「宗谷」または「そうや」の名を持つ船で著名なものは建造順に以下の5隻。
1.2.3.に関してはいずれも数奇な運命を辿っており、2.3.5.は長きにわたって活躍した幸運の船としても知られる。名前は全て宗谷海峡、もしくは宗谷岬に由来する。
本稿ではその中でも最も有名と思われる3.を解説するが、「宗谷」の名を冠した船は「濃い」面子揃いということもあり、他の「宗谷」としばしば混同されることがある。南極観測船候補となった2.とは特に混同されがち(宗谷丸の模型を誤って「宗谷」として展示するなど)が、見た目や大きさからして全く違う(2.のほうが大きい)。また、3.も戦後の改造で外見が大きく変わっていたこともあり、南極観測船として有名になった時、特務艦時代の乗組員が、まさか自分が乗っていた艦が戦争を生き延びていたとは思わなかったという話がある。
宗谷は日本初の南極観測船として知られる。本船の保存されている船の科学館での名義が「南極観測船」であることもあり、一般の知名度としては、この役割としてのものが大きいだろう。
非常に困難な南極の観測任務を幾度も務め上げた「奇跡の船」として有名であるが、「奇跡」の由来はそれだけではない。
この船の用途は上記のように第二次世界大戦前から始まっており、1978年に航行任務を退役するまで足掛け40年……戦火を潜り抜けつつ第一線で働き続けたという、船舶関係者からすると「わけがわからないよ」と口にするレベルの異能生存体。
ここで「40年?」と首を傾げた方、なかなかに鋭い。ごく一部を除き、一般的には使用年数が20年を越えた船舶は「相当のベテラン」と呼ばれる世界。宗谷は、戦時の荒波すら乗り切り、その長きに渡る活躍全てをひっくるめて「奇跡の船」なのである。
ソビエト連邦向けの砕氷貨物船として日本国内で建造。しかし、日本海軍に買収され、太平洋戦争では特務艦として激戦の南方海域で測量・輸送任務をこなし、連合国の攻撃もことごとくかわし続け、時には果敢に反撃し、十分に航行可能な状態で終戦を迎えた。
戦後は、復員輸送船を経て、海上保安庁に入り、灯台補給船として日本中の灯台守に愛された。そして、魔改造大改造を施され南極観測船となり、有名な南極観測の任務に就き、南極観測船としての任を全うした後も巡視船として北海道の海を守り続け、数多くの船や人々を救助した歴戦の船である。
そして、宗谷の幸運を物語るのは、博物館船として現在も東京臨海副都心の「船の科学館」にて保存されていることだろう。海上保安庁に船籍を残しており、(タグボ-トによる誘導が必要だが)航行も可能である。第二次世界大戦時に海軍に所属していた艦船として唯一現存する船であるとともに、日本の水上にて保存されている歴史的価値のあるフローティングシップ9隻の内の1隻であり、現在でも海上保安庁の特殊救難隊の特殊訓練場として使用されている現役の船である。
と、時代に合わせて貨物船、測量艦、運送艦、復員輸送船、灯台補給船、南極観測船、巡視船、博物館船と様々な役割をこなしてきた。さながら「海のなんでも屋さん」というべき船。その活躍は昭和戦後の日本人にはよく知られ、1978年の退役時には春日八郎の歌唱で「さよなら宗谷」という歌が作られたなど、まるで国民的スターのような扱いであった。その生涯は、1984年にはアニメ「宗谷物語」としてアニメ化もされている。
その波乱に満ちた経歴と、様々な苦難を乗り切った強運振りから、「奇跡の船」「灯台の白姫」「海のサンタクロース」「北の海の守り神」「福音の使者」「不可能を可能にする船」「帝国海軍最後の生き残り」など数多の二つ名を持つ。
そんな宗谷の今日までの生涯を、もう少し詳しく、下記に記したい。
全て誇張ではなく、本当にあった出来事である。
1936年(昭和11年)12月7日起工、1938年(昭和13年)2月16日進水、同年6月10日竣工。
当時、ソビエト連邦はカムチャッカ半島沿岸で使用する、耐氷能力を有し、音響測深儀を搭載した貨物船3隻を建造できる造船所を探しており、1936年9月18日に川南工業(当時は松尾造船所。直後9月27日に改称)が受注することになった。
そして仮番号106番船「ボルシェヴィキ(Большевики)」、107番船「ボロチャエベツ(Волочаевец)」、108番船「コムソモーレツ(Комсомолец)」の3隻が起工された。この107番船「ボロチャエベツ」が後に「宗谷」となる船である(この107という数字は何の因果かこの船を表す番号としてこの後再び登場することになる)。
「ボルシェヴィキ」は1937年8月10日に進水し、「コムソモーレツ」は同年10月20日に進水した。
106番船「ボルシェヴィキ」はソ連側が指定していた部品を使用していなかったことが発覚し、107番船の建造はソ連から派遣された技師スメタニュークが監督官として徹底的に指導したため進水が大幅に遅れた。
船の性能としては1938年2月14日、「ボルシェヴィキ」がロイド船級協会の公試運転で速力はソ連側の要求性能を上回ったものの、ソ連側の契約上規定された公試方法ではないとのことで不合格になった。 後に公試運転の方法をめぐって川南側とソ連通商部側の激しい対立があったことが発覚した。
ソ連船として建造され、実際に進水式にてロシア語の命名され、母港まで決まっていた3隻であったが、ソ連に引き渡されることはなかった。日中戦争の激化に伴う資材価格の高騰によりソ連側の要求を飲めなくなり、日ソ国境紛争による対ソ感情の悪化により、日本海軍から引き渡しを延期せよとの要請があったことなどが理由とされる。
当時、海軍は老朽化した砕氷艦「大泊」の代替として新型砕氷艦(後に「恵山」と命名予定であったが建造されることはなかった)の建造を計画していた。そこで、この耐氷型貨物船を買収し、砕氷艦に改造するという計画もあった。現在、天領丸、民領丸と思われる貨物船の砕氷艦への改造設計図が大和ミュージアムにて保管されている。
1985年3月23日付の読売新聞の記事では「造船所はソ連発注の事実を隠して建造、これを当時の海軍佐世保鎮守府が察知し、造船所の経理部長を呼びつけ脅した」と書かれており軍の介入が明らかになった。海軍の要塞海域でソ連の国旗を掲げて進水したのも海軍からの風当たりが強くなったと書かれている。
1938年3月10日、川南工業は東京支配人を通じてソ連通商代表部に契約破棄の通告を行った。ソ連側は川南工業に再考を促し、契約復活、その履行を要求した。その後、海軍、外務省等を巻き込んだ末に3隻は日本に留まることになった。
ソ連側が一方的に契約を破棄してきたと書かれている書籍も多いが、実際は上記の通り、川南側から契約破棄を申し込んだ(と元川南工業の社員が書き残している)。このことが日本とソ連の国際問題「松尾造船所問題」となり、最終的に1941年に政治決着となった。
日本に留まることになった3隻は日本で貨物船として就航する事が考えられた。
しかし、「耐氷型であり貨物船としては無用の長物な音響測深儀を装備している3隻は重量があり不経済船とされていたこと」、「ソ連側の抗議があり、国際問題として持ち上がるであろうこと」が理由となって3隻の引き取り手はいなかった。
そこで川南工業は兵庫県にある1662年創業の清酒大手メーカー辰馬本家酒造が設立した海運会社、辰馬汽船に運航を依頼、翌年1939年4月に川南工業と辰馬汽船の共同出資で『辰南汽船』(『辰南商船』とも云われている、現在は吸収合併され商船三井)という新会社を設立。3隻は母港を神戸港とする、辰南汽船の所属船として就航することになった。
3隻は日本船となり、106番船「ボルシェヴィキ」が「天領丸」、107番船「ボロチャエベツ」が「地領丸」、108番船「コムソモーレツ」が「民領丸」と改名され、それぞれ竣工時に命名された。
3隻の船体は若草色に塗られ、煙突には辰南汽船の煙突マークが描かれていた。
地領丸はまず日清汽船のチャーター船として大連を基地として中国大陸で雑貨や食糧を運送した。
1939年(昭和14年)には栗林汽船にチャーターされ函館を基地として千島のカニ加工場への物資資材、工員の輸送にあたった。
そして大連、朝鮮半島への航路についた地領丸であったが、ここで海軍が地領丸の買い上げを具体化する。砕氷艦としてではなく、音響測深儀を利用した測量艦・運送艦としての買い上げであった。測量艦「勝力」の老朽化により、音響測深儀を装備している地領丸が注目されたのだ。
