承久3年(1221年)、承久の乱での鎌倉幕府の勝利後、幕府軍を統括していた北条泰時、北条時房の二人は、かつて文治2年(1185年)に北条時政が構えた邸宅に駐留し事後処理にあたった。これがそれまでの京都守護に代わる六波羅探題の成立である。こうして二人は北条義時の耳目となって北条泰時は北方探題、北条時房は南方探題となったのだ。
当初は対等だった両者であったが、嘉禄元年(1225年)に北条時氏が北方、佐介時盛が南方のそれぞれ探題になると、時氏が執権探題となり職掌上の差異が生まれたのである。その後は原則として北方探題が執権探題となり、南方探題がとぎれとぎれだったのに対し、北方探題は途切れることなく続いていったのである。
しかし、建治3年(1277年)に北条時村が北方に、佐介時国が南方のそれぞれ探題になると、以降は必ず二人の探題が必ずいることとなり、さらに永仁5年(1297年)には南方の大仏宗宣が執権探題になるなど北方か南方かに関わらず執権探題になることが可能となったのである。
そんな六波羅探題の仕事は洛中警護、つまり京都周辺の治安維持と西国の訴訟である。当初はただの占領軍に過ぎなかった六波羅探題であったが、建治年間に機構が整備され、武家のみならず公家政権の軍事・警察を担当する組織としても機能していったのである。
後日加筆予定
京都で何かあった場合困るからだろうか。鎌倉・鎮西の評定衆と比べると北条氏はたった一人、しかも最も家格の低い伊具流の駿河次郎しか評定衆に選ばれていない。
また吏僚層が裁判と公家への対応から多いこと、将軍家から遠ざけられ体よく西国に追いやられた人々が多いこと、といった特徴もある。
ア行 | カ行 | サ行 | タ行 |
---|---|---|---|
|
|||
ナ行 | ハ行 | マ行 | ヤ行 |
|
特になし | ||
ラ行 | ワ行 | ||
特になし | 特になし |
北条氏の得宗流や足利氏といった在鎌倉御家人、それに対して地頭や守護職が与えられた土地にいた在国御家人に対し、京都にいることが義務づけられた在京御家人も存在する。
引付衆に関してはまだわかっていないことが多く、はっきりした全貌はまだよくわかっていない。
評定衆と同じく引付衆に関しても北条氏の姿はまったく見られない。
おおよそ以下の10家によって構成されている。
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最終更新:2024/03/29(金) 15:00
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