流北条氏の嫡流・赤橋家の2代目以外に特筆すべき個所はないのだが、とある事件に大きく関わる。
北条長時(赤橋長時)の息子として生まれた。母親は不明で、幼名は宮王。
康元元年(1256年)の4歳の頃、赤疱瘡を患う。文永元年(1264年)の13歳の時に父・北条長時があっけなくなくなり、翌年には既に信濃国守護になっている。文永5年(1268年)に従五位下左近将監に任じられ、文永8年(1271年)には六波羅探題北方となっていた。
そんな彼が、唯一歴史に大きく名前を残した事績は、文永9年(1272年)の「二月騒動」、あるいは「北条時輔の乱」において、同じく六波羅探題南方を務めていた北条時宗の兄・北条時輔を誅殺した事件である。ただし、この事件はあまりにも謎が多く、いったん北条時輔の記事にて説明を行いたい。
その後、六波羅探題の任を終えて、建治2年(1276年)に鎌倉に戻る。翌年には評定衆と駿河守に任じられるが、この評定衆就任は本来ステップを踏む引付衆就任を経ておらず、あまりにも異例であったこと『関東評定衆伝』がわざわざ記しているくらいである。
こうして、極楽寺流北条氏の嫡流・赤橋家の当主としていろいろ期待されていたのだが、その2か月後にあっけなく死んだ。享年25歳。子供には北条久時、北条高則、北条時宝、女子一人が知られている。
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最終更新:2025/12/06(土) 03:00
最終更新:2025/12/06(土) 02:00
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