測量を行い、正確な海図を作成することは航海の安全はもとより、戦略上にも重要な事である。もちろん、「大泊」の代替としての使用も考えられていた。ただ、姉妹船の天領丸、民領丸が選ばれず、なぜ地領丸のみが選ばれたのかは不明である(流氷で立ち往生した漁船を救出したことが評価された?)。
ともかく、1939年11月、地領丸は海軍への買収が決まった。
2020年9月30日、辰馬本家酒造は貨物船「地領丸」時代の縁と氷と愉しむ新酒の新発売をきっかけに、 第62次南極観測隊に日本酒が寄贈され「しらせ 5003」に積み込まれることになった。
目次 | 海軍籍に / 太平洋戦争開戦後 / 昭和18年から19年 / 終戦間際 |
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海軍に買収された地領丸は東京・石川島造船所にて特務艦への改装を受けた。
8センチ単装高角砲、25ミリ連装機銃などの兵装を施し、測量艇の装備、測深儀室、製図室などが設置され、ボイラーは艦本(日本海軍艦政本部)式のものに、音響測深儀が海軍制式のものに換装された。
1940年(昭和15年)2月20日、地領丸は海軍艦政本部から「宗谷」と命名された。「特務艦には海峡、岬、湾港、半島などの名前を付ける」という当時の海軍の艦名基準に則り、宗谷海峡にちなんで付けられた名前であった。
1940年6月4日、宗谷の改装が完了し、宗谷は横須賀鎮守府に所属することになった。
横須賀に回航の後、補給し、青森県の大湊へと向かった。宗谷の海軍艦船としての初めての仕事は北海道・樺太・千島の北方海域の測量・輸送であった。
名前の由来となった宗谷海峡を含め千島・占守島、北海道・網走、南樺太・大泊、北樺太・オハなど各地を行ったり来たり一生懸命に働いた。
9月11日に北方から横須賀に到着した宗谷を待っていたのは洋上気象観測装置の装備であった。
それからちょうど1ヶ月が経過した10月11日、横浜で『紀元二千六百年特別観艦式』が開催された。
御召艦に戦艦「比叡」、先導艦に重巡洋艦「高雄」、供奉艦に重巡洋艦「古鷹」「加古」、その他そうそうたる98隻の日本海軍艦艇が集まり、満艦飾を施して列をなした。
特務艦や潜水母艦が列をつくる番外の列には給糧艦「間宮」、工作艦「明石」、潜水母艦「長鯨」などとともに宗谷の姿もあった。見学者を乗せる拝観艦の一隻としての参加である。序列は番外列13隻中9番目と末席ではあったが、間違いなく「宗谷」として初めての晴れ舞台であった。
観艦式の興奮冷めやらぬ11月、宗谷は南洋諸島への測量任務に就くことになり、一路サイパン島と向かう。
12月、測量を終えた宗谷は横須賀へと帰投。翌1941年(昭和16年)2月から3月まで再びサイパン付近の測量を行った。
その後、また横須賀へと帰投し、5月から11月までカロリン諸島ポナペ島やサイパン、トラック諸島の付近を測量した。まだ戦争前であり、宗谷は南洋の人々に暖かく迎え入れられた。
この測量の際、サイパン島西方海中で宗谷は岩礁を発見、「第一宗谷礁」、「第三宗谷礁」として海図に記された。しかし、宗谷の測量はなぜ行われていたのか考えてみよう。
それは、来るべき戦争への準備であった。
1941年(昭和16年)12月8日。日本海軍機動部隊がハワイ・真珠湾を奇襲攻撃。さらに英領マラヤ(マレー半島)への上陸作戦、米領フィリピンへの空襲を開始。そして米国・英国に宣戦布告した。太平洋戦争の開戦であった。
宗谷は測量機材や糧食・石炭など物資を満載し、12月29日、横須賀を出港した。第四艦隊の支援のために再び、トラック島へと赴くのである。
ここでちょっと話は変わるが、宗谷はもともと北洋で行動することを前提に設計された船である。そのため、高い防寒性から艦内はさながら蒸し風呂のような状態だった。
おまけに燃料は石炭焚き(戦艦や空母などの戦闘艦艇や航空機の燃料用に重油を節約するため、当時の海軍補助艦艇は重油による従来の海軍式ボイラーだけでなく石炭による蒸気機関も用いていた)だったので、南洋における航海・任務では艦内が灼熱地獄と化していた。「海鷲の焼き鳥製造機」などと呼ばれていた頃の某空母と比べたら、果たしてどちらがマシだったのだろうか?
(この『南洋では内部が蒸し風呂状態になる』という欠点は、後の第一次南極観測時に宗谷が南極観測船に改造された後も受け継がれることになった。第二次南極観測以降、空調設備の改善やクーラーの設置などでその都度マシになっていったが70年代にクーラーは撤去された模様)
閑話休題。
1942年(昭和17年)1月9日、宗谷はトラック諸島・夏島(トノアス島)に到着した。
1月16日、荷揚げ作業をしていた宗谷の艦橋で戦闘開始のラッパが鳴り響いた。米軍航空機・B-24の空襲である。宗谷が経験した初めての空襲であった。
宗谷乗組の砲兵たちはすぐさま対空戦の用意をしたが爆撃は地上に対するものであったため、宗谷をはじめとした艦船に被害はなかった。
翌17日。宗谷は正式に第四艦隊に編入され、第四測量隊として測量・輸送を行うことになった。
それから宗谷は横須賀へ戻り、物資・酒保物品・測量班員を乗せ、2月24日にまたトラック島へと戻った。
戻った宗谷は休みなく、1月23日に占領したラバウルへの物資輸送・測量を命ぜられる。占領したばかりのラバウルはまさに最前線であった。
宗谷は2月28日、トラック泊地を出港。ポナペ島経由でラバウルへと向かった。
この時、宗谷は初めて赤道を通過した。後に宗谷が南極観測船となり、12回も赤道を通過することになろうとはこの時は誰も思わなかっただろう。
3月22日、宗谷は第八特別根拠地隊司令官・金澤正夫中将はじめ陸戦隊隊員40名を乗せてマッサバ掃蕩作戦に参加。輸送のみならず測量艇を用いて水源を確保する活躍をみせた。
3月28日には第八特別根拠地隊陸上警備隊を乗せ、第三十駆逐隊の駆逐艦「睦月」「弥生」「卯月」とともにブーゲンビル方面攻略作戦に参加した。
睦月を始めとする睦月型駆逐艦は旧式ではあるが、最高速37ノットの俊足を誇っていた。対して宗谷は巡航速度8ノット。最高速も12ノット程度という鈍足(なお、当時の輸送艦や戦時徴用船の平均巡航速度は12ノットである)で「始終8ノット」とあだ名されるほどであった。
しかし、この鈍足がこの先何度も宗谷を救うことになる。
3月30日、宗谷と第三十駆逐隊の駆逐艦はショートランド泊地に到着。この東南には何度も日米間で激戦が繰り広げられるソロモン諸島の島々が広がっている。
宗谷は陸戦隊を上陸させると測量にとりかかった。その時、双発の飛行艇が襲来。宗谷は高角砲を2発発砲したが、この飛行艇は駆逐隊によって撃退された。
宗谷はその後も測量と陸戦隊の輸送を行い続けた。時には宗谷からも陸戦隊が編成された。
5月17日、宗谷はビスマルク諸島・デューク・オブ・ヨーク島にいたが、ラバウルへの帰還命令を受けラバウルへと向かった。
ラバウルに着いた宗谷を待っていたのは、『MI作戦(ミッドウェー島攻略作戦)』への参加指令であった。
17日中にラバウルを出発し、サイパンへと向かった。宗谷に与えられたのはミッドウェー島へ上陸する陸戦隊の輸送と占領後の測量の任務であった。
サイパンの港には続々と輸送船が集まってきた。否が応にも決戦が予感された。
輸送船団はミッドウェー島まで13ノットで9日間の航海を見積もっていた。特設巡洋艦「清澄丸」は巡航16ノット、特設運送艦「あるぜんちな丸(後に空母「海鷹」として改装)」「ぶらじる丸」は巡航18ノットと快速の輸送船が多くいた。しかし、宗谷はそんなスピードは出せない。宗谷は「我艦足遅シ、先ニ洋上ニ出ヅ」と旗旒信号を掲げ、輸送船団より2日早くサイパンを発った。
6月4日、軽巡洋艦「神通」率いる第二水雷戦隊に護衛された輸送船団は敵飛行艇に発見されてしまった。後に単独行動をしていた宗谷も陸上機に発見され、高角砲を4発放っている(双方に被害はなかった)。
6月5日、『ミッドウェー海戦』が勃発。日本海軍はミッドウェー島攻略のために投入した4隻の主力航空母艦「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」を全て喪失。機動部隊は壊滅し、大敗を喫した。
この時、ミッドウェー沖(ミッドウェー島から約600海里の位置)に待機していた宗谷は「機動部隊壊滅」の報せをいち早く傍受し、翌6日午後にはウェーク島へと退避を開始した。
