引付衆とは、中期鎌倉幕府において創設された訴訟機関・引付方を担う人々である。
仁治3年(1242年)の北条泰時の没後、特に寛元4年(1246年)に兄・北条経時から本来執権につくはずのなかった北条時頼にその職務が移された後、先代将軍・藤原頼経とその父九条道家を中心とした将軍派と執権派の対立は激化した。それを何とか同年の宮騒動と翌年・宝治元年(1247年)の宝治合戦で抑えた北条時頼は京都より有力一門で長老格にあった極楽寺流の大叔父・北条重時を連れ戻し連署を復活させた。
加えて建長元年(1249年)12月に、評定会議の下に評定衆の上位者が頭人となる引付方が創設され、その下に数名の評定衆・引付衆・奉行人が配属されて訴訟の予備審理が行われるようになったのである。
これを持って幕府の職制・訴訟制度の基本が完成し、元寇さえなければ順調に鎌倉幕府は存続していったのではないかといわれている。やがて、引付衆は評定衆に出世するためのコースと化していき、時の執権の政策で廃止されたり増えたり減ったりが繰り返されはしたものの、三問三答と呼ばれるその特徴的な訴訟もきちんと行われていき、室町幕府に継承されるのである(あちらは一応同じ引付衆と呼ばれていた時期もあったが、ややこしくなるのか便宜上内談衆と呼ばれることが多い)。
なお、引付頭人を筆頭に鎌倉幕府内の重職は弘安7年(1284年)までは『関東評定衆伝』で明らかになるが、それ以降は佐藤進一によってあくまでも復元されたものである。
一番 | 二番 | 三番 |
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四番 | 五番 | 六番 |
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七番 | 八番 | |
上の表の利便性も図り、頭人についても再掲する。
おおよそ以下の10氏が引付方の奉行人として活動していた。
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最終更新:2024/04/25(木) 15:00
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