なお、主力艦隊は6日午後の時点で米軍の追撃を受けて重巡洋艦「三隈」を撃沈されるなどの被害を出していたが、この時点でおそらく最もミッドウェー島の近くにいたであろう宗谷はなぜか全く追撃を受けなかった。
その後、宗谷は13日にはポナペに撤収。宗谷の『MI作戦』(『ミッドウェー海戦』)はこうして幕を閉じた。
8月7日、ラバウルにいた宗谷に出動命令が出た。米軍がガダルカナル島・ツラギ島に上陸、占領したのである。
重巡洋艦「鳥海」「古鷹」「加古」「青葉」「衣笠」、軽巡洋艦「天龍」「夕張」、駆逐艦「夕凪」が敵上陸船団に殴り込みをかけ、宗谷は敷設艦「津軽」、特設運送艦「明陽丸」らとともに陸戦隊・大発動艇を輸送し、ツラギ奪還を目指しツラギ島に上陸する事になった。『第一次ソロモン海戦』である。
宗谷は8月7日のうちに津軽と明陽丸、駆潜艇、掃海艇とともにラバウルを出港した。
ところが翌8日、航空部隊の援護を受けられないとして帰投命令が下された。その途上、米潜水艦「S-38」の雷撃を受け、明陽丸が餌食になった。
鳥海ら殴りこみ艦隊は敵艦隊に夜戦を仕掛け、見事撃破。しかし、敵上陸船団に損害を与えることができず、戦略的には失敗に終わった。宗谷ら日本側輸送船団も後退したため、陸戦隊を上陸させることができなかった。
9月に宗谷は軽巡洋艦「夕張」と共にラバウルへと戻り(ただし、潮書房光人社『日本海軍艦艇写真集 軽巡天龍型・球磨型・夕張』の夕張の行動年表(p.132)を見ると、夕張はこの頃一貫して南洋で行動している)、第四艦隊から第八艦隊に編入。そして、ソロモン諸島北部の測量任務に就いた。『第三次ソロモン海戦』の下準備であった。
ソロモン諸島は激戦地である。宗谷は日々米軍航空機の爆撃・機銃掃射に晒されたが、何とか生き延びた。
11月ラバウル湾内にて航空機に雷撃をされ魚雷が艦首の陰に隠れ、見張り員がやられたと観念したが、魚雷は右舷後方に流れていった。たった10センチ魚雷は艦首をふれなかったと、見張り員は証言している。
日々激しさを増す米軍の攻撃によって数々の輸送船が餌食となった。しかし、宗谷は沈まなかった。
1943年(昭和18年)元旦。宗谷はブカ島付近の測量を行っていた。宗谷は正月三が日も休まず測量を行った。
午前6時。宗谷はブカ島のクイーンカロライン港の沖にて測量を行っていた。しかし6時55分ころ、監視兵が「魚雷だ!!」という声をあげた。潜水艦が宗谷の左舷後方より4発の魚雷を放ってきたのだ。
宗谷は鈍足をかっ飛ばして必死に回避し、2発をかわした。かわした魚雷が付近の小島に当たり、吹っ飛んだ。1発は深度調整が深かったのか真下を潜り抜けて反対舷に出て行った。
しかし、4発目を避けきれず、宗谷の右舷後方に直撃してしまった。
ゴツーンとものすごい音がして宗谷は大きく揺れた。宗谷もこれで一巻の終わりかと乗組員の誰もが思った。もともと鈍足の宗谷のことである。潜水艦に遭遇すれば撃沈必至と皆が覚悟していた。
しかし、宗谷は沈まなかった。なんと、魚雷は当たった反動で角度を変え約1キロ離れた浅瀬に乗り上げたのである。
「爆雷戦用意!!」の声とともに宗谷は潜水艦に突進した。そして機雷班が爆雷を海に向かって蹴り入れた。
宗谷に爆雷投射機は搭載されていなかった。おまけに、宗谷の鈍足では爆雷で自分の船体を傷つける恐れがあり、爆雷には爆発するまでの時間を稼ぐために水中用パラシュートが取り付けてあった。(ただし、この時は『爆雷自体装備していなかった』という証言もある)
宗谷は爆雷を投下すると必死にその場から離脱した。そして、近くにいた「第二十八号駆潜艇」が何発も爆雷を投射し、やがて黒い重油のようなものが浮き上がってきた。潜水艦の重油であれば撃沈は確実であった。
この時、宗谷に当たった魚雷は引き上げられ、宗谷の甲板上で記念写真を撮られている。宗谷の右舷後方は少し凹み、機関室が少し漏水したものの航行には全く問題なかった。久保田艦長は酒保品を開放して祝杯を上げた。
ただし、米軍側にはこの時撃沈されたという潜水艦の記録は残っていない。また、1月18日に米潜「グリーンリング(Greenling SS-213)」が『ブーゲンビル島沖にて宗谷を撃破した』という記録が残っているが、グリーンリングはこの時沈没していない。日付も18日と28日で食い違っている。
どちらが正しいのかはともかく、宗谷が魚雷にあたっても無事だったのは確かである。
宗谷はこの後ラバウルに戻り掃海作業にあたっていたが、空襲により測距儀を破損した。この頃からますます米軍の攻勢が激しくなり、宗谷も損傷を受けることが多くなった。
ところが、ことごとく急所からは外れ、航行に問題が出るような損傷を受けることはなかった。
5月28日、宗谷は潜水艦の雷撃により行動不能に陥った特設水上機母艦「神川丸」の救助を命じられた。神川丸を護衛していた駆潜艇では神川丸を曳航できなかったのである。
ところが、宗谷は出発にもたついた。命令が出されて6時間経った午後10時にようやく宗谷は出発するが、神川丸は翌29日0時16分に再び雷撃を受けて沈没した。宗谷がもう少し早ければ神川丸は助かったかもしれない。宗谷にとって後味の悪い結果となってしまった。
宗谷は6月、修理のために横須賀に向かった。そして8月にラバウルに戻った。
宗谷は休むまもなくラバウル付近やブイン付近の測量を行った。測量だけではなく、輸送船団の指揮も宗谷は任されるようになっていた。
1943年の末から1944年(昭和19年)1月まで宗谷はブラウン島の測量を行っていた。
1944年1月。宗谷は燃料と食料の補給のためにクェゼリン島に向かおうとしていたが、宗谷前艦長であり、第二十四駆逐隊の司令となった久保田智が宗谷を訪れ、「クェゼリンは食料も物資も不足している」と助言。これを受けて宗谷はトラック島に向かうことになった。
その後、1月30日にクェゼリン島において『クェゼリンの戦い』が勃発し、日本軍は玉砕した。宗谷はまたも命拾いをした。
宗谷が率いる第四測量隊はブラウン島に残ることになった。第四測量隊のメンバーは徴用された千葉県銚子沖の漁師たちであった。激戦が予想されるトラック島には連れていけないとブラウン島にとどまらせたのだ。
だが、測量隊のメンバーは幸運艦である宗谷から降りることを嫌がった。
「必ず迎えに来る」とフラグを立て約束し、宗谷はトラックへと向かった。
物資を補給したものの、もはや南洋方面は米軍の進出が著しく、宗谷が測量するべき海域もなくなってしまった。
2月14日。宗谷にとっては妹にあたる「民領丸」がフィリピン・ルソン島沖にて米潜「フラッシャー(Flasher SS-249)」の雷撃を受けて撃沈した。民領丸は陸軍に徴用され、他の船を修理する工作船・輸送船として働いていた。
2月17日と翌18日、トラック泊地を悲劇が襲った。レイモンド・スプルーアンス(Raymond Spruance)中将率いる米軍第58任務部隊がトラック泊地に波状空襲を開始したのだ。『トラック島空襲』(『海軍丁事件』)である。
この空襲により軽巡洋艦「阿賀野」「那珂」、練習巡洋艦「香取」、駆逐艦「舞風」「太刀風」「追風」「文月」、特設巡洋艦「赤城丸」、特設運送艦「清澄丸」「愛国丸」、特設給油艦「第三図南丸」など50隻近くの艦船が沈没した。
また、工作艦「明石」が大破、水上機母艦「秋津洲」などが中破、駆逐艦「時雨」などが小破するなど甚大な被害が出た。
この2日続いた空襲により、トラック島の施設はほとんどが壊滅した。
宗谷も空襲から身を守るために必死に反撃した。まるで夕立のように爆撃・機銃掃射を繰り返してくる敵機に対空機銃と高角砲を撃ちまくった。この時、米軍機1機を撃墜している。
ところが、回避行動中に座礁。宗谷は身動きがとれなくなってしまう。
(座礁したのが17日、米軍機を撃墜したのは18日だという。つまり、宗谷は身動きがとれない状態で丸1日以上奮戦していたことになる)
副艦長を含む9名が戦死し、負傷者も多数出たために、航海長は総員退艦を命じた。艦長の天谷嘉重大佐はこの時重傷を負い指揮をとれない状態であった。
宗谷は2日に渡る機銃掃射で穴だらけとなり、甲板は乗組員たちの血で染まり、更には座礁して身動きがとれないとまさに満身創痍であった。乗組員たちはもはや宗谷の命運もこれまでと思った。
ところが、翌19日、乗組員たちが宗谷の様子を見にいってみると、なんと何事もなかったかのように海に浮かんでいるではないか。満潮になり、自然に離礁したのであった。
だが、喜んでばかりもいられなかった。この空襲で多大な被害を出したのは前述のとおりだし、ブラウン島に残してきた第四測量隊の人々は、同日19日に起きた米軍の上陸によって玉砕してしまったのである。やっぱりフラグだった。
また、(結果的に宗谷は無事だったとはいえ)艦を放棄したことと測量隊全滅の責任から天谷艦長は更迭され、およそ10ヶ月後の12月16日に拳銃自殺を遂げることになる。
宗谷は穴だらけになっていたものの、機関部が爆撃の衝撃で少し壊れていたのみで航行にそれほど支障は出なかった。宗谷は修理のために横須賀に戻ることになった。
機関部の不調と常に之字航法(潜水艦の攻撃を避けるためジグザグに航行すること)をとっていたため、宗谷が横須賀に到着したのはおよそ2ヶ月後の4月7日の事だった。
宗谷は横須賀到着後、日本鋼管浅野ドックにてトラック島空襲で受けた損傷を入渠修理した。1944年(昭和19年)4月22日に出渠し、横須賀にて待機。その後、北方の船団護衛に就いた。
この時、宗谷は姉妹船で姉の「天領丸」を護衛した。小樽から幌筵島まで戦車第十一連隊の戦車と兵士を輸送するためである。天領丸は陸軍に徴用されていた。姉妹の久しぶりの再会であった。
小樽を出港した天領丸は5月7日、大湊にて宗谷と合流。護衛として駆逐艦が付き、幌筵島へとむかった。
なお、この時宗谷たちを護衛した駆逐艦は「雪風」という証言があるが、この頃の雪風はフィリピン方面で活動していたため、実際は大湊を母港としていた駆逐艦のいずれかと思われる。
(飛内進『大湊警備府沿革史』(p.730)に「5月8日 第7駆逐隊、野風、陸軍船団を護衛し北千島に向け出撃」とあるので、実際に護衛を行ったのは峯風型駆逐艦「野風」と第七駆逐隊の綾波型駆逐艦「曙」、「潮」である可能性が高い)
宗谷はいまだ流氷の残る北方海域を姉の天領丸とともに進み、5月15日に幌筵島柏原に到着。姉妹はここで別れた。
この後、宗谷は横須賀に戻り、測量艦から輸送艦への改装を受ける。いよいよ太平洋戦争は日本側の劣勢となり、測量よりも輸送のほうが重要となってきたのだ。測量なんかしているヒマすらないほど追い込まれているともいえるが。
日本海軍はこれまでシーレンの防衛や補給線の重要性を疎かにしたため多くの徴用輸送船を連合国側の潜水艦に撃沈されていた。すでにこの頃には輸送任務自体がとても危険なものとなり、「特攻輸送」とまで呼ばれる有り様であった。そのため、「幸運艦」である宗谷に白羽の矢が立ったのである。
しかし、宗谷は機関部の不調に悩まされた。その後も入渠しては整備を受け、公試運転を繰り返した。
宗谷は中々本調子にならず、翌年(1945年)2月まで輸送任務に復帰できなかった。
輸送任務に復帰した宗谷は、室蘭への軍需品の輸送任務に就いた。宗谷は危険な輸送任務を必死にこなした。
1945年(昭和20年)5月18日、姉の天領丸は小樽を出港し、占守島への輸送任務へついていた。
その後、5月28日幌筵で北海道への引揚兵員・米軍捕虜を乗せた天領丸は僚船の「呉竹丸」「春日山丸」とともに輸送船団を組み、海防艦「占守」、「第112号海防艦」、給糧艦「白埼」に護衛され小樽へと戻る航海に出た。
5月29日午後8時55分、樺太・愛郎岬沖63kmの地点に差し掛かったところで輸送船団は米潜「スターレット(Sterlet SS-392)」の襲撃を受け、天領丸と呉竹丸が撃沈された。天領丸は妹の名前の由来となった宗谷海峡までもうすぐというところで撃沈されてしまったのであった。
一方、宗谷は横須賀にいた。東京への大空襲が始まり、いよいよ戦況はのっぴきならない状況になっていた。
6月24日、宗谷は重工業機材を満州へ輸送する任務のため、海防艦「四阪」、駆潜艇、掃海艇に護衛されて「永観丸」「神津丸」とともに満州へと向かった。
6月26日、輸送船団は岩手県大釜崎にさしかかったところで米潜「パーチ(Parche SS-384)」に襲撃された。
パーチを発見した宗谷は、後続の永観丸らにこれを知らせようとした。しかし、その間も無く、神津丸が雷撃を受け、船体が真っ二つに折れて撃沈された。
続けざまに永観丸も撃沈。宗谷も雷撃を受けた。
すぐさま宗谷は四阪と第五十一号駆潜艇、第三十三号掃海艇らとともに爆雷で反撃し、パーチに損傷を与えてこれを撃退した。その後、宗谷はカッターを下ろし、生存者の救助にあたった。
8月2日、宗谷は横須賀軍港にて入渠し、修理を受けていた。すぐそばには戦艦「長門」が浮き砲台として繋留されていた。
ところが米軍航空機が襲来し、横須賀軍港は空襲に晒された。空が真っ黒になるほど敵機は多かった。湾内にいた長門や特設病院船「氷川丸」も爆撃された。
宗谷も敵機に増槽(ガソリンタンク)を落とされ、気化したガソリンが艦内に充満した。
いつもどおりであれば、缶の火に引火して某装甲空母のように大爆発を起こしていただろう。しかし、宗谷は入渠修理中であったため缶に火が入れられておらず、事なきを得た。一方、長門は自らのその存在が敵機を引き寄せる形となり、砲塔を吹っ飛ばされて中破した。さながら宗谷や氷川丸を庇ったかのようであった。
8月3日、横須賀からの撤退命令を受けた宗谷は標的艦「大浜」に護衛され、宮城県女川港へと向かった。
女川港に到着した宗谷はここで大浜と別れ、8月6日、輸送任務のため単独で室蘭に向かった。これが宗谷にとって太平洋戦争中最後の任務となる。
女川をはじめとした東北地方沿岸部や沖合は6日から翌7日にかけて濃霧が発生していた。
7日早朝、電探で敵機動部隊の襲来を知った宗谷は、全速12ノットの鈍足を飛ばして濃霧に紛れながら八戸港に逃げ込んだ。
この時、濃霧がさらに濃くなり視界が完全にゼロの状態になったという。宗谷の乗員は、この濃霧を「神の衣」と呼んだ。もし霧が発生していなければ宗谷は敵機動部隊に発見され撃沈されていたかもしれない。
8月8日、八戸を出港した宗谷は室蘭に到着した。直前の津軽海峡において、探信儀が米軍潜水艦の反応を捉えたため、一目散に室蘭港に飛び込んだという。
その翌日、八戸や女川が空襲を受け、女川に残された大浜は英航空機の爆撃を受け、大破着底した。
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終戦後、宗谷は横須賀に戻り、1945年(昭和20年)8月30日にGHQに接収された。
宗谷の乗組員は一旦故郷に戻ることになったが、9月の中頃、また招集がかけられた。宗谷には日本が進出した外地から邦人たちの引揚げ輸送任務が与えられた。いわゆる復員船である。
宗谷の船艙には居室が、甲板上には小屋と仮設便所が設けられた。
やがて、SCAJAP(日本商船管理局)番号「S-119」を与えられ、宗谷は正式に引揚げ輸送にあたることになった。
宗谷はまず、ミクロネシア・ヤップ島に向かった。そして上海、台湾・基隆、ベトナム・サイゴンの引揚者を運んだ。
1946年3月の基隆からの航海では引揚者の妊婦が女の子を出産した。女の子は宗谷の機関室で産湯に浸かり、宗谷にちなんで「宗子(もとこ)」と名付けられた(名付け親は当時の宗谷艦長)。
次に宗谷が訪れた中国の葫蘆島からの引揚げは悲惨なものであった。
葫蘆島には満州からの引揚者たちが集まっていたが、ソ連軍の侵攻・中国の内戦・暴行・略奪を受け、皆憔悴しきっていた。
宗谷は何度か葫蘆島からの引揚げを行ったが、途中で力尽きて死亡してしまう人もいた。そうした人たちは宗谷の甲板から海へと水葬にされた。
宗谷はその後も樺太・大泊、ロシア・ナホトカ、中国・大連、朝鮮半島から引揚者を輸送した。
1948年11月までに宗谷は延べ19000人近くの邦人を日本に連れ戻した。
引揚げ輸送の任務を終えた宗谷は小樽に繋留された。商船風の黒に白帯の入った塗装を施して。
この頃、宗谷は「宗谷丸」という名前で呼ばれていたが、船名表記ではこれまで通り「宗谷」のままだった。
宗谷はこのまま商船に戻るかと思われた。しかし、宗谷はもともと商船構造であったにもかかわらず、海軍艦船として酷使されていた。船体や機関部には痛みがあり、おまけに艦本式ボイラーに換装していたため、商船として復帰するには無理があった。...等と書かれている本が多いがこれは宗谷の物語を劇的に見せるための創作である。『日本の燈台史』によると1948年12月から1949年7月までの間は真岡-函館間の輸送業務に従事していた。つまり機関の痛みは比較的軽微であり、商船として復帰していたのである。
1948年(昭和23年)に発足した海上保安庁水路局は、当初測量船として宗谷を再習得しようとしていた。(前身は旧海軍省外局水路部、現在は海上保安庁海洋情報部に改名)
海上保安庁は太平洋戦争中に戦没した羅州丸の代わりに「第十八日正丸」を灯台補給船として使用していたが、1949年(昭和24年)第十八日正丸のチャーター期限が切れ、船主に返還しなければならなくなった。
当初は旧海軍の砕氷艦「大泊」を灯台補給船として使用する予定であったが、大泊はすでに船齢28年を超える老朽船であった。北方の海域で休みなく長い間働いてきたために、機関部がボロボロになっており、終戦後は長らく日本鋼管鶴見造船所に係留されていた。
結局、修理費がかさむとして、大泊は解体されることになった。
当時、灯台は灯台守として海上保安庁灯台部の職員が家族とともに住み込みで灯台の明かりの世話をしていた。
灯台の明かりがなければ無事に航海はできない。そのため、灯台守の職務は非常に重要なものであった。
しかし、当時は道路もまともに整備されておらず、灯台のある岬や、島には船で物資を補給するしかなかった。どこも地の果てのような場所ばかりで、灯台守は不便な生活を余儀なくされていた
灯台補給船は日本各地の灯台に行かなければならない。その中には冬場は流氷に覆われる北の海にある灯台も当然ながら含まれている。耐氷構造を持った宗谷にはぴったりの仕事だった。また、宗谷は大泊ほど機関部は傷んでいなかった。
1949年12月12日、宗谷は海上保安庁に移籍。かつて特務艦として改装された石川島重工業で灯台補給船への改装を受けることになった。
宗谷は灯台補給船として白く塗装され、灯台補給船を示す「LL-01」のナンバーが船首に書き込まれ、煙突には海上保安庁のファンネルマークであるコンパス(羅針盤)が描かれ、船名表記はひらがなになった。
乗員は第十八日正丸の船員たちが引き続き乗り込むことになった。
宗谷は早速、灯台の燃料、暖房用の石炭、食料、雑貨品などの物資を満載して日本各地の灯台を回った。灯台守の家族たちは宗谷の補給を、子どもたちは宗谷が運んでくるおもちゃを心待ちにしていた。
いつしか宗谷は「灯台の白姫」、「海のサンタクロース」と呼ばれるようになった。
1953年(昭和28年)12月、宗谷に大役が転がり込んできた。アメリカに統治されていた奄美群島の返還に際して、9億円の現金が必要になり、宗谷がそれを輸送することになったのだ。
宗谷は12月18日門司港にて命令を受け、鹿児島港に向かった。
鹿児島港で9億円と警備員と郵政局、電電公社、警察、日本銀行、鹿児島銀行、法務省などからの通貨交換業務要員を乗せ、賊の襲撃を警戒し囮として護衛の巡視船を就けた大阪汽船の客船「若草丸」(後に8代目灯台補給船になる)が出港した後ひっそりと奄美大島の名瀬港に向かった。
12月21日、宗谷は名瀬港に到着。奄美大島の人々は宗谷に日の丸の小旗を振った。
宗谷は奄美群島の日本復帰を見届けると、日本復帰祝賀式典に参加した安藤正純国務大臣らを乗せ、鹿児島へと向かった。
年が明けて1954年(昭和29年)1月、宗谷は再び名瀬に向かい、アメリカの軍票を回収すると、鹿児島に帰還した。
この時点で宗谷は建造から15年以上が経過していた。
普通、船の寿命は20年ほどと言われている。宗谷は灯台補給船として、のんびりした毎日を過ごしていた。
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目次 | 南極観測船への改造 / 第1次観測 / 第2次観測 / 第3次観測 / 第4~6次観測 |
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1955年(昭和30年)3月、朝日新聞の記者・矢田喜美雄は、朝日新聞紙上で13回に渡り「北極と南極」という記事を連載した。その取材で矢田は『国際地球観測年』を知った。
『国際地球観測年(IGY:International Geophysical Year)』とは、地球における様々な現象を検証するため、1957年(昭和32年)7月1日から1958年(昭和33年)12月31日にかけて世界各国で自然現象を観測しようという試みであった。
矢田は南極観測を朝日新聞社を挙げて支援しようと信夫韓一郎朝日新聞専務、半沢朔一郎「科学朝日」編集長らにこの話を持ちかけた。途方も無い計画であった。
日本学術会議にももちろん、国際会議よりIGYの招請状が来ていた。
1954年(昭和29年)9月には後に第1次南極観測隊長となる地球物理学者の永田武が、IGY特別委員会副委員長のロイド・バークナー(Lloyd Berkner:IGYを提案した人物である)に日本のIGYへの参加を持ちかけられていたが、当時、日本は敗戦直後であった。途方も無い計画で多大な予算がかかる。日本が多額の資金を拠出するのは難しいとして皆尻込みしていた。
矢田、半沢は日本学術会議の茅誠司会長、中央気象台台長・和達清夫ら学会や政府の要人を訪ね、南極観測への支援を打診した。茅は矢田らの熱意に後押しされ、南極観測を実行することに決めた。皆、南極への夢を捨てきれなかった。そこに朝日新聞の支援は大きな後押しになった。
永田は1955年9月8日、ベルギー・ブリュッセルで開催された第2回IGY南極観測会議に参加した。白瀬矗(1861-1946:元陸軍中尉兼南極探検家。日本人としては最初に南極を探検した)が率いた南極探検隊の実績を語り、日本の南極観測参加の意思を伝えた。
しかし、イギリスやオーストラリアらの反対があった。「日本はまだ国際社会に復帰する資格はない」との意見もあった。最終的に、アメリカやソ連らの賛成もあり、かろうじて日本の南極観測参加は承認された。日本でも11月4日に南極観測参加が正式に閣議決定された。
朝日新聞東京本社編集局長・広岡知男は一大キャンペーンを展開した。南極観測への資金の提供を社告で公表するとともに募金の呼びかけも行った。募金は全国各地から約1億4500万円が集まった。
日本の南極行きは小さな波紋が少しづつ大きなうねりになるように沢山の人々を巻き込み、短期間に、しかし着実に進んでいった。
南極観測には南極の厚い流氷が立ちはだかる。また、南アフリカのケープタウン沖には暴風圏があり、強いシケになることが予想された。この悪条件に耐えうる、砕氷船が必要であった。
茅会長は7月、海上保安庁の島居辰次郎長官に協力を仰いだ。島居長官は戸惑ったものの、砕氷船の確保を約束した。
当初、砕氷船を新造する計画であったが、予算がかかるとして、立ち消えになった。
その次に、外国の砕氷船のチャーターが考えられたが、これもチャーター料が高く付き廃案になった。
残るは日本に存在する砕氷船を南極観測船に改造する事が考えられた。
大阪汽船の客船で、沖縄航路に就航していた「白龍丸」や、戦中まで北海道・稚内と樺太・大泊を結ぶ稚泊航路に就航していた国鉄の鉄道連絡船「宗谷丸」などの砕氷船が候補として選ばれた。
しかし、これも買い上げや補償金などに資金がかかるとして立ち消えとなった。
残るは海上保安庁の所有する耐氷船を、改造する方法であった。言わずもがな宗谷である。
だが、宗谷はすでに建造から17年が経った老朽船と化していた。船体は錆びつき、甲板にはところどころ穴が開いていた。このようなおんぼろ船を見れば、普通なら「こんなボロ船が南極に行くなんて」と誰もが思うことだろう。しかし、宗谷には運があった。太平洋戦争中、戦禍をことごとくかわしてきた強運だ。
日本が割り当てられた観測地点はプリンスハラルド海岸(Prince Harald Coast)。夏でも厚い氷が立ちはだかる、難所で、ノルウェーが領有を宣言していた土地であった。
アメリカ海軍の報告書には「接岸不可能(inaccessible)」とあった。
アメリカ海軍は1946年に南極観測計画『ハイジャンプ作戦』においてプリンスハラルド海岸への接岸を試みたが、失敗していた。
1955年11月、宗谷は正式に南極観測に使用されることになり、灯台補給船から巡視船籍に入った。
海上保安庁灯台部の土井智喜部長は惜しみつつも、南極観測に向かう宗谷にエールを送った。
灯台補給船の業務は「若草」が引き継いだ。元大阪汽船の客船「若草丸」である。
南極観測船になることが決まった宗谷であるが、船体も小さく、鈍足であり、石炭焚きであり、あくまでも最小限の耐氷能力しか持っていなかった。
IGYまで残り1年。短期間で大規模な改造を行うことが必要だった。
1956年(昭和31年)3月12日、着工式が行われ、宗谷の改造が始まった。
改造は日本鋼管浅野ドックが行うことになった。奇しくもトラック島空襲で受けた損傷を修理したドックであった。
全く原型を留めないほどであった。金剛型戦艦もびっくりの魔改造ぶりである。
海上保安庁船舶技術部と浅野ドックだけの手には余り、元海軍の技術将校であった船舶技術者の牧野茂に詳細な図面の製作を依頼した。牧野は戦艦「大和」の設計にも携わった人物であった。
浅野ドックは一丸となって、この突貫工事に当たった。宗谷は船体に大きな歪みが生じ、水漏れを起こすなど、工事は難航した。しかし、10月17日、なんとか竣工式が行われ、宗谷は無事に魔改造を終えた。
船体はオレンジに塗られ、巡視船を示す「PL-107」のナンバーが船首に書き込まれていた。
宗谷には日本各地の企業から提供された観測機材、観測基地の材料、雪上車、食糧などが満載された。南極で犬ぞりをひくための樺太犬も乗せられた。
おんぼろ宗谷は日本中の期待を受け、いよいよ、接岸不可能の地に出発する。
1956年(昭和31年)11月8日、東京・晴海埠頭には予備観測として南極に向かう宗谷を見送るため、約5千人の観衆が集まっていた。皆が南極観測隊に、そして宗谷に注目していた。午前11時、宗谷は77名の乗組員、53名の観測隊員、22頭の樺太犬、1匹の猫、2羽のカナリア、貨物400トンを乗せ、観衆と乗組員や観測隊員の家族らを乗せた巡視船「むろと」「げんかい」「つがる」に見送られ、晴海埠頭を後にした。随伴船の東京水産大学の練習船「海鷹丸」は10月28日に先立って出港していた。
しかし宗谷は11月15日、いきなりフィリピン沖で台風19号に遭遇してしまった。おまけに翌16日には台風20号に遭遇。二つの台風に挟まれての航海になってしまった。揺れ止めであるビルジキールを撤去していたため、船体は非常に揺れた。
なんとか、暴風圏を抜けて、11月23日にシンガポールに気候。11月29日にはマラッカ海峡を抜けて、12月1日に赤道を通過した。19日にケープタウンに到着。29日、海鷹丸とともにケープタウンを出港した。
12月31日、宗谷はケープタウン沖の暴風圏に突入した。宗谷はだるまのように揺れた。3~40度まで傾斜し、危うく甲板から樺太犬が落ちそうになった。やがて、新年が明け、1月に入るととうとう氷山が流れてくるようになった。南氷洋である。
1957年(昭和32年)1月16日、宗谷はとうとう氷海に突入した。事前にセスナ機「さちかぜ」号により、氷状偵察を行い、プリンスオラフ海岸側より突入することになった。宗谷はさちかぜが発見した流氷の中の大きな海水面(大利根水道と名付けられた)を目指し、氷山の合間を縫うように一生懸命に氷を割り続けた。時には流氷をダイナマイトにて発破した。
そんな苦労もあり、宗谷はとうとう1月24日、南緯69度、東経39度の定着氷に接岸した。船齢18年のおんぼろ船が偉業を成し遂げた瞬間であった。もちろん、運もあった。平年はこの付近は東風であることが多いのだが、この年は南風が多く、宗谷の行動は比較的容易であった。また、天候にも恵まれた。
到着後、すぐさま偵察として犬ぞり隊が派遣された。25日、観測基地はオングル島に設置されることが決定され、物資の荷降ろしが始まった。観測隊や宗谷の乗組員をペンギンが迎えた。1月29日、観測隊はオングル島に上陸し、「昭和基地」と命名され、このニュースはすぐさま日本で報道された。新聞の号外が出され、日本中が歓喜に湧いた。
2月1日、雪上車により物資輸送が始まった。プレハブ式の基地が建設され、無線棟やアンテナが設置された。
しかし、2月11日、天候が悪化。南極は季節が秋になりかけており、強風が吹き、気温も低下した。宗谷の接岸地点では強風で氷が緩み、一刻も早く、離岸しなければならなかった。
2月15日、宗谷は西堀栄三郎越冬隊長以下越冬隊員11名を残し、接岸地点を離岸し、日本に戻ることになった。この観測は翌年の本観測に先駆け、基地を設置、南極の環境を偵察しようという予備観測であった。来年、また南極に戻ってくる。
宗谷が離岸して、翌日の16日。吹雪が宗谷を襲った。宗谷の周りは結氷し、流氷の中に閉じ込められてしまった。宗谷は流され続けた。松本満次船長はこのまま観測隊員を降ろし、乗組員とともに流氷内で越冬することも覚悟していた。しかし、宗谷は一旦後退し、氷の上に乗り上げ、氷の上で船体を揺らし、もがきながら徐々に、徐々に、氷を割っていった(これをチャージングという)。
海上保安庁は外務省を通じてアメリカ・ソ連に宗谷の救援を依頼した。2月28日、宗谷はあと外洋まであと10kmほどの地点まで来ていた。そこにソ連の砕氷船「オビ(ОБь)」が救援にやってきた。オビ号は5時間かけ、宗谷のもとにやってきた。宗谷の左舷30mほど横で反転し、宗谷を外洋まで嚮導した。宗谷乗員たちはオビ号に感謝した。
オビ号は現在就役中の新しらせの全長138mよりも大きく140mもあった。宗谷は当時83.3m第三次以降は83.7m
4月25日、宗谷は半年の航海を終え、海鷹丸とともに東京に帰港した。おんぼろ船は、奇跡の船となった。
宗谷は浅野船渠に回航され、補修工事とともに第1次観測で得たデータ・教訓を元に改造を受けた。
第1次観測の成功により、宗谷への期待は高まっていた。第2次観測はIGYの本観測である。絶対に成功させなければならない。皆、そう思っていた。
宗谷は1957年(昭和32年)10月21日、再び南極に向かうため、東京・日の出桟橋から出港した。しかし、この年の南極は荒天が続き、気象条件に恵まれなかった。そのため、昭和号による氷状偵察ができなかった。12月26日、宗谷は氷海に突入した。氷は前年より厚く、チャージングでは氷を割れなかった。ダイナマイトによる氷の爆破、更には乗組員たちが竹竿を持って氷をどかそうとしたが、無駄だった。
31日に猛吹雪が宗谷を襲った。宗谷はまたしても流氷に閉じ込められ、1ヶ月もの間流され続けた。いつしか、プリンスハラルド海岸のクック岬の沖まで流されていた。1958年(昭和33年)2月1日、氷が緩み、脱出を試みた。しかし、チャージングの際にスクリューを破損してしまった。1ヶ月もの漂流で食糧も水も乏しくなっており、宗谷は満身創痍であった。1958年2月6日、宗谷はようやく氷海から脱出した。
2月7日、宗谷は海上保安庁が救援を要請していた、アメリカ海軍のウィンド級砕氷艦「バートン・アイランド(Burton Island AGB-1)」と会合した。バートン・アイランドとともに氷海内に再突入したが、吹雪は収まらなかった。ここで観測隊は昭和号による越冬隊員の引揚げを決断した。2月10日、天候が回復したことにより、昭和号が昭和基地に飛び、ピストン輸送を決行。越冬隊員と樺太犬7頭を収容。11名の越冬隊員はほっとした。しかし、この天候回復は僅かな間で、すぐに荒天となってしまった。
この時、樺太犬15頭がまだ昭和基地に取り残されていた。観測隊は第2次越冬隊を送ることをまだ諦めていなかった。よもや樺太犬を基地に置き去りにするなどとは夢にも思っていなかった。宗谷は一旦氷海を脱出し、天候の回復を待った。24日、再突入を試みたが天候はついに回復しなかった。バートン・アイランドのヘンリー・ブランティンガム(Henry Brantingham)艦長の勧告もあり、松本船長は苦渋の末帰還を決定。樺太犬15頭は昭和基地に置き去りにされた。鎖に繋がれたままだった。
宗谷は第2次観測に失敗した。幸運の船が南極の厳しい自然環境に敗北した瞬間であった。
1958年(昭和30年)4月28日、宗谷はスクリューが折れたまま満身創痍で約半年の航海を終え、日本に帰還した。
しかし、宗谷を待っていたのは、樺太犬を置き去りにしたことへの厳しい非難の嵐であった。国民は、南極観測の失敗よりも樺太犬の置き去りを攻めた。南極観測への慎重論も出た。
海上保安庁は第2次観測の失敗の教訓を活かし、宗谷を定着氷に接岸させるのではなく、大型ヘリコプターにて航空輸送をする方針へと転換した。宗谷は大型ヘリコプターを搭載するためにさらなる改造を受けた。
大型のシコルスキーS-58は1トン以上もの輸送能力を持っていた。これを用い、航空輸送を行うという計画である。
11月12日。宗谷は日の出桟橋から3回めの南極観測へと出発した。
1959年(昭和34年)1月13日、宗谷は厚い流氷と闘いながらやっとの思いで昭和基地の北・約163kmの地点までやってきた。ここからS-58による航空輸送を行った。第1回目の航空輸送でヘリコプターが昭和基地に近づいた時であった。黒いもさもさした塊が2つうごめいているのが見つかった。操縦士は最初、クマかと思った。しかし、南極にクマはいない。そう。それは前年に置き去りにした樺太犬の内、北海道稚内生まれの「タロとジロ」の兄弟であった。タロとジロは南極の厳しい環境の中で生存していたのである。
犬ぞり隊の北村泰一を始め、観測隊員・乗組員は喜びに包まれた。もちろん、他の13頭の樺太犬は死亡してしまったと思われる。しかし、2頭が生き残っていたことは観測隊員たちにとってはかけがえの無い慰めになった。
宗谷は無事に観測資材と14名の越冬隊員を昭和基地に輸送した。ヘリコプターによる空輸は見事、成功した。
タロとジロが生存していたことは日本中に報道された。これが映画「南極物語」で有名になったタロとジロの生存である。もしかしたら、これも奇跡の船・宗谷が起こした奇跡の一端だった……のかもしれない。
宗谷は第4次から第6次までの観測任務をこなした。第4次からは航空輸送に詳しい明田末一郎船長に交代した。
1959年(昭和34年)から1960年(昭和35年)の宗谷のヘリコプターによる第4次観測の輸送任務は第3次観測の3倍の輸送量に達し、大成功を収めた。無事に日本へ時間する途中、宗谷はいまだアメリカに占領されていた沖縄に招かれ、寄港した。宗谷は沖縄の人々に手厚く歓迎された。
第4次観測を大成功させた宗谷であったが、新砕氷航行の実験を行った船体は激しく傷んでいた。その年、リベット1500本を打ち直す大修理が行われた。
宗谷は1960年から61年(昭和36年)に行われた第5次観測も無事成功させた。なお、タロとジロの2頭の樺太犬は南極に留まっていたが、ジロは1960年7月9日に病死してしまった。タロは第5次観測の際、宗谷に乗り日本に帰国している。タロは1970年(昭和45年)8月11日に老衰で死亡した。
この南極観測は第6次で終了する計画であった。その為、この時宗谷が運んだ南極越冬隊員は最後の越冬隊員であった。それでなくとも、もともと小型の船型で搭載キャパシティも少ない宗谷での南極への物資輸送は限界に近づいていた。
宗谷は1961年10月30日、第6次観測へと向かった。これは宗谷の最後の南極行きであった。この年で昭和基地は閉鎖される予定であった。
第6次観測の年は、宗谷にとって過去最悪の気象条件であった。昭和基地より200kmまでしか接近できず、ヘリコプターによる輸送もあまりうまく行かなかった。それでも宗谷は越冬隊員の引揚げ、昭和基地の閉鎖を終え、無事に1962年(昭和37年)4月17日、日の出桟橋に帰ってきた。
日本学術会議は南極観測を恒久的な事業にするべきと勧告した。そのためには宗谷より大きな砕氷能力を持つ船が必要であった。1963年(昭和38年)、1965年(昭和40年)に南極観測事業が再開されることになり、海上輸送は海上自衛隊が行うことになった。海上自衛隊は新型砕氷艦「ふじ」の建造を決定した。宗谷はお役御免となった。
宗谷は6回もの南極観測を成し遂げた。素晴らしい功績であった。しかし、船体はもはやガタが来ていた。もともと貨物船である。1962年当時、すでに建造から24年であった。普通の船であればとっくに引退し、解体されている。
しかし、宗谷はまだまだ人々に必要とされていた。
宗谷は南極観測船として活躍したが、登録上は巡視船であった。当時、北海道を管轄区域とする海上保安庁第1管区海上保安本部は流氷の中での海難事故への対応に苦慮していた。当時、第一管区に所属していた耐氷船はPL-105「つがる」(旧海防艦新南を改造)のみであり、流氷を割るのには力不足であった。
1962年8月1日竣工後、宗谷は北海道に派遣され、巡視船として北方海域でのパトロールに就いた。9月14日には三宅島・雄山の噴火により千葉県・館山市に疎開していた三宅島の小学生を島に送り届ける任務に就いた。南極へ行った宗谷を見て、子どもたちは喜んだ。
9月の末には東太平洋上で操業中のマグロ漁船「第六海進丸」「第六金良丸」で重病患者発生の報告を受け、医師を乗せ、救助に向かった。宗谷船内で緊急手術が行われ、横浜に搬送した。これが宗谷の巡視船として初めての人命救助であった。
宗谷は函館を母港とし、冬になると、オホーツクの流氷を割りながらパトロールをした。南極の厚い流氷と戦っていた宗谷には北洋の流氷はたやすいものであった。1963年4月1日、宗谷は正式に第1管区に配属された。
漁船や仲間の巡視船が流氷にはまれば、宗谷は一生懸命に氷を割り、助けた。1964年4月には巡視船「てんりゅう」が紋別沖にて流氷に閉じ込められた漁船の救援中、自らも流氷にはまってしまった。宗谷はてんりゅうのもとに駆けつけ、これを救助した。
1970年(昭和45年)3月16日、沖合底曳漁船19隻が猛吹雪の中、択捉島・単冠湾に避難した。ホッとしたのも束の間、猛吹雪に押し流された流氷がものすごい速さで湾内を襲った。1隻は流氷に押し流され走錨して陸に打ち付けられ大破し、7隻が閉じ込められた。残り11隻はなんとか脱出した。閉じ込められた内、2隻はそのまま流氷に潰されて転覆。転覆した船の乗組員は行方不明になった。残り5隻の乗組員たち、84名は択捉島に上陸し、避難した。
宗谷はこの時、カムチャッカ方面を哨戒していた。知らせを受け、転覆した船の乗組員、約30名の捜索にあたった。この時の流氷は湿気を含んでいて、非常に固かった。宗谷は氷に突進していった。氷は割れるものの、乗組員は見つからなかった。
ソ連側は避難者の引き渡しのため、巡視船の入域を許可した。天候の好転した22日、宗谷はソ連の警備艇から84名を収容し、流氷を割りながら釧路へと戻った。生存者たちは宗谷の姿を見た瞬間、喜んだ。
宗谷は16年もの長い間にわたって北海道の海をパトロールし、守り続けた。巡視船になってから約1000名の人命救助を行い、漁師や船員たちからは「北の海の守り神」と呼ばれるようになっていた。1970年には南極観測船のオレンジ色から巡視船本来の白い色に塗り替えられた。「灯台の白姫」と呼ばれた灯台補給船時代を彷彿とさせた。
しかし、同時に老朽化も酷くなっていた。水漏れ、電線の腐蝕、パイプの破損、雨漏り……。船内には隙間風が吹き込んだ。すでに建造から40年も経った船だった。普通の船の2倍は生きているのだ。そんな船が今まで一線級で活躍してきたのが不思議なくらいだ。
1977年(昭和52年)、とうとう宗谷にも引退の噂がささやかれ始めた。その冬にはとうとう代船の建造が決まった。宗谷はこのまま、スクラップになるものと思われた。
1978年(昭和53年)2月末、北海道・稚内港には流氷が流入していた。これ自体は珍しいことではなかった。しかし、3月に入るとそのまま流氷は結氷し、多くの船が港内に取り残された。漁船は出漁できず、漁業の町である稚内の経済は打撃を受けた。タンカーや貨物船などの物資を運ぶ船も入港できない。流氷に強行突入したタンカーもあったが、あえなく失敗した。
稚内と利尻島・礼文島を結ぶフェリーは欠航となった。代替として天塩港から離島行きのフェリーが出港したが、3月8日利尻沖にまで流氷は進出し、3月9日に欠航に追い込まれた。困ったのは稚内市民だけではない。このままでは利尻・礼文の島民たちにも物資は行き渡らない。
当時の稚内市長・浜森辰雄は宗谷を名指しして救援を海上保安庁に要請した。当時、稚内では引退が決まった宗谷を保存しようという運動もあった。稚内には宗谷の名前の由来となった宗谷海峡があり、南極に行った樺太犬・タロとジロの出身地でもある。その為、宗谷は稚内でも人気があった。
宗谷は3月9日に択捉島沖にて航行不能に陥った漁船「第三十八漁永丸」を曳航していた。しかし、連絡を受け、曳航を巡視船「いしかり」に任せ、母港の函館へと帰投した。
しかし、1972年(昭和47年)3月にも宗谷は稚内港の流氷破砕を行ったが、この時は失敗していた。乗組員たちには少し、不安があった。物資を補給し、函館を出港した宗谷は老体に鞭打って稚内へと向かった。
3月10日の朝には底曳船「第五十三太平丸」が流氷脱出を試みたが、無駄だった。稚内の氷はとても厚かった。
宗谷は鈍足13ノットを飛ばした。稚内・ノシャップ岬西沖に到着したのは3月11日夜のことであった。しかし、猛吹雪で進めなかった。翌12日朝、千歳より海上保安庁の航空機が稚内まで氷状調査を行う予定であったが悪天候のため、取り止めになった。有安欽一船長は単独での氷海突入を命じた。
宗谷は1.5mの厚い氷に突進した。そして少しづつ稚内港へと向かった。煙突からは火の粉が吹き上がった。1時間かけて稚内港・北防波堤付近まで辿り着いた。宗谷はなおも氷に向かって体当たりを続けた。後ろに下がり、突進、後ろに下がり、突進を繰り返し、30分かけてフェリーを脱出させた。
そして漁船31隻が閉じ込められている船だまりへと向かった。宗谷は何度も何度も突進を繰り返し、漁船たちを救助した。午前11時、宗谷が進路嚮導し、「第一三二栄宝丸」を先頭に31隻の漁船が稚内港を脱出した。北海道の漁業取締船「海王丸」、巡視船「さろべつ」がそれに続いた。閉じ込められてから実に12日ぶりのことであった。
宗谷は船たちが脱出したのを見届けると、函館へと帰っていった。これが宗谷の最後の流氷の中での救助となった。
5月14日、宗谷は海上保安庁の観閲式に参加した。宗谷は建造から40年を迎えていたが、海上保安庁も設立から30年が経っていた。その殆どを宗谷は海上保安庁で過ごした。福永健司運輸大臣、薗村泰彦海上保安庁長官らが宗谷に乗り込んだ。
7月29日、宗谷は函館を出港した。解役が決まり「サヨナラ宗谷船内見学会」を行うことになったからだ。函館、福井、舞鶴、門司、広島、高松など14の港を巡り、一般公開された。そして函館に戻ると、9月23日に稚内市に招かれ、稚内でも見学会が行われた。10月1日、宗谷は東京に到着した。
翌10月2日、東京・竹芝桟橋にて宗谷の解役式が挙行された。高橋寿夫海上保安庁長官を始め、歴代の海上保安庁長官や第1次南極観測隊隊長・永田武、第1次南極越冬隊長・西堀栄三郎、南極観測船としての最初の船長・松本満次ら宗谷に関わった沢山の人々が参列した。貨物船、特務艦、復員輸送艦、灯台補給船、南極観測船、巡視船……。宗谷は沢山の人々の期待を受け、沢山の船に助けてもらい、沢山の船を救い、沢山の人々の期待に応えた。
その年の紅白歌合戦では春日八郎が引退する宗谷をねぎらい、「さよなら宗谷」という歌を歌った。
あまりにも多くのことを成し遂げた運命の船は、40年もの長い歳月を過ごし、沢山の人々に見送られ、万雷の拍手の中、役目を終えた。
なお、この時点で宗谷は建造から40年の超老朽船であったが、退役の主な理由は速力の低さであり、老朽化ではない。海上保安庁技術部が「傷んだパイプ等をオーバーホールすればあと15年は現役を続けられた」と発言しており、機関部は健康そのものだった。
宗谷は解役後、スクラップになるものと思われた。しかし、特務艦時代の宗谷の乗組員たちの戦友会「軍艦宗谷会」や、「南極OB会」などの団体や、稚内市を始め11の地方公共団体、更に沢山の人々から保存への嘆願書が集まっていた。
海上保安庁はこれに応え、財団法人日本船舶振興会会長の笹川良一の働きかけで日本海事科学振興財団が運営する東京都お台場の「船の科学館」で保存されることになった。宗谷は翌1979年(昭和54年)5月1日より博物館船として船の科学館で一般公開されている。
宗谷の奇跡は、建造から80年以上も経ったにも関わらず、未だにお台場でその勇姿が見られることにより、続いている。ただ大規模修繕工事をしたとはいえ船体の老朽化は避けられなく、寄付も呼びかけられている。(船の科学館に問い合わせたところ、現在、宗谷の銀行振り込みでの募金は募集していないとのことである、入場口では募集中)
みなさんも是非、この「奇跡の船」をその目に入れてみてはいかがだろうか。
千葉市が国に対し成田空港への航空燃料パイプラインの見返りの一つとして宗谷を要求していた。成田空港の重要性から国は要求の多くを呑んだが、宗谷払い下げについては拒否された。千葉市は最後の旧海軍艦艇・こじま(旧海防艦志賀)の保存を放擲してスクラップに追い込んだ自治体であり、宗谷が千葉市の手に渡っていたら同じ末路を辿っていたかもしれない。
1980年代までは通信室はアマチュア無線室として使用されていた。2018年11月に進水80周年記念として特別局が4日間限定で開設された。
1979年から現在まで晴海埠頭から出港する南極観測船にUW旗(ご安航を祈る)を掲揚し汽笛を鳴らすのが恒例となっている。
1984年には宗谷の活躍を描いたアニメ「宗谷物語」が国際映画社にて制作され、テレビ東京系列で放送された。宗谷一般公開5周年、ふじの引退、しらせの処女航海、南極観測25回目と色々節目の年でもあった。
1982年東京湾で異常発生した秋刀魚が集まり人気釣りスポットになった。
2008年(平成20年)2月16日には誕生70年を祝う古希祭が行われた。
2016年7月21日、東京都が設置する「東京国際クルーズターミナル」の工事に伴う隣接桟橋への移設のため、2016年9月1日~2017年3月31日の間、一般公開を休止していた。2016年9月22日、宗谷は37年ぶりに対岸に移動するためタグボートの誘導によって航路を航海した。 その後、約三か月間の修復工事および、船内の展示物を整理し、2017年4月1日、一般公開が再開された。
2018年(平成30年)2月16日、進水から80年を迎えた宗谷は満船飾でお祝いし、見学者先着80名に記念品が配布された。
2018年5月12日~6月10日宗谷生誕80周年記念としてオリジナル・ペーパーモデル+生誕80周年記念ロゴ・シールが毎週土日の各日、“宗谷”ご見学の先着100名様にプレゼントがおこなわれた。
2018年11月17日、木甲板の修繕に伴う張替え作業によって撤去した木材を再利用して作った、シリアルナンバー付き宗谷生誕80周年記念キーホルダーが80個限定で、1000円以上の寄付をした方を対象に記念品として贈呈されることになったが、開始前に80人をあっさり超えてしまったので、普段は公開されていない宗谷神社が特別公開されることになった。
令和元年となる、2019年7月バルジ内部外部及び船倉等の未公開部分の修復工事が開始され、2019年11月23日に船の科学館から、12月28日から2020年3月31日まで公開部分の保存工事のため一般公開の休止が発表された。
この保存修復工事は、2000年代初頭から懸念されていた左右のバルジ内部の修復及び、フロアを新設して船体強度の補強、腐食した床材のダブリング加工、木甲板の新調、サビが発生した場所はケレン作業と再塗装、万が一浸水しても船体を守れるように、船倉側から8mm鋼材を用いて外板のダブリング加工、酸素が薄い軸室内の清掃や修復は特殊救難隊の協力の下おこなわれ、1978年に引退して以来の大規模修繕工事となった。3月13日に船舶検査に合格、4月1日から一般公開を再開する予定だったが、新型コロナウィルス感染拡大防止のため再開延期になり、7月1日から半年ぶりに見学箇所を一部制限して再開された。
掲示板
204 ななしのよっしん
2022/05/14(土) 21:43:07 ID: RWUHB4YfDS
関連項目に宗谷(オリジナル艦娘)と、宗谷いちか(名前は宗谷(船)由来)を追加しよう
205 ななしのよっしん
2023/05/16(火) 19:42:03 ID: K1KLguWTEJ
第7話「船霊と白ネズミ」の船霊は恐らく、船の魂。但し、宗谷以外も女のシルエットをしていたのも船自体は女性人格だったりするのかな。
206 ななしのよっしん
2023/09/30(土) 22:41:13 ID: K1KLguWTEJ
恐らく。宗谷物語のナレーションの声も宗谷の肉声の可能性もある。
提供: abb
提供: リュウコツ
提供: すずくろ
提供: 瀬楽
提供: ゆう
急上昇ワード改
最終更新:2025/04/17(木) 05:00
最終更新:2025/04/17(木) 05:00
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